『戦国最強』こと戈淵は、実は子煩悩な人物であった。
長女慈の玄家への輿入れに際し、一万余もの兵をつけ「末代まであるまじき」と史書へ記録されている。また、彼女の安産を御聖嶽の社に祈願していたとも。
この時代、他家へ嫁した娘に異例な対応だ。
もっとも、それは若い頃の話。
当主として幾星霜、戦と謀略の薄氷を履んできた。臣民が増えるにつれ、その家族までも一蓮托生なのだと知れば、私情が枷となる。
判断を過たぬよう、己が肉親とは疎遠を貫くようになった。
それゆえ、我が子をその手に抱えるのは、何年ぶりだろうか。
慟哭していたつむぎも、父の膝の上で落ち着きつつあった。
この末娘は、生まれたばかりの頃に一度だけ、抱いたことがある。
梵平の決戦で、同母弟の汗を亡くし、心が弱っていた折、帰城して間もなく出産の報を受け、篤く擁してしまったのだ。
最も信頼していた弟の、生まれ変わりと思えてならなかった。
つむぎが戈家に特有の三白眼で、上目遣いにじっと見つめている。
赤子の時は、御館さまによく似た子だと――自分にそっくりなら申し訳ないなと苦笑しつつ、滅多に顔を会わせずとも、安堵していた。
それがだんだん、あの娘は異しからずと胡散な話が耳に入り始め、そして、例の碧蛇騒動である。
戈淵が忌む反吐が出るような迷信であり、そもそも、月祈のような薄汚い俗物にそのような魔力があるものか。
「……だから、あなたの考えはどうでもいいの。問題は下々の民がそれを信じているということ」
正室の晶夫人から幾度も呈された苦言が耳に蘇る。
実際、月氏という霊的頂点を断てば瓦解するはずだった結束が、むしろ強くなった。鹿埜の民は戈淵への嫌悪で一致団結し、彼に何度も苦杯を嘗めさせた。
「輜重の計算もできぬ有象無象」と侮っていたが、民心を秤へ載せていなかったのは自分だったと気付かされた。
さらに戦が膠着するにつれ、鹿埜の民の救援という大義を掲げ、北の軍事大国が蠢動し始めた。
春を迎えるたびに軍を進発させることから『雪解けの竜姫』と仇名される、木家の凛だ。
凛は、義によって戦をする。わけが分からない。戦争という愚行に義もくそもあるか。
合理主義者の淵とは水と油であった。
やがて両者は、十二年にも及ぶ泥沼の長期戦へと突入する。
迷信を断ち切るどころか、大失敗だった。
しかし、ここからが戈淵の真骨頂。
因縁の月氏とは、祈の娘を側室に迎え男児を生ませ、月家を継がせた。有力な六合衆には、娘どころか息子ですら養子へ出し、血縁とした。嫡男の溟以外、戈の苗字を名乗る者はいなかったという徹底ぶりである。あまつさえ自らも頭を丸め、入道となる。
理想とした法治の中央集権を捨て、信仰と血縁に頼る伝統的な支配に拠ったのだ。柔軟と称えるか、妥協と侮るか。
「……父上の手、おぼえてます」
つむぎが、泣いて掠れた声で呟く。
「まことか。そなたは嬰児だったぞ」
子供の戯れ言に、戈淵は莞爾とした。
その刹那、秋にしては生暖かい風が本堂を吹き抜けた。燈篭と灯燭のともしびが、崩ずるが如く消える。
叢雲が陽を隠し、薄闇に包まれた。
「御館さま!」
不穏を怪しんだ奥近習たちは、外陣の入口へ控えていたが、さっと戈淵の傍に身を寄せる。
するとつむぎが、思い出したように顔をあげた。
「あ、ごめん」
彼女の小さな手から、先に捕まえた大蜘蛛がやっと解放され、庭へ駆けていった。
「あやつの仕業か」
いかにも山の民といった青年が、驚嘆したように呟く。そして、つむぎを意欲的な目で見やった。この姫、やはり妖を引き寄せるか。
「たわけ、ただの偶然よ」
戈淵が窘めると、青年は殊勝に頭を垂れた。この者、卯家の垣という。この時はまだ、奥近習の若輩である。
僧たちが、当主の目前で反魂のともしびが消えてしまったという禍事に、右往左往する。
戈淵は「気にするな」と言わんばかりに、泰然とふるまった。胸中、いとの魂が旅立ってしまった兆しのようで、心を剥ぎとられる。
その時、つむぎが何かに憑かれたような不思議な抑揚で、独り言ち始めた。
さすがの戈淵もギョッとして、背筋に寒いものが走る。まやかしは信じぬが、目の前で見せられては……。
「おや、これは反魂の呪文では?」
卯垣が、不躾に姫を覗き込んだ。
つむぎは手を合わせ、神妙な顔で詠唱を続けている。
まさかそんな……と戈淵は訝りつつ、足元の経本を手にして梵字を追いかけると、確かにそれっぽい音を確実に唱えていた。
「まさか、僧侶の読経を聞いて、耳で覚えたのか」
戈淵が目を見張りつつ、嬰児の時に抱かれたことを憶えているとの呟きを思い出した。
――良い斥候になりそうですな、と言いかけた不遜な卯垣を別の近習が小突く。
「さあ、我々も姫にならい、いとさまの反魂を願いましょう」
きらきらした瞳で恭しく促すと一同、深く頷いて早逝した姫へ祈りを捧げた。
戈淵は、つむぎの合わせた手を包むように握る。ごつごつしているが、とても暖かい。
吹き消された燈篭と灯燭に火が再びともされ、神輿のような桐の坐棺が明るく照らされる。
つむぎは、亡くなったいとの手の温度を脳裏に浮かべた。とても、とても、冷たい。
翌々日、いとは火葬され、小さな骨となった。