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序章:墜落

ー/ー



 薄い雲を突き破り、白い影が落下する。
 大地はもう、すぐ、そこだ。


「う、うぅ……」
 シャクラカーンはやっとの思いで瞼を持ち上げた。重い――身体中が痛い。腕を動かそうとすれば雷撃のような激痛が走る。
 まだらな青空が眩しく、暗闇から出たばかりの目に刺さる。あの白いものは何だろう――今まで見ていた天空にはなかった、白い綿のようなもの。
 ――雲……?
 サティヤ・ロカと下界の間に広がる膜のようなものによく似ている。けれど、いつもは見下ろしていたそれが、今は頭のはるか上にある。
「おやぁ?」
 視界に影が落ち、声が降ってきた。
「君、こんなところで寝ていたら死んでしまうよ。踏み潰されてね」
 長い髪の毛先がシャクラカーンの頬をくすぐる。乳白色の肌をした男が、彼を見下ろしていた。
「シャキヤっ……!」
 シャクラカーンは身体の痛みを忘れ、勢いよく起き上がった。
「随分な汚れようだね……何だい、負け戦でもやったのかい?」
 男は背が高く、シャキヤに特有の端正な顔立ちをしていた。清々しい花の香りが漂う。
 同族に会えた喜びに顔を綻ばせかけたシャクラカーンだが、男の背後に、ずらりと並んだ異形の集団を見て叫んだ。
「危な、い……! う、ぐぅ」
 身体の痛みがぶり返し、シャクラカーンはその場にしゃがみ込んだ。早く逃げなければと思うのに、身体が言うことを聞いてくれない。
 泥のように薄汚い黄色の肌。背中は大きく湾曲し、爛れた皮膚の奥に仕舞い込まれた眼球が茫洋と空を眺めている。人食いと名高い、忌避すべき種族ピシャーチャだ。それも十や二十ではない、百――いや、もっといる。
「……?」
 しかし、彼はそこで、あることに気付いた。無数のピシャーチャは皆、その場でじっとしている。こちらを襲ってくるような気配は見せずに、ただ、男の背後に集っているだけだ。
 風が男の長い金髪と、薄い着衣の裾をはらりとなびかせる。
「ああ、襲われると思ったのかな? 彼らのことは気にしなくても良いよ、このナラカでシャキヤに擬態しても意味がないし」
「お、お前、どうして……シャキヤがピシャーチャと一緒にいるんだ。いや、それにここは……ナラカ?」
 身体が震える。痛みからではない、恐怖だ。薄々、そうではないかと思っていたが――ここは、ナラカなのか。
 下界、ナラカ=ランカー。アスラ、ヤクシャ、ラークシャサ、ピシャーチャの四種族が絶えず争いを繰り広げている、血塗れの大地だ。シャキヤの住むサティヤ・ロカからすれば、足を踏み入れるなど考えもつかない、穢らわしい地獄のような場所だった。
「……ふうむ」男は両手でシャクラカーンの脇を掴み、ひょいと持ち上げた。「軽い。けれど、シャキヤの軽さではないね。混ざりものか……まあ、このご時世、さして珍しいことではないけれど」
「お、おい……下ろせ……!」
 混ざりもの、それはシャクラカーンが同族に何度も言われた言葉だった。意味は分からないが、あまりよくないことのように感じていた。


「おっと。始まったか」
 不意に男がシャクラカーンから視線を外し、男の背後に整列する全てのピシャーチャも同じ方向へと一斉に顔を向けた。
 どこからか、世界が震えるような轟音が響いた。それが声なのか、何か硬い物がぶつかり合う音なのか、彼には分からない。今まで、いやサティヤ・ロカでは聞くことのなかった音だ。
 男はシャクラカーンを肩に担ぎ、歩き始める。
「なっ……お、下ろせ! 手を離せ!」
 拳を振り上げて、男の背中を何度も叩く。しかし男は見た目以上に筋力があるようで、痛みを感じる素振りすら見せない。
「まあまあ。同じシャキヤの見た目同士、仲良くしようじゃないか」
「何がシャキヤだ! お前、ピシャーチャだろ!? 知ってるぞ、ピシャーチャは他の種族を食らって皮を被るって……僕のことも食べるつもりか」
 男の背後で、ピシャーチャの大群が音もなく動き出した。その顔を真正面から見てしまって、シャクラカーンは思わず目を背けた。
 シャキヤの白く滑らかな肌とは違う、灰黄色で、ざらついていそうな皮膚。いや、何よりも、あの不気味な黒い双眸だ。あれに見つめられると、まるで自分まで怪物に変容していくような恐怖、背筋を虫が這いずり回っているかのような不快感を覚える。
「食べるつもりなら最初からそうするとも。地上ではシャキヤは珍しいからね、ただ話をしたいだけさ。……後でね」
「うぐぐ……」
 自らの非力な腕では抵抗できないと悟ったシャクラカーンは、できるだけピシャーチャを視界に入れないようにして、男の歩みに大人しく揺られる。少し冷静になったことで、彼は気付いた。
 音の鳴り響く方へ向かって、男とピシャーチャは歩いている。
 音源に近付くにつれ、それが何種類もの音が混ざり合ったものだと分かった。荒々しい地響きのような足音、金属を打ち合うような甲高い音、そして、おそらくは叫び声だ。
 やや下方から、それは聞こえていた。


 男が立ち止まり、ピシャーチャも動きを止めた。シャクラカーンが振り向くと、その先は切り立った崖になっているようだ。吹き付ける鋭い風が、男の長い髪を揺らす。
 シャクラカーンは首を捻って崖下を見下ろした。硬く荒れた大地が広がる、そこにはたくさんの影が蠢いていた。
 赤褐色の肌をしている者と、海のように青い色の肌をしている者がいて、何か細長い物を持って相手に振り下ろしているのが見えた。甲高い金属音があちこちで鳴り響く。
「あれは……アスラと、ラークシャサ?」赤い腕が飛んで、青い頭が大地に落ちるのが見える。シャキヤ同士の喧嘩とはかけ離れた凄惨な状況だ。シャクラカーンは息を詰まらせて目を背けた。「戦争をしているのか……?」
「戦争なんて大袈裟な。ただの小競り合いだよ。この辺りは境界だからね」
 男の方はというと、全く変わらない表情で平然と崖下を眺めている。
「境界?」
「君、随分と無知だね? まあ雲の上に住んでいる者にとっては、地上のことなど興味ないか」
「何だと……僕をバカにしているのか!?」
「静かに。これから忙しくなるから、君、下手に動くと怪我するよ」
「な……何をする気だ」
「侵略さ」
 男はシャクラカーンの身体を担ぎ直すと、崖から飛び降りた。
「……っあ?!!?」
 つい先ほど体験したばかりの浮遊感が再びシャクラカーンを襲った。あれは決して心地よいものではなかった。今もそうだ。臓腑がひっくり返りそうな不快な感覚に、背筋がぞわぞわと粟立つ。落下の恐怖と気持ち悪さを振り払おうと、シャクラカーンは必死で男にしがみついた。
 一瞬の衝撃が走り、どうやら下に着いたのだと気付いた。シャクラカーンは無意識のうちにぎゅっと瞑っていた目を開ける。
「うぅ……」
 どうやら男の身体が落下の衝撃を和らげてくれたようだ。今回は、痛みを感じなかった。土埃というものだろうか、細かい粒子が大地から煙のように舞い上がり、熱気と、金属の錆びたような匂いが鼻をつく。その正体が何なのか、シャクラカーンには分からない。
 そして、空が翳った。
 無数の黒い影が天を覆い、直後、戦場へと降り注いだ。ピシャーチャの大群だ。彼らは着地もそこそこに、素早い動きで標的に襲いかかった。アスラもラークシャサも区別なく、肉を、骨を、噛み砕く。まるで一つの巨大な生き物のように、彼らは戦場を呑み込んでいった。
 第三者の乱入という異変に、二つの種族が気付いた時には既に手遅れだった。
 逃げろ、と誰かが叫んだ。
 腕が千切れ、赤い液体を撒き散らしながらよろめくアスラの男がいる。その頭に、脇腹に、残った一本の腕に、足に、複数のピシャーチャが噛み付いて、がり、ごり、と音を立てながら食い散らかしていく。アスラの男は何かを叫びながら息絶えた。
 ピシャーチャはしばらくその場にうずくまっていたが、やがて他の獲物を求めて四方へと散る。後には大地に赤黒い染みが残るだけだ。
 死を恐れないと言われる種族、ラークシャサ。その青色の顔が、今は恐怖に引き攣っている。
「く、来るな……! 来るなぁぁあああ!!」
 ピシャーチャは彼を取り囲み、腕と足を掴んで噛み付いた。ラークシャサの男は、必死に手足を動かそうとするが、ピシャーチャの顎はビクともしない。新たなピシャーチャが横から寄ってきて、ラークシャサの男の姿は見えなくなった。心臓を五つ持っていても、全てを跡形もなく食われては生きられない。
 血飛沫が大地を濡らし、悲鳴と、咀嚼音が入り交じる。
 それはまさに、地獄だった。


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 薄い雲を突き破り、白い影が落下する。
 大地はもう、すぐ、そこだ。
「う、うぅ……」
 シャクラカーンはやっとの思いで瞼を持ち上げた。重い――身体中が痛い。腕を動かそうとすれば雷撃のような激痛が走る。
 まだらな青空が眩しく、暗闇から出たばかりの目に刺さる。あの白いものは何だろう――今まで見ていた天空にはなかった、白い綿のようなもの。
 ――雲……?
 サティヤ・ロカと下界の間に広がる膜のようなものによく似ている。けれど、いつもは見下ろしていたそれが、今は頭のはるか上にある。
「おやぁ?」
 視界に影が落ち、声が降ってきた。
「君、こんなところで寝ていたら死んでしまうよ。踏み潰されてね」
 長い髪の毛先がシャクラカーンの頬をくすぐる。乳白色の肌をした男が、彼を見下ろしていた。
「シャキヤっ……!」
 シャクラカーンは身体の痛みを忘れ、勢いよく起き上がった。
「随分な汚れようだね……何だい、負け戦でもやったのかい?」
 男は背が高く、シャキヤに特有の端正な顔立ちをしていた。清々しい花の香りが漂う。
 同族に会えた喜びに顔を綻ばせかけたシャクラカーンだが、男の背後に、ずらりと並んだ異形の集団を見て叫んだ。
「危な、い……! う、ぐぅ」
 身体の痛みがぶり返し、シャクラカーンはその場にしゃがみ込んだ。早く逃げなければと思うのに、身体が言うことを聞いてくれない。
 泥のように薄汚い黄色の肌。背中は大きく湾曲し、爛れた皮膚の奥に仕舞い込まれた眼球が茫洋と空を眺めている。人食いと名高い、忌避すべき種族ピシャーチャだ。それも十や二十ではない、百――いや、もっといる。
「……?」
 しかし、彼はそこで、あることに気付いた。無数のピシャーチャは皆、その場でじっとしている。こちらを襲ってくるような気配は見せずに、ただ、男の背後に集っているだけだ。
 風が男の長い金髪と、薄い着衣の裾をはらりとなびかせる。
「ああ、襲われると思ったのかな? 彼らのことは気にしなくても良いよ、このナラカでシャキヤに擬態しても意味がないし」
「お、お前、どうして……シャキヤがピシャーチャと一緒にいるんだ。いや、それにここは……ナラカ?」
 身体が震える。痛みからではない、恐怖だ。薄々、そうではないかと思っていたが――ここは、ナラカなのか。
 下界、ナラカ=ランカー。アスラ、ヤクシャ、ラークシャサ、ピシャーチャの四種族が絶えず争いを繰り広げている、血塗れの大地だ。シャキヤの住むサティヤ・ロカからすれば、足を踏み入れるなど考えもつかない、穢らわしい地獄のような場所だった。
「……ふうむ」男は両手でシャクラカーンの脇を掴み、ひょいと持ち上げた。「軽い。けれど、シャキヤの軽さではないね。混ざりものか……まあ、このご時世、さして珍しいことではないけれど」
「お、おい……下ろせ……!」
 混ざりもの、それはシャクラカーンが同族に何度も言われた言葉だった。意味は分からないが、あまりよくないことのように感じていた。
「おっと。始まったか」
 不意に男がシャクラカーンから視線を外し、男の背後に整列する全てのピシャーチャも同じ方向へと一斉に顔を向けた。
 どこからか、世界が震えるような轟音が響いた。それが声なのか、何か硬い物がぶつかり合う音なのか、彼には分からない。今まで、いやサティヤ・ロカでは聞くことのなかった音だ。
 男はシャクラカーンを肩に担ぎ、歩き始める。
「なっ……お、下ろせ! 手を離せ!」
 拳を振り上げて、男の背中を何度も叩く。しかし男は見た目以上に筋力があるようで、痛みを感じる素振りすら見せない。
「まあまあ。同じシャキヤの見た目同士、仲良くしようじゃないか」
「何がシャキヤだ! お前、ピシャーチャだろ!? 知ってるぞ、ピシャーチャは他の種族を食らって皮を被るって……僕のことも食べるつもりか」
 男の背後で、ピシャーチャの大群が音もなく動き出した。その顔を真正面から見てしまって、シャクラカーンは思わず目を背けた。
 シャキヤの白く滑らかな肌とは違う、灰黄色で、ざらついていそうな皮膚。いや、何よりも、あの不気味な黒い双眸だ。あれに見つめられると、まるで自分まで怪物に変容していくような恐怖、背筋を虫が這いずり回っているかのような不快感を覚える。
「食べるつもりなら最初からそうするとも。地上ではシャキヤは珍しいからね、ただ話をしたいだけさ。……後でね」
「うぐぐ……」
 自らの非力な腕では抵抗できないと悟ったシャクラカーンは、できるだけピシャーチャを視界に入れないようにして、男の歩みに大人しく揺られる。少し冷静になったことで、彼は気付いた。
 音の鳴り響く方へ向かって、男とピシャーチャは歩いている。
 音源に近付くにつれ、それが何種類もの音が混ざり合ったものだと分かった。荒々しい地響きのような足音、金属を打ち合うような甲高い音、そして、おそらくは叫び声だ。
 やや下方から、それは聞こえていた。
 男が立ち止まり、ピシャーチャも動きを止めた。シャクラカーンが振り向くと、その先は切り立った崖になっているようだ。吹き付ける鋭い風が、男の長い髪を揺らす。
 シャクラカーンは首を捻って崖下を見下ろした。硬く荒れた大地が広がる、そこにはたくさんの影が蠢いていた。
 赤褐色の肌をしている者と、海のように青い色の肌をしている者がいて、何か細長い物を持って相手に振り下ろしているのが見えた。甲高い金属音があちこちで鳴り響く。
「あれは……アスラと、ラークシャサ?」赤い腕が飛んで、青い頭が大地に落ちるのが見える。シャキヤ同士の喧嘩とはかけ離れた凄惨な状況だ。シャクラカーンは息を詰まらせて目を背けた。「戦争をしているのか……?」
「戦争なんて大袈裟な。ただの小競り合いだよ。この辺りは境界だからね」
 男の方はというと、全く変わらない表情で平然と崖下を眺めている。
「境界?」
「君、随分と無知だね? まあ雲の上に住んでいる者にとっては、地上のことなど興味ないか」
「何だと……僕をバカにしているのか!?」
「静かに。これから忙しくなるから、君、下手に動くと怪我するよ」
「な……何をする気だ」
「侵略さ」
 男はシャクラカーンの身体を担ぎ直すと、崖から飛び降りた。
「……っあ?!!?」
 つい先ほど体験したばかりの浮遊感が再びシャクラカーンを襲った。あれは決して心地よいものではなかった。今もそうだ。臓腑がひっくり返りそうな不快な感覚に、背筋がぞわぞわと粟立つ。落下の恐怖と気持ち悪さを振り払おうと、シャクラカーンは必死で男にしがみついた。
 一瞬の衝撃が走り、どうやら下に着いたのだと気付いた。シャクラカーンは無意識のうちにぎゅっと瞑っていた目を開ける。
「うぅ……」
 どうやら男の身体が落下の衝撃を和らげてくれたようだ。今回は、痛みを感じなかった。土埃というものだろうか、細かい粒子が大地から煙のように舞い上がり、熱気と、金属の錆びたような匂いが鼻をつく。その正体が何なのか、シャクラカーンには分からない。
 そして、空が翳った。
 無数の黒い影が天を覆い、直後、戦場へと降り注いだ。ピシャーチャの大群だ。彼らは着地もそこそこに、素早い動きで標的に襲いかかった。アスラもラークシャサも区別なく、肉を、骨を、噛み砕く。まるで一つの巨大な生き物のように、彼らは戦場を呑み込んでいった。
 第三者の乱入という異変に、二つの種族が気付いた時には既に手遅れだった。
 逃げろ、と誰かが叫んだ。
 腕が千切れ、赤い液体を撒き散らしながらよろめくアスラの男がいる。その頭に、脇腹に、残った一本の腕に、足に、複数のピシャーチャが噛み付いて、がり、ごり、と音を立てながら食い散らかしていく。アスラの男は何かを叫びながら息絶えた。
 ピシャーチャはしばらくその場にうずくまっていたが、やがて他の獲物を求めて四方へと散る。後には大地に赤黒い染みが残るだけだ。
 死を恐れないと言われる種族、ラークシャサ。その青色の顔が、今は恐怖に引き攣っている。
「く、来るな……! 来るなぁぁあああ!!」
 ピシャーチャは彼を取り囲み、腕と足を掴んで噛み付いた。ラークシャサの男は、必死に手足を動かそうとするが、ピシャーチャの顎はビクともしない。新たなピシャーチャが横から寄ってきて、ラークシャサの男の姿は見えなくなった。心臓を五つ持っていても、全てを跡形もなく食われては生きられない。
 血飛沫が大地を濡らし、悲鳴と、咀嚼音が入り交じる。
 それはまさに、地獄だった。