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(一)

ー/ー



 大相国寺の僧房で一晩休んだ次の日、智深はさっそく智清大師より菜園番の任を命ずる法帖を受け取り、付き添う二人の僧侶とともに、酸棗門外の菜園へと足を運んだ。
 途中、大きな街路が交わる広い場所を通りかかった時、ふとこの景色に見覚えがあると気が付いた智深は、思わず立ち止まって辺りを見回す。
 「智深殿、どうかなさいましたか」
 怪訝な顔で尋ねる付き添いの僧侶の言葉にあいまいな返事をしながら、遠い記憶に思いを巡らせる。
 賑やかな酒楼、威勢のいい薬屋、老舗の風格のある靴屋――様々な店が軒を連ねるこの一帯は、確か潘楼街(はんろうがい)と言ったのではなかったか。そして、
 「おい、あんた。この潘楼街を東に行った路地の奥の方に、林という人の家があったと思うんだが、知っているか?」
 「はて、林さんというお方はこの東京にもたくさんいらっしゃいますが……」
 付き添いの僧侶たちは顔を見合わせて少し思案したあと、思いついた、と目を瞬かせた。
 「あなた様のおっしゃる林さんは、かつて提轄を務めておられた林瀞(りんせい)殿のことですか?」
 「まさにその方だ! 健在にしておられるか、気になってな。幼い頃世話になったから、この度のついでに挨拶をと思ったのだが」
 「残念ながら、林堤轄は五年ほど前に病でお亡くなりになられました。ご夫人もその二年ほど前に亡くなっておられたので、今はご子息とその奥方が、同じ家にお住まいですよ」
 「なんと、そうだったか……」
 懐かしい名に顔がほころんだ智深であったが、再会の挨拶をすることはついぞ叶わぬと知り、密かに肩を落とした。恩人の令息には会ったことがなかったが、この東京にいれば面識を得る機会もあるだろう。
 「まあいい。今はそれより菜園のことだ」
 わずかな刹那、恩人を偲んで瞑目した後、智深は僧侶たちとともに再び歩き出す。
 堅固な城壁を横目にしばらく行けば、ほどなくして目の前に開けた野菜畑が現れた。
 ちょうど一仕事を終える頃合いだったようで、ぽつぽつと農夫の姿があったが、こちらに気がつくと、見慣れぬ荒くれ坊主の姿に瞠目し、ためらいがちな会釈を返してそのまま鍬を手に街の方へと去っていく。
 「あそこに見える小屋が、菜園の見張り番屋です。あなたさまには少々窮屈かもしれませんが、必要なものはなんでも揃っていますし、清潔ですよ」
 二人の僧侶たちとともに番屋を訪ねれば、いかにも気の弱そうな前任の老僧が、待っていたとばかりに僅な手荷物を抱えて飛び出してきた。
 「あなたさまが魯智深殿ですね。ああ、あなたさまなら、きっとここの連中ともうまいことやっていけるでしょう。わたしはもうこりごりですから、さあ、はやくこちらに荷物を」
 「なんだ、こりごりとはどう言うことだ。自分で畑仕事をしているわけでもあるまいし」
 太鼓持ちのごとくすり寄ってくる老僧に荷物を預けながら、智深はむずむずと眉を動かした。
 確かに付き添いどもが言っていた通り、狭いながらも清潔が保たれた小屋には、生活に必要なものはすべて揃っている。
 智深の巨体には備え付けの寝台が小さすぎること以外は、野菜も手に入れば、酒を飲むのを見とがめて小言を言う者もなし、こんなに楽な仕事はない。
 「さてはあなたさま、聞いておられんのですな。この菜園を耕す農夫はおとなしいが、問題は、四六時中やってきては馬鹿騒ぎをし、野菜を盗み、糞尿を撒き散らして暴れ放題のならず者どもですよ。農夫どもも、所詮は自分の畑ではないんで、自分の取り分さえ守れれば触らぬ神に祟りなし。私もこの通りの老いぼれですから、やつらはもう好き放題なのです」
 さては智深をこの菜園によこしたのは、修行のためなどではなく、体よくやっかい者を追い払えるうえに、うるさいごろつきを懲らしめられると考えてのことだったのだ。
 「ふん、菜園の番人が聞いて呆れる。そのならず者、どれほど俺を楽しませてくれるか見ものだな」
 太い指を鳴らし、肩を揺らして笑う智深の姿に怯えたように肩をすくめた老僧は、一刻もはやく立ち去りたいとばかりに早口で菜園番の仕事を引き継ぐと、各所の鍵を智深に渡し、付き添ってきた二人の僧侶とともにさっさと大相国寺へ戻っていった。
 こうして一人、都の一角とは思えぬだだっぴろい畑が広がる景色の中に取り残された智深は、ひとまずわずかな荷物を片付け、戒刀と禅杖を寝台の枕元に立てかけると、さっそく菜園の様子を確かめようと辺りを見回す。
 ふと、風さえ止まったような刹那の静けさが耳を劈き、智深は思わず顔をあげ、空を仰いだ。
 目と鼻の先にはこの国を治める者たちが住まう城があり、歩けばすぐ近くには活気あふれる街並みがあるというのに、まるで智深とこの菜園だけ、都の華やぎから抜け落ち、永久に繰り返すろくでもない日々の中に取り残されたかのようだ。
 (いや、何もこの菜園に縛りつけられているわけじゃねぇんだ)
 明日のことなど考えてもしかたがない。まずは今日これからのことだと気を取り直し、智深はうろうろと菜園を歩き回った。
 前任者は、ならず者たちを恐れるあまりすっかり菜園の手入れを怠っていたとみえ、作物はそれなりに立派に育ってはいるが、方々の柵は荒れ放題。農夫たちか、ならず者どもか、あるいはどちらもなのか、捨て置いた塵があちこちに散らばり、雑草も丁寧に抜かれたところと生い茂ったところがまだらになっている。
 「まったく、いくら素人の坊主が面倒を見ているとはいえ、こりゃひどいぞ」
 幼いころの手伝い以来、畑仕事など随分としてこなかったが、まずは乱雑に投げ捨てられた農具を片付け、放っておかれた雑草でも抜いて暇をつぶそうかと智深が着物の袖をまくったその時、
 「和尚さま! あんた、魯智深様でしょう? へへ、お待ちしておりました」
 ふいになんとも軽い調子の声を背中に投げかけられ、ぐるりと振り向けば、いつの間に近づいていたのか、小汚い成りをして抜け目のなさそうな笑みを浮かべた男たちが二、三十人、手に手に果物や肉や酒を持って佇んでいる。
 「あいや、確かに拙僧が魯智深だ。お宅らはいったいどちらさんで」
 いかにも堅気の者には見えなかったが、まずは様子を探るため下手に出てやれば、にやにやとした笑みを張り付けたまま、年かさらしい二人の男が前に進み出た。
 「あたしはこの近くに住むもんの取りまとめをやっております、過街老鼠(かがいろうそ)の張三、こっちは青草蛇(せいそうだ)の李四と申します。この度、新しい和尚さんが菜園番になるって聞いたもんで、仲間と一緒にお祝いに来たんですよ」
 「そりゃあご丁寧に、かたじけない」
 ふと見れば、張三と李四が立っているのは肥溜めの真横。せっかくうまい料理を持って祝いに来たというのになんとも気のきかんやつらだと思ったが、「ご近所衆ということなら、拙僧、ぜひ番屋でともに酒を交わしたい。さあ、こちらへ」と誘ってみても、「いえいえ、恐れ多い」と一同の誰もそこを動こうとしない。
 そこでしかたなしに歩み寄れば、なにやら後ろに控えた若造どもが、そわそわとこちらの足元を盗み見て、手を閉じたり開いたりしているのが目についた。
 (ははぁん、なるほど。さてはこやつらごろつきども、新任の坊主をいじめようって魂胆でやってきたな。俺をひっくり返して肥溜めに突き落とそうってことか)
 まったく、考えることも成すこともろくでもないが、己の体格を見てもまだその決意を変えぬところは気に入った。
 「恐れ多いので、ご挨拶はここで済ませます」
 こちらの隙をうかがいながら跪く二人のならず者に、智深はあえて自ら近づく。
 「いやいや、そう遠慮しなさんな。これから世話になるのだから」
 わざとに人の良さそうな(己にできうる限りの、ではあるが)顔をして、二人を起こそうと歩み寄り、
 「今だ!」
 「ハハ、させるか」
 己の両足を片方ずつ掬い取ろうとする張三と李四の手よりも、智深がその足を振り上げるほうが早かった。
 「ぎゃあ!」
 勢いよく蹴り出された丸太のような足は見事にならず者どもの腹を捉え、鞠のように体を弾ませた二人は、間抜けな叫び声を道連れにして肥溜めの中にどぼんと落ちた。
 「なんだ、どうした、俺を突き落とすはずが、これではあべこべじゃないか」
 親分たちの消えた先をしばし呆然と見つめていた残りのごろつきどもは、智深の笑い声にハッと顔色を変え、慌てふためき我先にと逃げだそうとする。
 「待て、お前たち、逃げようったってそうはいかんぞ。逃げるやつはとっ捕まえて、残らず肥溜めにぶちこんでやる!」
 「に、逃げません、逃げませんからお許しを……!」
 一番手近にいた男の首根っこを捕まえて叫べば、今度は根が生えたようにその場に立ち尽くす姿がおかしくて、智深はさらに笑いながら肥溜めのほうを振り向いた。
 「お、お助けを! 臭い、臭くてたまらん!」
 先ほど突き落とした男たちは、髪の毛の間まで糞にまみれ、蠅や蛆にたかられながら、魚のようにぱくぱくと口をあけている。その姿がさすがに哀れに思えてきた智深は、立ち尽くすごろつきたちを怒鳴りつけた。
 「おい、はやくこのうるさい糞まみれ野郎どもを引き上げてやれ。そうすれば見逃してやる」
 妖術が解けたかのように動き始めた男たちは、臭い、ひどい匂いだ、と口々にぼやきながらも間抜けな親分たちをひっぱりあげ、瓢箪棚の下まで連れ戻した。
 だが、あまりの悪臭に誰もそれ以上のことをしてやる勇気も出ず、困り果てたように智深を見つめてくるものだから、おかしいやら哀れやらで智深もすっかり懲らしめる気が失せてしまった。
 「まったく、俺をはめようとするならもっとうまくやることだな。そら、あそこに池があるから、そこで体を洗ってこい。そんな糞まみれの姿でそのほかの場所を歩き回ったら、今度こそ許さんぞ」
 さんざん智深に笑いものにされた張三と李四が、仲間の手を借りて体を洗い、着物を着替え終わったところを見計らい、智深は彼らを手招いて番屋の前に集めた。
 「まったくお前たちときたら、阿呆な連中だ。正直に言え、お前たちが、大相国寺の坊主たちが言っていたごろつきどもだな。いったい何故、この菜園で悪さをする?」
 すっかり反省した様子の男たちは、皆、地に額がこすれるほどに平伏した。
 「あたしらは先祖代々このあたりに住んでいる者で、博打をしながら暮らしているんですがね。ただ、近頃は華の東京ですら景気がよくないと見えて、なかなかでかい博打をしかける旦那もおらず、博打だけでやっていくには大変だってんで、ちいっとこの菜園から銭を稼がせていただいてるってわけでさぁ。あ、もちろん、ここの農夫の取り分からは盗んじゃいませんよ。まあ、そんなこんなで、大相国寺の連中じゃあ、あたしらを追い払うことなんか今までできなかったんだが、魯のお師匠さま、あんたは並の僧侶じゃないね。いったいどこの長老様なんです? あたしらが束になったってかなわないや。今日のことはすっかり反省して、これからは心をこめてお仕えしますよ」
 「ふん、調子のいい奴らめ。俺はかつて延安府の経略使种老公のもとで提轄を務めていたが、訳あって人を殺したので一念発起して僧侶となり、智深という法名を授かって五台山で修行した後ここへ来たのだ。お前たちのような間抜けの二十人や三十人、俺の敵ではないわ。たとえ千の軍が万の馬を引き連れて襲ってこようと、いともたやすく切り込んでやる」
 大きな拳を手のひらに打ち付けながら言えば、男たちはさらに恐れ入ったとばかりに平伏する。
 「さすが魯のお師匠さま、勇猛でいらっしゃる」
 「お師匠さま、どうかあたしらの持ってきた酒を飲んでください」
 「わかった、わかった。酒はもらっておくから、またいつでも遊びに来るといい。ただ妙な真似をすれば……わかるな?」
 「もちろんですとも。もうこのような愚かなことはいたしません」
 肥溜めの件がよほどに堪えたと見えて、男たちはみなそれぞれかしこまってぺこぺこと何度も頭を下げると、持ってきた酒や料理を智深に手渡し、蜘蛛の子を散らしたように帰って行く。
 その情けない後姿を眺めながら、智深はぼりぼりと髭を掻いた。
 小悪党と呼ぶのもおこがましい小物だが、根っからの悪人ではない。例えその身に龍を飼う若者のような豪傑ではなくとも、偉そうな御託ばかり並べて他人には無関心な大相国寺の坊主どもよりは、よっぽどまともな話ができそうだ。
 「まったく……」
 瓢箪棚の下に脱ぎ捨てられた糞尿まみれの着物を木の枝でつまみ、智深はそれを再び肥溜めの中に投げ捨てた。



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 大相国寺の僧房で一晩休んだ次の日、智深はさっそく智清大師より菜園番の任を命ずる法帖を受け取り、付き添う二人の僧侶とともに、酸棗門外の菜園へと足を運んだ。
 途中、大きな街路が交わる広い場所を通りかかった時、ふとこの景色に見覚えがあると気が付いた智深は、思わず立ち止まって辺りを見回す。
 「智深殿、どうかなさいましたか」
 怪訝な顔で尋ねる付き添いの僧侶の言葉にあいまいな返事をしながら、遠い記憶に思いを巡らせる。
 賑やかな酒楼、威勢のいい薬屋、老舗の風格のある靴屋――様々な店が軒を連ねるこの一帯は、確か|潘楼街《はんろうがい》と言ったのではなかったか。そして、
 「おい、あんた。この潘楼街を東に行った路地の奥の方に、林という人の家があったと思うんだが、知っているか?」
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 付き添いの僧侶たちは顔を見合わせて少し思案したあと、思いついた、と目を瞬かせた。
 「あなた様のおっしゃる林さんは、かつて提轄を務めておられた|林瀞《りんせい》殿のことですか?」
 「まさにその方だ! 健在にしておられるか、気になってな。幼い頃世話になったから、この度のついでに挨拶をと思ったのだが」
 「残念ながら、林堤轄は五年ほど前に病でお亡くなりになられました。ご夫人もその二年ほど前に亡くなっておられたので、今はご子息とその奥方が、同じ家にお住まいですよ」
 「なんと、そうだったか……」
 懐かしい名に顔がほころんだ智深であったが、再会の挨拶をすることはついぞ叶わぬと知り、密かに肩を落とした。恩人の令息には会ったことがなかったが、この東京にいれば面識を得る機会もあるだろう。
 「まあいい。今はそれより菜園のことだ」
 わずかな刹那、恩人を偲んで瞑目した後、智深は僧侶たちとともに再び歩き出す。
 堅固な城壁を横目にしばらく行けば、ほどなくして目の前に開けた野菜畑が現れた。
 ちょうど一仕事を終える頃合いだったようで、ぽつぽつと農夫の姿があったが、こちらに気がつくと、見慣れぬ荒くれ坊主の姿に瞠目し、ためらいがちな会釈を返してそのまま鍬を手に街の方へと去っていく。
 「あそこに見える小屋が、菜園の見張り番屋です。あなたさまには少々窮屈かもしれませんが、必要なものはなんでも揃っていますし、清潔ですよ」
 二人の僧侶たちとともに番屋を訪ねれば、いかにも気の弱そうな前任の老僧が、待っていたとばかりに僅な手荷物を抱えて飛び出してきた。
 「あなたさまが魯智深殿ですね。ああ、あなたさまなら、きっとここの連中ともうまいことやっていけるでしょう。わたしはもうこりごりですから、さあ、はやくこちらに荷物を」
 「なんだ、こりごりとはどう言うことだ。自分で畑仕事をしているわけでもあるまいし」
 太鼓持ちのごとくすり寄ってくる老僧に荷物を預けながら、智深はむずむずと眉を動かした。
 確かに付き添いどもが言っていた通り、狭いながらも清潔が保たれた小屋には、生活に必要なものはすべて揃っている。
 智深の巨体には備え付けの寝台が小さすぎること以外は、野菜も手に入れば、酒を飲むのを見とがめて小言を言う者もなし、こんなに楽な仕事はない。
 「さてはあなたさま、聞いておられんのですな。この菜園を耕す農夫はおとなしいが、問題は、四六時中やってきては馬鹿騒ぎをし、野菜を盗み、糞尿を撒き散らして暴れ放題のならず者どもですよ。農夫どもも、所詮は自分の畑ではないんで、自分の取り分さえ守れれば触らぬ神に祟りなし。私もこの通りの老いぼれですから、やつらはもう好き放題なのです」
 さては智深をこの菜園によこしたのは、修行のためなどではなく、体よくやっかい者を追い払えるうえに、うるさいごろつきを懲らしめられると考えてのことだったのだ。
 「ふん、菜園の番人が聞いて呆れる。そのならず者、どれほど俺を楽しませてくれるか見ものだな」
 太い指を鳴らし、肩を揺らして笑う智深の姿に怯えたように肩をすくめた老僧は、一刻もはやく立ち去りたいとばかりに早口で菜園番の仕事を引き継ぐと、各所の鍵を智深に渡し、付き添ってきた二人の僧侶とともにさっさと大相国寺へ戻っていった。
 こうして一人、都の一角とは思えぬだだっぴろい畑が広がる景色の中に取り残された智深は、ひとまずわずかな荷物を片付け、戒刀と禅杖を寝台の枕元に立てかけると、さっそく菜園の様子を確かめようと辺りを見回す。
 ふと、風さえ止まったような刹那の静けさが耳を劈き、智深は思わず顔をあげ、空を仰いだ。
 目と鼻の先にはこの国を治める者たちが住まう城があり、歩けばすぐ近くには活気あふれる街並みがあるというのに、まるで智深とこの菜園だけ、都の華やぎから抜け落ち、永久に繰り返すろくでもない日々の中に取り残されたかのようだ。
 (いや、何もこの菜園に縛りつけられているわけじゃねぇんだ)
 明日のことなど考えてもしかたがない。まずは今日これからのことだと気を取り直し、智深はうろうろと菜園を歩き回った。
 前任者は、ならず者たちを恐れるあまりすっかり菜園の手入れを怠っていたとみえ、作物はそれなりに立派に育ってはいるが、方々の柵は荒れ放題。農夫たちか、ならず者どもか、あるいはどちらもなのか、捨て置いた塵があちこちに散らばり、雑草も丁寧に抜かれたところと生い茂ったところがまだらになっている。
 「まったく、いくら素人の坊主が面倒を見ているとはいえ、こりゃひどいぞ」
 幼いころの手伝い以来、畑仕事など随分としてこなかったが、まずは乱雑に投げ捨てられた農具を片付け、放っておかれた雑草でも抜いて暇をつぶそうかと智深が着物の袖をまくったその時、
 「和尚さま! あんた、魯智深様でしょう? へへ、お待ちしておりました」
 ふいになんとも軽い調子の声を背中に投げかけられ、ぐるりと振り向けば、いつの間に近づいていたのか、小汚い成りをして抜け目のなさそうな笑みを浮かべた男たちが二、三十人、手に手に果物や肉や酒を持って佇んでいる。
 「あいや、確かに拙僧が魯智深だ。お宅らはいったいどちらさんで」
 いかにも堅気の者には見えなかったが、まずは様子を探るため下手に出てやれば、にやにやとした笑みを張り付けたまま、年かさらしい二人の男が前に進み出た。
 「あたしはこの近くに住むもんの取りまとめをやっております、|過街老鼠《かがいろうそ》の張三、こっちは|青草蛇《せいそうだ》の李四と申します。この度、新しい和尚さんが菜園番になるって聞いたもんで、仲間と一緒にお祝いに来たんですよ」
 「そりゃあご丁寧に、かたじけない」
 ふと見れば、張三と李四が立っているのは肥溜めの真横。せっかくうまい料理を持って祝いに来たというのになんとも気のきかんやつらだと思ったが、「ご近所衆ということなら、拙僧、ぜひ番屋でともに酒を交わしたい。さあ、こちらへ」と誘ってみても、「いえいえ、恐れ多い」と一同の誰もそこを動こうとしない。
 そこでしかたなしに歩み寄れば、なにやら後ろに控えた若造どもが、そわそわとこちらの足元を盗み見て、手を閉じたり開いたりしているのが目についた。
 (ははぁん、なるほど。さてはこやつらごろつきども、新任の坊主をいじめようって魂胆でやってきたな。俺をひっくり返して肥溜めに突き落とそうってことか)
 まったく、考えることも成すこともろくでもないが、己の体格を見てもまだその決意を変えぬところは気に入った。
 「恐れ多いので、ご挨拶はここで済ませます」
 こちらの隙をうかがいながら跪く二人のならず者に、智深はあえて自ら近づく。
 「いやいや、そう遠慮しなさんな。これから世話になるのだから」
 わざとに人の良さそうな(己にできうる限りの、ではあるが)顔をして、二人を起こそうと歩み寄り、
 「今だ!」
 「ハハ、させるか」
 己の両足を片方ずつ掬い取ろうとする張三と李四の手よりも、智深がその足を振り上げるほうが早かった。
 「ぎゃあ!」
 勢いよく蹴り出された丸太のような足は見事にならず者どもの腹を捉え、鞠のように体を弾ませた二人は、間抜けな叫び声を道連れにして肥溜めの中にどぼんと落ちた。
 「なんだ、どうした、俺を突き落とすはずが、これではあべこべじゃないか」
 親分たちの消えた先をしばし呆然と見つめていた残りのごろつきどもは、智深の笑い声にハッと顔色を変え、慌てふためき我先にと逃げだそうとする。
 「待て、お前たち、逃げようったってそうはいかんぞ。逃げるやつはとっ捕まえて、残らず肥溜めにぶちこんでやる!」
 「に、逃げません、逃げませんからお許しを……!」
 一番手近にいた男の首根っこを捕まえて叫べば、今度は根が生えたようにその場に立ち尽くす姿がおかしくて、智深はさらに笑いながら肥溜めのほうを振り向いた。
 「お、お助けを! 臭い、臭くてたまらん!」
 先ほど突き落とした男たちは、髪の毛の間まで糞にまみれ、蠅や蛆にたかられながら、魚のようにぱくぱくと口をあけている。その姿がさすがに哀れに思えてきた智深は、立ち尽くすごろつきたちを怒鳴りつけた。
 「おい、はやくこのうるさい糞まみれ野郎どもを引き上げてやれ。そうすれば見逃してやる」
 妖術が解けたかのように動き始めた男たちは、臭い、ひどい匂いだ、と口々にぼやきながらも間抜けな親分たちをひっぱりあげ、瓢箪棚の下まで連れ戻した。
 だが、あまりの悪臭に誰もそれ以上のことをしてやる勇気も出ず、困り果てたように智深を見つめてくるものだから、おかしいやら哀れやらで智深もすっかり懲らしめる気が失せてしまった。
 「まったく、俺をはめようとするならもっとうまくやることだな。そら、あそこに池があるから、そこで体を洗ってこい。そんな糞まみれの姿でそのほかの場所を歩き回ったら、今度こそ許さんぞ」
 さんざん智深に笑いものにされた張三と李四が、仲間の手を借りて体を洗い、着物を着替え終わったところを見計らい、智深は彼らを手招いて番屋の前に集めた。
 「まったくお前たちときたら、阿呆な連中だ。正直に言え、お前たちが、大相国寺の坊主たちが言っていたごろつきどもだな。いったい何故、この菜園で悪さをする?」
 すっかり反省した様子の男たちは、皆、地に額がこすれるほどに平伏した。
 「あたしらは先祖代々このあたりに住んでいる者で、博打をしながら暮らしているんですがね。ただ、近頃は華の東京ですら景気がよくないと見えて、なかなかでかい博打をしかける旦那もおらず、博打だけでやっていくには大変だってんで、ちいっとこの菜園から銭を稼がせていただいてるってわけでさぁ。あ、もちろん、ここの農夫の取り分からは盗んじゃいませんよ。まあ、そんなこんなで、大相国寺の連中じゃあ、あたしらを追い払うことなんか今までできなかったんだが、魯のお師匠さま、あんたは並の僧侶じゃないね。いったいどこの長老様なんです? あたしらが束になったってかなわないや。今日のことはすっかり反省して、これからは心をこめてお仕えしますよ」
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 大きな拳を手のひらに打ち付けながら言えば、男たちはさらに恐れ入ったとばかりに平伏する。
 「さすが魯のお師匠さま、勇猛でいらっしゃる」
 「お師匠さま、どうかあたしらの持ってきた酒を飲んでください」
 「わかった、わかった。酒はもらっておくから、またいつでも遊びに来るといい。ただ妙な真似をすれば……わかるな?」
 「もちろんですとも。もうこのような愚かなことはいたしません」
 肥溜めの件がよほどに堪えたと見えて、男たちはみなそれぞれかしこまってぺこぺこと何度も頭を下げると、持ってきた酒や料理を智深に手渡し、蜘蛛の子を散らしたように帰って行く。
 その情けない後姿を眺めながら、智深はぼりぼりと髭を掻いた。
 小悪党と呼ぶのもおこがましい小物だが、根っからの悪人ではない。例えその身に龍を飼う若者のような豪傑ではなくとも、偉そうな御託ばかり並べて他人には無関心な大相国寺の坊主どもよりは、よっぽどまともな話ができそうだ。
 「まったく……」
 瓢箪棚の下に脱ぎ捨てられた糞尿まみれの着物を木の枝でつまみ、智深はそれを再び肥溜めの中に投げ捨てた。