雨は、団地の外壁をゆっくりと撫でるように降っていた。
〈私〉は傘をたたみ、濡れた靴底の感触を確かめながら、一階の廊下を歩いた。そこに、以前はなかったはずの古書店がある。
営業日は決まっていないらしく、扉が開いているのも週に数日だけだ。ガラス越しに見えるのは、背の低い棚と、ぎっしり並んだ文庫本だけ。
派手な装丁も、値札の主張もない。
けれど、なぜか中に入らなければならない気がして、〈私〉は扉を押した。
埃の匂いはしなかった。
代わりに、誰かがついさっきまでここにいたような、微かな気配がある。
店主の年配の女性は、文庫本を一冊ずつ、柔らかい布で拭いていた。その動きはゆっくりで、急ぐ理由がどこにもない。
「売るため、というより……返すためみたいですね」
思わず口にすると、女性は小さく笑った。
「ええ。持ち主に、ね。もう会えない人も多いけれど」
〈私〉は棚から本を取りだした。
函に収められた薄い上製本。布張りの背は少し色褪せ、題名の箔押しもかすれている。
函をから本を引き抜いたとき、紙とは違う、わずかに硬い感触が指に残った。
挟まっていたのは、小さなオルゴールだった。装飾は剥げ、裏蓋には何度も開け閉めされた傷が残っている。誰かが、ためらいながら、何度も音を確かめた痕跡。
ねじを巻くと、短く、少し音程のずれた旋律が流れた。
懐かしいようでどこか行き場を失った音。
胸の奥が、きゅっと縮む。
言葉が、同じ場所で詰まってしまう感覚に似ている。
「その本ね」と、店主が言った。
「続きを待たれているんです」
〈私〉は顔を上げた。
「書き手の方が、途中で止まってしまって……でも、音だけは残した。言葉の代わりに」
オルゴールの音はすぐに終わる。
けれど、止まったあとも、耳の奥で余韻が揺れていた。
〈私〉は本とオルゴールを買い求めた。
部屋に戻り、机に向かい、白い紙を前にしても、すぐには何も書けなかった。ただ、オルゴールを巻き、音を聴く。それを何度か繰り返した。
音程のずれた旋律は、正確ではない。完成もしていない。
それでも、途中で終わったこと自体が、否定されていない気がした。
夜更け、雨がやんだころ、〈私〉は一行だけ書いた。
うまくも、美しくもない。ただ、音のあとに残る静けさを、そのまま置いたような一文。
翌週、古書店は開いていなかった。
けれど、団地の廊下を歩くとき、あの旋律が、ふいに聞こえることがある。
言葉は、まだ戻らない。
それでも、返されるのを待っているものが、この世界には確かにあるーー
〈私〉はそれを、急がず、拾い上げていけばいいのだ。