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沙也の話

ー/ー



「先生、遅い! 次の巡回までにあんまり時間ないんだよ」
 冬の岬で沙也が()ねる。「何よりも、余命わずかな患者様を待たせるなんて」
 俺は苦笑し、沙也からマスターキーを返してもらった。三階個室のすぐ脇に、非常階段への扉がある。普段は施錠されていて、内側からは鍵がないと開けられない。下まで降りればこの断崖まで三分だ。

 初診は二か月前のことだった。外来の若い整形外科医から「副院長、ご相談が」と耳打ちされた。
「若い女性の患者です。主訴は打撲。確かに胸や腹、太腿などに痣がありました。でも、どれも昨日今日についたものではありません。尋ねると『暴力を受けていた』と打ち明けました。警察に知らせた方がいいでしょうか?」
 別の個室で向き合った。人払いを求められ、一対一で話を聞いた。美少女が語り始める。
「――幼い頃から実父にいたずらされてきました」
 最初は何度も抵抗し、そのたびに殴られた。両手を縛られ、目隠しされたこともあったという。
「中学の途中から、(あらが)うことをやめたんです。人形みたいに横たわり、黙って行為が終わるのを待ちました。そんな自分を天井あたりで静かに見つめる自分がいる。それを私の本体だ、と思うようにしたんです。すっと気持ちが安らぎました」
 母親に気づかれたのは、高一の夏だった。怒り狂った母親は、父親と外に出て、そのまま戻ってこなかった。
 数日後、漂流していた二人の遺体を別々の漁船が見つけた。
 沙也は「その前後の記憶がないんです。お母さんが怒っているのは覚えていますが、次の記憶は両親のお葬式です」と説明した。
 忌み嫌っているはずなのに、彼女はそれから父親と似たような男に惹かれるようになったらしい。
「今の彼氏もそうなんです。私に激しく執着し、絶対別れてくれません。――先生、助けてくれませんか?」

 沙也が自ら絵を描いた。難病をでっちあげ、自分を個室に隔離する。そこまでで諦めてくれたなら、計画終了。
「それでもつきまとわれたら?」と俺は尋ねた。
「そうですね。先生とできちゃったことにしてもらえませんか?」

 稚拙だと感じたが、やってみると面白かった。ある難病を思いついた。五年前、その病気で亡くなった患者がいた。その時のデータを改竄(かいざん)するのだ。
 身内を(あざむ)く必要があった。俺は自分の女を異動させ、担当のナースにした。寝るだけのトロい女だ。なのに結婚を迫ってくる。体はいいから別れがたい。
 万が一にも沙也といるのを目撃されたら面倒だ。まだ計画は続いている。口実を作り、さっきも電話で居場所を訊いた。「自宅の部屋」だと言っていた。

「彼氏、別れてくれません」
 岬の低い手すりにもたれ、沙也がつぶやく。「先生、お願いしていたもの、用意してくれましたか?」
 俺は白衣に羽織ったコートから、封筒を取り出した。生命保険の証書の控えが入っている。保険金一億円の受取人を、親父から沙也に切り替えた。婚姻届は躊躇われるが、これぐらいなら後からいつでも変更できる。いや、この小悪魔みたいな美少女と、一緒になるのも悪くないか。
「――あ、ここ誤字です」
 月明りに証書を眺め、沙也が言った。
「どこだよ?」
「ここです。ほら先生、よく見て下さい」
 書面に顔を近づける。視界から彼女が外れたその瞬間、すごい力で背を押され、手すりの外に弾き出された。
 驚愕した俺の視線のその先で、沙也が薄く笑っていた。みるみるうちに遠ざかる。
 ああそうか、これが両親の死の真相なのか。沙也の話はどこまで本当だったのだろう。いや、彼女はいったい何者なのか――。
 そんな思考は激しい痛みと冬の海の冷たさに、永遠に閉ざされる。


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「先生、遅い! 次の巡回までにあんまり時間ないんだよ」
 冬の岬で沙也が|拗《す》ねる。「何よりも、余命わずかな患者様を待たせるなんて」
 俺は苦笑し、沙也からマスターキーを返してもらった。三階個室のすぐ脇に、非常階段への扉がある。普段は施錠されていて、内側からは鍵がないと開けられない。下まで降りればこの断崖まで三分だ。
 初診は二か月前のことだった。外来の若い整形外科医から「副院長、ご相談が」と耳打ちされた。
「若い女性の患者です。主訴は打撲。確かに胸や腹、太腿などに痣がありました。でも、どれも昨日今日についたものではありません。尋ねると『暴力を受けていた』と打ち明けました。警察に知らせた方がいいでしょうか?」
 別の個室で向き合った。人払いを求められ、一対一で話を聞いた。美少女が語り始める。
「――幼い頃から実父にいたずらされてきました」
 最初は何度も抵抗し、そのたびに殴られた。両手を縛られ、目隠しされたこともあったという。
「中学の途中から、|抗《あらが》うことをやめたんです。人形みたいに横たわり、黙って行為が終わるのを待ちました。そんな自分を天井あたりで静かに見つめる自分がいる。それを私の本体だ、と思うようにしたんです。すっと気持ちが安らぎました」
 母親に気づかれたのは、高一の夏だった。怒り狂った母親は、父親と外に出て、そのまま戻ってこなかった。
 数日後、漂流していた二人の遺体を別々の漁船が見つけた。
 沙也は「その前後の記憶がないんです。お母さんが怒っているのは覚えていますが、次の記憶は両親のお葬式です」と説明した。
 忌み嫌っているはずなのに、彼女はそれから父親と似たような男に惹かれるようになったらしい。
「今の彼氏もそうなんです。私に激しく執着し、絶対別れてくれません。――先生、助けてくれませんか?」
 沙也が自ら絵を描いた。難病をでっちあげ、自分を個室に隔離する。そこまでで諦めてくれたなら、計画終了。
「それでもつきまとわれたら?」と俺は尋ねた。
「そうですね。先生とできちゃったことにしてもらえませんか?」
 稚拙だと感じたが、やってみると面白かった。ある難病を思いついた。五年前、その病気で亡くなった患者がいた。その時のデータを|改竄《かいざん》するのだ。
 身内を|欺《あざむ》く必要があった。俺は自分の女を異動させ、担当のナースにした。寝るだけのトロい女だ。なのに結婚を迫ってくる。体はいいから別れがたい。
 万が一にも沙也といるのを目撃されたら面倒だ。まだ計画は続いている。口実を作り、さっきも電話で居場所を訊いた。「自宅の部屋」だと言っていた。
「彼氏、別れてくれません」
 岬の低い手すりにもたれ、沙也がつぶやく。「先生、お願いしていたもの、用意してくれましたか?」
 俺は白衣に羽織ったコートから、封筒を取り出した。生命保険の証書の控えが入っている。保険金一億円の受取人を、親父から沙也に切り替えた。婚姻届は躊躇われるが、これぐらいなら後からいつでも変更できる。いや、この小悪魔みたいな美少女と、一緒になるのも悪くないか。
「――あ、ここ誤字です」
 月明りに証書を眺め、沙也が言った。
「どこだよ?」
「ここです。ほら先生、よく見て下さい」
 書面に顔を近づける。視界から彼女が外れたその瞬間、すごい力で背を押され、手すりの外に弾き出された。
 驚愕した俺の視線のその先で、沙也が薄く笑っていた。みるみるうちに遠ざかる。
 ああそうか、これが両親の死の真相なのか。沙也の話はどこまで本当だったのだろう。いや、彼女はいったい何者なのか――。
 そんな思考は激しい痛みと冬の海の冷たさに、永遠に閉ざされる。