青年の視線が、私の手元に落ちた。つられて自分の指先を見ると、何かを掴もうとして空を切るように震えている。
私は、あのコンパクトをただの「お守り」としてポケットに放り込んでいただけだった。
プチポワンのバラが、あんなに鮮やかな色をしていたこと。祖母が「あなた自身の音を聴きなさい」と言って手渡してくれたこと。
今の私は、バラの色を思い出す余裕さえ失くしていたのだ。
……私が落としたのは、鏡じゃない。
鏡を見る時の、私の「心」だ。
「……気づいたみたいですね」
青年が、わずかに口角を上げた。その声は雨音に溶けるほど小さかったけれど、私の胸にははっきりと届いた。
「この箱は、あなたが『本当になくしたもの』を認めた時にしか開きません。鈴音さん、あなたはあの鏡で、本当は何を見たかったのですか?」
本当は、何を見たかったのか。
喉の奥が、少しだけ熱くなった。
私は、カウンターに置かれた木箱に指を這わせた。
雑貨店を開く前、会社員をしていた頃の私は、このコンパクトを開くたびに「いつか、自分の好きなものだけに囲まれて生きていくんだ」と、未来の自分を鏡に映して、小さく頷いていた。
でも、夢を叶えたはずの今はどうだろう。
店に並べる雑貨の「物語」よりも、在庫の数や原価率を先に計算してしまう。鏡を覗いても、そこに映っているのは、疲れを隠すために厚く塗ったファンデーションと、不安そうに揺れる自分の瞳だけ。
「……私は」
絞り出すような声が、静かな局内に響いた。
「私は、自信を持って笑っている自分を、見たかったんです。このバラの刺繍のように、古くなっても、少しずつ形を変えても、自分にしか出せない色で咲いている……そんな自分の顔を」
嘘偽りのない、まっすぐな言葉。
口にした瞬間、私の手の下で、重い木製の蓋が『カチリ』と、小さな音を立てた。まるで凍りついていた時間が、春の陽光に溶かされたかのように。
青年は何も言わず、ただ静かに一歩下がった。
開かれた箱の中から、雨上がりの午後のような、淡い光が溢れ出す。
そこには、あの銀色の縁取りと、薄紅色のバラのプチポワン。
私の大切なコンパクトが、まるでおかえりと微笑んでいるかのように、そこに収まっていた。