旅立ち
ー/ー 旅立ちの朝。空気は、いつもより張り詰めているように見えた。
天蓋樹の葉擦れが、遠い波音のようにざわめいている。
いつもの朝なら仕事へと散っていくはずの村人たちが、今日は誰ひとり動こうとしない。
門の前で肩を寄せ合い、ただ彼女の出立を見送るためだけに、そこに壁を作っていた。
その人の群れから、一人の老婆がゆっくりと前へ出る。
この村――リーベンバウムの村長だ。
「リネット。寂しくなるけれど、元気に過ごすのよぉ」
間延びした声。いつも通り、世界の角を丸くしてくれる優しい響き。
言葉のひとつひとつが「大丈夫」を形にして、彼女の背にそっと貼りついていく。
「はい。村長、私の旅立ちを許してくれて……ありがとうございます」
「ふふふ。私にお礼を言うより、村のみんなへ言うべきねぇ。皆が『あなたの留守は任せろ』って言ってくれたのだから」
「はい……!」
リネットの瞳が、並んでいる顔を順に辿っていく。
今にも泣き出しそうに口を結んでいる人。ぎこちなく笑って片手を上げる人。目尻を乱暴に拭いながら、「行ってこい」と顎で促す人。
(そっか……)
これまで「守り手」として振る舞ってきたけれど――今、守られているのは自分なのだ。
その事実が、遅れて胸に落ちる。
「リネット。風邪引くなよ」
「父さんもね。私の為にいろいろ動いてくれてありがとう」
「……ああ。俺はずっとお前の味方だ。世界を救うなんて予言を受けたが……寂しい時は、いつでも帰ってこい」
「父さん……」
言葉にならない感情が溢れるより早く。
ふわりと、柔らかな温もりに包まれた。
「……っ」
母だ。
ノーマンは、声を震わせながら娘の背中に腕を回していた。
「リネット……無理だけはしないでね。たまに連絡を送るから、返してちょうだい」
「えへへ……わかってるよ、母さん」
ノーマンの腕に、さらに力がこもる。
離れてしまうのが怖い――そう訴えるみたいに。リネットもまた、すがりつくように母の背中に指を食い込ませた。
互いに離さない。
今この瞬間を魂に刻みつけるように、その温度を、匂いを、重みを確かめ合う。
旅の途中で凍えるような夜が来た時、この記憶がきっと――心を温める火になるように。
やがて、ノーマンが名残惜しそうに腕をほどいた。
その隙間へ、今度は小さな影が飛び込んでくる。
「お姉ちゃん……っ!」
アランだ。
前へ出てきた瞳は揺れて、涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。
それでも少年は歯を食いしばり、嗚咽を飲み込んで言葉を形にする。
「僕、お姉ちゃんの代わりに……村を守れるようになるから!! だから!!」
言い淀んだ「だから」の先は、喉の奥で詰まったまま落ちてこない。
けれど、強く握りしめた拳だけが、必死さを代わりに叫んでいた。
「安心してね……っ!」
「うん。もちろん信じてるよ。アランは、私の自慢の弟だもん」
アランの唇がふるりと揺れた。
すぐに頷いてみせるが、目の端は赤いままだ。
「だけど、アランも無理はしちゃダメ。約束は覚えてるね?」
「う、うん! もう魔物の巣を見つけても入らない!」
食い気味の即答。必死さが前のめりになって飛び出してくる。
つい口元が緩みそうになるが――ここで笑えば、張り詰めている糸が切れてしまう。
「……そう。ちゃんと約束、守るんだよ」
言い聞かせるように、あるいは祈るように。
そっとアランを抱き寄せる。小さな身体が胸に当たり、トクトクと速い心拍が直接伝わってきた。
(アラン……元気でね)
言葉はいらない。
今はただ、この小さな背中に「大丈夫」を染み込ませるように、腕に力を込めるだけだ。
その時、人混みが潮の引くように左右へ割れた。
誰かが合図をしたわけでもない。
ただ自然と村人たちの肩がずれ、門へと続く一本の道ができあがる。
その“道”の先から、杖で地面を確かめるような静かな足取りが近づいてきた。
オーウェンだ。
いつもの穏やかな顔をしているが、今日ばかりは目元の皺が少しだけ深いように見える。
(オーウェンさん……)
彼もまた、別れの顔をしている。
「リネット。君は私の愛弟子だ。君には魔法を教えたが……いついかなる時も油断することはないように。魔法とは、勝手に身を守ってくれるものではないからね」
「あはは……。心に留めておくね! 十年以上……色々教えてくれてありがとう、オーウェンさん」
努めて明るく返した、その瞬間。
空気が、刃物みたいに澄み渡った。
天蓋樹の方から、透明な高音が一度だけ走り抜ける。
――キィィィィィィン。
金属でも鳥でもない。
高いのに耳に刺さらず、胸の中心だけを透かして通り過ぎる不思議な響き。
オーウェンが静かに瞼を閉じる。
その表情が、いつもより柔らかく、満足げに緩んだ。
リネットも、村のみんなも、この合図の意味を知っている。
嵐の前触れ、魔物の気配が濃くなる夜、あるいは誰かの病が癒えた朝――天蓋樹は言葉の代わりに鳴き、吉凶を告げるのだ。
今日のその響きは、やけに優しく、柔らかく聞こえた。
「……あらあら。天蓋樹も、あなたの旅を見送ってくれているのかしらねぇ」
「そうだと……嬉しいです」
沈黙が落ちる。
名残惜しさが霧のようにその場へ満ち、誰もが口を開きかけては、また閉ざす。
今、言葉にしてしまえば、堰を切ったように涙が溢れてしまうと分かっている顔だ。
そんな淀んだ空気を――切り裂くように。
リネットは顔を上げ、とびっきりの笑顔を作った。
涙の代わりに、強い光を見せつけるように。
「それじゃあ皆! 行ってくるね!」
踵を返し、いよいよ門の外へと歩き出す。
足元の土は夜露で湿っていて、踏むたびにブーツがぐぐ、と沈み込んだ。
門のすぐ外側。見慣れたはずの景色なのに、今日はどこか色が違って見える。
村の“内”と“外”。
たった一本の境界線を、リネットの足が越えた。
「気を付けてねー!!!」
「風邪引くなよー!」
「元気でいてくれよ!」
「帰りを待ってるわよー!」
背後から、声の塊が一斉に飛んできた。
それは矢みたいに鋭く胸に刺さり、けれど背中を強く押す手みたいに温かい。
「みんなー!! 本当にありがとうー!!! みんなも身体に気を付けてねー!!!」
叫びながら、何度も振り返って手を振る。
歩きながら、後ろ向きに。
腕がだるくなっても、指先が冷たい風に晒されても、やめようとはしなかった。
門が小さくなり、人影が点になっても――その色が見えるうちは、ずっと。
やがて、村の輪郭が木々の向こうに溶けていく。
一人になった街道で、リネットはようやく前を向いた。
「……はは……寂しいなぁ……。でも……」
大きく息を吸い込む。
胸元を両手で押さえ、早鐘を打つ心臓の動きを服の上から確かめた。
(不思議……)
「昨日までの不安が、嘘みたい。今は……こんなにも旅が楽しみになるなんて……!」
弾むような声が、朝露に消えていく。
怖さが消えたわけじゃない。けれど瞳は街道の先――その向こうにある「まだ見ぬ景色」を、まっすぐに捉えていた。
風の匂いが変わる。
村の生活臭や薪の香りが薄れ、湿った土と濃い緑の匂いが肺を満たしていく。
遠くで鳥が鳴き、枝が擦れる音がした。
世界は、村の外でも確かに続いている。
(行こう。私の夢は、ここから始まるんだ……! )
足取りが自然と速くなる。
まだ見ぬ人、街、あるいは国へ。
そこにはきっと、数えきれない出会いと発見があるはずだ。
そして――出会ってしまったら、もう戻れない運命も。
彼女はまだそれを知らないまま、高鳴る胸を抑えて街道を駆け出した。
天蓋樹の葉擦れが、遠い波音のようにざわめいている。
いつもの朝なら仕事へと散っていくはずの村人たちが、今日は誰ひとり動こうとしない。
門の前で肩を寄せ合い、ただ彼女の出立を見送るためだけに、そこに壁を作っていた。
その人の群れから、一人の老婆がゆっくりと前へ出る。
この村――リーベンバウムの村長だ。
「リネット。寂しくなるけれど、元気に過ごすのよぉ」
間延びした声。いつも通り、世界の角を丸くしてくれる優しい響き。
言葉のひとつひとつが「大丈夫」を形にして、彼女の背にそっと貼りついていく。
「はい。村長、私の旅立ちを許してくれて……ありがとうございます」
「ふふふ。私にお礼を言うより、村のみんなへ言うべきねぇ。皆が『あなたの留守は任せろ』って言ってくれたのだから」
「はい……!」
リネットの瞳が、並んでいる顔を順に辿っていく。
今にも泣き出しそうに口を結んでいる人。ぎこちなく笑って片手を上げる人。目尻を乱暴に拭いながら、「行ってこい」と顎で促す人。
(そっか……)
これまで「守り手」として振る舞ってきたけれど――今、守られているのは自分なのだ。
その事実が、遅れて胸に落ちる。
「リネット。風邪引くなよ」
「父さんもね。私の為にいろいろ動いてくれてありがとう」
「……ああ。俺はずっとお前の味方だ。世界を救うなんて予言を受けたが……寂しい時は、いつでも帰ってこい」
「父さん……」
言葉にならない感情が溢れるより早く。
ふわりと、柔らかな温もりに包まれた。
「……っ」
母だ。
ノーマンは、声を震わせながら娘の背中に腕を回していた。
「リネット……無理だけはしないでね。たまに連絡を送るから、返してちょうだい」
「えへへ……わかってるよ、母さん」
ノーマンの腕に、さらに力がこもる。
離れてしまうのが怖い――そう訴えるみたいに。リネットもまた、すがりつくように母の背中に指を食い込ませた。
互いに離さない。
今この瞬間を魂に刻みつけるように、その温度を、匂いを、重みを確かめ合う。
旅の途中で凍えるような夜が来た時、この記憶がきっと――心を温める火になるように。
やがて、ノーマンが名残惜しそうに腕をほどいた。
その隙間へ、今度は小さな影が飛び込んでくる。
「お姉ちゃん……っ!」
アランだ。
前へ出てきた瞳は揺れて、涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。
それでも少年は歯を食いしばり、嗚咽を飲み込んで言葉を形にする。
「僕、お姉ちゃんの代わりに……村を守れるようになるから!! だから!!」
言い淀んだ「だから」の先は、喉の奥で詰まったまま落ちてこない。
けれど、強く握りしめた拳だけが、必死さを代わりに叫んでいた。
「安心してね……っ!」
「うん。もちろん信じてるよ。アランは、私の自慢の弟だもん」
アランの唇がふるりと揺れた。
すぐに頷いてみせるが、目の端は赤いままだ。
「だけど、アランも無理はしちゃダメ。約束は覚えてるね?」
「う、うん! もう魔物の巣を見つけても入らない!」
食い気味の即答。必死さが前のめりになって飛び出してくる。
つい口元が緩みそうになるが――ここで笑えば、張り詰めている糸が切れてしまう。
「……そう。ちゃんと約束、守るんだよ」
言い聞かせるように、あるいは祈るように。
そっとアランを抱き寄せる。小さな身体が胸に当たり、トクトクと速い心拍が直接伝わってきた。
(アラン……元気でね)
言葉はいらない。
今はただ、この小さな背中に「大丈夫」を染み込ませるように、腕に力を込めるだけだ。
その時、人混みが潮の引くように左右へ割れた。
誰かが合図をしたわけでもない。
ただ自然と村人たちの肩がずれ、門へと続く一本の道ができあがる。
その“道”の先から、杖で地面を確かめるような静かな足取りが近づいてきた。
オーウェンだ。
いつもの穏やかな顔をしているが、今日ばかりは目元の皺が少しだけ深いように見える。
(オーウェンさん……)
彼もまた、別れの顔をしている。
「リネット。君は私の愛弟子だ。君には魔法を教えたが……いついかなる時も油断することはないように。魔法とは、勝手に身を守ってくれるものではないからね」
「あはは……。心に留めておくね! 十年以上……色々教えてくれてありがとう、オーウェンさん」
努めて明るく返した、その瞬間。
空気が、刃物みたいに澄み渡った。
天蓋樹の方から、透明な高音が一度だけ走り抜ける。
――キィィィィィィン。
金属でも鳥でもない。
高いのに耳に刺さらず、胸の中心だけを透かして通り過ぎる不思議な響き。
オーウェンが静かに瞼を閉じる。
その表情が、いつもより柔らかく、満足げに緩んだ。
リネットも、村のみんなも、この合図の意味を知っている。
嵐の前触れ、魔物の気配が濃くなる夜、あるいは誰かの病が癒えた朝――天蓋樹は言葉の代わりに鳴き、吉凶を告げるのだ。
今日のその響きは、やけに優しく、柔らかく聞こえた。
「……あらあら。天蓋樹も、あなたの旅を見送ってくれているのかしらねぇ」
「そうだと……嬉しいです」
沈黙が落ちる。
名残惜しさが霧のようにその場へ満ち、誰もが口を開きかけては、また閉ざす。
今、言葉にしてしまえば、堰を切ったように涙が溢れてしまうと分かっている顔だ。
そんな淀んだ空気を――切り裂くように。
リネットは顔を上げ、とびっきりの笑顔を作った。
涙の代わりに、強い光を見せつけるように。
「それじゃあ皆! 行ってくるね!」
踵を返し、いよいよ門の外へと歩き出す。
足元の土は夜露で湿っていて、踏むたびにブーツがぐぐ、と沈み込んだ。
門のすぐ外側。見慣れたはずの景色なのに、今日はどこか色が違って見える。
村の“内”と“外”。
たった一本の境界線を、リネットの足が越えた。
「気を付けてねー!!!」
「風邪引くなよー!」
「元気でいてくれよ!」
「帰りを待ってるわよー!」
背後から、声の塊が一斉に飛んできた。
それは矢みたいに鋭く胸に刺さり、けれど背中を強く押す手みたいに温かい。
「みんなー!! 本当にありがとうー!!! みんなも身体に気を付けてねー!!!」
叫びながら、何度も振り返って手を振る。
歩きながら、後ろ向きに。
腕がだるくなっても、指先が冷たい風に晒されても、やめようとはしなかった。
門が小さくなり、人影が点になっても――その色が見えるうちは、ずっと。
やがて、村の輪郭が木々の向こうに溶けていく。
一人になった街道で、リネットはようやく前を向いた。
「……はは……寂しいなぁ……。でも……」
大きく息を吸い込む。
胸元を両手で押さえ、早鐘を打つ心臓の動きを服の上から確かめた。
(不思議……)
「昨日までの不安が、嘘みたい。今は……こんなにも旅が楽しみになるなんて……!」
弾むような声が、朝露に消えていく。
怖さが消えたわけじゃない。けれど瞳は街道の先――その向こうにある「まだ見ぬ景色」を、まっすぐに捉えていた。
風の匂いが変わる。
村の生活臭や薪の香りが薄れ、湿った土と濃い緑の匂いが肺を満たしていく。
遠くで鳥が鳴き、枝が擦れる音がした。
世界は、村の外でも確かに続いている。
(行こう。私の夢は、ここから始まるんだ……! )
足取りが自然と速くなる。
まだ見ぬ人、街、あるいは国へ。
そこにはきっと、数えきれない出会いと発見があるはずだ。
そして――出会ってしまったら、もう戻れない運命も。
彼女はまだそれを知らないまま、高鳴る胸を抑えて街道を駆け出した。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
旅立ちの朝。空気は、いつもより張り詰めているように見えた。
天蓋樹の葉擦れが、遠い波音のようにざわめいている。
いつもの朝なら仕事へと散っていくはずの村人たちが、今日は誰ひとり動こうとしない。
門の前で肩を寄せ合い、ただ彼女の出立を見送るためだけに、そこに壁を作っていた。
その人の群れから、一人の老婆がゆっくりと前へ出る。
この村――リーベンバウムの村長だ。
「リネット。寂しくなるけれど、元気に過ごすのよぉ」
間延びした声。いつも通り、世界の角を丸くしてくれる優しい響き。
言葉のひとつひとつが「大丈夫」を形にして、彼女の背にそっと貼りついていく。
「はい。村長、私の旅立ちを許してくれて……ありがとうございます」
「ふふふ。私にお礼を言うより、村のみんなへ言うべきねぇ。皆が『あなたの留守は任せろ』って言ってくれたのだから」
「はい……!」
リネットの瞳が、並んでいる顔を順に辿っていく。
今にも泣き出しそうに口を結んでいる人。ぎこちなく笑って片手を上げる人。目尻を乱暴に拭いながら、「行ってこい」と顎で促す人。
(そっか……)
これまで「守り手」として振る舞ってきたけれど――今、守られているのは自分なのだ。
その事実が、遅れて胸に落ちる。
「リネット。風邪引くなよ」
「父さんもね。私の為にいろいろ動いてくれてありがとう」
「……ああ。俺はずっとお前の味方だ。世界を救うなんて予言を受けたが……寂しい時は、いつでも帰ってこい」
「父さん……」
言葉にならない感情が溢れるより早く。
ふわりと、柔らかな温もりに包まれた。
「……っ」
母だ。
ノーマンは、声を震わせながら娘の背中に腕を回していた。
「リネット……無理だけはしないでね。たまに連絡を送るから、返してちょうだい」
「えへへ……わかってるよ、母さん」
ノーマンの腕に、さらに力がこもる。
離れてしまうのが怖い――そう訴えるみたいに。リネットもまた、すがりつくように母の背中に指を食い込ませた。
互いに離さない。
今この瞬間を魂に刻みつけるように、その温度を、匂いを、重みを確かめ合う。
旅の途中で凍えるような夜が来た時、この記憶がきっと――心を温める火になるように。
やがて、ノーマンが名残惜しそうに腕をほどいた。
その隙間へ、今度は小さな影が飛び込んでくる。
「お姉ちゃん……っ!」
アランだ。
前へ出てきた瞳は揺れて、涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。
それでも少年は歯を食いしばり、嗚咽を飲み込んで言葉を形にする。
「僕、お姉ちゃんの代わりに……村を守れるようになるから!! だから!!」
言い淀んだ「だから」の先は、喉の奥で詰まったまま落ちてこない。
けれど、強く握りしめた拳だけが、必死さを代わりに叫んでいた。
「安心してね……っ!」
「うん。もちろん信じてるよ。アランは、私の自慢の弟だもん」
アランの唇がふるりと揺れた。
すぐに頷いてみせるが、目の端は赤いままだ。
「だけど、アランも無理はしちゃダメ。約束は覚えてるね?」
「う、うん! もう魔物の巣を見つけても入らない!」
食い気味の即答。必死さが前のめりになって飛び出してくる。
つい口元が緩みそうになるが――ここで笑えば、張り詰めている糸が切れてしまう。
「……そう。ちゃんと約束、守るんだよ」
言い聞かせるように、あるいは祈るように。
そっとアランを抱き寄せる。小さな身体が胸に当たり、トクトクと速い心拍が直接伝わってきた。
(アラン……元気でね)
言葉はいらない。
今はただ、この小さな背中に「大丈夫」を染み込ませるように、腕に力を込めるだけだ。
その時、人混みが潮の引くように左右へ割れた。
誰かが合図をしたわけでもない。
ただ自然と村人たちの肩がずれ、門へと続く一本の道ができあがる。
その“道”の先から、杖で地面を確かめるような静かな足取りが近づいてきた。
オーウェンだ。
いつもの穏やかな顔をしているが、今日ばかりは目元の皺が少しだけ深いように見える。
(オーウェンさん……)
彼もまた、別れの顔をしている。
「リネット。君は私の愛弟子だ。君には魔法を教えたが……いついかなる時も油断することはないように。魔法とは、勝手に身を守ってくれるものではないからね」
「あはは……。心に留めておくね! 十年以上……色々教えてくれてありがとう、オーウェンさん」
努めて明るく返した、その瞬間。
空気が、刃物みたいに澄み渡った。
天蓋樹の方から、透明な高音が一度だけ走り抜ける。
――キィィィィィィン。
金属でも鳥でもない。
高いのに耳に刺さらず、胸の中心だけを透かして通り過ぎる不思議な響き。
オーウェンが静かに瞼を閉じる。
その表情が、いつもより柔らかく、満足げに緩んだ。
リネットも、村のみんなも、この合図の意味を知っている。
嵐の前触れ、魔物の気配が濃くなる夜、あるいは誰かの病が癒えた朝――天蓋樹は言葉の代わりに鳴き、吉凶を告げるのだ。
今日のその響きは、やけに優しく、柔らかく聞こえた。
「……あらあら。天蓋樹も、あなたの旅を見送ってくれているのかしらねぇ」
「そうだと……嬉しいです」
沈黙が落ちる。
名残惜しさが霧のようにその場へ満ち、誰もが口を開きかけては、また閉ざす。
今、言葉にしてしまえば、堰を切ったように涙が溢れてしまうと分かっている顔だ。
そんな淀んだ空気を――切り裂くように。
リネットは顔を上げ、とびっきりの笑顔を作った。
涙の代わりに、強い光を見せつけるように。
「それじゃあ皆! 行ってくるね!」
踵を返し、いよいよ門の外へと歩き出す。
足元の土は夜露で湿っていて、踏むたびにブーツがぐぐ、と沈み込んだ。
門のすぐ外側。見慣れたはずの景色なのに、今日はどこか色が違って見える。
村の“内”と“外”。
たった一本の境界線を、リネットの足が越えた。
「気を付けてねー!!!」
「風邪引くなよー!」
「元気でいてくれよ!」
「帰りを待ってるわよー!」
背後から、声の塊が一斉に飛んできた。
それは矢みたいに鋭く胸に刺さり、けれど背中を強く押す手みたいに温かい。
「みんなー!! 本当にありがとうー!!! みんなも身体に気を付けてねー!!!」
叫びながら、何度も振り返って手を振る。
歩きながら、後ろ向きに。
腕がだるくなっても、指先が冷たい風に晒されても、やめようとはしなかった。
門が小さくなり、人影が点になっても――その色が見えるうちは、ずっと。
やがて、村の輪郭が木々の向こうに溶けていく。
一人になった街道で、リネットはようやく前を向いた。
「……はは……寂しいなぁ……。でも……」
大きく息を吸い込む。
胸元を両手で押さえ、早鐘を打つ心臓の動きを服の上から確かめた。
(不思議……)
「昨日までの不安が、嘘みたい。今は……こんなにも旅が楽しみになるなんて……!」
弾むような声が、朝露に消えていく。
怖さが消えたわけじゃない。けれど瞳は街道の先――その向こうにある「まだ見ぬ景色」を、まっすぐに捉えていた。
風の匂いが変わる。
村の生活臭や薪の香りが薄れ、湿った土と濃い緑の匂いが肺を満たしていく。
遠くで鳥が鳴き、枝が擦れる音がした。
世界は、村の外でも確かに続いている。
(行こう。私の夢は、ここから始まるんだ……! )
足取りが自然と速くなる。
まだ見ぬ人、街、あるいは国へ。
そこにはきっと、数えきれない出会いと発見があるはずだ。
そして――出会ってしまったら、もう戻れない運命も。
彼女はまだそれを知らないまま、高鳴る胸を抑えて街道を駆け出した。