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三日目

ー/ー



 その日は朝から夜まで、雨が降ったり止んだりしていた。
 俺の中では、未だに昨日の出来事が尾を引いていた。
 憂鬱な天気を振りはらうかのように、ユリが話しだす。
「そうだ怜司。ちょっと遅い時間だけど、お風呂入ろうか」
 彼女とお風呂。あたたかいお湯と、立ちのぼる湯気と、泡と……
 想像して、ドキリとする。
 いやしかし、これはチャンスではないだろうか?
 俺はずっと、この部屋に閉じ込められていた。風呂に入るとなれば、スキを見て脱出することも……自由になることも、できるかもしれない。
「鎖、外すからね。暴れたりしないでよ?」
 彼女の長い髪が、ふわりと舞った。俺の自由を奪っていた拘束具が、簡単に外されていく。今なら、逃げられるかもしれない。
「ごめんね」
 ふと、彼女が俺を抱きしめる。吐息が近い。でもキスは、やはりしてくれなかった。無言のまま、彼女の熱が俺から離れてゆく。
「本当はあたしだって、怜司にこんなことしたくないの。でも、仕方ないの……こうすることが君のためだから」
 うつむいたまま、ユリはぽつりと言った。
「あたし達……これからもずっと、一緒だよね?」
 戸惑いながらも、俺は確信した。
 彼女は俺のことが好きだし、俺も彼女のことが好きだ。その彼女が仕方のないことだと言うのなら、俺はこの状況を受け入れるべきではないだろうか?
 自由にはなりたい。そうすればあの男に復讐することだってできる。
 でも、そのことと彼女の意思、どちらが大切だろうか。

 静かな部屋に、不意に音が鳴り響いた。
「あれ? ママから電話かな?」
 彼女はそう言うと、誰かと話し始める。するとにこやかだった彼女の声が、急に険しくなった。
「アイト、どういうつもり? 昨日あんなことしておいて、わざわざ非通知で電話とか!」
 しばらく黙っていた彼女の顔が、はっと驚きの表情になる。
「……なに? ワケわかんないんだけど、死ぬって……はあ!?」
「……わ、わかったから、落ち着いて! すぐ行くから待ってなさいよ!」
 青ざめたユリが俺に背を向け、慌ただしくカバンを取る。
 俺が声をかける暇もなく、彼女は部屋を出て行ってしまった。
 部屋には、俺だけが残される。拘束は、全部外れていた。
 恐る恐る、空いたままのドアから部屋を出る。よほど慌てていたのか、玄関のドアが半開きになっていた。

 じっとりとした風が、背中をなでてゆく。俺は、外へ出て通りへと飛び出していた。
 外の空気を吸ったのは、いつぶりだろうか。降っていた雨はほとんど止んでいたが、傷が濡れて少し痛む。
「ユリ……」
 さっき、家を出て行った時の彼女。かなり慌てた様子で、明らかに普通ではなかった。このまま放っておけるわけがない。
(多分、こっちの方だ)
 俺は彼女を追い、街を走る。大きな道にさしかかった時、足が止まった。突然、ある光景が俺の中で浮かび上がった。
 この場所だった。そうだ、思い出した。ここで俺は……。

 道を駆け、建物の裏へ回る。
 そこに、傘を持った彼女とあの男がいた。穏やかな雰囲気ではないのは、遠くからでもわかる。
「だからっ、もう別れるって言ってるでしょ。いい加減にして!」
「ははっ、あれだけカノジョとしてかわいがってあげたのにさあ!」
「僕がどれだけお前のことを想って苦しんだかわかる? それなのにお前は怜司、怜司ってバカみたいに……」
「そんなの知らないし! こんな粘着男だってわかってたら、あたしだって、アンタなんか最初から相手にしなかったもん」
「もういいでしょ?あたし、家に帰るから!」
「あぁ、そうかあ。君がそう言うなら……じゃあ、こうするしかないなあ」
 男がニタリと笑う。そして取り出したのは、鋭く輝くナイフだった。
「えっ……」
 男が血走った目を向ける。ユリの顔が驚きに染まった。
「お前みたいな女はなあ! 大人しく俺のものになってればいいんだよ!」
 男が刃先をユリに向け、彼女へと突進していく。
 その光景が妙にゆっくりと見えた。
 俺は必死に走る。頭の中で、いくつかの言葉を思い出していた。
 今ならわかる。なぜ彼女が、俺を閉じ込めていたのか。

 キラリと光る刃先が、ユリに迫る。彼女は凍り付いたまま、立ち尽くしていた。
「間に合えッ!」
 そうだ。彼女はずっと、俺のことを考えていてくれた。痛みも忘れ、俺は男の前へと躍り出る。
「怜司!?」
「くそっ、コイツ!」
 二人の驚いた声。俺はユリを背に立ちはだかる。
 喉の奥から、怒りと共に言葉にならない声があふれ出す。
 そして俺は、吠えた。

──ガルゥ……ワンッ、ワンワンワンッ!

「てめえ、このクソ犬がァ!」
 そうさ、俺は犬だ。でもユリのためなら、俺はなんだってできる。
 今、彼女を守ることを、俺は絶対にやりとげて見せる!
「くそッ!」
 男が振り回すナイフを避け、足に噛みつく。が。
「死ね、クソ犬!」
 噛み付いて男の動きを止めていた俺に、ナイフが飛んでくる。
 その時、打撃音と男のうめき声が聞こえた。
「怜司!」
 傘を構えたユリが、鬼気迫る表情で立っていた。
「アンタ……よくも怜司を、傷つけたなあ!」
 勇敢にも傘で立ち向かっていく彼女。俺はまだ無事だし、危ないから逃げて欲しいのだが。
 いや、こうなったら俺達の力で、こいつを押さえ込む!
「クソっ、離れろ!」
 再び男のナイフがせまるのを、横に飛んで避けた。
 隙を突いて跳躍する。思い切りその腕に嚙みついた。
「ぎゃあっ!」
 腕を噛まれた男が苦痛の声を上げる。
「はぁッ!」
 ダメ押しとばかりに、彼女が傘を叩き込んだ。男が体勢を崩し、ナイフを取り落とす。
「おまわりさん、こっちです! あいつが女の子を襲ってて!」
「おいお前、何をやってるんだ!」
 見知らぬ人間達の声が聞こえる。どうやら俺の声は、結果的に人目を引いていたらしい。
 状況が伝わっていたのか、すぐに男は取り押さえられた。
「離せ! どいつもこいつも邪魔しやがって……ユリは俺のものだああぁ!」
 何かをわめきながら、男はどこかへと引きずられていった。
 張り詰めていた空気が、夜風に吹かれて消えていく。
 終わった、のか?
「怜司!」
 駆け寄ってきた彼女は、いきなり俺の体をなで回しはじめた。
「大丈夫!? どこか怪我してない?」
 俺が元気よく返事をすると、彼女は「よかった」とため息をつき、安心した顔を見せた。
「あの時の怪我も治りきってないのに、こんなところまで追いかけてくれたんだね」
 ユリは、俺をかかえこむようにして抱きしめていた。
「怜司……」
 俺を包みこむ、柔らかい彼女の体。それは、少し震えている。やはり本当は怖かったのだろう。
「小さいころ観てた、アニメの主人公の名前をつけたけど……まさか本当に怜司がヒーローになっちゃうなんて、ビックリだよ」
「ううん、でも君はずっと、あたしのヒーローだったね。小学校のころ、引きこもってたあたしを外に連れ出してくれたあの時から」
 にわかに騒がしくなってきた夜の中で、彼女が微笑む。
「ありがとう。本当に、大好きだよ。怜司がいてくれて、あたし……」
 俺は彼女の手をそっと舐めた。震えた指先は、塩辛い味がする。

「もう絶対、逃がさないから」

 彼女に閉じ込められる生活は、まだもう少し続くようだった。


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 その日は朝から夜まで、雨が降ったり止んだりしていた。
 俺の中では、未だに昨日の出来事が尾を引いていた。
 憂鬱な天気を振りはらうかのように、ユリが話しだす。
「そうだ怜司。ちょっと遅い時間だけど、お風呂入ろうか」
 彼女とお風呂。あたたかいお湯と、立ちのぼる湯気と、泡と……
 想像して、ドキリとする。
 いやしかし、これはチャンスではないだろうか?
 俺はずっと、この部屋に閉じ込められていた。風呂に入るとなれば、スキを見て脱出することも……自由になることも、できるかもしれない。
「鎖、外すからね。暴れたりしないでよ?」
 彼女の長い髪が、ふわりと舞った。俺の自由を奪っていた拘束具が、簡単に外されていく。今なら、逃げられるかもしれない。
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 ふと、彼女が俺を抱きしめる。吐息が近い。でもキスは、やはりしてくれなかった。無言のまま、彼女の熱が俺から離れてゆく。
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「あたし達……これからもずっと、一緒だよね?」
 戸惑いながらも、俺は確信した。
 彼女は俺のことが好きだし、俺も彼女のことが好きだ。その彼女が仕方のないことだと言うのなら、俺はこの状況を受け入れるべきではないだろうか?
 自由にはなりたい。そうすればあの男に復讐することだってできる。
 でも、そのことと彼女の意思、どちらが大切だろうか。
 静かな部屋に、不意に音が鳴り響いた。
「あれ? ママから電話かな?」
 彼女はそう言うと、誰かと話し始める。するとにこやかだった彼女の声が、急に険しくなった。
「アイト、どういうつもり? 昨日あんなことしておいて、わざわざ非通知で電話とか!」
 しばらく黙っていた彼女の顔が、はっと驚きの表情になる。
「……なに? ワケわかんないんだけど、死ぬって……はあ!?」
「……わ、わかったから、落ち着いて! すぐ行くから待ってなさいよ!」
 青ざめたユリが俺に背を向け、慌ただしくカバンを取る。
 俺が声をかける暇もなく、彼女は部屋を出て行ってしまった。
 部屋には、俺だけが残される。拘束は、全部外れていた。
 恐る恐る、空いたままのドアから部屋を出る。よほど慌てていたのか、玄関のドアが半開きになっていた。
 じっとりとした風が、背中をなでてゆく。俺は、外へ出て通りへと飛び出していた。
 外の空気を吸ったのは、いつぶりだろうか。降っていた雨はほとんど止んでいたが、傷が濡れて少し痛む。
「ユリ……」
 さっき、家を出て行った時の彼女。かなり慌てた様子で、明らかに普通ではなかった。このまま放っておけるわけがない。
(多分、こっちの方だ)
 俺は彼女を追い、街を走る。大きな道にさしかかった時、足が止まった。突然、ある光景が俺の中で浮かび上がった。
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 道を駆け、建物の裏へ回る。
 そこに、傘を持った彼女とあの男がいた。穏やかな雰囲気ではないのは、遠くからでもわかる。
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「あぁ、そうかあ。君がそう言うなら……じゃあ、こうするしかないなあ」
 男がニタリと笑う。そして取り出したのは、鋭く輝くナイフだった。
「えっ……」
 男が血走った目を向ける。ユリの顔が驚きに染まった。
「お前みたいな女はなあ! 大人しく俺のものになってればいいんだよ!」
 男が刃先をユリに向け、彼女へと突進していく。
 その光景が妙にゆっくりと見えた。
 俺は必死に走る。頭の中で、いくつかの言葉を思い出していた。
 今ならわかる。なぜ彼女が、俺を閉じ込めていたのか。
 キラリと光る刃先が、ユリに迫る。彼女は凍り付いたまま、立ち尽くしていた。
「間に合えッ!」
 そうだ。彼女はずっと、俺のことを考えていてくれた。痛みも忘れ、俺は男の前へと躍り出る。
「怜司!?」
「くそっ、コイツ!」
 二人の驚いた声。俺はユリを背に立ちはだかる。
 喉の奥から、怒りと共に言葉にならない声があふれ出す。
 そして俺は、吠えた。
──ガルゥ……ワンッ、ワンワンワンッ!
「てめえ、このクソ犬がァ!」
 そうさ、俺は犬だ。でもユリのためなら、俺はなんだってできる。
 今、彼女を守ることを、俺は絶対にやりとげて見せる!
「くそッ!」
 男が振り回すナイフを避け、足に噛みつく。が。
「死ね、クソ犬!」
 噛み付いて男の動きを止めていた俺に、ナイフが飛んでくる。
 その時、打撃音と男のうめき声が聞こえた。
「怜司!」
 傘を構えたユリが、鬼気迫る表情で立っていた。
「アンタ……よくも怜司を、傷つけたなあ!」
 勇敢にも傘で立ち向かっていく彼女。俺はまだ無事だし、危ないから逃げて欲しいのだが。
 いや、こうなったら俺達の力で、こいつを押さえ込む!
「クソっ、離れろ!」
 再び男のナイフがせまるのを、横に飛んで避けた。
 隙を突いて跳躍する。思い切りその腕に嚙みついた。
「ぎゃあっ!」
 腕を噛まれた男が苦痛の声を上げる。
「はぁッ!」
 ダメ押しとばかりに、彼女が傘を叩き込んだ。男が体勢を崩し、ナイフを取り落とす。
「おまわりさん、こっちです! あいつが女の子を襲ってて!」
「おいお前、何をやってるんだ!」
 見知らぬ人間達の声が聞こえる。どうやら俺の声は、結果的に人目を引いていたらしい。
 状況が伝わっていたのか、すぐに男は取り押さえられた。
「離せ! どいつもこいつも邪魔しやがって……ユリは俺のものだああぁ!」
 何かをわめきながら、男はどこかへと引きずられていった。
 張り詰めていた空気が、夜風に吹かれて消えていく。
 終わった、のか?
「怜司!」
 駆け寄ってきた彼女は、いきなり俺の体をなで回しはじめた。
「大丈夫!? どこか怪我してない?」
 俺が元気よく返事をすると、彼女は「よかった」とため息をつき、安心した顔を見せた。
「あの時の怪我も治りきってないのに、こんなところまで追いかけてくれたんだね」
 ユリは、俺をかかえこむようにして抱きしめていた。
「怜司……」
 俺を包みこむ、柔らかい彼女の体。それは、少し震えている。やはり本当は怖かったのだろう。
「小さいころ観てた、アニメの主人公の名前をつけたけど……まさか本当に怜司がヒーローになっちゃうなんて、ビックリだよ」
「ううん、でも君はずっと、あたしのヒーローだったね。小学校のころ、引きこもってたあたしを外に連れ出してくれたあの時から」
 にわかに騒がしくなってきた夜の中で、彼女が微笑む。
「ありがとう。本当に、大好きだよ。怜司がいてくれて、あたし……」
 俺は彼女の手をそっと舐めた。震えた指先は、塩辛い味がする。
「もう絶対、逃がさないから」
 彼女に閉じ込められる生活は、まだもう少し続くようだった。