「新患は一之瀬沙也さん。大学生。副院長が主治医になります。病室は三階の角部屋。看護部のメイン担当は北村里奈さん。異動したててで悪いけど、お願いね」
申し送りで師長が言った。はい、と答える。この秋口まで外来を担当していた。もう五年目だ。体力がある二十代のうちに、病棟勤務も経験したいと思っていた。
ナースステーションで電子カルテを検索する。沙也さんのカルテには、珍しい診断名が書かれていた。昔どこかで目にしたが、思い出せない。
「患者様から新薬使用の承諾を得た。供給元の県立大とのやりとりは、薬剤部を通さずに、私が直接担当する。大学側が臨床データを求めているので、採取した検体は業者に出さず、そのまま私に渡すように」
備考欄から副院長の本気度が伝わってきた。
「片田舎の病院だからこそ、どこにも負けない専門分野を育てたいんだ。自分が親父の跡を継いだら、腫瘍内科を充実させ、専門病棟を設けたい」
春にそんな話を聞かされた。
私も自分を磨かなきゃ――。
今回は若い難病患者だ。心のケアが大事になる。コンプレックスでもあるけれど、私のこの童顔は武器らしい。「北村さんのたぬき顔を見ていると、年下はつい心を許してしまう」と以前師長に評された。実際、外来を担当していた頃、私は子どもの患者に受けがよかった。
失礼します、と断って、病室の扉を開く。肩まで毛布をかぶった沙也さんが、ベッドサイドの男の子から手を離した。沙也さんも綺麗だが、その彼も美しい顔立ちだった。
「上杉隆志と申します。沙也と同じ大学の一学年上です」
「初めまして。一之瀬沙也さんを担当している看護師の北村里奈です」
名札を指さし、私は微笑む。この人は、沙也さんの恋人だろうか。
「――婚約者なんです。と言っても、結納とかを交わしたわけではないんですが」
察したように沙也さんが微笑んだ。彼は顔を赤らめうつむいている。
「ちゃんと伝えておかないと、隆志くん、いざっていう時、立ち会えないよ? 私も困る。親いないんだから」
「……お前は治るよ」
隆志さんの言葉に合わせ、私はうなずく。「そうですよ。沙也さんはまだお若い。私なんて四捨五入すればもう三十のおばさんです。副院長も全力で治します、と言っていました。頑張りましょう」
若い二人は微笑ましかった。私もこんな恋をして、結婚したい、と切なく感じた。
隆志さんは三日とおかず、お見舞いにやってきた。授業やバイトを終えると、軽自動車で訪れる。ナースステーションの窓からは、海と反対側の駐車場がよく見えた。いつしか私は彼の車を待ち遠しく感じるようになっていた。
「――北村さん」
ひと月前、日勤を終え、自分の車に乗ろうとした時、呼び止められた。振り向くと彼だった。思い詰めた表情をしている。
「相談があるんです。少しお時間いただけませんか?」
病院近くは都合が悪い。自宅マンション前のファミレスを提案した。そこなら一度帰って車を置き、歩いて行ける。「わかりました」と彼は答えた。
ドリンクバーのコーヒーを一口すすり、隆志さんはしばらく黙ったままだった。私は待った。相手が話を躊躇っている時、急かしてはダメなのだ。葛藤は滓のように心に積もり、やがて必ず溢れ出す。
「――沙也は病んでいるんです」
喉から絞り出すように、隆志さんは切り出した。病んでいる。その通りだ。だからうちに入院し、治療している。
「そういうことじゃないんです。あいつ、心が病気なんです……」
そこから先は堰を切ったようだった。「沙也に性の奴隷にされている」と彼は訴えた。にわかには信じられない。透明感に満ち溢れ、水彩で描いたような美少女が、恋人の身も心も蹂躙している。本当だろうか。
「本当です。お見舞いに来させるのも性処理が目的なんです」
隆志さんはポケットからスマートフォンを取り出した。音声をオフにして、画面をタップし、机に載せる。
動画には見慣れた個室が映っていた。ベッドサイドのラックから盗み撮りしたらしい。下半身だけパジャマを脱いだ沙也さんが、腰の辺りで隆志さんにまたがっていた。よだれと涙で顔を濡らし、一方的に身をよじらせている。タオルを咥えているのは声を堪えるためだろう。
飢えた手負いの獣のようだ。そう感じた瞬間に、胸の芯が発火した。私も同じだ。沙也さんではなく隆志さんと――。
その夜、私は彼をマンションに連れ帰った。男性性を蔑ろにされ可哀想だ。私は心を込めて、隆志さんをベッドで癒した。それは同時に私にとっての癒しになった。
「……好きです、里奈さん」
二度目の夜に打ち明けられた。三度目は、それから半月過ぎた夜だった。その日の日中、沙也さんは余命わずかと宣告された。彼もその場に同席していた。
やっとこの化け物が消えるのだ。そう感じ、喜びの涙が溢れた。隆志さんは「ほかに治療法はないですか?」と念押しし、望み通り否定された。
診察室を出たところで、そっと合鍵を握らせる。「マンションで待っててね」と言葉を添えて――。
帰宅すると玄関で抱き上げられた。そのままベッドに運ばれる。時間をかけて口づけられ、彼は優しく体を重ねた。
不意にベッドの脇でスマホが鳴った。呼び出し音を変えているのは一人だけだ。「出ていいよ」と隆志さんに促される。
私用だったら無視でいい。でも急用の可能性も否定できない。しばらく迷い、シャツの胸をはだけたまま、スマホを握った。
「今どこ?」
名乗らずに相手は訊いた。
「自宅の部屋です」と私は答える。
「夜勤してたら思い出してさ」
「何をですか?」
「今日、患者の前で泣いたでしょ? ああいうの看護師としてよくないぜ。いたずらに不安感を抱かせる」
私の不安はどうなのか――。
怒りに震えた。もう一年も玩具みたいに抱かれている。結婚したいと口にすると誤魔化すくせに、距離を取ればこんなふうに執着心を滲ませる。
最低だ。あなたも、離れられない私自身も。
「……未熟でした。申し訳ありません、副院長」