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ฅ8. 境界猫Jの場合

ー/ー




 わたしは……何だ。何であるというのだろうか。
 
 人であったような気もするが、それも今となっては疑わしく、さりとて神と言えるのかといえば、それもまた疑わしい。疑うことが本質であるものが存在するなら、きっとわたしはそれであろう。
 黒曜石は物言わず、煙る鏡はわたしを映さず。わたしはジャガーであって、ジャガーでない。

 わたしは獣になった──いや、あるいはもとより獣であったのか。
 
 ฅ
 
 人と獣を分かつものとは何であろうか。
 
 言葉であろうか。
 思考は言葉を紡ぎ、言葉は織りなされ、またわたしの思考を導いている。すなわち、言葉が人獣の境界であるならば、こうしている事実こそが、わたしを人と定めてくれる──しかし、答えは否。鳥さえも、いくつもの声色や調子を組み合わせて同族との連携を取っている。これを言葉と言わずして何と言おう。
 
 自己の認識だろうか。
 確かに獣は、水や鏡に映った己を己と認識できぬものも多い。
対して、わたしは疑うべき自己を持っているように思われる。
然るに、それを人獣の境界とするなら、わたしは人であるかもしれない──
しかし、答えは否。そも獣の中に反例がいくつかあるし、わたしなりし煙る鏡はひとつの形に留まらない。しかとかたちを定義できずして、自己などあるまい。
 
 考えることそのものか。
 思考がわたしを定義してくれるというのなら、それほど簡単なことはない──しかし、これは却下すべきだ。これを真とするには獣に思考が宿らないことになるが、なにも思考せずして複雑な巣、歌、果ては踊り──これらをこなせようものか。
 
 あるいは恥というものか。
 人は服を着るのを常とし、服のないところを見られた時には恥を覚える。当然ながら獣は服を着ず、それに何らを感じることもない。なるほど、人の特徴であるようにも思われるが──まあ、神の領域に踏み込まんとした恥知らず(わたし)がここにいるので、それを人獣の境界とするわけにもいかぬ。
 
 人と獣の境界とは、かくも曖昧で、きっと恣意的なのだろう。
 
 ฅ
 
 かつて、わたしは人であった──あるいは、そう信じたいがための幻であるかもしれない。
 その頃、わたしには名があった──人々がそう呼ぶことが、わたしを規定した。わたしをわたしたらしむる何かを持たぬがゆえに、名に縋り名を(よすが)に何ものかになろうとしていた、と言ってもよい。
 
 いまある「わたし」が目覚めた時、そこは祭壇であった。そこには黒曜石が尖りきらめき、そこには赤き血があった。それが誰のものだったかは問題ではない。「わたし」も、「わたしだったもの」も、それを悍ましきとは思わなんだことが問題だ。
 
 人にとっての血とは妙なものだ。あるときは近親の証として慈しみながら、あるときは忌み嫌う。そうでありながらにして、またあるときには進んで流そうとする。それは己か他かを問わず、かたちはそれぞれ──あるいは捧げものとして、あるいは復讐の証として、あるいはそれ自体を目的として。

 対して、獣にとっての血とは単純だ。ただ、殺した痕に過ぎない。殺すために殺す場合が無いわけではないにせよ、基本的には生きるために狩りをし、その結果現れるものが血であるだけだ。そこに何ら感慨はなく、何であればそれさえ糧とし己が繋ぐ。
 
 では、そこにある血に怖気(おぞけ)を覚えず、むしろ我が物と認識する「わたし」はどちらだろうか。そして、そこに現れるだろう血に怖気(おぞけ)を覚えなんだ
「わたしだったもの」は人だったのだろうか。さらに言えば、「わたし」を囲み平伏していたものどもは、どちらだったのだろうか。

 ฅ
 
 ひとつ思うに、人が獣となることはあっても、獣が人となることはきっと無い。すなわち獣のいち形態が人であると言えるのかもしれない。人を人たらしむる境界が失われたとき、人は獣に交わる。「堕ちる」という言い方では傲岸不遜というものだ。
 厄介なことに、「人を人たらしむる境界」とは曖昧模糊で掴み所がない。それはきっとどこからでも生じ、どこからでも失われる。
 あるいは、そもそんなものは無いのかもしれない。光と影が分かたぬように、朝と夜が分かたぬように。同様に人獣分かたぬとするならば、
人は(もと)より人なのではなく、人たらんと(こいねが)うことが人を人たらしめるのかもしれぬ。人たらんと欲する意志だけが、弱々しくも人たる寄る辺であるかもしれぬ。
 
 ならば、「わたしだったもの」は人ではなかった。個の人たらんとする意志を失って、己ならぬ何ものかにならんと欲した。あるいは、そのような意志など無い獣だったのか──いや、きっと獣ですらもなかった。獣は在るがままに在るのみなのだから。ゆえにこそ、無秩序を旨とする「煙る鏡(テスカトリポカ)」たりえたのかもしれぬ。

 ฅ
 
 人は、己を規定しうる秩序を求める。名を重く見て、他との境界を重んじ、世界を分類する。
 獣は、自然の秩序の中にあって存在が規定される。それは本能であり、生の理である。
 
 しかし秩序と無秩序とは表裏一体である。昼は夜であり、生は死であり、創造は破壊である。煙る鏡は何も映さない。すべてのものに、確たるかたちなどないのだから。
 
 わたしはジャガーとして、夜を駆け、月を追う。その瞬間瞬間にあって、わたしは在るのみである。
 わたしはジャガーならざるものとして、黙考し己を問う。
 
 わたしは何であるというのだろうか。その答えを得た瞬間に、わたしは「わたし」を失うだろう。
 人と獣、昼と夜、生と死──その「境界」であることが、「鏡」そのものであることが「わたし」だ。
 
 無秩序のなかにあって、無秩序そのものであって、疑うことがわたしを獣から獣ならざるものに引き戻す。

 疑うことを本質とするものが存在するのなら、きっとわたしはそれであろう。
 
 




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 わたしは……何だ。何であるというのだろうか。
 人であったような気もするが、それも今となっては疑わしく、さりとて神と言えるのかといえば、それもまた疑わしい。疑うことが本質であるものが存在するなら、きっとわたしはそれであろう。
 黒曜石は物言わず、煙る鏡はわたしを映さず。わたしはジャガーであって、ジャガーでない。
 わたしは獣になった──いや、あるいはもとより獣であったのか。
 ฅ
 人と獣を分かつものとは何であろうか。
 言葉であろうか。
 思考は言葉を紡ぎ、言葉は織りなされ、またわたしの思考を導いている。すなわち、言葉が人獣の境界であるならば、こうしている事実こそが、わたしを人と定めてくれる──しかし、答えは否。鳥さえも、いくつもの声色や調子を組み合わせて同族との連携を取っている。これを言葉と言わずして何と言おう。
 自己の認識だろうか。
 確かに獣は、水や鏡に映った己を己と認識できぬものも多い。
対して、わたしは疑うべき自己を持っているように思われる。
然るに、それを人獣の境界とするなら、わたしは人であるかもしれない──
しかし、答えは否。そも獣の中に反例がいくつかあるし、わたしなりし煙る鏡はひとつの形に留まらない。しかとかたちを定義できずして、自己などあるまい。
 考えることそのものか。
 思考がわたしを定義してくれるというのなら、それほど簡単なことはない──しかし、これは却下すべきだ。これを真とするには獣に思考が宿らないことになるが、なにも思考せずして複雑な巣、歌、果ては踊り──これらをこなせようものか。
 あるいは恥というものか。
 人は服を着るのを常とし、服のないところを見られた時には恥を覚える。当然ながら獣は服を着ず、それに何らを感じることもない。なるほど、人の特徴であるようにも思われるが──まあ、神の領域に踏み込まんとした|恥知らず《わたし》がここにいるので、それを人獣の境界とするわけにもいかぬ。
 人と獣の境界とは、かくも曖昧で、きっと恣意的なのだろう。
 ฅ
 かつて、わたしは人であった──あるいは、そう信じたいがための幻であるかもしれない。
 その頃、わたしには名があった──人々がそう呼ぶことが、わたしを規定した。わたしをわたしたらしむる何かを持たぬがゆえに、名に縋り名を|縁《よすが》に何ものかになろうとしていた、と言ってもよい。
 いまある「わたし」が目覚めた時、そこは祭壇であった。そこには黒曜石が尖りきらめき、そこには赤き血があった。それが誰のものだったかは問題ではない。「わたし」も、「わたしだったもの」も、それを悍ましきとは思わなんだことが問題だ。
 人にとっての血とは妙なものだ。あるときは近親の証として慈しみながら、あるときは忌み嫌う。そうでありながらにして、またあるときには進んで流そうとする。それは己か他かを問わず、かたちはそれぞれ──あるいは捧げものとして、あるいは復讐の証として、あるいはそれ自体を目的として。
 対して、獣にとっての血とは単純だ。ただ、殺した痕に過ぎない。殺すために殺す場合が無いわけではないにせよ、基本的には生きるために狩りをし、その結果現れるものが血であるだけだ。そこに何ら感慨はなく、何であればそれさえ糧とし己が繋ぐ。
 では、そこにある血に|怖気《おぞけ》を覚えず、むしろ我が物と認識する「わたし」はどちらだろうか。そして、そこに現れるだろう血に|怖気《おぞけ》を覚えなんだ
「わたしだったもの」は人だったのだろうか。さらに言えば、「わたし」を囲み平伏していたものどもは、どちらだったのだろうか。
 ฅ
 ひとつ思うに、人が獣となることはあっても、獣が人となることはきっと無い。すなわち獣のいち形態が人であると言えるのかもしれない。人を人たらしむる境界が失われたとき、人は獣に交わる。「堕ちる」という言い方では傲岸不遜というものだ。
 厄介なことに、「人を人たらしむる境界」とは曖昧模糊で掴み所がない。それはきっとどこからでも生じ、どこからでも失われる。
 あるいは、そもそんなものは無いのかもしれない。光と影が分かたぬように、朝と夜が分かたぬように。同様に人獣分かたぬとするならば、
人は|固《もと》より人なのではなく、人たらんと|希《こいねが》うことが人を人たらしめるのかもしれぬ。人たらんと欲する意志だけが、弱々しくも人たる寄る辺であるかもしれぬ。
 ならば、「わたしだったもの」は人ではなかった。個の人たらんとする意志を失って、己ならぬ何ものかにならんと欲した。あるいは、そのような意志など無い獣だったのか──いや、きっと獣ですらもなかった。獣は在るがままに在るのみなのだから。ゆえにこそ、無秩序を旨とする「|煙る鏡《テスカトリポカ》」たりえたのかもしれぬ。
 ฅ
 人は、己を規定しうる秩序を求める。名を重く見て、他との境界を重んじ、世界を分類する。
 獣は、自然の秩序の中にあって存在が規定される。それは本能であり、生の理である。
 しかし秩序と無秩序とは表裏一体である。昼は夜であり、生は死であり、創造は破壊である。煙る鏡は何も映さない。すべてのものに、確たるかたちなどないのだから。
 わたしはジャガーとして、夜を駆け、月を追う。その瞬間瞬間にあって、わたしは在るのみである。
 わたしはジャガーならざるものとして、黙考し己を問う。
 わたしは何であるというのだろうか。その答えを得た瞬間に、わたしは「わたし」を失うだろう。
 人と獣、昼と夜、生と死──その「境界」であることが、「鏡」そのものであることが「わたし」だ。
 無秩序のなかにあって、無秩序そのものであって、疑うことがわたしを獣から獣ならざるものに引き戻す。
 疑うことを本質とするものが存在するのなら、きっとわたしはそれであろう。