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忘却のアイロン、記憶の栞 後編

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 数日後、女性は泣きながら戻ってきた。
「あの人の顔が……思い出せないんです」 


声は震えていたが、怒りではなかった。
困惑と、恐怖に近いもの。彼女は何を失ったのか、まだ自分でも分かっていないようだった。 


裏切りだけを消したつもりが、連なっていた記憶まで抜け落ちたのだ。
笑顔も、声も、「愛されていた自分」も。
櫂はその説明をしなかった。正しい言葉を選べる気がしなかった。 




代わりに、メモ帳を差し出した。「……アイロンをかけた時、一瞬だけ、陽だまりみたいな匂いがしました」


 自分の言葉が、軽く跳ね返される気がした。上滑りだ、と櫂は思った。こんな断片で、何が伝わるというのか。


 けれど女性は、はっと息を呑んだ。
「……そう。あの人、いつもブラックコーヒーで……冬の午後、笑って……」 


全ては戻らない。それでも、彼女の涙には、痛みとは違う温度が混じっていた。



「忘れたくない痛みも、あるんですね」
そうつぶやいて、彼女は店を出ていった。 


櫂はしばらく動けずにいた。
たまたまだ、と自分に言い聞かせる。匂いの話をしただけだ。言葉が力を持ったわけじゃない。 


それでも、メモ帳を開き、新しい一行を書き足した。 


『消すことは救いだが、書き留めることは祈りだ』 


シュ、と遠くで蒸気の音がした。 櫂はその音を、「優しい」と書く代わりに、ただ線を引いて囲んだ。







みんなのリアクション

 数日後、女性は泣きながら戻ってきた。
「あの人の顔が……思い出せないんです」 
声は震えていたが、怒りではなかった。
困惑と、恐怖に近いもの。彼女は何を失ったのか、まだ自分でも分かっていないようだった。 
裏切りだけを消したつもりが、連なっていた記憶まで抜け落ちたのだ。
笑顔も、声も、「愛されていた自分」も。
櫂はその説明をしなかった。正しい言葉を選べる気がしなかった。 
代わりに、メモ帳を差し出した。「……アイロンをかけた時、一瞬だけ、陽だまりみたいな匂いがしました」
 自分の言葉が、軽く跳ね返される気がした。上滑りだ、と櫂は思った。こんな断片で、何が伝わるというのか。
 けれど女性は、はっと息を呑んだ。
「……そう。あの人、いつもブラックコーヒーで……冬の午後、笑って……」 
全ては戻らない。それでも、彼女の涙には、痛みとは違う温度が混じっていた。
「忘れたくない痛みも、あるんですね」
そうつぶやいて、彼女は店を出ていった。 
櫂はしばらく動けずにいた。
たまたまだ、と自分に言い聞かせる。匂いの話をしただけだ。言葉が力を持ったわけじゃない。 
それでも、メモ帳を開き、新しい一行を書き足した。 
『消すことは救いだが、書き留めることは祈りだ』 
シュ、と遠くで蒸気の音がした。 櫂はその音を、「優しい」と書く代わりに、ただ線を引いて囲んだ。