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冷めた湯の記憶

ー/ー



 風邪は治りかけがいちばん油断ならない、気をつけなければいけない、と亡くなった祖母はいつも言っていた。

熱は下がったが、体の奥にまだ薄い膜のようなだるさが残っている。私は朝の台所で、やかんの湯を少しだけ残した洗面器に注ぎ、手を浸した。


 思ったよりぬるい。けれど引き上げる理由が見つからず、そのまま立ち尽くす。指先から、じわじわと感覚が戻ってくる。その瞬間、胸の奥に、ふいに見知らぬ情景が浮かんだ。


 薄曇りの午後。見覚えのない部屋。窓辺に置かれた同じ洗面器。そこに、今より少し年を重ねた私がいる。誰かの名前を呼びかけようとして、結局呼ばずに黙っている——そんな場面。


 心臓が一拍、遅れて鳴った。

 デジャヴ、と片づけるには生々しすぎる。熱のせいだろうか。私は手を引き上げ、タオルで拭いた。

水滴が床に落ち、乾く前に消えていく。その様子を見て、なぜか「これは来ていない記憶だ」と思った。



 記憶は過去のものだ。そう教わってきた。けれど、病み上がりの体は論理より先に、別の納得を差し出してくる。未来が、ほんの一瞬だけ、過去のふりをして触れてきた——そんな感じ。


 その日から、私はときどき“冷めた状態”のものに引き寄せられる。飲みかけの白湯、止まりかけの時計、夕方と夜の境目。完全に終わらず、完全に始まってもいない場所。


 数日後、洗面器にまた湯を張った。今度は最初からぬるい。手を入れると、何も起こらなかった。少し残念で、少し安心する。

 未来は、いつも教えてくれるわけじゃない。ただ、体が弱った隙に、静かに予告することがあるらしい。

私はその事実を、まだ誰にも話していない。話すほどのことでもない気がしている。


 けれど今日も、湯の温度だけは、確かめてから手を入れる。






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 風邪は治りかけがいちばん油断ならない、気をつけなければいけない、と亡くなった祖母はいつも言っていた。
熱は下がったが、体の奥にまだ薄い膜のようなだるさが残っている。私は朝の台所で、やかんの湯を少しだけ残した洗面器に注ぎ、手を浸した。
 思ったよりぬるい。けれど引き上げる理由が見つからず、そのまま立ち尽くす。指先から、じわじわと感覚が戻ってくる。その瞬間、胸の奥に、ふいに見知らぬ情景が浮かんだ。
 薄曇りの午後。見覚えのない部屋。窓辺に置かれた同じ洗面器。そこに、今より少し年を重ねた私がいる。誰かの名前を呼びかけようとして、結局呼ばずに黙っている——そんな場面。
 心臓が一拍、遅れて鳴った。
 デジャヴ、と片づけるには生々しすぎる。熱のせいだろうか。私は手を引き上げ、タオルで拭いた。
水滴が床に落ち、乾く前に消えていく。その様子を見て、なぜか「これは来ていない記憶だ」と思った。
 記憶は過去のものだ。そう教わってきた。けれど、病み上がりの体は論理より先に、別の納得を差し出してくる。未来が、ほんの一瞬だけ、過去のふりをして触れてきた——そんな感じ。
 その日から、私はときどき“冷めた状態”のものに引き寄せられる。飲みかけの白湯、止まりかけの時計、夕方と夜の境目。完全に終わらず、完全に始まってもいない場所。
 数日後、洗面器にまた湯を張った。今度は最初からぬるい。手を入れると、何も起こらなかった。少し残念で、少し安心する。
 未来は、いつも教えてくれるわけじゃない。ただ、体が弱った隙に、静かに予告することがあるらしい。
私はその事実を、まだ誰にも話していない。話すほどのことでもない気がしている。
 けれど今日も、湯の温度だけは、確かめてから手を入れる。