守りたいもの
ー/ー 太陽が稜線の彼方へ溶け、世界が藍色に沈んでいく。
村の端にある二階建ての家――ヴェルナー邸のリビングには、ささやかながらも温かいパーティの余韻が漂っていた。
「リネットが、いよいよ旅かぁ……」
食後の茶を啜り、母のノーマンがしみじみと湯気の向こうで目を細める。
「ね。私もまだ信じられないよ……」
「でも良かったじゃない。皆、あなたの誕生日に向けて、一生懸命村長に働きかけてたんだから。特に――父さんがね」
「お、おい母さん……!」
「うん! 父さん、狩人の仲間たちに言ってたよ! 『頼む、交渉に付き合ってくれ』って!」
「ふふふ」
アランの無邪気な暴露に、ノーマンが忍び笑いを漏らす。
リネットはハッとして父を見た。
(父さんが、頭を下げて……私のために……)
「母さん、父さん……本当にありがとう」
「……お、おう」
真っ直ぐな感謝を向けられ、ヴェルナーは気恥ずかしそうに視線を逸らした。
ガシガシと頭を掻くその仕草が、不器用な愛情を雄弁に物語っている。
温かい。
幸せだ。
(…………)
だからこそ、切ない。
この光景が愛おしければ愛おしいほど、胸の奥に冷たい隙間風が吹く。この温もりを置いて、自分は行くのだ。
リネットは手の中のカップを見つめ、意を決したように立ち上がった。
「母さん、父さん。少し風に当たりたくなってきたから……散歩に行ってくるね」
「……そうか。今夜はよく冷える。なるべく早く帰ってくるんだぞ」
ヴェルナーは引き止めない。
娘の笑顔の裏にある迷いを察したのだろう。その声は短く、けれど手のひらみたいに優しかった。
「せっかく旅に出るんだから、風邪引かないようにするのよ」
「お姉ちゃん、気を付けてね!」
「うん。行ってきます」
家族の声に背中を押され、リネットは夜の帳へと足を踏み出した。
~*~*~*~
向かった先は、村を守る神木――『天蓋樹』だ。
巨大な根が大地を鷲掴みにするその場所へ、リネットは吸い寄せられるように歩み寄った。
そっと、粗い樹皮に掌を当てる。
――トクン。
冷え切った夜気の中で、そこだけが不思議と温かい。
いや、それだけじゃない。木の芯の奥から、もっと熱い命が脈打っている気がした。ドクン、ドクンと、遠い心臓の音が掌を通じて共鳴する。
(温かい……)
幼い頃から慣れ親しんだ感触に、深く息を吐き出す。
張り詰めていた肩の力が、ゆっくりと抜けていった。
「天蓋樹……どうか、私がいない間も、この村を守ってね……」
祈りを捧げた、その時だった。
――キィィィィィィィン……。
高く、澄んだ音が天蓋樹から響き渡る。
耳障りなノイズではない。
水晶を指でなぞったような、あるいは星の瞬きを音にしたような――美しく、神聖な響き。
定期的に神木が鳴らすその音色は、リーベンバウムの村人たちを包む「守り」の証だ。
だからこそリネットは、今も疑わない。これは門出への祝福なのだと。
「ふふ……返事をしてくれたのかな?」
言葉は返らない。
けれど、夜風にざわめく枝葉には、確かに見守るような“意志”が宿っている気がした。
「やぁ。散歩かな? リネット」
夜気に溶け込むような穏やかな声が、思考を現実へ引き戻した。
振り返ると、月の光を背負って、師匠であるオーウェンがいつもの涼しい顔で佇んでいた。
「あれ……? オーウェンさん」
努めて明るく振る舞おうと、口角に力を込める。
けれど月明かりの下、その表情はどうしても沈んでしまうようだった。
「ふむ。随分と浮かない顔をしているのだね」
「えっ……」
指摘され、リネットははっとして自身の頬に触れた。
指先が濡れている。
(……あれ? )
「なんで……」
拭っても拭っても、視界が滲んでいく。
まぶたの裏が焼けるように熱くて、うまく息が入ってこない。泣いていることに、彼女は今の今まで気づいていなかったのだ。
「それはきっと、寂しさだよ。リネット」
「………っ」
寂しさ。
その言葉が、胸の奥の柔らかい場所をきゅっと締め付けた。
(そっか……私、寂しいんだ……)
「無理はない。長年過ごした故郷を離れ、君は旅に出る。それは一種の別れだ」
オーウェンは静かに歩み寄り、隣に並ぶ。
二人で天蓋樹を見上げると、枝葉の隙間から覗く夜空が、やけに広く、遠く感じられた。
「旅とはね。出る者も、見送る者も……どちらも深く寂しい思いをするものさ」
「うん……」
静かな夜の時間が流れる。
リネットは小さく鼻をすすり、隣の師を見上げた。
オーウェンは一歩前へ出ると、天蓋樹の幹にそっと掌を当てる。
――キィィィィィィィン……。
まるで旧友に応えるように、美しく、哀しいほど澄んだ音が夜空へ伸びていった。
オーウェンは目を閉じ、その音色に愛おしそうに耳を傾ける。
「ふむ。今日は天蓋樹もよく声を聞かせてくれる。きっとこの木もまた、君の旅立ちを応援しているのだろう」
「……ほんと?」
「もちろんだとも」
オーウェンが片目をつぶり、悪戯っぽく微笑んでみせた。
音色が消えたあとの静寂が、逆に鼓動を大きく響かせる。
リネットは一度深く息を吐いて呼吸を整えると、意を決して口を開いた。
「……実は、村のこともなんだけど、それより引っかかってることがあって……」
ずっと胸につかえていた棘。
それは、「世界を救う」という大義名分とは程遠い、ある種の“わがまま”に近い本音だった。
「私が世界を救うって……言ってたよね。でも……自分の目で世界を見たい、知らないことや知らない人に出会いたいっていう……ただの好奇心が、旅の理由なんだ」
言いながら、スカートの裾をぎゅっと握りしめる。
指先に力が入り、歪んだ布地が悲鳴を上げているようだった。
「うむ、知っているとも」
「……世界を救うなんて。そんな重いもの、背負えない。私が守りたいのはこの村なんだ」
それを聞いたオーウェンは、ほう、と白い息を夜気に溶かした。
見上げた瞳には、無数の星が映り込んでいる。
「そうだね。たった一人の村娘が世界を救う。なんて馬鹿らしくも壮大で、夢のある話だろうか」
「……」
「だがリネット。君が世界を救う。これは事実だ」
「で、でも……」
「同時に、君がそれを負担に思う理由も正当だ。故に、私は君の意志を尊重する」
予想外の言葉に、リネットは勢いよく顔を上げた。
目の縁に残った涙が、月明かりを拾ってキラリと光る。
「えっ……?」
(怒られないの……? )
説教が来ると思っていた。
背中を叩かれ、「甘えるな」と無理やり走らされると覚悟していたのに。
「私が……旅に出ても、世界を救わなくてもいいの??」
「うむ。愛弟子が世界を救うとなれば、師匠として鼻が高いのも事実だが……」
オーウェンは肩をすくめ、さらりと告げた。
「君が世界を救わず、その役目を拒否した場合。それは終わりではない」
「……」
「またその先に、世界を救う者が生まれるだけのことだ」
「つまり……? 私じゃなくても……」
「そう。君じゃなくとも、世界は他に『代理』を用意する」
淡々とした声が、夜風に乗って響く。
「起きなかった未来は修正され、辿るべき歴史へと整えられる。世界の仕組みとは、そういうものだよ」
「……っ」
残酷なくらい、冷徹で優しい説明だった。
自分は特別じゃない。唯一無二の英雄なんかじゃない。
けれど同時に――“唯一じゃなくていい”と、許された気がした。
「……はは。あはははっ!」
数瞬の呆気のあと、リネットは堪えきれずに吹き出した。
肩が揺れ、喉の奥から笑いが込み上げてくる。それは絶望ではない。胸に絡みついていた糸が、ぷつりと切れたような軽やかな音色だった。
「なんだぁ……。私てっきり、自分じゃないとダメ!! って、勝手に付け上がってただけじゃん」
乱暴に目尻を拭い、吹っ切れた笑顔を向ける。
「そっか……。私じゃなくても大丈夫、っていうのは少し寂しい気もするけど……あの重圧を抱えるよりは、遥かにマシかも」
「ありがと、オーウェンさん! つまり、私が旅に出て世界を救えなくても、世界は勝手に代わりを用意するって事だよね?」
「ああ。その解釈で間違いないよ」
「よかったぁ……」
リネットは両手を夜空へ突き上げ、ぐーっと背中を反らせた。
背骨が伸びると同時に、全身にまとわりついていた見えない鉛の鎖が、ぱらぱらと砕け散っていく気がする。
「……君の重荷は取れたかな?」
「うん! おかげさまで!」
元気よく答える弟子を見て、オーウェンは目を細めた。
「君は、君の心に従うといい。見たいものを見る。こうしたい、あれをしたい……旅に出れば様々なことを思うだろう」
「だが、その『したい』こそが、君にとっての真実だ」
「うん! これなら心置きなく、旅に出れそう」
「それは良かった。さて……今夜はよく冷える。そろそろ戻るとしようか」
促されると、リネットは弾むように一歩踏み出し、躊躇なくオーウェンの手を取った。
「うん! あっ、そうだ! まだパーティの食べ物が残っててね……! オーウェンさんも食べてってよ!」
「おや、それは役得だ」
子どもみたいに手を引いて歩き出す。
その声は明るく、地面を蹴る足取りは何よりも軽い。
二人の背を見送るように、天蓋樹の枝葉が夜風にざわりと揺れた。
――キィン。
今度は小さく、確かめるような音が、遠い空へと溶けていった。
村の端にある二階建ての家――ヴェルナー邸のリビングには、ささやかながらも温かいパーティの余韻が漂っていた。
「リネットが、いよいよ旅かぁ……」
食後の茶を啜り、母のノーマンがしみじみと湯気の向こうで目を細める。
「ね。私もまだ信じられないよ……」
「でも良かったじゃない。皆、あなたの誕生日に向けて、一生懸命村長に働きかけてたんだから。特に――父さんがね」
「お、おい母さん……!」
「うん! 父さん、狩人の仲間たちに言ってたよ! 『頼む、交渉に付き合ってくれ』って!」
「ふふふ」
アランの無邪気な暴露に、ノーマンが忍び笑いを漏らす。
リネットはハッとして父を見た。
(父さんが、頭を下げて……私のために……)
「母さん、父さん……本当にありがとう」
「……お、おう」
真っ直ぐな感謝を向けられ、ヴェルナーは気恥ずかしそうに視線を逸らした。
ガシガシと頭を掻くその仕草が、不器用な愛情を雄弁に物語っている。
温かい。
幸せだ。
(…………)
だからこそ、切ない。
この光景が愛おしければ愛おしいほど、胸の奥に冷たい隙間風が吹く。この温もりを置いて、自分は行くのだ。
リネットは手の中のカップを見つめ、意を決したように立ち上がった。
「母さん、父さん。少し風に当たりたくなってきたから……散歩に行ってくるね」
「……そうか。今夜はよく冷える。なるべく早く帰ってくるんだぞ」
ヴェルナーは引き止めない。
娘の笑顔の裏にある迷いを察したのだろう。その声は短く、けれど手のひらみたいに優しかった。
「せっかく旅に出るんだから、風邪引かないようにするのよ」
「お姉ちゃん、気を付けてね!」
「うん。行ってきます」
家族の声に背中を押され、リネットは夜の帳へと足を踏み出した。
~*~*~*~
向かった先は、村を守る神木――『天蓋樹』だ。
巨大な根が大地を鷲掴みにするその場所へ、リネットは吸い寄せられるように歩み寄った。
そっと、粗い樹皮に掌を当てる。
――トクン。
冷え切った夜気の中で、そこだけが不思議と温かい。
いや、それだけじゃない。木の芯の奥から、もっと熱い命が脈打っている気がした。ドクン、ドクンと、遠い心臓の音が掌を通じて共鳴する。
(温かい……)
幼い頃から慣れ親しんだ感触に、深く息を吐き出す。
張り詰めていた肩の力が、ゆっくりと抜けていった。
「天蓋樹……どうか、私がいない間も、この村を守ってね……」
祈りを捧げた、その時だった。
――キィィィィィィィン……。
高く、澄んだ音が天蓋樹から響き渡る。
耳障りなノイズではない。
水晶を指でなぞったような、あるいは星の瞬きを音にしたような――美しく、神聖な響き。
定期的に神木が鳴らすその音色は、リーベンバウムの村人たちを包む「守り」の証だ。
だからこそリネットは、今も疑わない。これは門出への祝福なのだと。
「ふふ……返事をしてくれたのかな?」
言葉は返らない。
けれど、夜風にざわめく枝葉には、確かに見守るような“意志”が宿っている気がした。
「やぁ。散歩かな? リネット」
夜気に溶け込むような穏やかな声が、思考を現実へ引き戻した。
振り返ると、月の光を背負って、師匠であるオーウェンがいつもの涼しい顔で佇んでいた。
「あれ……? オーウェンさん」
努めて明るく振る舞おうと、口角に力を込める。
けれど月明かりの下、その表情はどうしても沈んでしまうようだった。
「ふむ。随分と浮かない顔をしているのだね」
「えっ……」
指摘され、リネットははっとして自身の頬に触れた。
指先が濡れている。
(……あれ? )
「なんで……」
拭っても拭っても、視界が滲んでいく。
まぶたの裏が焼けるように熱くて、うまく息が入ってこない。泣いていることに、彼女は今の今まで気づいていなかったのだ。
「それはきっと、寂しさだよ。リネット」
「………っ」
寂しさ。
その言葉が、胸の奥の柔らかい場所をきゅっと締め付けた。
(そっか……私、寂しいんだ……)
「無理はない。長年過ごした故郷を離れ、君は旅に出る。それは一種の別れだ」
オーウェンは静かに歩み寄り、隣に並ぶ。
二人で天蓋樹を見上げると、枝葉の隙間から覗く夜空が、やけに広く、遠く感じられた。
「旅とはね。出る者も、見送る者も……どちらも深く寂しい思いをするものさ」
「うん……」
静かな夜の時間が流れる。
リネットは小さく鼻をすすり、隣の師を見上げた。
オーウェンは一歩前へ出ると、天蓋樹の幹にそっと掌を当てる。
――キィィィィィィィン……。
まるで旧友に応えるように、美しく、哀しいほど澄んだ音が夜空へ伸びていった。
オーウェンは目を閉じ、その音色に愛おしそうに耳を傾ける。
「ふむ。今日は天蓋樹もよく声を聞かせてくれる。きっとこの木もまた、君の旅立ちを応援しているのだろう」
「……ほんと?」
「もちろんだとも」
オーウェンが片目をつぶり、悪戯っぽく微笑んでみせた。
音色が消えたあとの静寂が、逆に鼓動を大きく響かせる。
リネットは一度深く息を吐いて呼吸を整えると、意を決して口を開いた。
「……実は、村のこともなんだけど、それより引っかかってることがあって……」
ずっと胸につかえていた棘。
それは、「世界を救う」という大義名分とは程遠い、ある種の“わがまま”に近い本音だった。
「私が世界を救うって……言ってたよね。でも……自分の目で世界を見たい、知らないことや知らない人に出会いたいっていう……ただの好奇心が、旅の理由なんだ」
言いながら、スカートの裾をぎゅっと握りしめる。
指先に力が入り、歪んだ布地が悲鳴を上げているようだった。
「うむ、知っているとも」
「……世界を救うなんて。そんな重いもの、背負えない。私が守りたいのはこの村なんだ」
それを聞いたオーウェンは、ほう、と白い息を夜気に溶かした。
見上げた瞳には、無数の星が映り込んでいる。
「そうだね。たった一人の村娘が世界を救う。なんて馬鹿らしくも壮大で、夢のある話だろうか」
「……」
「だがリネット。君が世界を救う。これは事実だ」
「で、でも……」
「同時に、君がそれを負担に思う理由も正当だ。故に、私は君の意志を尊重する」
予想外の言葉に、リネットは勢いよく顔を上げた。
目の縁に残った涙が、月明かりを拾ってキラリと光る。
「えっ……?」
(怒られないの……? )
説教が来ると思っていた。
背中を叩かれ、「甘えるな」と無理やり走らされると覚悟していたのに。
「私が……旅に出ても、世界を救わなくてもいいの??」
「うむ。愛弟子が世界を救うとなれば、師匠として鼻が高いのも事実だが……」
オーウェンは肩をすくめ、さらりと告げた。
「君が世界を救わず、その役目を拒否した場合。それは終わりではない」
「……」
「またその先に、世界を救う者が生まれるだけのことだ」
「つまり……? 私じゃなくても……」
「そう。君じゃなくとも、世界は他に『代理』を用意する」
淡々とした声が、夜風に乗って響く。
「起きなかった未来は修正され、辿るべき歴史へと整えられる。世界の仕組みとは、そういうものだよ」
「……っ」
残酷なくらい、冷徹で優しい説明だった。
自分は特別じゃない。唯一無二の英雄なんかじゃない。
けれど同時に――“唯一じゃなくていい”と、許された気がした。
「……はは。あはははっ!」
数瞬の呆気のあと、リネットは堪えきれずに吹き出した。
肩が揺れ、喉の奥から笑いが込み上げてくる。それは絶望ではない。胸に絡みついていた糸が、ぷつりと切れたような軽やかな音色だった。
「なんだぁ……。私てっきり、自分じゃないとダメ!! って、勝手に付け上がってただけじゃん」
乱暴に目尻を拭い、吹っ切れた笑顔を向ける。
「そっか……。私じゃなくても大丈夫、っていうのは少し寂しい気もするけど……あの重圧を抱えるよりは、遥かにマシかも」
「ありがと、オーウェンさん! つまり、私が旅に出て世界を救えなくても、世界は勝手に代わりを用意するって事だよね?」
「ああ。その解釈で間違いないよ」
「よかったぁ……」
リネットは両手を夜空へ突き上げ、ぐーっと背中を反らせた。
背骨が伸びると同時に、全身にまとわりついていた見えない鉛の鎖が、ぱらぱらと砕け散っていく気がする。
「……君の重荷は取れたかな?」
「うん! おかげさまで!」
元気よく答える弟子を見て、オーウェンは目を細めた。
「君は、君の心に従うといい。見たいものを見る。こうしたい、あれをしたい……旅に出れば様々なことを思うだろう」
「だが、その『したい』こそが、君にとっての真実だ」
「うん! これなら心置きなく、旅に出れそう」
「それは良かった。さて……今夜はよく冷える。そろそろ戻るとしようか」
促されると、リネットは弾むように一歩踏み出し、躊躇なくオーウェンの手を取った。
「うん! あっ、そうだ! まだパーティの食べ物が残っててね……! オーウェンさんも食べてってよ!」
「おや、それは役得だ」
子どもみたいに手を引いて歩き出す。
その声は明るく、地面を蹴る足取りは何よりも軽い。
二人の背を見送るように、天蓋樹の枝葉が夜風にざわりと揺れた。
――キィン。
今度は小さく、確かめるような音が、遠い空へと溶けていった。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
太陽が稜線の彼方へ溶け、世界が藍色に沈んでいく。
村の端にある二階建ての家――ヴェルナー邸のリビングには、ささやかながらも温かいパーティの余韻が漂っていた。
「リネットが、いよいよ旅かぁ……」
食後の茶を啜り、母のノーマンがしみじみと湯気の向こうで目を細める。
「ね。私もまだ信じられないよ……」
「でも良かったじゃない。皆、あなたの誕生日に向けて、一生懸命村長に働きかけてたんだから。特に――父さんがね」
「お、おい母さん……!」
「うん! 父さん、狩人の仲間たちに言ってたよ! 『頼む、交渉に付き合ってくれ』って!」
「ふふふ」
アランの無邪気な暴露に、ノーマンが忍び笑いを漏らす。
リネットはハッとして父を見た。
(父さんが、頭を下げて……私のために……)
「母さん、父さん……本当にありがとう」
「……お、おう」
真っ直ぐな感謝を向けられ、ヴェルナーは気恥ずかしそうに視線を逸らした。
ガシガシと頭を掻くその仕草が、不器用な愛情を雄弁に物語っている。
温かい。
幸せだ。
(…………)
だからこそ、切ない。
この光景が愛おしければ愛おしいほど、胸の奥に冷たい隙間風が吹く。この温もりを置いて、自分は行くのだ。
リネットは手の中のカップを見つめ、意を決したように立ち上がった。
「母さん、父さん。少し風に当たりたくなってきたから……散歩に行ってくるね」
「……そうか。今夜はよく冷える。なるべく早く帰ってくるんだぞ」
ヴェルナーは引き止めない。
娘の笑顔の裏にある迷いを察したのだろう。その声は短く、けれど手のひらみたいに優しかった。
「せっかく旅に出るんだから、風邪引かないようにするのよ」
「お姉ちゃん、気を付けてね!」
「うん。行ってきます」
家族の声に背中を押され、リネットは夜の帳へと足を踏み出した。
~*~*~*~
向かった先は、村を守る神木――『天蓋樹』だ。
巨大な根が大地を鷲掴みにするその場所へ、リネットは吸い寄せられるように歩み寄った。
そっと、粗い樹皮に掌を当てる。
――トクン。
冷え切った夜気の中で、そこだけが不思議と温かい。
いや、それだけじゃない。木の芯の奥から、もっと熱い命が脈打っている気がした。ドクン、ドクンと、遠い心臓の音が掌を通じて共鳴する。
(温かい……)
幼い頃から慣れ親しんだ感触に、深く息を吐き出す。
張り詰めていた肩の力が、ゆっくりと抜けていった。
「天蓋樹……どうか、私がいない間も、この村を守ってね……」
祈りを捧げた、その時だった。
――キィィィィィィィン……。
高く、澄んだ音が天蓋樹から響き渡る。
耳障りなノイズではない。
水晶を指でなぞったような、あるいは星の瞬きを音にしたような――美しく、神聖な響き。
定期的に神木が鳴らすその音色は、リーベンバウムの村人たちを包む「守り」の証だ。
だからこそリネットは、今も疑わない。これは門出への祝福なのだと。
「ふふ……返事をしてくれたのかな?」
言葉は返らない。
けれど、夜風にざわめく枝葉には、確かに見守るような“意志”が宿っている気がした。
「やぁ。散歩かな? リネット」
夜気に溶け込むような穏やかな声が、思考を現実へ引き戻した。
振り返ると、月の光を背負って、師匠であるオーウェンがいつもの涼しい顔で佇んでいた。
「あれ……? オーウェンさん」
努めて明るく振る舞おうと、口角に力を込める。
けれど月明かりの下、その表情はどうしても沈んでしまうようだった。
「ふむ。随分と浮かない顔をしているのだね」
「えっ……」
指摘され、リネットははっとして自身の頬に触れた。
指先が濡れている。
(……あれ? )
「なんで……」
拭っても拭っても、視界が滲んでいく。
まぶたの裏が焼けるように熱くて、うまく息が入ってこない。泣いていることに、彼女は今の今まで気づいていなかったのだ。
「それはきっと、寂しさだよ。リネット」
「………っ」
寂しさ。
その言葉が、胸の奥の柔らかい場所をきゅっと締め付けた。
(そっか……私、寂しいんだ……)
「無理はない。長年過ごした故郷を離れ、君は旅に出る。それは一種の別れだ」
オーウェンは静かに歩み寄り、隣に並ぶ。
二人で天蓋樹を見上げると、枝葉の隙間から覗く夜空が、やけに広く、遠く感じられた。
「旅とはね。出る者も、見送る者も……どちらも深く寂しい思いをするものさ」
「うん……」
静かな夜の時間が流れる。
リネットは小さく鼻をすすり、隣の師を見上げた。
オーウェンは一歩前へ出ると、天蓋樹の幹にそっと掌を当てる。
――キィィィィィィィン……。
まるで旧友に応えるように、美しく、哀しいほど澄んだ音が夜空へ伸びていった。
オーウェンは目を閉じ、その音色に愛おしそうに耳を傾ける。
「ふむ。今日は天蓋樹もよく声を聞かせてくれる。きっとこの木もまた、君の旅立ちを応援しているのだろう」
「……ほんと?」
「もちろんだとも」
オーウェンが片目をつぶり、悪戯っぽく微笑んでみせた。
音色が消えたあとの静寂が、逆に鼓動を大きく響かせる。
リネットは一度深く息を吐いて呼吸を整えると、意を決して口を開いた。
「……実は、村のこともなんだけど、それより引っかかってることがあって……」
ずっと胸につかえていた棘。
それは、「世界を救う」という大義名分とは程遠い、ある種の“わがまま”に近い本音だった。
「私が世界を救うって……言ってたよね。でも……自分の目で世界を見たい、知らないことや知らない人に出会いたいっていう……ただの好奇心が、旅の理由なんだ」
言いながら、スカートの裾をぎゅっと握りしめる。
指先に力が入り、歪んだ布地が悲鳴を上げているようだった。
「うむ、知っているとも」
「……世界を救うなんて。そんな重いもの、背負えない。私が守りたいのはこの村なんだ」
それを聞いたオーウェンは、ほう、と白い息を夜気に溶かした。
見上げた瞳には、無数の星が映り込んでいる。
「そうだね。たった一人の村娘が世界を救う。なんて馬鹿らしくも壮大で、夢のある話だろうか」
「……」
「だがリネット。君が世界を救う。これは事実だ」
「で、でも……」
「同時に、君がそれを負担に思う理由も正当だ。故に、私は君の意志を尊重する」
予想外の言葉に、リネットは勢いよく顔を上げた。
目の縁に残った涙が、月明かりを拾ってキラリと光る。
「えっ……?」
(怒られないの……? )
説教が来ると思っていた。
背中を叩かれ、「甘えるな」と無理やり走らされると覚悟していたのに。
「私が……旅に出ても、世界を救わなくてもいいの??」
「うむ。愛弟子が世界を救うとなれば、師匠として鼻が高いのも事実だが……」
オーウェンは肩をすくめ、さらりと告げた。
「君が世界を救わず、その役目を拒否した場合。それは終わりではない」
「……」
「またその先に、世界を救う者が生まれるだけのことだ」
「つまり……? 私じゃなくても……」
「そう。君じゃなくとも、世界は他に『代理』を用意する」
淡々とした声が、夜風に乗って響く。
「起きなかった未来は修正され、辿るべき歴史へと整えられる。世界の仕組みとは、そういうものだよ」
「……っ」
残酷なくらい、冷徹で優しい説明だった。
自分は特別じゃない。唯一無二の英雄なんかじゃない。
けれど同時に――“唯一じゃなくていい”と、許された気がした。
「……はは。あはははっ!」
数瞬の呆気のあと、リネットは堪えきれずに吹き出した。
肩が揺れ、喉の奥から笑いが込み上げてくる。それは絶望ではない。胸に絡みついていた糸が、ぷつりと切れたような軽やかな音色だった。
「なんだぁ……。私てっきり、自分じゃないとダメ!! って、勝手に付け上がってただけじゃん」
乱暴に目尻を拭い、吹っ切れた笑顔を向ける。
「そっか……。私じゃなくても大丈夫、っていうのは少し寂しい気もするけど……あの重圧を抱えるよりは、遥かにマシかも」
「ありがと、オーウェンさん! つまり、私が旅に出て世界を救えなくても、世界は勝手に代わりを用意するって事だよね?」
「ああ。その解釈で間違いないよ」
「よかったぁ……」
リネットは両手を夜空へ突き上げ、ぐーっと背中を反らせた。
背骨が伸びると同時に、全身にまとわりついていた見えない鉛の鎖が、ぱらぱらと砕け散っていく気がする。
「……君の重荷は取れたかな?」
「うん! おかげさまで!」
元気よく答える弟子を見て、オーウェンは目を細めた。
「君は、君の心に従うといい。見たいものを見る。こうしたい、あれをしたい……旅に出れば様々なことを思うだろう」
「だが、その『したい』こそが、君にとっての真実だ」
「うん! これなら心置きなく、旅に出れそう」
「それは良かった。さて……今夜はよく冷える。そろそろ戻るとしようか」
促されると、リネットは弾むように一歩踏み出し、躊躇なくオーウェンの手を取った。
「うん! あっ、そうだ! まだパーティの食べ物が残っててね……! オーウェンさんも食べてってよ!」
「おや、それは役得だ」
子どもみたいに手を引いて歩き出す。
その声は明るく、地面を蹴る足取りは何よりも軽い。
二人の背を見送るように、天蓋樹の枝葉が夜風にざわりと揺れた。
――キィン。
今度は小さく、確かめるような音が、遠い空へと溶けていった。