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蛇姫

ー/ー



 伽羅(きゃら)の線香の郁馥(いくふく)が、深い森の古木のような幽玄さとある種の鋭い刺激を伴い、室内の空気を(まゆ)のように覆った。
 ()家の菩提寺(ぼだいじ)のひとつ、城下の有我(あるが)寺。
 薄暗い外陣(げじん)の中、対の燈篭(とうろう)灯燭(とうしょく)がともしびとなり、安置された坐棺(ざかん)を照らす。
「おみこしみたい」
 つむぎは、自分もあの中へ入りたいと思った。
 竜胆(りんどう)、百合、菊、桔梗(ききょう)などの秋の花と共に、茶湯や生前好きだった梨が供され、確かに、神さまが祭られているようにも見える。
 (ひつぎ)にはつむぎの年子の姉、いとの遺体が納められていた。
 行年(ぎょうねん)六歳、早過ぎる死だ。元気な頃は、くるくるとよく笑う女の子だった。
 遺体は昨日にこの寺へ運ばれ、今は反魂(はんこん)の儀の最中である。禅律僧(ぜんりつそう)の、(よみがえ)りを願う()()()()()が、寺内に響いた。現在の通夜に相当し、三日ほど過ごして参列者の到着を待ち、それから火葬となる。
 つまり死者の(よみがえ)りは儀式上の方便だが、母親の(わら)をも(すが)る気持ちを誰が笑えようか。
 (けい)夫人は、憔悴(しょうすい)しきった顔でうわごとのように祈祷(きとう)を繰り返し、愛娘の魂の帰還を祈り続けている。
 その隣には末子のつむぎが座り、長兄のふかみ、長姉のやはらぎ、次兄の()()()が順に並ぶ。亡き()()を含めて全員年子だ。
 恵夫人の充血した目から知らず涙が零れ落ち、経本(きょうほん)の文字を(にじ)ませた。

 ところで、この時代の喪服は送る側も白色である。
 つむぎは、白の小袖がかわいらしく思え、気が弾んでいた。まだ五歳の幼児である。くわえ、少し感受性の発達が遅く、死の重さを把握しきれずにいた。
「いつも苦しそうだったいとちゃんが、おだやかなお顔になって、むしろよかったんじゃないかしら」
 その一方で喘ぐように祈祷する恵夫人を見、でも母上はいなくなったら嫌だなと思い、小袖の(たもと)をきゅっと握る。
 実のところ、すっかり退屈してしまっていた。
 その時、境内の外で鳥にでも追われたのか、ヤツデコブが外陣(げじん)の畳へ現れた。
 アシダカに似た大きな蜘蛛だが、こちらは六合(りくごう)の在来種である。屋内より、森林を生息地としている。
――珍しい子だ。
 つむぎの目が意欲的に光るや、餌を見つけた蛇の如くしなやかに動き、(てのひら)より大きい蜘蛛を掴んでみせた。
 してやったとばかり、つむぎは獲物を掲げる。
 兄姉は、ぎょっと表情を凍らせた。
……いま、そんなことしたら、まずいよ。
「この化け物が!」
 恵夫人が、つむぎのふくふくした頬を張り倒した。
 つむぎの意識が一瞬飛んで、しばし畳に伏す。
 自分の産んだ子は――お家のために腹を貸しているだけとしても、かけがえなかった。
 だが、このつむぎだけは、どうしても愛せない。
 蛇神に憑かれたせいもあるが……違う、産まれた時からだ。
 顔が、あまりにも(えん)に似ていた。
 まあ四十の壮健な男と女の子の赤ちゃんが似ている(よし)もないが、その目だ。
 白目が横と下に広く、いわゆる三白眼(さんぱくがん)というやつである。
 その虎のような目が本当に苦手で、怖かった。一言も発さぬまま、ただ冷たく見下ろされる時間が、何より辛かった。
 妊娠さえしてしまえば、そんな夜伽(よとぎ)から解放される。
 恵夫人の子供が全員、年子なのはそれゆえである。
 しかし無理が祟って、つむぎを出産してから肥立ちが悪く、体調を崩しがちであった。

 つむぎはやおらに起きあがるや、ぽろぽろと大粒の涙を零した。
――またやってしまった。
 衝動を抑えられなくなるのは、ずっと怒られていることだ。悪い子の自分が許せない。治そうと思っても、ダメなのだ。でも母上だって、そんなに思いっきりぶたなくてもいいじゃないか。私にばっかり、ひどい。
 ていうか化け物……って、言われた?
 つむぎは火がついたように泣き叫んだ。
 しかし恵夫人は、もはや慈母の仮面をかなぐり捨て、狂気の表情でつむぎの襟を掴む。
「お前は、姉が死んだのに悲しくないのか」
「母上、まだこの子は幼いですから」
 姉のやはらぎが母親をなだめ、兄のふかみは末妹を己の体で庇う。次兄の()()()は、母の癇癪(かんしゃく)に圧倒され、おろおろしていた。優秀な兄姉のせいで、日和見(ひよりみ)癖がある。
 だがそのおかげで、現れた人影にいちはやく気が付いた。
「みな控えよ!」と甲高い声で叫ぶ。
 強い圧に気づき顔をあげてみれば、当主の淵が仁王立ちしていた。
 ややふっくらした面立ちは顔の造りが小さく、実際の身長より体を大きく見せていた。形式上、僧籍に入っているため頭は坊主だが、口元と(あご)(ひげ)は綺麗に手入れされている。
 そして何より『虎』の仇名に違うことなき、貫くような三白眼。
 慌てて、母子はひれ伏す。
 淵はおもむろに、息も止まりそうなくらい泣き(むせ)ぶつむぎを抱えあげた。
(けい)(かた)はお疲れの様子である。奥で休ませよ。ぬしら、付き添ってあげなさい」
 促す声は意外に優しい。
 兄妹は未だ肩で息をしている母を伴い、奥へ向かった。騒ぎを聞きつけ様子を見に来た小坊主が、淵の姿に(おのの)きながら平服し、それから夫人らを案内する。
 つむぎは、暮らしの中で接点のない淵を恐ろし気に思うが、ふと、その大きな手に懐かしさを覚えた。
 頭の中の時間軸を動かす。
 それは生まれたばかりの頃まで(さかのぼ)り、すると(いくさ)から戻ったばかりの父のやつれた顔が現れた。
――伸びたひげが頬にあたってとても痛かった。
 すっと安堵が滲んでつむぎは、その隆々とした胸に濡るる顔を埋めた。


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 |伽羅《きゃら》の線香の|郁馥《いくふく》が、深い森の古木のような幽玄さとある種の鋭い刺激を伴い、室内の空気を|繭《まゆ》のように覆った。
 |戈《か》家の|菩提寺《ぼだいじ》のひとつ、城下の|有我《あるが》寺。
 薄暗い|外陣《げじん》の中、対の|燈篭《とうろう》と|灯燭《とうしょく》がともしびとなり、安置された|坐棺《ざかん》を照らす。
「おみこしみたい」
 つむぎは、自分もあの中へ入りたいと思った。
 |竜胆《りんどう》、百合、菊、|桔梗《ききょう》などの秋の花と共に、茶湯や生前好きだった梨が供され、確かに、神さまが祭られているようにも見える。
 |棺《ひつぎ》にはつむぎの年子の姉、いとの遺体が納められていた。
 |行年《ぎょうねん》六歳、早過ぎる死だ。元気な頃は、くるくるとよく笑う女の子だった。
 遺体は昨日にこの寺へ運ばれ、今は|反魂《はんこん》の儀の最中である。|禅律僧《ぜんりつそう》の、|蘇《よみがえ》りを願う|だ《・》|あ《・》|ら《・》|に《・》|い《・》が、寺内に響いた。現在の通夜に相当し、三日ほど過ごして参列者の到着を待ち、それから火葬となる。
 つまり死者の|甦《よみがえ》りは儀式上の方便だが、母親の|藁《わら》をも|縋《すが》る気持ちを誰が笑えようか。
 |恵《けい》夫人は、|憔悴《しょうすい》しきった顔でうわごとのように|祈祷《きとう》を繰り返し、愛娘の魂の帰還を祈り続けている。
 その隣には末子のつむぎが座り、長兄のふかみ、長姉のやはらぎ、次兄の|う《・》|し《・》|を《・》が順に並ぶ。亡き|い《・》|と《・》を含めて全員年子だ。
 恵夫人の充血した目から知らず涙が零れ落ち、|経本《きょうほん》の文字を|滲《にじ》ませた。
 ところで、この時代の喪服は送る側も白色である。
 つむぎは、白の小袖がかわいらしく思え、気が弾んでいた。まだ五歳の幼児である。くわえ、少し感受性の発達が遅く、死の重さを把握しきれずにいた。
「いつも苦しそうだったいとちゃんが、おだやかなお顔になって、むしろよかったんじゃないかしら」
 その一方で喘ぐように祈祷する恵夫人を見、でも母上はいなくなったら嫌だなと思い、小袖の|袂《たもと》をきゅっと握る。
 実のところ、すっかり退屈してしまっていた。
 その時、境内の外で鳥にでも追われたのか、ヤツデコブが|外陣《げじん》の畳へ現れた。
 アシダカに似た大きな蜘蛛だが、こちらは|六合《りくごう》の在来種である。屋内より、森林を生息地としている。
――珍しい子だ。
 つむぎの目が意欲的に光るや、餌を見つけた蛇の如くしなやかに動き、|掌《てのひら》より大きい蜘蛛を掴んでみせた。
 してやったとばかり、つむぎは獲物を掲げる。
 兄姉は、ぎょっと表情を凍らせた。
……いま、そんなことしたら、まずいよ。
「この化け物が!」
 恵夫人が、つむぎのふくふくした頬を張り倒した。
 つむぎの意識が一瞬飛んで、しばし畳に伏す。
 自分の産んだ子は――お家のために腹を貸しているだけとしても、かけがえなかった。
 だが、このつむぎだけは、どうしても愛せない。
 蛇神に憑かれたせいもあるが……違う、産まれた時からだ。
 顔が、あまりにも|淵《えん》に似ていた。
 まあ四十の壮健な男と女の子の赤ちゃんが似ている|由《よし》もないが、その目だ。
 白目が横と下に広く、いわゆる|三白眼《さんぱくがん》というやつである。
 その虎のような目が本当に苦手で、怖かった。一言も発さぬまま、ただ冷たく見下ろされる時間が、何より辛かった。
 妊娠さえしてしまえば、そんな|夜伽《よとぎ》から解放される。
 恵夫人の子供が全員、年子なのはそれゆえである。
 しかし無理が祟って、つむぎを出産してから肥立ちが悪く、体調を崩しがちであった。
 つむぎはやおらに起きあがるや、ぽろぽろと大粒の涙を零した。
――またやってしまった。
 衝動を抑えられなくなるのは、ずっと怒られていることだ。悪い子の自分が許せない。治そうと思っても、ダメなのだ。でも母上だって、そんなに思いっきりぶたなくてもいいじゃないか。私にばっかり、ひどい。
 ていうか化け物……って、言われた?
 つむぎは火がついたように泣き叫んだ。
 しかし恵夫人は、もはや慈母の仮面をかなぐり捨て、狂気の表情でつむぎの襟を掴む。
「お前は、姉が死んだのに悲しくないのか」
「母上、まだこの子は幼いですから」
 姉のやはらぎが母親をなだめ、兄のふかみは末妹を己の体で庇う。次兄の|う《・》|し《・》|を《・》は、母の|癇癪《かんしゃく》に圧倒され、おろおろしていた。優秀な兄姉のせいで、|日和見《ひよりみ》癖がある。
 だがそのおかげで、現れた人影にいちはやく気が付いた。
「みな控えよ!」と甲高い声で叫ぶ。
 強い圧に気づき顔をあげてみれば、当主の淵が仁王立ちしていた。
 ややふっくらした面立ちは顔の造りが小さく、実際の身長より体を大きく見せていた。形式上、僧籍に入っているため頭は坊主だが、口元と|顎《あご》の|髭《ひげ》は綺麗に手入れされている。
 そして何より『虎』の仇名に違うことなき、貫くような三白眼。
 慌てて、母子はひれ伏す。
 淵はおもむろに、息も止まりそうなくらい泣き|咽《むせ》ぶつむぎを抱えあげた。
「|恵《けい》の|方《かた》はお疲れの様子である。奥で休ませよ。ぬしら、付き添ってあげなさい」
 促す声は意外に優しい。
 兄妹は未だ肩で息をしている母を伴い、奥へ向かった。騒ぎを聞きつけ様子を見に来た小坊主が、淵の姿に|慄《おのの》きながら平服し、それから夫人らを案内する。
 つむぎは、暮らしの中で接点のない淵を恐ろし気に思うが、ふと、その大きな手に懐かしさを覚えた。
 頭の中の時間軸を動かす。
 それは生まれたばかりの頃まで|遡《さかのぼ》り、すると|戦《いくさ》から戻ったばかりの父のやつれた顔が現れた。
――伸びたひげが頬にあたってとても痛かった。
 すっと安堵が滲んでつむぎは、その隆々とした胸に濡るる顔を埋めた。