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苛められっ子との会話

ー/ー



 10月――――冬に向かって寒くなってきていることを知らせてくれる月日。今年もこの時がやって来た。肌寒い風が、僕の体を遠慮なく冷やしてくる。
 あまり好きじゃない季節が近づいてきて来たことを、僕に訴えかけるかのようだ。

「うっ、寒い……」

 僕は少しだけ温かい校舎の廊下を歩き、少しだけ冷たい風が吹き抜ける玄関を抜け、そして肌寒い風が吹く外へ出た。思わず寒いと小さな声で呟いてしまった。
 早く帰って家でぬくぬくと温かくしていよう……そう思いながら足早に学校の敷地内を通り過ぎる。

「――――?」

 そう思っていたはずだったのに、僕は思わず足を止めてしまった。
 寒すぎて足が動かなくなった? 違う。足の筋でも切った? それとも……いや、全く違う。

「――――」

 校舎の前には一本の広葉樹がある。それは記念樹というわけではないけど、かなりの歴史があるらしく、太い幹がそれを物語るかのようにそびえ立っている。
 
 その木の下で、一人の女子がいた。
 そう、僕が足を止めた理由はこれだった。こんなにも目立つ巨木の下で、一人だけ木を見上げているだけの姿は奇妙だった。

 顔を見てすぐに分かった。
 神埼(かんざき) (あん)さん。僕と同じクラスで物静かで優しい性格を持っている、成績優秀な人だ。そして……クラスの苛められっ子だ。
 いわゆる陽キャ女子からの標的になっていて、かなりひどいことをされているのをよく見かける。

 「杏さん」

「――――(あきら)くん」

 『彼女とはもう話せない』。
 そう言われていたのに、僕はつい話しかけてしまった。いや、頭からすっと抜けてしまっていたんだ。

「今日は寒いね」

「うん、今日は寒いね。マフラーがあっても良いかもって思っちゃった」

 神崎さんはそっと僕の方を向いて、そして困った顔をしながら笑顔を見せた。そう、僕が神崎さんと話している時によく見る表情だった。



 僕と神埼さんは、この高校に入学した時から同じクラスメイトだ。でも、最初は全く接点がなかった。
 きっかけは今年の夏だった。その日はたまたま僕の友達数人が放課後に学校内でそれぞれ用事があって、久しぶりに1人で下校していた。
 僕の通学路の途中には小さな公園があって、鉄棒やシーソー、砂場、そして横に3人くらい座れる背もたれのついた木のベンチがある。そこに、1人の女子高生が座っていたのが目に入った。

 僕の通う高校と同じ制服を着ていた。そして、彼女は手で顔を覆って俯いていた。
 僕の目にはそれがすごい印象的で、理由はわからないけど、彼女に吸い込まれるように近づいた。
 多分その時にはもう、泣いている人は神崎さんだと気づいていたんだと思う。

「あの……大丈夫、ですか?」

「――――」

 僕は慣れない言い方で、泣いている神崎さんに話しかけた。神崎さんはそっと顔を上げて、そして僕のほうをゆっくりと見た。

「――――安藤、くん……?」

 僕の顔を見て、神崎さんはすぐに僕の苗字を呼んだ。この時は、僕を見て認識があったことが幸いで、僕は安心していつも通りに話すことが出来た。

「帰りに偶然、神埼さんがここに座っているのを見かけてさ。えっと……大丈夫?」

「うん……うっうっ! ぐすっ……」

 頷いていたけど、どう見ても大丈夫な様子ではなかった。また神崎さんの目から涙が溢れ出したかと思うと、そのまま隠すように顔を手で覆った。
 でも、涙は止まる気配はなく、手の隙間から少しずつ雫が垂れ始めていた。

「――――神埼さん、これ使って」

「あ、ありがとう……」

 僕はリュックサックを降ろし、チャックを開けて中を漁った。そしてティッシュ箱とビニール袋を取り出して、それを神崎さんに手渡した。
 最初は少しだけ驚いた顔をしていたけど、震えた手でそれを受け取ると、ティッシュを一枚取り出して涙を拭った。

「――――ごめんね、ありがとう安藤くん」

 この時、涙で濡れていてぎこちなかったけれど、初めて神崎さんが微笑んでいる顔を見た。この時も困った表情をしながら笑みを浮かべていたのをよく覚えている。

「えっと……落ち着いた?」

「うん、ちょっとだけ落ち着いた」

 僕はそう言ったけど、正直この後どうすれば良いのか分からなかった。
 神崎さんはこの頃からもうすでにイジメが始まっていた。今のようにあからさまなイジメではなく、陰湿なものだった。
 僕はその様子を偶然見かけて、その時初めて神崎さんがイジメにあっていることを知った。だから、ここで泣いている神崎さんを見て放っておけなかったんだと思う。

「咄嗟に言っちゃったけど、安藤くん……で合ってるよね」

「うん。安藤 彰だよ」

「下の名前、あきらくんって言うんだね」

「うん、そうだよ」

 今度は神崎さんから僕に話しかけてきた。僕は必死に彼女の話を聞いてあげようとしていた。

「――――わたしのこと、知ってるよね? その……イジメられてること」

「――――うん。僕も偶然見かけて、その時初めて知ったんだよ。その……先生に相談したりしたの?」

 僕がそう聞くと、神崎さんはまた地面を見るように俯いた。表情はとても暗かった。まるで地獄に突き落とされたかのように……。

「した。その後の対応もしてくれた。でも一瞬だけだった。あの人達はまたわたしに悪口を言ってくるの」

「――――」

「そして……挙句の果てには飲み物をかけられたり、乱雑な化粧を勝手にされて見世物にされたり、髪を無理やり引っ張ったり……」

「えっ……?」

 僕はその言葉に驚いてしまった。
 僕が偶然通りかかった時は、ひたすら暴言を吐かれていただけだった。でも、僕が通り過ぎた直後にそんなことが起こっていたとすれば……ゾッとした。

 神崎さんは普段はあまり目立つような人物ではない。でも素行が良くて、頭も良くて成績は優秀。もはや学校から信頼を受けている優秀な生徒。
 そんな完璧な神崎さんが、何故そんな事態になっているのか理解できなかった。

「それでね、何でそんなにわたしをいじめるのか理由を聞いてみたの。そしたら『キモいから』だって」

「――――」

 全く理由になってない。僕も呆れてしまうほどに意味がない言い訳だった。
 それだけで神埼さんを標的にしているのか意味が分からなかった。本当は裏があるのかもしれないけど……。でもそれはイジメている張本人にしか分からない。
 でも、僕は目の前で苦しそうな顔をする神崎さんを見るに耐えなかった。

だから僕は、神埼さんを助けたいって一心に思った。

「――――神埼さん。僕、手伝うよ」

「えっ……?」

「このイジメを撲滅しよう……! 僕が解決策を見つける。神埼さん、もうつらいことからはお別れしよう! これからは神崎さんは幸せな学校生活を送っていかなければならないんだっ……!」

「――――っ! 安藤、くん……」

 それから、僕と神埼さんはイジメが無くなるように色々と話し合った。担任の先生にも協力を仰ぎ、本格的に打開策を練った。
 僕と神埼さんのクラス担任をしている先生は、学校内でも評判が良く、信頼がある人だった。だから、僕たちも安心して先生に相談することが出来た。

 結果、効果は抜群だった。少しだけ時間はかかったけど、神埼さんのイジメはピタッと何事もなかったかのようになくなった。
 半年にものぼる神崎さんのつらい日々は、ついに解放された。

「神埼さん、良かったね」

「うん……! ありがとう安藤くん。ありがとう、ありがとう……!」

 神埼さんは何度も感謝を僕に伝えていた。何度も、何度も……。

 良かった。僕は神埼さんを救うことが出来たんだ。
 これで、神崎さんは平和で楽しい生活を迎えることが出来る。良かった、良かった、これで良かった――――。

 その後も、僕と神埼さんはクラスメイトとして交流を続け、気づけばお互い下の名前で呼び合うまでになっていた。
 僕の友達のグループに杏さんも加わり、毎日楽しい学校生活を送っていた。最初はボロボロだった杏さんも、今では毎日笑顔と見せてくれる、そして笑い声を聞かせてくれる。すごい幸せそうだった。

 ――――でも、その毎日は一変した。とある出来事で杏さんを再び蝕んでいった。

「あっ、杏さん。今から帰るの?」

「うん! 良かったら一緒に帰ろ!」

「うん、良いよ。一緒に帰ろうか」

 そう、それまではいつも通りだった。事件が起こったのは、杏さんが自分の下駄箱の扉を開けた時だった。

「――――っ!」

「どうしたの杏さ――――えっ……」

 外靴に履き替えて振り向くと、杏さんの表情が一変していたことに気づいた僕は、杏さんの傍まで歩み寄った。そして杏さんの視線の先を見ると……信じられない表情が広がっていた。
 下駄箱の中はゴミで一杯になっていて、外靴も飲み物をかけられたのかひどく濡れていた。

「――――」

 杏さんはその場で固まってしまった。またあの時を思い出してしまったのか、体が震え、何かに怯えるような様子だった。

「杏さん、とりあえずこれは先生に報告しよう」

「――――」

 僕は杏さんの手を引っ張りながら先生の元まで連れて行った。杏さんはトラウマを呼び起こしてしまったようで、僕と先生と話している間も頭を抱え、俯いていた。
 そして、杏さんは話し合いが終わるまで一言も話すことはなく……僕の手をひたすら握っていた。




 事件があってから、しばらくはまた普段通りに戻った。しかし、その時間も一瞬だった。
 杏さんは再びターゲットにされた。ただ、前回と違ったのは陰湿なものに加え、大胆にイジメが行われるものだった。
 机の落書き、黒板には誰かが書いた杏さんに対しての罵倒、そして再び下駄箱の中はゴミ箱のようにされていた。

 僕は何とかしようと、動いた。それにつられて、友達も僕と一緒に協力してくれた。
 何とか……何とかして杏さんを救いたい。誰もがその一心で杏さんを救おうと努力した。
 しかし、その努力も虚しく……杏さんのイジメはどんどんエスカレートしていった。先生も最善を尽くしてあれこれしてくれたけど、一向に収まる気配はなかった。

 そして1週間後、杏さんから帰り際にこう伝えられた。

「彰くん、ありがとう。もう、わたしのことは気にしなくて良いから。これ以上、彰くんたちを巻き込むわけには行かないから……」

「そ、そんな事言わないでよ! ほら、まだ何か解決策があるはずだよ! 何とかするから!」

 僕は必死に説得した。でも、杏さんは横に首を振るだけだった。

「良いの。もう彰くんにはお礼をしても、し切れないくらいのことをしてくれた。これ以上、彰くんたちがわたしをきっかけにイジメに巻き込みたくないの」

「杏さ――――」

「だからね、明日からはもうわたしと関わらないで欲しい。これが最後のお願い」

 反論しようと言おうとした僕の言葉を遮って、杏さんはそう言った。また、あの時みたいに困った表情で笑顔を見せながら。
 それが、最後の会話になった。それ以降、杏さんは僕と距離を置くようになり、話す機会すら失ってしまった。
 あの時、めげずにもっと説得できれば良かったと何度も後悔した。1人部屋のベットで(うずくま)っては、拳を血が滲み出てしまいそうになるほどの力で握りしめたくらいだった。

 とにかく、杏さんの無事を祈る。それしか僕にはすることが出来なかった。




 そして3ヶ月が経った今、久しぶりに僕の目の前に現れた杏さん。校舎の前にある巨木の下に1人佇み、そして葉を落としいていく木を見上げていた。
 杏さんから話しかけないで欲しいと言われていたのに、名前を呼んだ僕に反応してくれたのは嬉しかった。

「何をしているの?」

 僕は純粋に思ったことをそのまま口に出した。ただ葉を落としていくこの木を見上げている姿はとても不思議だったからだ。
 その質問に、杏さんは僕の顔を見ることなく、木を見上げたままとあることを口にした。

「ねえ彰くん。この木を見て、彰くんはどう思う?」

「――――えっ?」

「今この葉を落としていく木を見て、彰くんはどう思う?」

 不思議な質問をしてきた杏さんに、僕は困惑してしまった。
 今この瞬間、刻々と生い茂っていた木が冬に向かって枝だけになっていく。その姿を見て、僕はどう思うのか……。

「――――わたしはね、この木はわたしに似てるなって思ってる」

「杏さんに、似てる……」

「うん」

 杏さんはそう言って、落ちてきた一枚の葉を手に取った。そして、それを見つめたまま話した。

「この学校に入学してから、わたしは暫くの間ずっとイジメに悩まされてきた。助けは欲しいって思っていたけど、先生に言いふらしたらもっと酷い目に遭うって考えちゃって……。だから、言いたくても言えなかった。でもその時に救世主が現れたの」

 杏さんは僕の方を振り向いてそう言った。その瞬間に僕の目に映し出された杏さんの姿は、やたらと美しく見えた。『映える』という言葉は、まさにこの事なのだと納得出来てしまうほどだった。でも、その表情はどこか寂しいような、悲しいような……そんな顔をしていた。

「あの時、彰くんがわたしに話しかけてくれなかったら……わたしはどうしてんだろうね。彰くんはわたしにとって救世主なんだよ」

「そ、そうなの?」

「うん、そうだよ。そうなの……」

 微笑んでいた杏さんの顔は、またさっきの顔に戻っていく。

「でも、わたしは……わたしは彰くんの優しさに応えることは出来なかった。先生と彰くんの助けに応えることも出来なかった……。何も応えることが出来なかった」

 僕は杏さんの言葉に耳を傾けながら、とある部分をちらっと見た。杏さんの手を見ると、手を強く握っていた。少し離れていた僕からの距離でも分かるほどだった。

「だから、わたしはあの時……彰くんにもう関わらないでほしいって言ったの。こんなに良くしてもらったのに、わたしは何も変わらなかった。これ以上、彰くんやみんなを巻き込ませたくなかった! だから――――!」

 あの物静かな杏さんが、ここまで声を大きくして、しかも声を荒げているところを見たのは初めてだった。だから、僕は驚いてしまった。
 でも、これは後から思ったことだけど、杏さんは本当に悔しかったんだと思う。

「杏さん……」

「――――その後、誰も助けがなくなってしまったわたしは、陰湿でひどいイジメを受けてきた。今は何とか無くなり始めてる感じだけどね」

 そうだったんだ……。しばらく杏さんと関わりがなかったから分からなかったけど、どうやら先生の対策がやっと効き始めたらしく、最近は落ち着いてきている傾向らしい。
 それは杏さんにとっては望んでいた展開だったはず。しかし、杏さんが負った心の傷はそんなに簡単に癒えるものではなかった。

「ねえ、さっきわたしが『この木はわたしに似てる』って言ったの覚えてる?」

「う、うん。もちろん」

「この前、校長先生とお話する機会があったの。そしたら、校長先生がこの木のこととを話してたの。この木ね……この春には死んじゃうかもしれないんだって」

「えっ……」

「ずっと病気に(かか)ってたんだって。ここまで生きているのも奇跡なくらいらしいよ。でももう限界なんだって。だから、次の春にまた葉っぱが生えるのかどうか……みたい」

「そう、なんだ」

 いつも気にしないで通り過ぎてるけど、この木にそんな事情があるなんて知らなかった……。
 でも、そんな運命を辿ってしまうこの木が、何故杏さんは同じだと思ったんだろう。
 とても嫌な感じがした。

「――――この木はきっと、何年も風雪に耐えて、耐えて、耐えて……ずっと耐え続けてきたと思う。でも、病気に罹ってしまって死んでしまう運命になってしまった。それがわたしにそっくりだなって思ったの。わたしもずっと耐えて、耐えて、耐えて……でも耐えても良くならなかった。どんどん楽しかった日々が蝕んでいって……」

 僕の直感は当たっていた。いや、当たってしまった。
 杏さんの今の表情を見れば分かる。あの時に見せてくれた目の輝きは一切なくて、生きている感じがしない。ただの操り人形のような感じだった。

「ねえ彰くん。わたし、どうすれば良かったのかな。あの時、彰くんにもっと相談すればよかったのかな。反抗すれば良かったのかな」

「――――」

 そう言って、杏さんはまた困った顔をしながら微笑んでいた。端から見れば、それはいつも通りの笑顔。何も違和感はない。
 でも、僕は見逃さなかった。まだ短い期間ではあるけど、杏さんとはたくさん話して、そしてたくさん遊んだ。だからこそ、僕は気付くことができた。

「――――杏さん、もう良いよ。もう良いんだ」

 もう、充分だ。僕は杏さんにそう伝えた。杏さんは表情は何一つ動かすことはなかったけど、真剣に聞いてくれた。

「――――ごめんなさい、杏さん。本当は、僕が早く気づいてあげるべきだった。僕は杏さんと友達になれて、本当に嬉しかった。なのに……それなのに……! 僕はそれに気づかないで! 杏さんを放ってしまった!」

 気づけば、僕は自暴自棄になり始めていた。でも、それだけ僕は後悔していた。もしあの時、杏さんの気持ちを尊重しないで、それでも解決しようって言っていれば……絶対にこうはならなかったはず。

「ごめんなさい、ごめんなさい杏さん……!」

 僕は何度も杏さんに謝った。何も知らない周りからすれば、何事かと思われるかもしれない。もしかしたら、今まさにそう思われているかもしれない。
 でも、僕は今の状況とか関係なかった。それくらい必死だった。
 
「――――やっぱり、彰くんは優しいね」

 杏さんはそっとそう言った。僕は少しだけ顔を上げると……杏さんはまた困った表情をしながら微笑んでいた。

「ありがとう彰くん。わたし、こんなに良い人に会ったの初めて。彰くんは本当に良い人、素敵な人、かっこいい人。わたしの悩みなんて吹き飛んでしまいそうになる」

「杏さん……」

「だから、もう良いのかなぁ。わたし、もう我慢しなくて良いのかなぁ……!」

 杏さんの声が震え始めた。そして、今まで無理して作っていた笑顔が崩壊し、目から溢れんばかりの涙を流した。
 その場から崩れ落ちるかのように地面に座り、顔を手で覆い隠していたその様子は、あの時初めて杏さんと話した時と同じように見えた。

「――――っ!」

 僕はその姿を見て、何かが込み上げてきた。抑えきれなくなった僕は、バックを降ろしてすぐさま杏さんのもとに駆け寄り、そして抱きしめた。

「――――っ! あ、彰くん……!」

「杏さん、もう大丈夫だから。解決しよう。イジメをここから無くそう! これは僕の償いだ」

 泣きじゃくる杏さんを強く抱きしめた。杏さんの体は冷えていて、彼女がずっとこの場所にいたのだと教えてくれているようだった。
 これからは、もう杏さんを泣かせるようなことは絶対にしない。僕の過ちは絶対に忘れないで、これを教訓にしていく。
 そう誓った。




 あれから半年――――季節は寒くなり始めた季節は通り過ぎ、桜が咲き誇る春がやってきた。
 4月、もうすぐ5月になろうとしている日。授業が終わり、僕は教室から玄関へ向かっているところだった。
 今日は暖かくてちょうど良い、桜も満開で綺麗だ。新入生も入ってきて、初々しさが何とも懐かしさを感じる。

 そんなことを思っていると、突然目の前の視界が真っ暗になった。どうやら、誰かに目隠しをされたらしい。

「だ〜れだ?」

 後ろから至近距離で声が聞こえる。手の感触、そして声……間違いなくあの人の声だ。

「間違いなく杏さんだね」

「さっすが! 当たり!」

 そう、目隠しをした人の正体は神埼 杏さんだ。
 半年前まで、苛められっ子として苦しい思いをしていた。しかし、今は違う。

「一緒に帰ろ!」

「うん、帰ろう!」

 僕と杏さんは再びイジメをなくすために動き出し、ついに学校全体が動く事態になった。苛めていた張本人たちは炙り出され、結果的に重い処分を下された。どうやら、問い詰めたら本人たちが口を開いたということだそう。
 お陰でイジメは一切なくなり、杏さんは今まで以上に学生生活を楽しんでいる。今この瞬間も楽しそうにしているのがよく分かるくらいだ。

「ふふっ」

「どうしたの?」

「はい!」

「――――っ! う、うん……」

 そして、杏さんだけでなく、僕の学校生活も変わった。
 僕は今、杏さんと指を絡め合って手を繋いでいる。そう、僕達は友達から恋人へと関係が変わったんだ。
 実は2ヶ月前、杏さんに呼ばれて誰もいない教室に案内された。また何かあったのだろうかと心配してたけど、それは杞憂だった。
 杏さんに告白され、僕の心臓は不安の動悸から恋の動悸へと変わった。あれから思えば、僕は気づけば杏さんに恋をしていたんだと思う。
 杏さんを守ってあげたい、もっと傍にいてあげたい――――そう思っているということは、多分そういうことなんだと思う。

 だから、僕も杏さんに返事をした。杏さんに伝えると、杏さんはすぐに泣き崩れてしまった。
 一瞬焦ったけど、どうやらすごい嬉しくてつい泣いてしまったらしい。

「ねえ彰くん」

「ん?」

「その……ずっと気になっていたことがあって」

「どうしたの?」

 杏さんの顔を見ると、言いづらいのか口元がモゴモゴしていた。

「大丈夫だよ。ほら、言ってみて」

「う、うん……。あ、あのね彰くん。彰くんって、いつもわたしのことを『杏さん』って言ってるよね」

「そうだね」

「それでね、その……。わたしのこと、『杏』って呼び捨てで呼んで欲しいの……!」

「――――っ!?」

 杏さんは僕の袖を掴みながら、勇気を振り絞った感じでそう言った。
 僕は驚いてしまった。でも確かに、僕と杏さんは付き合っているのに、僕だけよそよそしい呼び方をしているのは変だと思った。
 なら、僕の答えは一つしか無い。

「うん、じゃあこれからは呼び捨てで呼ぶね。杏」

「――――っ! うん!」

 また杏との距離が縮まった気がした。すごく嬉しい。杏も嬉しそうな顔をしていた。

 階段を降りて、玄関で靴を履き替えた。すると、玄関を抜けて正面に見えてくるのは、葉すら付けていない一本の巨木。あの日、杏がいた場所に佇んでいたあの木。
 あの時は葉を落として、そして余命宣告を受けていた。その木は今……葉を僅かに生やし、今年も僕達を見守るように佇んでいた。
 本来は、この春には枯れてしまってもおかしくなかった。でも、今はこの通り。専門の人もびっくりしていたそうだ。奇跡と言ってもおかしくないらしい。

「――――わたしたちのこと、見守っていたかったのかな」

「うん、もしかしたらそうかもね」

 僕と杏との関係を強く結んでくれた、玄関前に立つ大きな木には感謝している。今はこうして、僕と杏は恋人として付き合うことが出来たのだから。

「彰くん、帰ろ! それと今日の約束、覚えてるよね?」

「あ、う、うん。僕の家に、来るんだよね……?」

「うん! 今日はたくさん遊ぼうね! 昨日からすごい楽しみにしていたから!」

「――――っ! うん!」

 僕と杏は、目の前にある木を見送りながら、自分の家へと向かった。僕達の後ろ姿をそっと優しく見守ってくれている。そんな気がした。
 そして僕の隣にいる杏は、今日も困ったような表情をした笑顔を見せてくれる。でもその笑顔は、あの木の下にいた時に見せていた笑顔ではなく、心から楽しんでいる笑顔だ。
 僕はその笑顔をもっと見ていたい。杏のこの表情を見てそう思った。


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 10月――――冬に向かって寒くなってきていることを知らせてくれる月日。今年もこの時がやって来た。肌寒い風が、僕の体を遠慮なく冷やしてくる。
 あまり好きじゃない季節が近づいてきて来たことを、僕に訴えかけるかのようだ。
「うっ、寒い……」
 僕は少しだけ温かい校舎の廊下を歩き、少しだけ冷たい風が吹き抜ける玄関を抜け、そして肌寒い風が吹く外へ出た。思わず寒いと小さな声で呟いてしまった。
 早く帰って家でぬくぬくと温かくしていよう……そう思いながら足早に学校の敷地内を通り過ぎる。
「――――?」
 そう思っていたはずだったのに、僕は思わず足を止めてしまった。
 寒すぎて足が動かなくなった? 違う。足の筋でも切った? それとも……いや、全く違う。
「――――」
 校舎の前には一本の広葉樹がある。それは記念樹というわけではないけど、かなりの歴史があるらしく、太い幹がそれを物語るかのようにそびえ立っている。
 その木の下で、一人の女子がいた。
 そう、僕が足を止めた理由はこれだった。こんなにも目立つ巨木の下で、一人だけ木を見上げているだけの姿は奇妙だった。
 顔を見てすぐに分かった。
 神埼《かんざき》 杏《あん》さん。僕と同じクラスで物静かで優しい性格を持っている、成績優秀な人だ。そして……クラスの苛められっ子だ。
 いわゆる陽キャ女子からの標的になっていて、かなりひどいことをされているのをよく見かける。
 「杏さん」
「――――彰《あきら》くん」
 『彼女とはもう話せない』。
 そう言われていたのに、僕はつい話しかけてしまった。いや、頭からすっと抜けてしまっていたんだ。
「今日は寒いね」
「うん、今日は寒いね。マフラーがあっても良いかもって思っちゃった」
 神崎さんはそっと僕の方を向いて、そして困った顔をしながら笑顔を見せた。そう、僕が神崎さんと話している時によく見る表情だった。
 僕と神埼さんは、この高校に入学した時から同じクラスメイトだ。でも、最初は全く接点がなかった。
 きっかけは今年の夏だった。その日はたまたま僕の友達数人が放課後に学校内でそれぞれ用事があって、久しぶりに1人で下校していた。
 僕の通学路の途中には小さな公園があって、鉄棒やシーソー、砂場、そして横に3人くらい座れる背もたれのついた木のベンチがある。そこに、1人の女子高生が座っていたのが目に入った。
 僕の通う高校と同じ制服を着ていた。そして、彼女は手で顔を覆って俯いていた。
 僕の目にはそれがすごい印象的で、理由はわからないけど、彼女に吸い込まれるように近づいた。
 多分その時にはもう、泣いている人は神崎さんだと気づいていたんだと思う。
「あの……大丈夫、ですか?」
「――――」
 僕は慣れない言い方で、泣いている神崎さんに話しかけた。神崎さんはそっと顔を上げて、そして僕のほうをゆっくりと見た。
「――――安藤、くん……?」
 僕の顔を見て、神崎さんはすぐに僕の苗字を呼んだ。この時は、僕を見て認識があったことが幸いで、僕は安心していつも通りに話すことが出来た。
「帰りに偶然、神埼さんがここに座っているのを見かけてさ。えっと……大丈夫?」
「うん……うっうっ! ぐすっ……」
 頷いていたけど、どう見ても大丈夫な様子ではなかった。また神崎さんの目から涙が溢れ出したかと思うと、そのまま隠すように顔を手で覆った。
 でも、涙は止まる気配はなく、手の隙間から少しずつ雫が垂れ始めていた。
「――――神埼さん、これ使って」
「あ、ありがとう……」
 僕はリュックサックを降ろし、チャックを開けて中を漁った。そしてティッシュ箱とビニール袋を取り出して、それを神崎さんに手渡した。
 最初は少しだけ驚いた顔をしていたけど、震えた手でそれを受け取ると、ティッシュを一枚取り出して涙を拭った。
「――――ごめんね、ありがとう安藤くん」
 この時、涙で濡れていてぎこちなかったけれど、初めて神崎さんが微笑んでいる顔を見た。この時も困った表情をしながら笑みを浮かべていたのをよく覚えている。
「えっと……落ち着いた?」
「うん、ちょっとだけ落ち着いた」
 僕はそう言ったけど、正直この後どうすれば良いのか分からなかった。
 神崎さんはこの頃からもうすでにイジメが始まっていた。今のようにあからさまなイジメではなく、陰湿なものだった。
 僕はその様子を偶然見かけて、その時初めて神崎さんがイジメにあっていることを知った。だから、ここで泣いている神崎さんを見て放っておけなかったんだと思う。
「咄嗟に言っちゃったけど、安藤くん……で合ってるよね」
「うん。安藤 彰だよ」
「下の名前、あきらくんって言うんだね」
「うん、そうだよ」
 今度は神崎さんから僕に話しかけてきた。僕は必死に彼女の話を聞いてあげようとしていた。
「――――わたしのこと、知ってるよね? その……イジメられてること」
「――――うん。僕も偶然見かけて、その時初めて知ったんだよ。その……先生に相談したりしたの?」
 僕がそう聞くと、神崎さんはまた地面を見るように俯いた。表情はとても暗かった。まるで地獄に突き落とされたかのように……。
「した。その後の対応もしてくれた。でも一瞬だけだった。あの人達はまたわたしに悪口を言ってくるの」
「――――」
「そして……挙句の果てには飲み物をかけられたり、乱雑な化粧を勝手にされて見世物にされたり、髪を無理やり引っ張ったり……」
「えっ……?」
 僕はその言葉に驚いてしまった。
 僕が偶然通りかかった時は、ひたすら暴言を吐かれていただけだった。でも、僕が通り過ぎた直後にそんなことが起こっていたとすれば……ゾッとした。
 神崎さんは普段はあまり目立つような人物ではない。でも素行が良くて、頭も良くて成績は優秀。もはや学校から信頼を受けている優秀な生徒。
 そんな完璧な神崎さんが、何故そんな事態になっているのか理解できなかった。
「それでね、何でそんなにわたしをいじめるのか理由を聞いてみたの。そしたら『キモいから』だって」
「――――」
 全く理由になってない。僕も呆れてしまうほどに意味がない言い訳だった。
 それだけで神埼さんを標的にしているのか意味が分からなかった。本当は裏があるのかもしれないけど……。でもそれはイジメている張本人にしか分からない。
 でも、僕は目の前で苦しそうな顔をする神崎さんを見るに耐えなかった。
だから僕は、神埼さんを助けたいって一心に思った。
「――――神埼さん。僕、手伝うよ」
「えっ……?」
「このイジメを撲滅しよう……! 僕が解決策を見つける。神埼さん、もうつらいことからはお別れしよう! これからは神崎さんは幸せな学校生活を送っていかなければならないんだっ……!」
「――――っ! 安藤、くん……」
 それから、僕と神埼さんはイジメが無くなるように色々と話し合った。担任の先生にも協力を仰ぎ、本格的に打開策を練った。
 僕と神埼さんのクラス担任をしている先生は、学校内でも評判が良く、信頼がある人だった。だから、僕たちも安心して先生に相談することが出来た。
 結果、効果は抜群だった。少しだけ時間はかかったけど、神埼さんのイジメはピタッと何事もなかったかのようになくなった。
 半年にものぼる神崎さんのつらい日々は、ついに解放された。
「神埼さん、良かったね」
「うん……! ありがとう安藤くん。ありがとう、ありがとう……!」
 神埼さんは何度も感謝を僕に伝えていた。何度も、何度も……。
 良かった。僕は神埼さんを救うことが出来たんだ。
 これで、神崎さんは平和で楽しい生活を迎えることが出来る。良かった、良かった、これで良かった――――。
 その後も、僕と神埼さんはクラスメイトとして交流を続け、気づけばお互い下の名前で呼び合うまでになっていた。
 僕の友達のグループに杏さんも加わり、毎日楽しい学校生活を送っていた。最初はボロボロだった杏さんも、今では毎日笑顔と見せてくれる、そして笑い声を聞かせてくれる。すごい幸せそうだった。
 ――――でも、その毎日は一変した。とある出来事で杏さんを再び蝕んでいった。
「あっ、杏さん。今から帰るの?」
「うん! 良かったら一緒に帰ろ!」
「うん、良いよ。一緒に帰ろうか」
 そう、それまではいつも通りだった。事件が起こったのは、杏さんが自分の下駄箱の扉を開けた時だった。
「――――っ!」
「どうしたの杏さ――――えっ……」
 外靴に履き替えて振り向くと、杏さんの表情が一変していたことに気づいた僕は、杏さんの傍まで歩み寄った。そして杏さんの視線の先を見ると……信じられない表情が広がっていた。
 下駄箱の中はゴミで一杯になっていて、外靴も飲み物をかけられたのかひどく濡れていた。
「――――」
 杏さんはその場で固まってしまった。またあの時を思い出してしまったのか、体が震え、何かに怯えるような様子だった。
「杏さん、とりあえずこれは先生に報告しよう」
「――――」
 僕は杏さんの手を引っ張りながら先生の元まで連れて行った。杏さんはトラウマを呼び起こしてしまったようで、僕と先生と話している間も頭を抱え、俯いていた。
 そして、杏さんは話し合いが終わるまで一言も話すことはなく……僕の手をひたすら握っていた。
 事件があってから、しばらくはまた普段通りに戻った。しかし、その時間も一瞬だった。
 杏さんは再びターゲットにされた。ただ、前回と違ったのは陰湿なものに加え、大胆にイジメが行われるものだった。
 机の落書き、黒板には誰かが書いた杏さんに対しての罵倒、そして再び下駄箱の中はゴミ箱のようにされていた。
 僕は何とかしようと、動いた。それにつられて、友達も僕と一緒に協力してくれた。
 何とか……何とかして杏さんを救いたい。誰もがその一心で杏さんを救おうと努力した。
 しかし、その努力も虚しく……杏さんのイジメはどんどんエスカレートしていった。先生も最善を尽くしてあれこれしてくれたけど、一向に収まる気配はなかった。
 そして1週間後、杏さんから帰り際にこう伝えられた。
「彰くん、ありがとう。もう、わたしのことは気にしなくて良いから。これ以上、彰くんたちを巻き込むわけには行かないから……」
「そ、そんな事言わないでよ! ほら、まだ何か解決策があるはずだよ! 何とかするから!」
 僕は必死に説得した。でも、杏さんは横に首を振るだけだった。
「良いの。もう彰くんにはお礼をしても、し切れないくらいのことをしてくれた。これ以上、彰くんたちがわたしをきっかけにイジメに巻き込みたくないの」
「杏さ――――」
「だからね、明日からはもうわたしと関わらないで欲しい。これが最後のお願い」
 反論しようと言おうとした僕の言葉を遮って、杏さんはそう言った。また、あの時みたいに困った表情で笑顔を見せながら。
 それが、最後の会話になった。それ以降、杏さんは僕と距離を置くようになり、話す機会すら失ってしまった。
 あの時、めげずにもっと説得できれば良かったと何度も後悔した。1人部屋のベットで蹲《うずくま》っては、拳を血が滲み出てしまいそうになるほどの力で握りしめたくらいだった。
 とにかく、杏さんの無事を祈る。それしか僕にはすることが出来なかった。
 そして3ヶ月が経った今、久しぶりに僕の目の前に現れた杏さん。校舎の前にある巨木の下に1人佇み、そして葉を落としいていく木を見上げていた。
 杏さんから話しかけないで欲しいと言われていたのに、名前を呼んだ僕に反応してくれたのは嬉しかった。
「何をしているの?」
 僕は純粋に思ったことをそのまま口に出した。ただ葉を落としていくこの木を見上げている姿はとても不思議だったからだ。
 その質問に、杏さんは僕の顔を見ることなく、木を見上げたままとあることを口にした。
「ねえ彰くん。この木を見て、彰くんはどう思う?」
「――――えっ?」
「今この葉を落としていく木を見て、彰くんはどう思う?」
 不思議な質問をしてきた杏さんに、僕は困惑してしまった。
 今この瞬間、刻々と生い茂っていた木が冬に向かって枝だけになっていく。その姿を見て、僕はどう思うのか……。
「――――わたしはね、この木はわたしに似てるなって思ってる」
「杏さんに、似てる……」
「うん」
 杏さんはそう言って、落ちてきた一枚の葉を手に取った。そして、それを見つめたまま話した。
「この学校に入学してから、わたしは暫くの間ずっとイジメに悩まされてきた。助けは欲しいって思っていたけど、先生に言いふらしたらもっと酷い目に遭うって考えちゃって……。だから、言いたくても言えなかった。でもその時に救世主が現れたの」
 杏さんは僕の方を振り向いてそう言った。その瞬間に僕の目に映し出された杏さんの姿は、やたらと美しく見えた。『映える』という言葉は、まさにこの事なのだと納得出来てしまうほどだった。でも、その表情はどこか寂しいような、悲しいような……そんな顔をしていた。
「あの時、彰くんがわたしに話しかけてくれなかったら……わたしはどうしてんだろうね。彰くんはわたしにとって救世主なんだよ」
「そ、そうなの?」
「うん、そうだよ。そうなの……」
 微笑んでいた杏さんの顔は、またさっきの顔に戻っていく。
「でも、わたしは……わたしは彰くんの優しさに応えることは出来なかった。先生と彰くんの助けに応えることも出来なかった……。何も応えることが出来なかった」
 僕は杏さんの言葉に耳を傾けながら、とある部分をちらっと見た。杏さんの手を見ると、手を強く握っていた。少し離れていた僕からの距離でも分かるほどだった。
「だから、わたしはあの時……彰くんにもう関わらないでほしいって言ったの。こんなに良くしてもらったのに、わたしは何も変わらなかった。これ以上、彰くんやみんなを巻き込ませたくなかった! だから――――!」
 あの物静かな杏さんが、ここまで声を大きくして、しかも声を荒げているところを見たのは初めてだった。だから、僕は驚いてしまった。
 でも、これは後から思ったことだけど、杏さんは本当に悔しかったんだと思う。
「杏さん……」
「――――その後、誰も助けがなくなってしまったわたしは、陰湿でひどいイジメを受けてきた。今は何とか無くなり始めてる感じだけどね」
 そうだったんだ……。しばらく杏さんと関わりがなかったから分からなかったけど、どうやら先生の対策がやっと効き始めたらしく、最近は落ち着いてきている傾向らしい。
 それは杏さんにとっては望んでいた展開だったはず。しかし、杏さんが負った心の傷はそんなに簡単に癒えるものではなかった。
「ねえ、さっきわたしが『この木はわたしに似てる』って言ったの覚えてる?」
「う、うん。もちろん」
「この前、校長先生とお話する機会があったの。そしたら、校長先生がこの木のこととを話してたの。この木ね……この春には死んじゃうかもしれないんだって」
「えっ……」
「ずっと病気に罹《かか》ってたんだって。ここまで生きているのも奇跡なくらいらしいよ。でももう限界なんだって。だから、次の春にまた葉っぱが生えるのかどうか……みたい」
「そう、なんだ」
 いつも気にしないで通り過ぎてるけど、この木にそんな事情があるなんて知らなかった……。
 でも、そんな運命を辿ってしまうこの木が、何故杏さんは同じだと思ったんだろう。
 とても嫌な感じがした。
「――――この木はきっと、何年も風雪に耐えて、耐えて、耐えて……ずっと耐え続けてきたと思う。でも、病気に罹ってしまって死んでしまう運命になってしまった。それがわたしにそっくりだなって思ったの。わたしもずっと耐えて、耐えて、耐えて……でも耐えても良くならなかった。どんどん楽しかった日々が蝕んでいって……」
 僕の直感は当たっていた。いや、当たってしまった。
 杏さんの今の表情を見れば分かる。あの時に見せてくれた目の輝きは一切なくて、生きている感じがしない。ただの操り人形のような感じだった。
「ねえ彰くん。わたし、どうすれば良かったのかな。あの時、彰くんにもっと相談すればよかったのかな。反抗すれば良かったのかな」
「――――」
 そう言って、杏さんはまた困った顔をしながら微笑んでいた。端から見れば、それはいつも通りの笑顔。何も違和感はない。
 でも、僕は見逃さなかった。まだ短い期間ではあるけど、杏さんとはたくさん話して、そしてたくさん遊んだ。だからこそ、僕は気付くことができた。
「――――杏さん、もう良いよ。もう良いんだ」
 もう、充分だ。僕は杏さんにそう伝えた。杏さんは表情は何一つ動かすことはなかったけど、真剣に聞いてくれた。
「――――ごめんなさい、杏さん。本当は、僕が早く気づいてあげるべきだった。僕は杏さんと友達になれて、本当に嬉しかった。なのに……それなのに……! 僕はそれに気づかないで! 杏さんを放ってしまった!」
 気づけば、僕は自暴自棄になり始めていた。でも、それだけ僕は後悔していた。もしあの時、杏さんの気持ちを尊重しないで、それでも解決しようって言っていれば……絶対にこうはならなかったはず。
「ごめんなさい、ごめんなさい杏さん……!」
 僕は何度も杏さんに謝った。何も知らない周りからすれば、何事かと思われるかもしれない。もしかしたら、今まさにそう思われているかもしれない。
 でも、僕は今の状況とか関係なかった。それくらい必死だった。
「――――やっぱり、彰くんは優しいね」
 杏さんはそっとそう言った。僕は少しだけ顔を上げると……杏さんはまた困った表情をしながら微笑んでいた。
「ありがとう彰くん。わたし、こんなに良い人に会ったの初めて。彰くんは本当に良い人、素敵な人、かっこいい人。わたしの悩みなんて吹き飛んでしまいそうになる」
「杏さん……」
「だから、もう良いのかなぁ。わたし、もう我慢しなくて良いのかなぁ……!」
 杏さんの声が震え始めた。そして、今まで無理して作っていた笑顔が崩壊し、目から溢れんばかりの涙を流した。
 その場から崩れ落ちるかのように地面に座り、顔を手で覆い隠していたその様子は、あの時初めて杏さんと話した時と同じように見えた。
「――――っ!」
 僕はその姿を見て、何かが込み上げてきた。抑えきれなくなった僕は、バックを降ろしてすぐさま杏さんのもとに駆け寄り、そして抱きしめた。
「――――っ! あ、彰くん……!」
「杏さん、もう大丈夫だから。解決しよう。イジメをここから無くそう! これは僕の償いだ」
 泣きじゃくる杏さんを強く抱きしめた。杏さんの体は冷えていて、彼女がずっとこの場所にいたのだと教えてくれているようだった。
 これからは、もう杏さんを泣かせるようなことは絶対にしない。僕の過ちは絶対に忘れないで、これを教訓にしていく。
 そう誓った。
 あれから半年――――季節は寒くなり始めた季節は通り過ぎ、桜が咲き誇る春がやってきた。
 4月、もうすぐ5月になろうとしている日。授業が終わり、僕は教室から玄関へ向かっているところだった。
 今日は暖かくてちょうど良い、桜も満開で綺麗だ。新入生も入ってきて、初々しさが何とも懐かしさを感じる。
 そんなことを思っていると、突然目の前の視界が真っ暗になった。どうやら、誰かに目隠しをされたらしい。
「だ〜れだ?」
 後ろから至近距離で声が聞こえる。手の感触、そして声……間違いなくあの人の声だ。
「間違いなく杏さんだね」
「さっすが! 当たり!」
 そう、目隠しをした人の正体は神埼 杏さんだ。
 半年前まで、苛められっ子として苦しい思いをしていた。しかし、今は違う。
「一緒に帰ろ!」
「うん、帰ろう!」
 僕と杏さんは再びイジメをなくすために動き出し、ついに学校全体が動く事態になった。苛めていた張本人たちは炙り出され、結果的に重い処分を下された。どうやら、問い詰めたら本人たちが口を開いたということだそう。
 お陰でイジメは一切なくなり、杏さんは今まで以上に学生生活を楽しんでいる。今この瞬間も楽しそうにしているのがよく分かるくらいだ。
「ふふっ」
「どうしたの?」
「はい!」
「――――っ! う、うん……」
 そして、杏さんだけでなく、僕の学校生活も変わった。
 僕は今、杏さんと指を絡め合って手を繋いでいる。そう、僕達は友達から恋人へと関係が変わったんだ。
 実は2ヶ月前、杏さんに呼ばれて誰もいない教室に案内された。また何かあったのだろうかと心配してたけど、それは杞憂だった。
 杏さんに告白され、僕の心臓は不安の動悸から恋の動悸へと変わった。あれから思えば、僕は気づけば杏さんに恋をしていたんだと思う。
 杏さんを守ってあげたい、もっと傍にいてあげたい――――そう思っているということは、多分そういうことなんだと思う。
 だから、僕も杏さんに返事をした。杏さんに伝えると、杏さんはすぐに泣き崩れてしまった。
 一瞬焦ったけど、どうやらすごい嬉しくてつい泣いてしまったらしい。
「ねえ彰くん」
「ん?」
「その……ずっと気になっていたことがあって」
「どうしたの?」
 杏さんの顔を見ると、言いづらいのか口元がモゴモゴしていた。
「大丈夫だよ。ほら、言ってみて」
「う、うん……。あ、あのね彰くん。彰くんって、いつもわたしのことを『杏さん』って言ってるよね」
「そうだね」
「それでね、その……。わたしのこと、『杏』って呼び捨てで呼んで欲しいの……!」
「――――っ!?」
 杏さんは僕の袖を掴みながら、勇気を振り絞った感じでそう言った。
 僕は驚いてしまった。でも確かに、僕と杏さんは付き合っているのに、僕だけよそよそしい呼び方をしているのは変だと思った。
 なら、僕の答えは一つしか無い。
「うん、じゃあこれからは呼び捨てで呼ぶね。杏」
「――――っ! うん!」
 また杏との距離が縮まった気がした。すごく嬉しい。杏も嬉しそうな顔をしていた。
 階段を降りて、玄関で靴を履き替えた。すると、玄関を抜けて正面に見えてくるのは、葉すら付けていない一本の巨木。あの日、杏がいた場所に佇んでいたあの木。
 あの時は葉を落として、そして余命宣告を受けていた。その木は今……葉を僅かに生やし、今年も僕達を見守るように佇んでいた。
 本来は、この春には枯れてしまってもおかしくなかった。でも、今はこの通り。専門の人もびっくりしていたそうだ。奇跡と言ってもおかしくないらしい。
「――――わたしたちのこと、見守っていたかったのかな」
「うん、もしかしたらそうかもね」
 僕と杏との関係を強く結んでくれた、玄関前に立つ大きな木には感謝している。今はこうして、僕と杏は恋人として付き合うことが出来たのだから。
「彰くん、帰ろ! それと今日の約束、覚えてるよね?」
「あ、う、うん。僕の家に、来るんだよね……?」
「うん! 今日はたくさん遊ぼうね! 昨日からすごい楽しみにしていたから!」
「――――っ! うん!」
 僕と杏は、目の前にある木を見送りながら、自分の家へと向かった。僕達の後ろ姿をそっと優しく見守ってくれている。そんな気がした。
 そして僕の隣にいる杏は、今日も困ったような表情をした笑顔を見せてくれる。でもその笑顔は、あの木の下にいた時に見せていた笑顔ではなく、心から楽しんでいる笑顔だ。
 僕はその笑顔をもっと見ていたい。杏のこの表情を見てそう思った。