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救うために、救わなかった一命がある。

ー/ー



 救急外来に、平等はない。だが、あってはならないと、私は信じてきた。
 
 
 ◇◇◇
 
 夜勤の始まりは、いつも同じ匂いから始まる。消毒用アルコールと、血液と、ほんの少しの焦げたような臭い。人の身体が限界を超えたときにだけ立ち上る、あの独特の匂いだ。
 
「佐倉先生、救急搬送入ります!」
 
 看護師の声に、私は顔を上げる。壁の時計は23時40分。外は雨だろう。救急外来に運ばれてくる患者の靴底は、決まって濡れている。
 
「状況は」
 
「交通事故。乗用車同士の衝突です。意識レベル低下あり」
 
 私は白衣の袖をまくり、手袋をはめる。考えるより先に身体が動く。救急医として17年、この瞬間に迷ったことは一度もなかった。
 
 ストレッチャーが運び込まれる。三十代男性。呼吸浅薄。血圧低下。FAST陽性。腹腔内出血。
 
「CT回す。輸血準備!」
 
 指示は簡潔でいい。救急外来では、言葉が多いほど命が遠ざかる。
 
 隣のベッドでは、七十代の女性が呻いている。脳出血疑い。
 
 若手医師が私を見る。
 
「先生、どちらを先に」
 
「両方だ!」
 
 私は即答した。
 
「順番をつけるな。人を並べるな。できる限り同時にやる」
 
 若手医師は一瞬、戸惑った顔をしたが、すぐに頷いた。彼はまだ知らないのだ。順番をつけるという行為が、どれほど人を壊すかを。
 
 命は平等だ。
 
 それは理想ではない。医師が持たなければならない、最低限の前提だ。
 
 私はそう信じてきた。
 
 
 ◇◇◇
 
 事故が起きたのは、その三日後だった。
 
 市内の化学工場で爆発。深夜帯にも関わらず、作業員が十数名。火傷、外傷、吸入障害。救急要請が立て続けに入り、当院が受け入れの中核になる。
 
 ERは、戦場になった。
 
「先生、ICU満床です!」
 
「手術室、二つしか空いてません!」
 
「人工呼吸器が足りません!」
 
 叫び声、アラーム音、血の匂い。
 
 私は指示を出し続ける。冷静に、淡々と。感情を入れない。入れれば、判断が遅れる。
 
 トリアージタグが貼られていく。赤、黄、緑、黒。色で命を分類する行為に、私はいつも小さな抵抗を覚えていた。
 
「佐倉先生」
 
 副院長が、私の横に立つ。
 
「今回は、優先順位を明確にしよう。救命率の高い患者を先に」
 
「それは、命に重さをつけるということですか」
 
「現実だ。理想論では救えない」
 
 私は彼を見た。彼の目には、焦りと責任が混じっている。管理職の目だ。
 
「救える命を最大化するのが、医療だ」
 
「救えるかどうかは、やってみなければ分かりません」
 
「可能性の話をしているんじゃない。確率だ」
 
 私は首を横に振った。
 
「確率で人を切り捨てるなら、それは医療じゃない」
 
 副院長は何も言わず、踵を返した。
 
 若手医師たちが、私を見ている。彼らは私の判断を待っている。
 
「全員、治療対象だ!」
 
 私は言った。
 
「誰も見捨てない……」
 
 
 ◇◇◇
 
 問題の患者が運ばれてきたのは、午前2時を回った頃だった。
 
 六十代男性。全身熱傷40%以上。吸入障害あり。ショック状態。救命率は、統計上、2割以下。
 
 若手医師が、声を落として言う。
 
「先生……この方にここまで資源を使うと、他が……」
 
「可能性はゼロか」
 
「……ゼロではありません」
 
「なら、やる」
 
 私は迷わなかった。迷わないことが、私の誇りだった。
 
 大量輸液。昇圧剤。人工呼吸管理。手術室を一つ占有。看護師が走り回る。
 
 その間にも、別の患者のモニターが警告音を上げる。
 
「血圧下がってます!」
 
「輸血が足りません!」
 
 私は感じ始めていた。何かが、崩れている。
 
 若手医師が、私の腕を掴む。
 
「先生、このままだと、向こうの二人が……」
 
 私は彼を振りほどいた。
 
「今、目の前の命を見ろ」
 
 言葉にした瞬間、自分の声が硬すぎることに気づいた。
 
 
 ◇◇◇
 
 夜明け前、私は一瞬、手を止めた。
 
 目の前の患者は、反応が乏しい。瞳孔反射は鈍く、血圧は昇圧剤でかろうじて維持されている。
 
 私は思い出していた。
 
 研修医の頃、似たような夜があった。
 
 二人の患者。一人は助かる可能性が高く、もう一人は低かった。
 
 私は、前者を選んだ。結果、後者は亡くなった。
 
「正しい判断だった」
 
 上級医はそう言った。
 
 だが私は、その顔を一生忘れられなかった。
 
 だから誓ったのだ。二度と、選ばないと。
 
 だが今――。
 
 
 ◇◇◇
 
「先生!」
 
 看護師の声が震えている。
 
「別の患者さん、心停止です!」
 
 私は、振り返らなかった。
 
 目の前の患者の胸が、かすかに上下している。
 まだ、生きている。
 
 
 そのとき、はっきりと理解した。
 
 私は、もう選んでいる。
 
 選ばないという信念のために、別の命を危険に晒している。
 
 平等とは、何だ。同じように扱うことか。それとも、結果に責任を持つことか。
 
 私は、人工呼吸器の設定を見つめた。
 
 指先が、わずかに震えている。
 
「……治療方針を変更する」
 
 自分の声が、他人のもののように聞こえた。
 
「この患者は、治療継続困難だ」
 
 若手医師が、息を呑む。
 
「先生……それは……」
 
「私が判断する」
 
 私は、人工呼吸器を外した。
 
 薬剤を止めた。
 
 患者の胸が、静かになっていく。
 
 モニターの波形が、一本の線になる。
 
 その瞬間、別のベッドから、回復の報告が上がった。
 
「血圧、安定しました!」
 
「意識戻ってます!」
 
 救われた命が、確かにあった。
 
 
 ◇◇◇
 
 夜が明けた。
 
 私は一人、処置室に残っていた。手は、もう震えていない。
 
 分かったのだ。
 
 私は医師として、正しいことをした。だが、人として何かを決定的に失った。
 
 命は平等だ。そう信じてきた。
 
 だが私は、たった一人を見殺しにすることで、その信念を、自分の手で殺した。
 
 それでも……それでも私は、今日も白衣を着る。
 
 神ではない手で、選び続けるために。





みんなのリアクション

 救急外来に、平等はない。だが、あってはならないと、私は信じてきた。
 ◇◇◇
 夜勤の始まりは、いつも同じ匂いから始まる。消毒用アルコールと、血液と、ほんの少しの焦げたような臭い。人の身体が限界を超えたときにだけ立ち上る、あの独特の匂いだ。
「佐倉先生、救急搬送入ります!」
 看護師の声に、私は顔を上げる。壁の時計は23時40分。外は雨だろう。救急外来に運ばれてくる患者の靴底は、決まって濡れている。
「状況は」
「交通事故。乗用車同士の衝突です。意識レベル低下あり」
 私は白衣の袖をまくり、手袋をはめる。考えるより先に身体が動く。救急医として17年、この瞬間に迷ったことは一度もなかった。
 ストレッチャーが運び込まれる。三十代男性。呼吸浅薄。血圧低下。FAST陽性。腹腔内出血。
「CT回す。輸血準備!」
 指示は簡潔でいい。救急外来では、言葉が多いほど命が遠ざかる。
 隣のベッドでは、七十代の女性が呻いている。脳出血疑い。
 若手医師が私を見る。
「先生、どちらを先に」
「両方だ!」
 私は即答した。
「順番をつけるな。人を並べるな。できる限り同時にやる」
 若手医師は一瞬、戸惑った顔をしたが、すぐに頷いた。彼はまだ知らないのだ。順番をつけるという行為が、どれほど人を壊すかを。
 命は平等だ。
 それは理想ではない。医師が持たなければならない、最低限の前提だ。
 私はそう信じてきた。
 ◇◇◇
 事故が起きたのは、その三日後だった。
 市内の化学工場で爆発。深夜帯にも関わらず、作業員が十数名。火傷、外傷、吸入障害。救急要請が立て続けに入り、当院が受け入れの中核になる。
 ERは、戦場になった。
「先生、ICU満床です!」
「手術室、二つしか空いてません!」
「人工呼吸器が足りません!」
 叫び声、アラーム音、血の匂い。
 私は指示を出し続ける。冷静に、淡々と。感情を入れない。入れれば、判断が遅れる。
 トリアージタグが貼られていく。赤、黄、緑、黒。色で命を分類する行為に、私はいつも小さな抵抗を覚えていた。
「佐倉先生」
 副院長が、私の横に立つ。
「今回は、優先順位を明確にしよう。救命率の高い患者を先に」
「それは、命に重さをつけるということですか」
「現実だ。理想論では救えない」
 私は彼を見た。彼の目には、焦りと責任が混じっている。管理職の目だ。
「救える命を最大化するのが、医療だ」
「救えるかどうかは、やってみなければ分かりません」
「可能性の話をしているんじゃない。確率だ」
 私は首を横に振った。
「確率で人を切り捨てるなら、それは医療じゃない」
 副院長は何も言わず、踵を返した。
 若手医師たちが、私を見ている。彼らは私の判断を待っている。
「全員、治療対象だ!」
 私は言った。
「誰も見捨てない……」
 ◇◇◇
 問題の患者が運ばれてきたのは、午前2時を回った頃だった。
 六十代男性。全身熱傷40%以上。吸入障害あり。ショック状態。救命率は、統計上、2割以下。
 若手医師が、声を落として言う。
「先生……この方にここまで資源を使うと、他が……」
「可能性はゼロか」
「……ゼロではありません」
「なら、やる」
 私は迷わなかった。迷わないことが、私の誇りだった。
 大量輸液。昇圧剤。人工呼吸管理。手術室を一つ占有。看護師が走り回る。
 その間にも、別の患者のモニターが警告音を上げる。
「血圧下がってます!」
「輸血が足りません!」
 私は感じ始めていた。何かが、崩れている。
 若手医師が、私の腕を掴む。
「先生、このままだと、向こうの二人が……」
 私は彼を振りほどいた。
「今、目の前の命を見ろ」
 言葉にした瞬間、自分の声が硬すぎることに気づいた。
 ◇◇◇
 夜明け前、私は一瞬、手を止めた。
 目の前の患者は、反応が乏しい。瞳孔反射は鈍く、血圧は昇圧剤でかろうじて維持されている。
 私は思い出していた。
 研修医の頃、似たような夜があった。
 二人の患者。一人は助かる可能性が高く、もう一人は低かった。
 私は、前者を選んだ。結果、後者は亡くなった。
「正しい判断だった」
 上級医はそう言った。
 だが私は、その顔を一生忘れられなかった。
 だから誓ったのだ。二度と、選ばないと。
 だが今――。
 ◇◇◇
「先生!」
 看護師の声が震えている。
「別の患者さん、心停止です!」
 私は、振り返らなかった。
 目の前の患者の胸が、かすかに上下している。
 まだ、生きている。
 そのとき、はっきりと理解した。
 私は、もう選んでいる。
 選ばないという信念のために、別の命を危険に晒している。
 平等とは、何だ。同じように扱うことか。それとも、結果に責任を持つことか。
 私は、人工呼吸器の設定を見つめた。
 指先が、わずかに震えている。
「……治療方針を変更する」
 自分の声が、他人のもののように聞こえた。
「この患者は、治療継続困難だ」
 若手医師が、息を呑む。
「先生……それは……」
「私が判断する」
 私は、人工呼吸器を外した。
 薬剤を止めた。
 患者の胸が、静かになっていく。
 モニターの波形が、一本の線になる。
 その瞬間、別のベッドから、回復の報告が上がった。
「血圧、安定しました!」
「意識戻ってます!」
 救われた命が、確かにあった。
 ◇◇◇
 夜が明けた。
 私は一人、処置室に残っていた。手は、もう震えていない。
 分かったのだ。
 私は医師として、正しいことをした。だが、人として何かを決定的に失った。
 命は平等だ。そう信じてきた。
 だが私は、たった一人を見殺しにすることで、その信念を、自分の手で殺した。
 それでも……それでも私は、今日も白衣を着る。
 神ではない手で、選び続けるために。


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