ー沈黙のネクタイ、残響の結び目ー 前編
ー/ー クリーニング店『霧雨堂』の店主、霧斗は、決して客と目を合わせない。
ただ、差し出された衣類の繊維を指先でなぞり、そこに宿る「重み」を量るだけだ。
「これを洗えば、もう何も聞こえなくなるんだな?」
カウンターに置かれたのは、ひどくヨレたシルクのネクタイだった。持ち主の老紳士は、震える指でそれを愛おしそうに撫でている。
彼は答えず、ただネクタイを受け取った。その瞬間、櫂の耳に、ありえない音が届いた。
――いってらっしゃい。
それは、朝の光のような、穏やかな女性の声だった。
霧斗は、作業台にその繊細な絹を広げた。シルクは熱に弱く、水に怯える。強引なアイロンがけは、繊維を殺し、不自然なテカリを残すだけだ。そっと記憶を保護するように、薄い綿の当て布を重ねた。
「……書くなと言ったはずだ」
店主が低く呟く。櫂のペンが、無意識にメモ帳の上を走っていたからだ。
『彼女の指は、第二ボタンのあたりでいつも少し迷う。結び目が少しだけ右に寄るのが、二人の秘密だった』
「書かなければ、この声はどこへ行くんですか。霧になって消えるだけじゃないか」
「消えるのが、このネクタイと、あの男の救いだ」
霧斗はアイロンをわずかに浮かせ、当て布越しに柔らかなスチームを送る。直接触れれば壊れてしまう、あまりに脆い記憶。
蒸気と共に、キッチンで弾ける油の音や、朝のコーヒーの匂いが、店の天井へと吸い込まれていく。
櫂は、自分自身の過去さえ霧の向こうにある。
だからこそ、書くことは唯一の錨だった。誰かの消えゆく断片を紙に刻みつけることだけが、自分がここにいる証明のように思えた。
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クリーニング店『|霧雨堂《きりさめどう》』の店主、|霧斗《きりと》は、決して客と目を合わせない。
ただ、差し出された衣類の繊維を指先でなぞり、そこに宿る「重み」を量るだけだ。
「これを洗えば、もう何も聞こえなくなるんだな?」
カウンターに置かれたのは、ひどくヨレたシルクのネクタイだった。持ち主の老紳士は、震える指でそれを愛おしそうに撫でている。
彼は答えず、ただネクタイを受け取った。その瞬間、|櫂《かい》の耳に、ありえない音が届いた。
――いってらっしゃい。
それは、朝の光のような、穏やかな女性の声だった。
霧斗は、作業台にその繊細な絹を広げた。シルクは熱に弱く、水に怯える。強引なアイロンがけは、繊維を殺し、不自然なテカリを残すだけだ。そっと記憶を保護するように、薄い綿の当て布を重ねた。
「……書くなと言ったはずだ」
店主が低く呟く。櫂のペンが、無意識にメモ帳の上を走っていたからだ。
『彼女の指は、第二ボタンのあたりでいつも少し迷う。結び目が少しだけ右に寄るのが、二人の秘密だった』
「書かなければ、この声はどこへ行くんですか。霧になって消えるだけじゃないか」
「消えるのが、このネクタイと、あの男の救いだ」
霧斗はアイロンをわずかに浮かせ、当て布越しに柔らかなスチームを送る。直接触れれば壊れてしまう、あまりに脆い記憶。
蒸気と共に、キッチンで弾ける油の音や、朝のコーヒーの匂いが、店の天井へと吸い込まれていく。
櫂は、自分自身の過去さえ霧の向こうにある。
だからこそ、書くことは唯一の|錨《いかり》だった。誰かの消えゆく断片を紙に刻みつけることだけが、自分がここにいる証明のように思えた。