見えない傷
ー/ー 玲が全てを知ったのは、退院して、しばらくたってからだ。
久しぶりに学校へ行くと、友達が物珍しそうに寄ってきた。
玲のけがは、自分で転んでしまったと、友達には説明した。流が友達に問い詰められることがないように、絞り出した嘘だった。
でも、効果はなかった。
玲がけがをした理由は、入院中にだいたい知れ渡っていた。
母が言っていたように、流は父方の祖父母に引き取られて、もう転校していたから、今さら玲が何を言っても遅すぎた。
しばらくの間、突然転校した流のことは、学校でも噂になった。
「お母さんが駆け落ちして、お父さんは怒って暴れて、いなくなった」
噂をまとめると、ここに落ち着いた。
正確には、母親は流を置いて離婚し、父親も、あの後、流を祖父母に預けていなくなったらしい。
あの頃、ここにいない流をどう守ったらいいのか分からず、玲は途方に暮れた。
それ以上のことは、噂好きの近所の大人が親切に教えてくれた。
玲の母が口にしたがらなかった理由が分かったのは、周囲の子が流の不在を忘れかけた頃だった。
「あんたたち、仲よかったのに。可哀想に」
そう前置きして、続けた。
「お父さんの相手が、あの子のお母さんだなんて、ひどい話だけど。あの子も、お母さんに似て、きれいだったわねえ」
理解するまでに、しばらくかかった。
あの日、流の母親と一緒に行ったのは、玲の父親だった。
もともと親しかった二組の夫婦が、家族ぐるみで一緒に過ごすうちに、その片方同士が特別に親しくなってしまったという、ありきたりの関係だと理解したのは、大人になってからだ。
流から、あの優しくてきれいな母親を取り上げてしまったのが自分の父親だったと分かった時、その男の子供であることを玲は強烈に恥じた。
玲の父親は、玲たちを捨てただけでなく、流の母親を連れて行ってしまった。その後、流の父親までいなくなったのも、明らかに玲がけがをしたことが原因だと思った。あんなことがなければ、流の父親までいなくなることはなかった。
だから、すぐ会いに行けなかった。
流に会って、どう言えばいいのか、どう謝ればいいのか分からず、流に会うのが怖かった。
何度か流と一緒に行った記憶を頼りに、流の祖父母の家まで足を運んだのは、次の年の夏の始めだった。
夏の日差しに背中を焼かれながら、長い坂道を登っていった。子供の足では、かなりの時間がかかったが、なぜか、記憶は鮮明にあって、迷うことはなかった。
汗が滴り落ちて、息が上がった。
坂道の途中で、家の前で祖父と話している流を見つけた。
咄嗟に、玲は木陰に隠れてしまった。
そこにいる流は、玲の知っている流ではなかった。
無邪気によく笑って、華やかな色を振り撒いていた流の顔から、表情が消えていた。
見知らぬ人のように見えて、声をかけることができなかった。
その後も、何度か流の祖父母の家を訪ねた。そして、その度に、会わずに帰ってきた。
あの日も木陰に隠れて、流の祖父母の家を見ていた。
もう、日差しは勢いをなくして、じっと隠れているのも楽になっていた。
「何してるの」
後ろから、突然声がして、玲は振り返った。
流がランドセルを背負って、立っていた。
「えっと。散歩」
「わざわざ、こんなとこまで散歩」
流の声は覚えているより低かった。身長も、明らかに伸びていた。笑っていない顔が冷たく見える。
玲が会うのを怖がっている間に、流は変わった。それだけの時間を、別々に過ごしたのだと思うと、玲の中で軋む音がした。
流に謝らないといけない。そう思っていたのに、言葉が出ない。
流の方は躊躇なく近づいて、玲の右手首を握った。
流の手はひんやりと冷たくて、思わず腕を引いたが、流はしっかりと掴んで離してくれなかった。
半袖のシャツから剥き出しになっている玲の右腕には、まだはっきりとわかる赤黒い傷があった。
流は、玲の腕を持ち上げて、観察するように眺めた。珍しい虫でも見るような真剣な顔で、その顔は、玲の覚えているあの流の顔だった。
じっと傷を見つめたまま、流は小さな声で聞いた。
「まだ痛い」
「もう、なんともない」
そっかと呟く流に、昔を思い出し、やっと玲は話し始めようとした。
「ルウのお母さん」
そう言うと、流はさっと顔を上げて、玲を睨んだ。少し目を細めた、そのきつい視線に、玲は何も言えなくなった。
怒っているのだと、玲は思った。
謝らなきゃ。何を。どう謝る。
言葉を探して、立ちすくんでいた。
流は何も聞かなかったような顔で坂道を少し上がると、つま先立って玲の額の髪をそっと左手の人差し指で持ち上げた。
流の身長は、伸びたと言っても、まだ玲よりはるかに小さいことに気づいた。
背伸びをして玲の額をじっと見る流の顔が、目の前にある。
久しぶりに間近で見る流は、儚げで不安定だった。
触れたら、消えるのではないか。
あの時、玲はそんなことを考えた。
「こっちは」
玲の額にも、腕より目立つ傷が残っていた。上気した顔では、余計に目立ったはずだ。
流の目が真っ直ぐに玲を見つめていた。
玲はただ小さく首を振った。
突然、流の表情が歪んだ。
「レイちゃん、遅いよ」
開けたままの流の目から、ほろほろと涙が溢れて落ちていく。あの夜の涙と同じだと思った。
「もう、会えないのかと思った」
震える声で流は呟く。
「違う。違うよ。ごめん」
思わず、玲は流を抱きしめていた。縋り付いてくる小さな体は、玲の知っている流だった。
流に責められそうで、怖くて、流を避けてしまった。
ごめんと繰り返しながら、何に謝っているのか、だんだんわからなくなった。
流の涙が、玲の胸元に染みていく。流の癖のない細い髪が乱れて、玲の腕の中で揺れる。
流に会いたくてたまらなかったのは、玲の方だ。
あの日から、ずっと、流に会いたかったことを思いだしていた。
玲は立ち上がって、布団を引っ張った。布団の間を寄せて、ピッタリとくっつける。
それを見て、また流が嫌な顔をするだろうと思う。
何が目的でこんなことをしているのか。
ばかなことをしていると、いつも思う。わざと嫌がられることをして、相手に注目してもらう小学生と同じだ。
一番初めにこれを見た流は、一瞬、嫌な顔をした。
無視されず、はっきりとした感情の見える顔を見せてくれたこの瞬間が、玲にとって、救いになった。
その顔を見るのも、ぴりぴりした空気の中で無視されるのも、いつもと同じで、流の横の布団に潜り込んで寝るまでが、一連の流れになっている。
流の機嫌は悪くなるが、大きな声を出すわけでも、怒り出すわけでもない。
この一晩の張り詰めた空気に耐えて、翌朝を迎えれば、いつもの関係に戻っている。
遠慮のない、幼馴染の二人。それ以上でも、それ以下でもない。
窓ぎわに戻って、玲は満月を見上げた。
もう何度も同じ部屋で寝ているが、横の布団には流の気配があるだけ。話しかけても、ほとんど返事は返ってこない。灯りを消せば、それぞれが一人で寝ているのと同じ。
いつまで、こんなふうに来られるのだろうかと、いつになく弱気になっていた。
流が玲を拒否してしまえば、今までのように来ることはできない。
今日は、やっぱり、少しダメージが大きい。流の反応は同じでも、玲の気持ちの方にこたえてくる。
あの後、二人で時々会っていたことは、二人とも、母親や祖父母に黙っていた。
「家に電話していい」
そう聞くと、流は黙って首を横に振った。
「レイちゃんちは」
玲も同じように首を振った。
それだけで、お互い、相手の事情はなんとなく分かった。
結局、流の母親が玲の父親と一緒に行ったことを、玲は言えずじまいだった。流もどこかで聞いたはずだが、確かめたことはない。
お互い、周囲の大人に内緒で会っていたこと自体が、知っていた証拠のようなものだ。
本当は、そんなことはどうでもいい。大人の事情は、二人には関係ない。
関係ないはずなのに、見えない足枷のように、ずっと二人にまとわりついてきた。
流が中学生になるまでは、なかなか会えなかった。
連絡方法がなく、玲が流の小学校の近くまで行って、待っているしかなかった。うまくタイミングが合わず、会えない時もあった。
以前のように、流と遊ぶのは楽しかったから、このまま、この関係は続くのだと、漠然と考えていた。
客観的に見ると、制服の中学生と小学生が公園で一緒に遊んでいる姿は、奇妙な光景だっただろうと思う。
流が中学に上がる時、校区が同じだったから、もう一度同じ学校に通えると期待したが、流は中学受験をして、私学の中高一貫校に入学した。
自分と違って、賢くて勉強好きな流が同じ道を辿るとは思っていなかったから、すぐに諦めはついた。
ただ、これから先、流は自分とは違う道を行くのだと、急に気づいた。
だから、合格の知らせを聞いた時、おめでとうの言葉がすぐ出なかった。
今までとは違う目で、流を見ていることに気づいたのは、多分、その頃だ。
初めて、流の中学校の制服姿を見た時は、言葉が出なかった。
玲の中学とは違うブレザータイプの制服は、ネクタイ姿で、一段と大人びた。
身長が伸びて、大人の顔と体型になってきた流は、人を寄せ付けないほどの凛とした空気をまとった。
「何、見てるの」
不審者を見る目つきで、流にそう聞かれた時は、そんな目で見ている自分に唖然とした。
「いやいや、孫にも衣装だな」
そんなふうに誤魔化すしかなかった。
「あんまり好きじゃない。目立ちすぎる」
「お前が行きたかった学校なんだろ」
「じいちゃんが、公立やめとけって」
流自身が私立を希望したのではなく、祖父が公立を嫌がったらしい。公立の中学校に行って、噂を知っている子供と一緒になることを心配したのだと、気づいた。
違う制服姿の二人が歩いていると、確かに人目を引いた。
それは、流に目がいくからだ。
きれいな顔をした可愛らしい子供だった流が、中学進学の頃から変貌していった。
端正な顔立ちで、細く薄い体が姿勢よく立っていると、どこか緊張感が漂った。表情に変化が乏しいせいで、不用意に触れられないピリピリした雰囲気を醸し出している。
子供の頃を知っている玲にはむしろ痛々しく映ったが、それと同時に、目を離せない自分に気がついていた。
流に会いたい。
そう思う気持ちは、年齢を重ねるごとに、強くなった。
会えば、そこにいる流に触れたい。そんなことはできないと思いながら、明確にそう思っている自分を自覚した。
中学生になった流は携帯電話を持つようになったから、連絡は取りやすくなったし、それまでより会えるようになった。
会う頻度は、中学に入っても、高校に上がっても、それほど変わらなかった。せいぜい、月に数回、一度しか会えないこともあった。
会って何かをするわけでもない。
公園や図書館などで、缶コーヒーを飲みながら話す。
ただ横に座って勉強する姿を見ているだけのことも多かった。
「お前も勉強したら」
「いい。これでも、赤点はとってない」
俯いて問題を解く流の横顔を見ながら、ぼんやりと過ごした時間のほうが、なぜか鮮明に覚えている。
「大学行かないの」
小さな声で俯いたまま聞く流は、まつ毛が長く、白い頬に影を落としていた。
高校に入って、流と同じブレザータイプの制服になったが、どうしてこうも違うのか、玲は不思議だった。
緩めたネクタイの下に見える白い首筋に小さなほくろが見え、小学生の時に見ていたのと同じ位置だと、ぼんやり考えていた。
「行かない。勉強嫌いだし。高校、卒業したら、就職する。ルウは大学行くだろ」
適当に答えて、適当に聞いたのに、不意に流が顔を上げて、玲を見る。何に引っ掛かっているのかは、だいたいわかっていた。
「嫌いじゃないだろ。それから、その呼び方やめろ」
一瞬、流の顔に見える感情が玲を笑顔にさせる。
「はいはい。ルウちゃん。気をつける」
流は無表情に戻り、それ以上、何も言わない。
ほとんど会話はなくても、一緒にいるだけで良かった。
そんな日々が、今は、一番楽しかったような気がする。
いつもと変わらない流がそこにいると思えたら、安心した。
流の環境は、年毎に変わっていった。
流を育てた祖母は、流が中学卒業前に亡くなり、その後、祖父と高校生の流は、男二人できちんと暮らしていた。
玲自身は、予定通り、高校を卒業してすぐ、自動車整備場に勤めた。
就職した玲と、まだ高校生だった流の関係も、ずっと変わらないままだった。
環境が変わっていくたびに、玲の不安は大きくなった。いつか、流と会えなくなる日が来るかもしれない。会うたびに、次はないのかもしれないと思った。
思えば、中学も高校も違うのに、ここまで離れてしまわずにこられたのは、奇跡に近い。幼馴染で、兄のように慕ってくれる時期は、とっくに過ぎていた。
流の祖父に知られないよう会うのも、結構、大変だった。
それほど離れた場所で暮らしているわけではないから、偶然、街で出会うこともあった。
祖父に気づいた途端、顔色も変えず、他人のふりをする流を見送るのは、正直、気が滅入った。
その祖父が、流が大学に入った年にあっけなく亡くなった。
一人になった流を心配したが、流の生活は何も変わらなかった。
物静かで几帳面だった流の祖父は、流にこの家と定期的に収入が入る賃貸物件を残していたから、困ることはなかったし、流自身も、予期していたように、淡々と暮らした。
流の祖父が亡くなったことで、会いやすくなった。
流の方から、外で会うのは億劫だから、家に来たらと言われた時は、思わず、大きな声が出た。
「いいの」
「そんな、大袈裟なことか」
流は顔を顰めてそう言ったが、誰にも遠慮せず、流の家で会えるようになったことは大きな変化だった。
流が一人になって、玲も一人暮らしを始めた。
この頃になると、玲が流と会っていることを母は知っているようだった。
玲が時々外泊しても、母は何も言わなかったし、問いただすこともなかった。一人で暮らすと言い出した時も、その方がいいと言っただけだ。
「ちょいちょい、顔は出すよ」
心苦しくて、そう言うと、たまにでいいわと返された。何もかも知られているようだと思った。
母より、流を選んだのだと、玲自身わかってはいた。
開け放した窓からの冷気で、玲の体は冷えてきた。
もうすぐ、流が風呂から上がってくる。もう、窓を閉めておかないと、流の不機嫌に拍車がかかる。
そう思うのに、体が動かない。
この家に来るようになって、会う回数は増えたのに、流が少しずつ遠くなる気がした。
流は来年には大学三年生になる。大学の友人も少なからずいて、玲より話が合うだろうと思う。玲の生活とだんだん離れていくのは目に見えている。
これから、どんな関係なら一緒にいられるのだろう。
どう考えても、これ以上近い関係にはなれそうもなかった。
退院して、久しぶりにこの家の前で再会した時、流は、無邪気に玲の傷に触れてきた。
それ以降、一度も触れてこない。まるで見えていないかのようだ。
あの日のことも、一度も言わない。
でも、忘れているはずはなかった。
何も言わない流は、思い出したくないと言っているのだと、やがて玲は気づいた。
家に来いと言ったのは、玲が仕事の後でないと会えないからだ。当然、夜になってしまう。巡ってくる満月の夜を避けたがっている。
満月の夜は、見たくなければ、ひっそりと家に篭ればいい。
でも、玲の傷は顔や腕、目につくところにある。見ないようにしていても、自然と目に入ってしまう。
玲の存在が、流にあの日を思い出させる。
だから、見えていないふりをする。
流は、忘れたがっているのだ。
そう気づいた時、玲の周りから音が消えた。しばらく動けなかった。
玲が流から離れてしまえば、よかったのだろうと思う。そうすれば、思い出さずに済む。
流のためにはその方がよほどよかった。簡単な理屈なのに、それができなかった。
ならば、このまま、見えないふりをする流のそばにいるしかないと、すぐに思った。
そのくせ、無表情で、何もかも忘れているような顔をしている流に、泣いて、怒って、お前のせいで辛いと言って欲しい。見えてしまっている傷を無視されるより、その方がいいと、ずっと思っている。
あったことをなかったことにはできないから、素直に感情を出してほしい。
だから、満月の夜に、わざわざ流に会ってきた。
実際は、流にそんなふうに罵倒され、拒否され、もう会わないと言われたら、きっと途方に暮れる。
「何をやってるんだ」
ばかばかしくて笑える。
流から離れたくなくて、嫌われたくなくて、なのに、流が嫌がることばかりを望む。
思い出したくないものを思い出させる。
「そんな人間と会いたくはないよな」
満月を見上げて、玲はつぶやいた。
久しぶりに学校へ行くと、友達が物珍しそうに寄ってきた。
玲のけがは、自分で転んでしまったと、友達には説明した。流が友達に問い詰められることがないように、絞り出した嘘だった。
でも、効果はなかった。
玲がけがをした理由は、入院中にだいたい知れ渡っていた。
母が言っていたように、流は父方の祖父母に引き取られて、もう転校していたから、今さら玲が何を言っても遅すぎた。
しばらくの間、突然転校した流のことは、学校でも噂になった。
「お母さんが駆け落ちして、お父さんは怒って暴れて、いなくなった」
噂をまとめると、ここに落ち着いた。
正確には、母親は流を置いて離婚し、父親も、あの後、流を祖父母に預けていなくなったらしい。
あの頃、ここにいない流をどう守ったらいいのか分からず、玲は途方に暮れた。
それ以上のことは、噂好きの近所の大人が親切に教えてくれた。
玲の母が口にしたがらなかった理由が分かったのは、周囲の子が流の不在を忘れかけた頃だった。
「あんたたち、仲よかったのに。可哀想に」
そう前置きして、続けた。
「お父さんの相手が、あの子のお母さんだなんて、ひどい話だけど。あの子も、お母さんに似て、きれいだったわねえ」
理解するまでに、しばらくかかった。
あの日、流の母親と一緒に行ったのは、玲の父親だった。
もともと親しかった二組の夫婦が、家族ぐるみで一緒に過ごすうちに、その片方同士が特別に親しくなってしまったという、ありきたりの関係だと理解したのは、大人になってからだ。
流から、あの優しくてきれいな母親を取り上げてしまったのが自分の父親だったと分かった時、その男の子供であることを玲は強烈に恥じた。
玲の父親は、玲たちを捨てただけでなく、流の母親を連れて行ってしまった。その後、流の父親までいなくなったのも、明らかに玲がけがをしたことが原因だと思った。あんなことがなければ、流の父親までいなくなることはなかった。
だから、すぐ会いに行けなかった。
流に会って、どう言えばいいのか、どう謝ればいいのか分からず、流に会うのが怖かった。
何度か流と一緒に行った記憶を頼りに、流の祖父母の家まで足を運んだのは、次の年の夏の始めだった。
夏の日差しに背中を焼かれながら、長い坂道を登っていった。子供の足では、かなりの時間がかかったが、なぜか、記憶は鮮明にあって、迷うことはなかった。
汗が滴り落ちて、息が上がった。
坂道の途中で、家の前で祖父と話している流を見つけた。
咄嗟に、玲は木陰に隠れてしまった。
そこにいる流は、玲の知っている流ではなかった。
無邪気によく笑って、華やかな色を振り撒いていた流の顔から、表情が消えていた。
見知らぬ人のように見えて、声をかけることができなかった。
その後も、何度か流の祖父母の家を訪ねた。そして、その度に、会わずに帰ってきた。
あの日も木陰に隠れて、流の祖父母の家を見ていた。
もう、日差しは勢いをなくして、じっと隠れているのも楽になっていた。
「何してるの」
後ろから、突然声がして、玲は振り返った。
流がランドセルを背負って、立っていた。
「えっと。散歩」
「わざわざ、こんなとこまで散歩」
流の声は覚えているより低かった。身長も、明らかに伸びていた。笑っていない顔が冷たく見える。
玲が会うのを怖がっている間に、流は変わった。それだけの時間を、別々に過ごしたのだと思うと、玲の中で軋む音がした。
流に謝らないといけない。そう思っていたのに、言葉が出ない。
流の方は躊躇なく近づいて、玲の右手首を握った。
流の手はひんやりと冷たくて、思わず腕を引いたが、流はしっかりと掴んで離してくれなかった。
半袖のシャツから剥き出しになっている玲の右腕には、まだはっきりとわかる赤黒い傷があった。
流は、玲の腕を持ち上げて、観察するように眺めた。珍しい虫でも見るような真剣な顔で、その顔は、玲の覚えているあの流の顔だった。
じっと傷を見つめたまま、流は小さな声で聞いた。
「まだ痛い」
「もう、なんともない」
そっかと呟く流に、昔を思い出し、やっと玲は話し始めようとした。
「ルウのお母さん」
そう言うと、流はさっと顔を上げて、玲を睨んだ。少し目を細めた、そのきつい視線に、玲は何も言えなくなった。
怒っているのだと、玲は思った。
謝らなきゃ。何を。どう謝る。
言葉を探して、立ちすくんでいた。
流は何も聞かなかったような顔で坂道を少し上がると、つま先立って玲の額の髪をそっと左手の人差し指で持ち上げた。
流の身長は、伸びたと言っても、まだ玲よりはるかに小さいことに気づいた。
背伸びをして玲の額をじっと見る流の顔が、目の前にある。
久しぶりに間近で見る流は、儚げで不安定だった。
触れたら、消えるのではないか。
あの時、玲はそんなことを考えた。
「こっちは」
玲の額にも、腕より目立つ傷が残っていた。上気した顔では、余計に目立ったはずだ。
流の目が真っ直ぐに玲を見つめていた。
玲はただ小さく首を振った。
突然、流の表情が歪んだ。
「レイちゃん、遅いよ」
開けたままの流の目から、ほろほろと涙が溢れて落ちていく。あの夜の涙と同じだと思った。
「もう、会えないのかと思った」
震える声で流は呟く。
「違う。違うよ。ごめん」
思わず、玲は流を抱きしめていた。縋り付いてくる小さな体は、玲の知っている流だった。
流に責められそうで、怖くて、流を避けてしまった。
ごめんと繰り返しながら、何に謝っているのか、だんだんわからなくなった。
流の涙が、玲の胸元に染みていく。流の癖のない細い髪が乱れて、玲の腕の中で揺れる。
流に会いたくてたまらなかったのは、玲の方だ。
あの日から、ずっと、流に会いたかったことを思いだしていた。
玲は立ち上がって、布団を引っ張った。布団の間を寄せて、ピッタリとくっつける。
それを見て、また流が嫌な顔をするだろうと思う。
何が目的でこんなことをしているのか。
ばかなことをしていると、いつも思う。わざと嫌がられることをして、相手に注目してもらう小学生と同じだ。
一番初めにこれを見た流は、一瞬、嫌な顔をした。
無視されず、はっきりとした感情の見える顔を見せてくれたこの瞬間が、玲にとって、救いになった。
その顔を見るのも、ぴりぴりした空気の中で無視されるのも、いつもと同じで、流の横の布団に潜り込んで寝るまでが、一連の流れになっている。
流の機嫌は悪くなるが、大きな声を出すわけでも、怒り出すわけでもない。
この一晩の張り詰めた空気に耐えて、翌朝を迎えれば、いつもの関係に戻っている。
遠慮のない、幼馴染の二人。それ以上でも、それ以下でもない。
窓ぎわに戻って、玲は満月を見上げた。
もう何度も同じ部屋で寝ているが、横の布団には流の気配があるだけ。話しかけても、ほとんど返事は返ってこない。灯りを消せば、それぞれが一人で寝ているのと同じ。
いつまで、こんなふうに来られるのだろうかと、いつになく弱気になっていた。
流が玲を拒否してしまえば、今までのように来ることはできない。
今日は、やっぱり、少しダメージが大きい。流の反応は同じでも、玲の気持ちの方にこたえてくる。
あの後、二人で時々会っていたことは、二人とも、母親や祖父母に黙っていた。
「家に電話していい」
そう聞くと、流は黙って首を横に振った。
「レイちゃんちは」
玲も同じように首を振った。
それだけで、お互い、相手の事情はなんとなく分かった。
結局、流の母親が玲の父親と一緒に行ったことを、玲は言えずじまいだった。流もどこかで聞いたはずだが、確かめたことはない。
お互い、周囲の大人に内緒で会っていたこと自体が、知っていた証拠のようなものだ。
本当は、そんなことはどうでもいい。大人の事情は、二人には関係ない。
関係ないはずなのに、見えない足枷のように、ずっと二人にまとわりついてきた。
流が中学生になるまでは、なかなか会えなかった。
連絡方法がなく、玲が流の小学校の近くまで行って、待っているしかなかった。うまくタイミングが合わず、会えない時もあった。
以前のように、流と遊ぶのは楽しかったから、このまま、この関係は続くのだと、漠然と考えていた。
客観的に見ると、制服の中学生と小学生が公園で一緒に遊んでいる姿は、奇妙な光景だっただろうと思う。
流が中学に上がる時、校区が同じだったから、もう一度同じ学校に通えると期待したが、流は中学受験をして、私学の中高一貫校に入学した。
自分と違って、賢くて勉強好きな流が同じ道を辿るとは思っていなかったから、すぐに諦めはついた。
ただ、これから先、流は自分とは違う道を行くのだと、急に気づいた。
だから、合格の知らせを聞いた時、おめでとうの言葉がすぐ出なかった。
今までとは違う目で、流を見ていることに気づいたのは、多分、その頃だ。
初めて、流の中学校の制服姿を見た時は、言葉が出なかった。
玲の中学とは違うブレザータイプの制服は、ネクタイ姿で、一段と大人びた。
身長が伸びて、大人の顔と体型になってきた流は、人を寄せ付けないほどの凛とした空気をまとった。
「何、見てるの」
不審者を見る目つきで、流にそう聞かれた時は、そんな目で見ている自分に唖然とした。
「いやいや、孫にも衣装だな」
そんなふうに誤魔化すしかなかった。
「あんまり好きじゃない。目立ちすぎる」
「お前が行きたかった学校なんだろ」
「じいちゃんが、公立やめとけって」
流自身が私立を希望したのではなく、祖父が公立を嫌がったらしい。公立の中学校に行って、噂を知っている子供と一緒になることを心配したのだと、気づいた。
違う制服姿の二人が歩いていると、確かに人目を引いた。
それは、流に目がいくからだ。
きれいな顔をした可愛らしい子供だった流が、中学進学の頃から変貌していった。
端正な顔立ちで、細く薄い体が姿勢よく立っていると、どこか緊張感が漂った。表情に変化が乏しいせいで、不用意に触れられないピリピリした雰囲気を醸し出している。
子供の頃を知っている玲にはむしろ痛々しく映ったが、それと同時に、目を離せない自分に気がついていた。
流に会いたい。
そう思う気持ちは、年齢を重ねるごとに、強くなった。
会えば、そこにいる流に触れたい。そんなことはできないと思いながら、明確にそう思っている自分を自覚した。
中学生になった流は携帯電話を持つようになったから、連絡は取りやすくなったし、それまでより会えるようになった。
会う頻度は、中学に入っても、高校に上がっても、それほど変わらなかった。せいぜい、月に数回、一度しか会えないこともあった。
会って何かをするわけでもない。
公園や図書館などで、缶コーヒーを飲みながら話す。
ただ横に座って勉強する姿を見ているだけのことも多かった。
「お前も勉強したら」
「いい。これでも、赤点はとってない」
俯いて問題を解く流の横顔を見ながら、ぼんやりと過ごした時間のほうが、なぜか鮮明に覚えている。
「大学行かないの」
小さな声で俯いたまま聞く流は、まつ毛が長く、白い頬に影を落としていた。
高校に入って、流と同じブレザータイプの制服になったが、どうしてこうも違うのか、玲は不思議だった。
緩めたネクタイの下に見える白い首筋に小さなほくろが見え、小学生の時に見ていたのと同じ位置だと、ぼんやり考えていた。
「行かない。勉強嫌いだし。高校、卒業したら、就職する。ルウは大学行くだろ」
適当に答えて、適当に聞いたのに、不意に流が顔を上げて、玲を見る。何に引っ掛かっているのかは、だいたいわかっていた。
「嫌いじゃないだろ。それから、その呼び方やめろ」
一瞬、流の顔に見える感情が玲を笑顔にさせる。
「はいはい。ルウちゃん。気をつける」
流は無表情に戻り、それ以上、何も言わない。
ほとんど会話はなくても、一緒にいるだけで良かった。
そんな日々が、今は、一番楽しかったような気がする。
いつもと変わらない流がそこにいると思えたら、安心した。
流の環境は、年毎に変わっていった。
流を育てた祖母は、流が中学卒業前に亡くなり、その後、祖父と高校生の流は、男二人できちんと暮らしていた。
玲自身は、予定通り、高校を卒業してすぐ、自動車整備場に勤めた。
就職した玲と、まだ高校生だった流の関係も、ずっと変わらないままだった。
環境が変わっていくたびに、玲の不安は大きくなった。いつか、流と会えなくなる日が来るかもしれない。会うたびに、次はないのかもしれないと思った。
思えば、中学も高校も違うのに、ここまで離れてしまわずにこられたのは、奇跡に近い。幼馴染で、兄のように慕ってくれる時期は、とっくに過ぎていた。
流の祖父に知られないよう会うのも、結構、大変だった。
それほど離れた場所で暮らしているわけではないから、偶然、街で出会うこともあった。
祖父に気づいた途端、顔色も変えず、他人のふりをする流を見送るのは、正直、気が滅入った。
その祖父が、流が大学に入った年にあっけなく亡くなった。
一人になった流を心配したが、流の生活は何も変わらなかった。
物静かで几帳面だった流の祖父は、流にこの家と定期的に収入が入る賃貸物件を残していたから、困ることはなかったし、流自身も、予期していたように、淡々と暮らした。
流の祖父が亡くなったことで、会いやすくなった。
流の方から、外で会うのは億劫だから、家に来たらと言われた時は、思わず、大きな声が出た。
「いいの」
「そんな、大袈裟なことか」
流は顔を顰めてそう言ったが、誰にも遠慮せず、流の家で会えるようになったことは大きな変化だった。
流が一人になって、玲も一人暮らしを始めた。
この頃になると、玲が流と会っていることを母は知っているようだった。
玲が時々外泊しても、母は何も言わなかったし、問いただすこともなかった。一人で暮らすと言い出した時も、その方がいいと言っただけだ。
「ちょいちょい、顔は出すよ」
心苦しくて、そう言うと、たまにでいいわと返された。何もかも知られているようだと思った。
母より、流を選んだのだと、玲自身わかってはいた。
開け放した窓からの冷気で、玲の体は冷えてきた。
もうすぐ、流が風呂から上がってくる。もう、窓を閉めておかないと、流の不機嫌に拍車がかかる。
そう思うのに、体が動かない。
この家に来るようになって、会う回数は増えたのに、流が少しずつ遠くなる気がした。
流は来年には大学三年生になる。大学の友人も少なからずいて、玲より話が合うだろうと思う。玲の生活とだんだん離れていくのは目に見えている。
これから、どんな関係なら一緒にいられるのだろう。
どう考えても、これ以上近い関係にはなれそうもなかった。
退院して、久しぶりにこの家の前で再会した時、流は、無邪気に玲の傷に触れてきた。
それ以降、一度も触れてこない。まるで見えていないかのようだ。
あの日のことも、一度も言わない。
でも、忘れているはずはなかった。
何も言わない流は、思い出したくないと言っているのだと、やがて玲は気づいた。
家に来いと言ったのは、玲が仕事の後でないと会えないからだ。当然、夜になってしまう。巡ってくる満月の夜を避けたがっている。
満月の夜は、見たくなければ、ひっそりと家に篭ればいい。
でも、玲の傷は顔や腕、目につくところにある。見ないようにしていても、自然と目に入ってしまう。
玲の存在が、流にあの日を思い出させる。
だから、見えていないふりをする。
流は、忘れたがっているのだ。
そう気づいた時、玲の周りから音が消えた。しばらく動けなかった。
玲が流から離れてしまえば、よかったのだろうと思う。そうすれば、思い出さずに済む。
流のためにはその方がよほどよかった。簡単な理屈なのに、それができなかった。
ならば、このまま、見えないふりをする流のそばにいるしかないと、すぐに思った。
そのくせ、無表情で、何もかも忘れているような顔をしている流に、泣いて、怒って、お前のせいで辛いと言って欲しい。見えてしまっている傷を無視されるより、その方がいいと、ずっと思っている。
あったことをなかったことにはできないから、素直に感情を出してほしい。
だから、満月の夜に、わざわざ流に会ってきた。
実際は、流にそんなふうに罵倒され、拒否され、もう会わないと言われたら、きっと途方に暮れる。
「何をやってるんだ」
ばかばかしくて笑える。
流から離れたくなくて、嫌われたくなくて、なのに、流が嫌がることばかりを望む。
思い出したくないものを思い出させる。
「そんな人間と会いたくはないよな」
満月を見上げて、玲はつぶやいた。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
玲が全てを知ったのは、退院して、しばらくたってからだ。
久しぶりに学校へ行くと、友達が物珍しそうに寄ってきた。
玲のけがは、自分で転んでしまったと、友達には説明した。流が友達に問い詰められることがないように、絞り出した嘘だった。
でも、効果はなかった。
玲がけがをした理由は、入院中にだいたい知れ渡っていた。
母が言っていたように、流は父方の祖父母に引き取られて、もう転校していたから、今さら玲が何を言っても遅すぎた。
しばらくの間、突然転校した流のことは、学校でも噂になった。
「お母さんが駆け落ちして、お父さんは怒って暴れて、いなくなった」
噂をまとめると、ここに落ち着いた。
正確には、母親は流を置いて離婚し、父親も、あの後、流を祖父母に預けていなくなったらしい。
あの頃、ここにいない流をどう守ったらいいのか分からず、玲は途方に暮れた。
それ以上のことは、噂好きの近所の大人が親切に教えてくれた。
玲の母が口にしたがらなかった理由が分かったのは、周囲の子が流の不在を忘れかけた頃だった。
「あんたたち、仲よかったのに。可哀想に」
そう前置きして、続けた。
「お父さんの相手が、あの子のお母さんだなんて、ひどい話だけど。あの子も、お母さんに似て、きれいだったわねえ」
理解するまでに、しばらくかかった。
あの日、流の母親と一緒に行ったのは、玲の父親だった。
もともと親しかった二組の夫婦が、家族ぐるみで一緒に過ごすうちに、その片方同士が特別に親しくなってしまったという、ありきたりの関係だと理解したのは、大人になってからだ。
流から、あの優しくてきれいな母親を取り上げてしまったのが自分の父親だったと分かった時、その男の子供であることを玲は強烈に恥じた。
玲の父親は、玲たちを捨てただけでなく、流の母親を連れて行ってしまった。その後、流の父親までいなくなったのも、明らかに玲がけがをしたことが原因だと思った。あんなことがなければ、流の父親までいなくなることはなかった。
だから、すぐ会いに行けなかった。
流に会って、どう言えばいいのか、どう謝ればいいのか分からず、流に会うのが怖かった。
久しぶりに学校へ行くと、友達が物珍しそうに寄ってきた。
玲のけがは、自分で転んでしまったと、友達には説明した。流が友達に問い詰められることがないように、絞り出した嘘だった。
でも、効果はなかった。
玲がけがをした理由は、入院中にだいたい知れ渡っていた。
母が言っていたように、流は父方の祖父母に引き取られて、もう転校していたから、今さら玲が何を言っても遅すぎた。
しばらくの間、突然転校した流のことは、学校でも噂になった。
「お母さんが駆け落ちして、お父さんは怒って暴れて、いなくなった」
噂をまとめると、ここに落ち着いた。
正確には、母親は流を置いて離婚し、父親も、あの後、流を祖父母に預けていなくなったらしい。
あの頃、ここにいない流をどう守ったらいいのか分からず、玲は途方に暮れた。
それ以上のことは、噂好きの近所の大人が親切に教えてくれた。
玲の母が口にしたがらなかった理由が分かったのは、周囲の子が流の不在を忘れかけた頃だった。
「あんたたち、仲よかったのに。可哀想に」
そう前置きして、続けた。
「お父さんの相手が、あの子のお母さんだなんて、ひどい話だけど。あの子も、お母さんに似て、きれいだったわねえ」
理解するまでに、しばらくかかった。
あの日、流の母親と一緒に行ったのは、玲の父親だった。
もともと親しかった二組の夫婦が、家族ぐるみで一緒に過ごすうちに、その片方同士が特別に親しくなってしまったという、ありきたりの関係だと理解したのは、大人になってからだ。
流から、あの優しくてきれいな母親を取り上げてしまったのが自分の父親だったと分かった時、その男の子供であることを玲は強烈に恥じた。
玲の父親は、玲たちを捨てただけでなく、流の母親を連れて行ってしまった。その後、流の父親までいなくなったのも、明らかに玲がけがをしたことが原因だと思った。あんなことがなければ、流の父親までいなくなることはなかった。
だから、すぐ会いに行けなかった。
流に会って、どう言えばいいのか、どう謝ればいいのか分からず、流に会うのが怖かった。
何度か流と一緒に行った記憶を頼りに、流の祖父母の家まで足を運んだのは、次の年の夏の始めだった。
夏の日差しに背中を焼かれながら、長い坂道を登っていった。子供の足では、かなりの時間がかかったが、なぜか、記憶は鮮明にあって、迷うことはなかった。
汗が滴り落ちて、息が上がった。
坂道の途中で、家の前で祖父と話している流を見つけた。
咄嗟に、玲は木陰に隠れてしまった。
そこにいる流は、玲の知っている流ではなかった。
無邪気によく笑って、華やかな色を振り撒いていた流の顔から、表情が消えていた。
見知らぬ人のように見えて、声をかけることができなかった。
その後も、何度か流の祖父母の家を訪ねた。そして、その度に、会わずに帰ってきた。
あの日も木陰に隠れて、流の祖父母の家を見ていた。
もう、日差しは勢いをなくして、じっと隠れているのも楽になっていた。
「何してるの」
後ろから、突然声がして、玲は振り返った。
流がランドセルを背負って、立っていた。
「えっと。散歩」
「わざわざ、こんなとこまで散歩」
流の声は覚えているより低かった。身長も、明らかに伸びていた。笑っていない顔が冷たく見える。
玲が会うのを怖がっている間に、流は変わった。それだけの時間を、別々に過ごしたのだと思うと、玲の中で軋む音がした。
流に謝らないといけない。そう思っていたのに、言葉が出ない。
流の方は躊躇なく近づいて、玲の右手首を握った。
流の手はひんやりと冷たくて、思わず腕を引いたが、流はしっかりと掴んで離してくれなかった。
半袖のシャツから剥き出しになっている玲の右腕には、まだはっきりとわかる赤黒い傷があった。
流は、玲の腕を持ち上げて、観察するように眺めた。珍しい虫でも見るような真剣な顔で、その顔は、玲の覚えているあの流の顔だった。
じっと傷を見つめたまま、流は小さな声で聞いた。
「まだ痛い」
「もう、なんともない」
そっかと呟く流に、昔を思い出し、やっと玲は話し始めようとした。
「ルウのお母さん」
そう言うと、流はさっと顔を上げて、玲を睨んだ。少し目を細めた、そのきつい視線に、玲は何も言えなくなった。
怒っているのだと、玲は思った。
謝らなきゃ。何を。どう謝る。
言葉を探して、立ちすくんでいた。
流は何も聞かなかったような顔で坂道を少し上がると、つま先立って玲の額の髪をそっと左手の人差し指で持ち上げた。
流の身長は、伸びたと言っても、まだ玲よりはるかに小さいことに気づいた。
背伸びをして玲の額をじっと見る流の顔が、目の前にある。
久しぶりに間近で見る流は、儚げで不安定だった。
触れたら、消えるのではないか。
あの時、玲はそんなことを考えた。
「こっちは」
玲の額にも、腕より目立つ傷が残っていた。上気した顔では、余計に目立ったはずだ。
流の目が真っ直ぐに玲を見つめていた。
玲はただ小さく首を振った。
突然、流の表情が歪んだ。
「レイちゃん、遅いよ」
開けたままの流の目から、ほろほろと涙が溢れて落ちていく。あの夜の涙と同じだと思った。
「もう、会えないのかと思った」
震える声で流は呟く。
「違う。違うよ。ごめん」
思わず、玲は流を抱きしめていた。縋り付いてくる小さな体は、玲の知っている流だった。
流に責められそうで、怖くて、流を避けてしまった。
ごめんと繰り返しながら、何に謝っているのか、だんだんわからなくなった。
流の涙が、玲の胸元に染みていく。流の癖のない細い髪が乱れて、玲の腕の中で揺れる。
流に会いたくてたまらなかったのは、玲の方だ。
あの日から、ずっと、流に会いたかったことを思いだしていた。
夏の日差しに背中を焼かれながら、長い坂道を登っていった。子供の足では、かなりの時間がかかったが、なぜか、記憶は鮮明にあって、迷うことはなかった。
汗が滴り落ちて、息が上がった。
坂道の途中で、家の前で祖父と話している流を見つけた。
咄嗟に、玲は木陰に隠れてしまった。
そこにいる流は、玲の知っている流ではなかった。
無邪気によく笑って、華やかな色を振り撒いていた流の顔から、表情が消えていた。
見知らぬ人のように見えて、声をかけることができなかった。
その後も、何度か流の祖父母の家を訪ねた。そして、その度に、会わずに帰ってきた。
あの日も木陰に隠れて、流の祖父母の家を見ていた。
もう、日差しは勢いをなくして、じっと隠れているのも楽になっていた。
「何してるの」
後ろから、突然声がして、玲は振り返った。
流がランドセルを背負って、立っていた。
「えっと。散歩」
「わざわざ、こんなとこまで散歩」
流の声は覚えているより低かった。身長も、明らかに伸びていた。笑っていない顔が冷たく見える。
玲が会うのを怖がっている間に、流は変わった。それだけの時間を、別々に過ごしたのだと思うと、玲の中で軋む音がした。
流に謝らないといけない。そう思っていたのに、言葉が出ない。
流の方は躊躇なく近づいて、玲の右手首を握った。
流の手はひんやりと冷たくて、思わず腕を引いたが、流はしっかりと掴んで離してくれなかった。
半袖のシャツから剥き出しになっている玲の右腕には、まだはっきりとわかる赤黒い傷があった。
流は、玲の腕を持ち上げて、観察するように眺めた。珍しい虫でも見るような真剣な顔で、その顔は、玲の覚えているあの流の顔だった。
じっと傷を見つめたまま、流は小さな声で聞いた。
「まだ痛い」
「もう、なんともない」
そっかと呟く流に、昔を思い出し、やっと玲は話し始めようとした。
「ルウのお母さん」
そう言うと、流はさっと顔を上げて、玲を睨んだ。少し目を細めた、そのきつい視線に、玲は何も言えなくなった。
怒っているのだと、玲は思った。
謝らなきゃ。何を。どう謝る。
言葉を探して、立ちすくんでいた。
流は何も聞かなかったような顔で坂道を少し上がると、つま先立って玲の額の髪をそっと左手の人差し指で持ち上げた。
流の身長は、伸びたと言っても、まだ玲よりはるかに小さいことに気づいた。
背伸びをして玲の額をじっと見る流の顔が、目の前にある。
久しぶりに間近で見る流は、儚げで不安定だった。
触れたら、消えるのではないか。
あの時、玲はそんなことを考えた。
「こっちは」
玲の額にも、腕より目立つ傷が残っていた。上気した顔では、余計に目立ったはずだ。
流の目が真っ直ぐに玲を見つめていた。
玲はただ小さく首を振った。
突然、流の表情が歪んだ。
「レイちゃん、遅いよ」
開けたままの流の目から、ほろほろと涙が溢れて落ちていく。あの夜の涙と同じだと思った。
「もう、会えないのかと思った」
震える声で流は呟く。
「違う。違うよ。ごめん」
思わず、玲は流を抱きしめていた。縋り付いてくる小さな体は、玲の知っている流だった。
流に責められそうで、怖くて、流を避けてしまった。
ごめんと繰り返しながら、何に謝っているのか、だんだんわからなくなった。
流の涙が、玲の胸元に染みていく。流の癖のない細い髪が乱れて、玲の腕の中で揺れる。
流に会いたくてたまらなかったのは、玲の方だ。
あの日から、ずっと、流に会いたかったことを思いだしていた。
玲は立ち上がって、布団を引っ張った。布団の間を寄せて、ピッタリとくっつける。
それを見て、また流が嫌な顔をするだろうと思う。
何が目的でこんなことをしているのか。
ばかなことをしていると、いつも思う。わざと嫌がられることをして、相手に注目してもらう小学生と同じだ。
一番初めにこれを見た流は、一瞬、嫌な顔をした。
無視されず、はっきりとした感情の見える顔を見せてくれたこの瞬間が、玲にとって、救いになった。
その顔を見るのも、ぴりぴりした空気の中で無視されるのも、いつもと同じで、流の横の布団に潜り込んで寝るまでが、一連の流れになっている。
流の機嫌は悪くなるが、大きな声を出すわけでも、怒り出すわけでもない。
この一晩の張り詰めた空気に耐えて、翌朝を迎えれば、いつもの関係に戻っている。
遠慮のない、幼馴染の二人。それ以上でも、それ以下でもない。
窓ぎわに戻って、玲は満月を見上げた。
もう何度も同じ部屋で寝ているが、横の布団には流の気配があるだけ。話しかけても、ほとんど返事は返ってこない。灯りを消せば、それぞれが一人で寝ているのと同じ。
いつまで、こんなふうに来られるのだろうかと、いつになく弱気になっていた。
流が玲を拒否してしまえば、今までのように来ることはできない。
今日は、やっぱり、少しダメージが大きい。流の反応は同じでも、玲の気持ちの方にこたえてくる。
それを見て、また流が嫌な顔をするだろうと思う。
何が目的でこんなことをしているのか。
ばかなことをしていると、いつも思う。わざと嫌がられることをして、相手に注目してもらう小学生と同じだ。
一番初めにこれを見た流は、一瞬、嫌な顔をした。
無視されず、はっきりとした感情の見える顔を見せてくれたこの瞬間が、玲にとって、救いになった。
その顔を見るのも、ぴりぴりした空気の中で無視されるのも、いつもと同じで、流の横の布団に潜り込んで寝るまでが、一連の流れになっている。
流の機嫌は悪くなるが、大きな声を出すわけでも、怒り出すわけでもない。
この一晩の張り詰めた空気に耐えて、翌朝を迎えれば、いつもの関係に戻っている。
遠慮のない、幼馴染の二人。それ以上でも、それ以下でもない。
窓ぎわに戻って、玲は満月を見上げた。
もう何度も同じ部屋で寝ているが、横の布団には流の気配があるだけ。話しかけても、ほとんど返事は返ってこない。灯りを消せば、それぞれが一人で寝ているのと同じ。
いつまで、こんなふうに来られるのだろうかと、いつになく弱気になっていた。
流が玲を拒否してしまえば、今までのように来ることはできない。
今日は、やっぱり、少しダメージが大きい。流の反応は同じでも、玲の気持ちの方にこたえてくる。
あの後、二人で時々会っていたことは、二人とも、母親や祖父母に黙っていた。
「家に電話していい」
そう聞くと、流は黙って首を横に振った。
「レイちゃんちは」
玲も同じように首を振った。
それだけで、お互い、相手の事情はなんとなく分かった。
結局、流の母親が玲の父親と一緒に行ったことを、玲は言えずじまいだった。流もどこかで聞いたはずだが、確かめたことはない。
お互い、周囲の大人に内緒で会っていたこと自体が、知っていた証拠のようなものだ。
本当は、そんなことはどうでもいい。大人の事情は、二人には関係ない。
関係ないはずなのに、見えない足枷のように、ずっと二人にまとわりついてきた。
流が中学生になるまでは、なかなか会えなかった。
連絡方法がなく、玲が流の小学校の近くまで行って、待っているしかなかった。うまくタイミングが合わず、会えない時もあった。
以前のように、流と遊ぶのは楽しかったから、このまま、この関係は続くのだと、漠然と考えていた。
客観的に見ると、制服の中学生と小学生が公園で一緒に遊んでいる姿は、奇妙な光景だっただろうと思う。
流が中学に上がる時、校区が同じだったから、もう一度同じ学校に通えると期待したが、流は中学受験をして、私学の中高一貫校に入学した。
自分と違って、賢くて勉強好きな流が同じ道を辿るとは思っていなかったから、すぐに諦めはついた。
ただ、これから先、流は自分とは違う道を行くのだと、急に気づいた。
だから、合格の知らせを聞いた時、おめでとうの言葉がすぐ出なかった。
「家に電話していい」
そう聞くと、流は黙って首を横に振った。
「レイちゃんちは」
玲も同じように首を振った。
それだけで、お互い、相手の事情はなんとなく分かった。
結局、流の母親が玲の父親と一緒に行ったことを、玲は言えずじまいだった。流もどこかで聞いたはずだが、確かめたことはない。
お互い、周囲の大人に内緒で会っていたこと自体が、知っていた証拠のようなものだ。
本当は、そんなことはどうでもいい。大人の事情は、二人には関係ない。
関係ないはずなのに、見えない足枷のように、ずっと二人にまとわりついてきた。
流が中学生になるまでは、なかなか会えなかった。
連絡方法がなく、玲が流の小学校の近くまで行って、待っているしかなかった。うまくタイミングが合わず、会えない時もあった。
以前のように、流と遊ぶのは楽しかったから、このまま、この関係は続くのだと、漠然と考えていた。
客観的に見ると、制服の中学生と小学生が公園で一緒に遊んでいる姿は、奇妙な光景だっただろうと思う。
流が中学に上がる時、校区が同じだったから、もう一度同じ学校に通えると期待したが、流は中学受験をして、私学の中高一貫校に入学した。
自分と違って、賢くて勉強好きな流が同じ道を辿るとは思っていなかったから、すぐに諦めはついた。
ただ、これから先、流は自分とは違う道を行くのだと、急に気づいた。
だから、合格の知らせを聞いた時、おめでとうの言葉がすぐ出なかった。
今までとは違う目で、流を見ていることに気づいたのは、多分、その頃だ。
初めて、流の中学校の制服姿を見た時は、言葉が出なかった。
玲の中学とは違うブレザータイプの制服は、ネクタイ姿で、一段と大人びた。
身長が伸びて、大人の顔と体型になってきた流は、人を寄せ付けないほどの凛とした空気をまとった。
「何、見てるの」
不審者を見る目つきで、流にそう聞かれた時は、そんな目で見ている自分に唖然とした。
「いやいや、孫にも衣装だな」
そんなふうに誤魔化すしかなかった。
「あんまり好きじゃない。目立ちすぎる」
「お前が行きたかった学校なんだろ」
「じいちゃんが、公立やめとけって」
流自身が私立を希望したのではなく、祖父が公立を嫌がったらしい。公立の中学校に行って、噂を知っている子供と一緒になることを心配したのだと、気づいた。
違う制服姿の二人が歩いていると、確かに人目を引いた。
それは、流に目がいくからだ。
きれいな顔をした可愛らしい子供だった流が、中学進学の頃から変貌していった。
端正な顔立ちで、細く薄い体が姿勢よく立っていると、どこか緊張感が漂った。表情に変化が乏しいせいで、不用意に触れられないピリピリした雰囲気を醸し出している。
子供の頃を知っている玲にはむしろ痛々しく映ったが、それと同時に、目を離せない自分に気がついていた。
流に会いたい。
そう思う気持ちは、年齢を重ねるごとに、強くなった。
会えば、そこにいる流に触れたい。そんなことはできないと思いながら、明確にそう思っている自分を自覚した。
初めて、流の中学校の制服姿を見た時は、言葉が出なかった。
玲の中学とは違うブレザータイプの制服は、ネクタイ姿で、一段と大人びた。
身長が伸びて、大人の顔と体型になってきた流は、人を寄せ付けないほどの凛とした空気をまとった。
「何、見てるの」
不審者を見る目つきで、流にそう聞かれた時は、そんな目で見ている自分に唖然とした。
「いやいや、孫にも衣装だな」
そんなふうに誤魔化すしかなかった。
「あんまり好きじゃない。目立ちすぎる」
「お前が行きたかった学校なんだろ」
「じいちゃんが、公立やめとけって」
流自身が私立を希望したのではなく、祖父が公立を嫌がったらしい。公立の中学校に行って、噂を知っている子供と一緒になることを心配したのだと、気づいた。
違う制服姿の二人が歩いていると、確かに人目を引いた。
それは、流に目がいくからだ。
きれいな顔をした可愛らしい子供だった流が、中学進学の頃から変貌していった。
端正な顔立ちで、細く薄い体が姿勢よく立っていると、どこか緊張感が漂った。表情に変化が乏しいせいで、不用意に触れられないピリピリした雰囲気を醸し出している。
子供の頃を知っている玲にはむしろ痛々しく映ったが、それと同時に、目を離せない自分に気がついていた。
流に会いたい。
そう思う気持ちは、年齢を重ねるごとに、強くなった。
会えば、そこにいる流に触れたい。そんなことはできないと思いながら、明確にそう思っている自分を自覚した。
中学生になった流は携帯電話を持つようになったから、連絡は取りやすくなったし、それまでより会えるようになった。
会う頻度は、中学に入っても、高校に上がっても、それほど変わらなかった。せいぜい、月に数回、一度しか会えないこともあった。
会って何かをするわけでもない。
公園や図書館などで、缶コーヒーを飲みながら話す。
ただ横に座って勉強する姿を見ているだけのことも多かった。
「お前も勉強したら」
「いい。これでも、赤点はとってない」
俯いて問題を解く流の横顔を見ながら、ぼんやりと過ごした時間のほうが、なぜか鮮明に覚えている。
「大学行かないの」
小さな声で俯いたまま聞く流は、まつ毛が長く、白い頬に影を落としていた。
高校に入って、流と同じブレザータイプの制服になったが、どうしてこうも違うのか、玲は不思議だった。
緩めたネクタイの下に見える白い首筋に小さなほくろが見え、小学生の時に見ていたのと同じ位置だと、ぼんやり考えていた。
「行かない。勉強嫌いだし。高校、卒業したら、就職する。ルウは大学行くだろ」
適当に答えて、適当に聞いたのに、不意に流が顔を上げて、玲を見る。何に引っ掛かっているのかは、だいたいわかっていた。
「嫌いじゃないだろ。それから、その呼び方やめろ」
一瞬、流の顔に見える感情が玲を笑顔にさせる。
「はいはい。ルウちゃん。気をつける」
流は無表情に戻り、それ以上、何も言わない。
ほとんど会話はなくても、一緒にいるだけで良かった。
そんな日々が、今は、一番楽しかったような気がする。
いつもと変わらない流がそこにいると思えたら、安心した。
会う頻度は、中学に入っても、高校に上がっても、それほど変わらなかった。せいぜい、月に数回、一度しか会えないこともあった。
会って何かをするわけでもない。
公園や図書館などで、缶コーヒーを飲みながら話す。
ただ横に座って勉強する姿を見ているだけのことも多かった。
「お前も勉強したら」
「いい。これでも、赤点はとってない」
俯いて問題を解く流の横顔を見ながら、ぼんやりと過ごした時間のほうが、なぜか鮮明に覚えている。
「大学行かないの」
小さな声で俯いたまま聞く流は、まつ毛が長く、白い頬に影を落としていた。
高校に入って、流と同じブレザータイプの制服になったが、どうしてこうも違うのか、玲は不思議だった。
緩めたネクタイの下に見える白い首筋に小さなほくろが見え、小学生の時に見ていたのと同じ位置だと、ぼんやり考えていた。
「行かない。勉強嫌いだし。高校、卒業したら、就職する。ルウは大学行くだろ」
適当に答えて、適当に聞いたのに、不意に流が顔を上げて、玲を見る。何に引っ掛かっているのかは、だいたいわかっていた。
「嫌いじゃないだろ。それから、その呼び方やめろ」
一瞬、流の顔に見える感情が玲を笑顔にさせる。
「はいはい。ルウちゃん。気をつける」
流は無表情に戻り、それ以上、何も言わない。
ほとんど会話はなくても、一緒にいるだけで良かった。
そんな日々が、今は、一番楽しかったような気がする。
いつもと変わらない流がそこにいると思えたら、安心した。
流の環境は、年毎に変わっていった。
流を育てた祖母は、流が中学卒業前に亡くなり、その後、祖父と高校生の流は、男二人できちんと暮らしていた。
玲自身は、予定通り、高校を卒業してすぐ、自動車整備場に勤めた。
就職した玲と、まだ高校生だった流の関係も、ずっと変わらないままだった。
環境が変わっていくたびに、玲の不安は大きくなった。いつか、流と会えなくなる日が来るかもしれない。会うたびに、次はないのかもしれないと思った。
思えば、中学も高校も違うのに、ここまで離れてしまわずにこられたのは、奇跡に近い。幼馴染で、兄のように慕ってくれる時期は、とっくに過ぎていた。
流の祖父に知られないよう会うのも、結構、大変だった。
それほど離れた場所で暮らしているわけではないから、偶然、街で出会うこともあった。
祖父に気づいた途端、顔色も変えず、他人のふりをする流を見送るのは、正直、気が滅入った。
その祖父が、流が大学に入った年にあっけなく亡くなった。
一人になった流を心配したが、流の生活は何も変わらなかった。
物静かで几帳面だった流の祖父は、流にこの家と定期的に収入が入る賃貸物件を残していたから、困ることはなかったし、流自身も、予期していたように、淡々と暮らした。
流の祖父が亡くなったことで、会いやすくなった。
流の方から、外で会うのは億劫だから、家に来たらと言われた時は、思わず、大きな声が出た。
「いいの」
「そんな、大袈裟なことか」
流は顔を顰めてそう言ったが、誰にも遠慮せず、流の家で会えるようになったことは大きな変化だった。
流が一人になって、玲も一人暮らしを始めた。
この頃になると、玲が流と会っていることを母は知っているようだった。
玲が時々外泊しても、母は何も言わなかったし、問いただすこともなかった。一人で暮らすと言い出した時も、その方がいいと言っただけだ。
「ちょいちょい、顔は出すよ」
心苦しくて、そう言うと、たまにでいいわと返された。何もかも知られているようだと思った。
母より、流を選んだのだと、玲自身わかってはいた。
流を育てた祖母は、流が中学卒業前に亡くなり、その後、祖父と高校生の流は、男二人できちんと暮らしていた。
玲自身は、予定通り、高校を卒業してすぐ、自動車整備場に勤めた。
就職した玲と、まだ高校生だった流の関係も、ずっと変わらないままだった。
環境が変わっていくたびに、玲の不安は大きくなった。いつか、流と会えなくなる日が来るかもしれない。会うたびに、次はないのかもしれないと思った。
思えば、中学も高校も違うのに、ここまで離れてしまわずにこられたのは、奇跡に近い。幼馴染で、兄のように慕ってくれる時期は、とっくに過ぎていた。
流の祖父に知られないよう会うのも、結構、大変だった。
それほど離れた場所で暮らしているわけではないから、偶然、街で出会うこともあった。
祖父に気づいた途端、顔色も変えず、他人のふりをする流を見送るのは、正直、気が滅入った。
その祖父が、流が大学に入った年にあっけなく亡くなった。
一人になった流を心配したが、流の生活は何も変わらなかった。
物静かで几帳面だった流の祖父は、流にこの家と定期的に収入が入る賃貸物件を残していたから、困ることはなかったし、流自身も、予期していたように、淡々と暮らした。
流の祖父が亡くなったことで、会いやすくなった。
流の方から、外で会うのは億劫だから、家に来たらと言われた時は、思わず、大きな声が出た。
「いいの」
「そんな、大袈裟なことか」
流は顔を顰めてそう言ったが、誰にも遠慮せず、流の家で会えるようになったことは大きな変化だった。
流が一人になって、玲も一人暮らしを始めた。
この頃になると、玲が流と会っていることを母は知っているようだった。
玲が時々外泊しても、母は何も言わなかったし、問いただすこともなかった。一人で暮らすと言い出した時も、その方がいいと言っただけだ。
「ちょいちょい、顔は出すよ」
心苦しくて、そう言うと、たまにでいいわと返された。何もかも知られているようだと思った。
母より、流を選んだのだと、玲自身わかってはいた。
開け放した窓からの冷気で、玲の体は冷えてきた。
もうすぐ、流が風呂から上がってくる。もう、窓を閉めておかないと、流の不機嫌に拍車がかかる。
そう思うのに、体が動かない。
この家に来るようになって、会う回数は増えたのに、流が少しずつ遠くなる気がした。
流は来年には大学三年生になる。大学の友人も少なからずいて、玲より話が合うだろうと思う。玲の生活とだんだん離れていくのは目に見えている。
これから、どんな関係なら一緒にいられるのだろう。
どう考えても、これ以上近い関係にはなれそうもなかった。
退院して、久しぶりにこの家の前で再会した時、流は、無邪気に玲の傷に触れてきた。
それ以降、一度も触れてこない。まるで見えていないかのようだ。
あの日のことも、一度も言わない。
でも、忘れているはずはなかった。
何も言わない流は、思い出したくないと言っているのだと、やがて玲は気づいた。
家に来いと言ったのは、玲が仕事の後でないと会えないからだ。当然、夜になってしまう。巡ってくる満月の夜を避けたがっている。
満月の夜は、見たくなければ、ひっそりと家に篭ればいい。
でも、玲の傷は顔や腕、目につくところにある。見ないようにしていても、自然と目に入ってしまう。
玲の存在が、流にあの日を思い出させる。
だから、見えていないふりをする。
流は、忘れたがっているのだ。
そう気づいた時、玲の周りから音が消えた。しばらく動けなかった。
玲が流から離れてしまえば、よかったのだろうと思う。そうすれば、思い出さずに済む。
流のためにはその方がよほどよかった。簡単な理屈なのに、それができなかった。
ならば、このまま、見えないふりをする流のそばにいるしかないと、すぐに思った。
そのくせ、無表情で、何もかも忘れているような顔をしている流に、泣いて、怒って、お前のせいで辛いと言って欲しい。見えてしまっている傷を無視されるより、その方がいいと、ずっと思っている。
あったことをなかったことにはできないから、素直に感情を出してほしい。
だから、満月の夜に、わざわざ流に会ってきた。
実際は、流にそんなふうに罵倒され、拒否され、もう会わないと言われたら、きっと途方に暮れる。
「何をやってるんだ」
ばかばかしくて笑える。
流から離れたくなくて、嫌われたくなくて、なのに、流が嫌がることばかりを望む。
思い出したくないものを思い出させる。
「そんな人間と会いたくはないよな」
満月を見上げて、玲はつぶやいた。
もうすぐ、流が風呂から上がってくる。もう、窓を閉めておかないと、流の不機嫌に拍車がかかる。
そう思うのに、体が動かない。
この家に来るようになって、会う回数は増えたのに、流が少しずつ遠くなる気がした。
流は来年には大学三年生になる。大学の友人も少なからずいて、玲より話が合うだろうと思う。玲の生活とだんだん離れていくのは目に見えている。
これから、どんな関係なら一緒にいられるのだろう。
どう考えても、これ以上近い関係にはなれそうもなかった。
退院して、久しぶりにこの家の前で再会した時、流は、無邪気に玲の傷に触れてきた。
それ以降、一度も触れてこない。まるで見えていないかのようだ。
あの日のことも、一度も言わない。
でも、忘れているはずはなかった。
何も言わない流は、思い出したくないと言っているのだと、やがて玲は気づいた。
家に来いと言ったのは、玲が仕事の後でないと会えないからだ。当然、夜になってしまう。巡ってくる満月の夜を避けたがっている。
満月の夜は、見たくなければ、ひっそりと家に篭ればいい。
でも、玲の傷は顔や腕、目につくところにある。見ないようにしていても、自然と目に入ってしまう。
玲の存在が、流にあの日を思い出させる。
だから、見えていないふりをする。
流は、忘れたがっているのだ。
そう気づいた時、玲の周りから音が消えた。しばらく動けなかった。
玲が流から離れてしまえば、よかったのだろうと思う。そうすれば、思い出さずに済む。
流のためにはその方がよほどよかった。簡単な理屈なのに、それができなかった。
ならば、このまま、見えないふりをする流のそばにいるしかないと、すぐに思った。
そのくせ、無表情で、何もかも忘れているような顔をしている流に、泣いて、怒って、お前のせいで辛いと言って欲しい。見えてしまっている傷を無視されるより、その方がいいと、ずっと思っている。
あったことをなかったことにはできないから、素直に感情を出してほしい。
だから、満月の夜に、わざわざ流に会ってきた。
実際は、流にそんなふうに罵倒され、拒否され、もう会わないと言われたら、きっと途方に暮れる。
「何をやってるんだ」
ばかばかしくて笑える。
流から離れたくなくて、嫌われたくなくて、なのに、流が嫌がることばかりを望む。
思い出したくないものを思い出させる。
「そんな人間と会いたくはないよな」
満月を見上げて、玲はつぶやいた。