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一ヶ月後

ー/ー



「あー、いいお天気。涼しくなったし、散歩日和だね。怜司」
「この公園ドッグランもあるし、向こうで軽く走ろっか!」
 あれから、俺の怪我はすっかり治った。しばらく忙しそうだったユリも落ち着いたようで、今日は久しぶりの散歩に来ている。
 のんびりと日光を満喫しながら、俺はあの日のことを思い出していた。

 あれは数ヶ月ほど前の、ある暑い日。俺はいつものように、ユリと散歩をしていた。
「皆さん見てらっしゃい! 大道芸の始まりだよ!」
(なんだあれは? 楽しそうな音楽が聞こえて、ボールが跳ねてるぞ!)
 ──そう。
 俺は道の向こう側に気を取られて、ついユリを無視して駆け出してしまった。いつもならユリが引っ張って止めてくれるのだが、その日に限って彼女は手を放してしまったらしく……。
「危ない!」
 気づいたときにはもう、目の前に何かが迫っていた。
「れ、怜司ーーっ!!」
 それから後のことは、よく覚えていない。
 気がついたら俺は白い部屋にいて、ユリと誰かが話をしていた。
「先生、怜司は大丈夫なんですか!?」
「さいわい(あし)の怪我だけで、他に異常はなさそうです。意識が朦朧としているようですが、事故のショックによる一時的なものでしょう」
「よかった……」
「ですが怪我が治るまで、当分安静が必要です。家の中でもなるべく歩かせないようにしてください」
「そんな、怜司は散歩が大好きなんですよ? 家の中やお庭も歩けないなんて……」
「大変なのはわかりますが、動けば治りが遅くなりますので。それから衛生上、ペットとのキスも控えてください」
「キスもだめなんですか?」
「怜司くんが怪我をしている今、飼い主さんに何かあっては大変でしょう」
「……わかりました。治療、ありがとうございます」

 家に帰ってから、ぼんやりとした意識の中で、俺は彼女の声を聞いていた。
「どうしよう。人に怪我がなかったのは何よりだけど、パパとママはお仕事でしばらく海外だし。知らない人に預けたりしたら、怜司を不安にさせちゃう」
「ううん。今は夏休みだし、きっとなんとかなるはず」
「ここは心を鬼にして、怜司を閉じ込めておかなきゃ」
「怜司、あたしがんばるからね!」
「あ、アイト? 急で悪いけど、今日のデートはパスで…」

 あの日からずっと、ユリは俺を守ろうとしていたんだ。

「怜司、どうかした?」
 なんでもない、というように俺は公園を歩きだす。
 草の匂い、土の匂い。遠くに聞こえる子どもの声。全てが俺を満たしてくれる。
「そういえば怜司、今までごめんね。君のこと閉じ込めてた時、キツく当たっちゃってたかもって」
「怜司だって、事故にあいたくてあったわけじゃないし、手を離したのはあたしの責任なのに……」
 いや、謝るべきはきっと俺のほうだ。
 俺を閉じ込めておかないといけないことと、あの男に絡まれたことで、彼女は苦労したに違いない。
 俺は俺で、外に出られない苦しみから、傷口を噛もうとしたり、夜中に吠えるようになってしまっていた。
 それだけじゃない。彼女が恐ろしく見えたり、疑ったり……。最初から、俺の知るユリを信じておけばよかったんだ。
 それに彼女には、怖い思いもさせてしまった。
 少し沈んだ表情のユリを元気づけたくて、俺は彼女の唇に、自分の鼻先を差し出す。優しく労わるように、その白い頬をなめた。
「ふふっ、くすぐったいよ。元気づけてくれてるの?」
 久しぶりの彼女とのキスは、太陽の匂いがした。
「今日は久しぶりのお散歩だし、ドッグランに来たし! 怜司の気が済むまで、一緒に走ってあげるからね」
 木漏れ日が、ユリの笑顔を優しく照らす。俺の日常が戻ってきた。嬉しくてつい、ユリの足に体をすりつける。
「ふふ、今日の怜司は甘えんぼだなあ。かわいいから許しちゃうけど!」
 俺は、今回のことで思い知った。俺の好きと、彼女の好きは、きっと違うものなんだろう。
 あの男は論外としても、いつか彼女は、俺の知らない誰かのそばに行くのかもしれない。
 ユリと出会って九年。俺は犬としてはもう高齢だ。あとどれくらい、こうしていられるかもわからない。
 「ずっと一緒にいられるよね?」という彼女の質問への答えは……「一緒にはいられない」だ。

 それでも。
「さ、行こっ!」
 それでも俺は、ユリのそばにいよう。彼女の忠実な犬でいよう。
 俺の飼い主で幼馴染で、大好きな彼女の。




みんなのリアクション

「あー、いいお天気。涼しくなったし、散歩日和だね。怜司」「この公園ドッグランもあるし、向こうで軽く走ろっか!」
 あれから、俺の怪我はすっかり治った。しばらく忙しそうだったユリも落ち着いたようで、今日は久しぶりの散歩に来ている。
 のんびりと日光を満喫しながら、俺はあの日のことを思い出していた。
 あれは数ヶ月ほど前の、ある暑い日。俺はいつものように、ユリと散歩をしていた。
「皆さん見てらっしゃい! 大道芸の始まりだよ!」
(なんだあれは? 楽しそうな音楽が聞こえて、ボールが跳ねてるぞ!)
 ──そう。
 俺は道の向こう側に気を取られて、ついユリを無視して駆け出してしまった。いつもならユリが引っ張って止めてくれるのだが、その日に限って彼女は手を放してしまったらしく……。
「危ない!」
 気づいたときにはもう、目の前に何かが迫っていた。
「れ、怜司ーーっ!!」
 それから後のことは、よく覚えていない。
 気がついたら俺は白い部屋にいて、ユリと誰かが話をしていた。
「先生、怜司は大丈夫なんですか!?」
「さいわい|肢《あし》の怪我だけで、他に異常はなさそうです。意識が朦朧としているようですが、事故のショックによる一時的なものでしょう」
「よかった……」
「ですが怪我が治るまで、当分安静が必要です。家の中でもなるべく歩かせないようにしてください」
「そんな、怜司は散歩が大好きなんですよ? 家の中やお庭も歩けないなんて……」
「大変なのはわかりますが、動けば治りが遅くなりますので。それから衛生上、ペットとのキスも控えてください」
「キスもだめなんですか?」
「怜司くんが怪我をしている今、飼い主さんに何かあっては大変でしょう」
「……わかりました。治療、ありがとうございます」
 家に帰ってから、ぼんやりとした意識の中で、俺は彼女の声を聞いていた。
「どうしよう。人に怪我がなかったのは何よりだけど、パパとママはお仕事でしばらく海外だし。知らない人に預けたりしたら、怜司を不安にさせちゃう」
「ううん。今は夏休みだし、きっとなんとかなるはず」
「ここは心を鬼にして、怜司を閉じ込めておかなきゃ」
「怜司、あたしがんばるからね!」
「あ、アイト? 急で悪いけど、今日のデートはパスで…」
 あの日からずっと、ユリは俺を守ろうとしていたんだ。
「怜司、どうかした?」
 なんでもない、というように俺は公園を歩きだす。
 草の匂い、土の匂い。遠くに聞こえる子どもの声。全てが俺を満たしてくれる。
「そういえば怜司、今までごめんね。君のこと閉じ込めてた時、キツく当たっちゃってたかもって」
「怜司だって、事故にあいたくてあったわけじゃないし、手を離したのはあたしの責任なのに……」
 いや、謝るべきはきっと俺のほうだ。
 俺を閉じ込めておかないといけないことと、あの男に絡まれたことで、彼女は苦労したに違いない。
 俺は俺で、外に出られない苦しみから、傷口を噛もうとしたり、夜中に吠えるようになってしまっていた。
 それだけじゃない。彼女が恐ろしく見えたり、疑ったり……。最初から、俺の知るユリを信じておけばよかったんだ。
 それに彼女には、怖い思いもさせてしまった。
 少し沈んだ表情のユリを元気づけたくて、俺は彼女の唇に、自分の鼻先を差し出す。優しく労わるように、その白い頬をなめた。
「ふふっ、くすぐったいよ。元気づけてくれてるの?」
 久しぶりの彼女とのキスは、太陽の匂いがした。
「今日は久しぶりのお散歩だし、ドッグランに来たし! 怜司の気が済むまで、一緒に走ってあげるからね」
 木漏れ日が、ユリの笑顔を優しく照らす。俺の日常が戻ってきた。嬉しくてつい、ユリの足に体をすりつける。
「ふふ、今日の怜司は甘えんぼだなあ。かわいいから許しちゃうけど!」
 俺は、今回のことで思い知った。俺の好きと、彼女の好きは、きっと違うものなんだろう。
 あの男は論外としても、いつか彼女は、俺の知らない誰かのそばに行くのかもしれない。
 ユリと出会って九年。俺は犬としてはもう高齢だ。あとどれくらい、こうしていられるかもわからない。
 「ずっと一緒にいられるよね?」という彼女の質問への答えは……「一緒にはいられない」だ。
 それでも。
「さ、行こっ!」
 それでも俺は、ユリのそばにいよう。彼女の忠実な犬でいよう。
 俺の飼い主で幼馴染で、大好きな彼女の。


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