ー沈黙のネクタイ、残響の結び目ー 後編
ー/ー 翌日、老紳士が店に現れた。
汚れの落ちたネクタイを前に、紳士は呆然と立ち尽くしている。「声」の消えたネクタイは、あまりにも軽すぎた。
「……失礼します」
櫂はたまらず、カウンター越しに手を伸ばした。
紳士の首元で、ネクタイを結んでいく。メモ帳に書き留めた「彼女の癖」をなぞるように。わざと少し右に寄せ、結び目をわずかに緩く、彼女がいつもそうしていた通りに。
紳士の瞳が大きく見開かれた。
鏡を見るまでもない。首元に触れるその独特の感触、わずかな圧迫感。
「ああ……これだ。この結び方だ……」
紳士は声を漏らし、子供のように泣き崩れた。消し去られた記憶ーー 霧のなかに消滅したはずの過去の思い出は、櫂の作った「結び目」によって呼び戻されたのだ。
客が去った後、店内には重い沈黙が流れた。
霧斗は櫂のメモ帳をじっと見つめ、吐き捨てるように言った。
「書くことは、呪いだぞ。お前はいつか、自分が書いた言葉の重さで動けなくなる」
櫂は答えなかった。ただ、新しい一ページに一行を書き加える。
『結び目は、ほどくためにあるのではない。繋ぎ止めるためにあるのだ』
シュ、と遠くでアイロンの蒸気が上がる音がした。
その音の中に、また新しい誰かの囁きが混じった気がして、櫂は再びペンを握りしめた。
「霧斗さん、さっきのお客さんのネクタイ……」
櫂が声をかけると、霧斗はアイロンを置かずに、ただその鋭い視線だけを向けた。霧の向こうから刺す光のような、あるいは深い夜の底のような瞳だ。
「櫂、お前はまた、見なくていいものを見たのか……」霧斗という名の通り、彼はこの店に満ちる忘却の霧を、誰よりも熟知していた。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
翌日、老紳士が店に現れた。
汚れの落ちたネクタイを前に、紳士は呆然と立ち尽くしている。「声」の消えたネクタイは、あまりにも軽すぎた。
「……失礼します」
櫂はたまらず、カウンター越しに手を伸ばした。
紳士の首元で、ネクタイを結んでいく。メモ帳に書き留めた「彼女の癖」をなぞるように。わざと少し右に寄せ、結び目をわずかに緩く、彼女がいつもそうしていた通りに。
紳士の瞳が大きく見開かれた。
鏡を見るまでもない。首元に触れるその独特の感触、わずかな圧迫感。
「ああ……これだ。この結び方だ……」
紳士は声を漏らし、子供のように泣き崩れた。消し去られた記憶ーー 霧のなかに消滅したはずの過去の思い出は、櫂の作った「結び目」によって呼び戻されたのだ。
客が去った後、店内には重い沈黙が流れた。
霧斗は櫂のメモ帳をじっと見つめ、吐き捨てるように言った。
「書くことは、呪いだぞ。お前はいつか、自分が書いた言葉の重さで動けなくなる」
櫂は答えなかった。ただ、新しい一ページに一行を書き加える。
『結び目は、ほどくためにあるのではない。繋ぎ止めるためにあるのだ』
シュ、と遠くでアイロンの蒸気が上がる音がした。
その音の中に、また新しい誰かの囁きが混じった気がして、櫂は再びペンを握りしめた。
「霧斗さん、さっきのお客さんのネクタイ……」
櫂が声をかけると、霧斗はアイロンを置かずに、ただその鋭い視線だけを向けた。霧の向こうから刺す光のような、あるいは深い夜の底のような瞳だ。
「櫂、お前はまた、見なくていいものを見たのか……」霧斗という名の通り、彼はこの店に満ちる忘却の霧を、誰よりも熟知していた。