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 会議室の掃除が終わり、樹はモップを清掃カートに仕舞った。
 窓から見える高層ビル群には夕陽がかかり、街並みをオレンジに染めている。
 コテージを出てから半年が経った。
 今は土屋の紹介で入社した清掃会社で真面目に働き、真っ当な社会人として生活を送っている。
 世間でいう成功者とは程遠いかもしれないが、樹自身は充実していた。
 与えられた仕事に従事できること、クズだった自分が世界に混ざり合っていること。
 最下層で埋もれていた野良犬にとって、普通というだけでも特別だった。

「樹、終わったか」

 ドアの方に視線を向けると、今井が立っていた。
 清掃会社の先輩で、樹よりも歳が十個上だ。
 学生時代はラグビーをやっていたらしく、恰幅の良さは作業着の上からでも確認できた。
 無表情のときは強面だが、笑うと顔全体に優しさが広がり安心感を抱かせる。面倒見も良く、尊敬できる人だった。

「はい。終わりました」

「今日給料日だろ? 久々に行くか」

 今井は顔の前に持ってきた右手を口元に傾け、飲む仕草を見せた。

「すいません、これから用事があって」

「そっか。じゃあ、また今度だな」

 樹が申し訳なさそうに言うと、今井は穏やかな表情を浮かべた。

「はい」

「よし、今日はもう上がるか」

 今井は両手を高く上げ、上半身を目一杯伸ばした。
 樹は清掃カートを押して会議室を出ると、今井と肩を並べながらエレベーターへと向かう。

「そういえば、結婚記念日もうすぐって言ってましたよね? 何かあげるんですか?」

「あっ……」

 今井は口を半開きにしたまま、表情を固めた。

「忘れてたんですか?」

「わ、忘れてねえよ。最愛の妻との記念日を忘れる夫がどこにいるんだよ」

「『わ』を二回言ってましたよ。忘れてた人特有の言い方で」

「お前、よく覚えてたな。言ったの三ヶ月前とかだったろ?」

「なんとなく覚えてて」

「今度から忘れちゃいけないことは、全部樹に教えとくか」

「俺をスマホ代わりにしないでもらえます?」

「子供の誕生日とかもあるから、覚えるものが多いんだよ。樹も結婚したら、この大変さが分かるぞ」

「俺にはまだ、結婚は早いっすよ。それにやりたいこともあるし」

「なんだよ」

「内緒です」

「言えよ」

「いやです」

「言え、この野郎」と、今井は樹の首を腕で締め上げた。

「気が向いたら言います」

「お前の尊敬する先輩が聞いてるんだから言え」

「尊敬はしてないっす」

「そんなこと言うなら、もう二度と飯奢らないからな」

「奥さんに結婚記念日忘れてたこと言っときますね」

「樹くん、何が食べたい? 好きなもの言っていいぞ」

「寿司」

「回転寿司なら……まあいいか」

「回らないやつです」

「てめえ、この野郎」

 今井は再度、腕で首を絞めてきた。
 なんでもない日常。
 他愛もない会話。
 平凡な瞬間の積み重ねは、樹の世界に色を灯していた。
 金もなければ地位も低いし、SNSで見るような幸せな生活とはほど遠い。
 それでも生きているという実感はしっかりとある。
 真面目に何かを取り組んでいるだけでも、充分に素晴らしいことだ。
 ネットでは評価されないかもしれないが、地道に汗をかいている人間が一番美しい。
 懸命さは自分を支える誇りとなり、その誇りが命に意味を付けてゆく。
 窓から差す夕陽は、樹の笑顔を照らしていた。
 世界の片隅に咲く、名もなき一輪を見守るように。


 樹はヤミ金の事務所へと足を運んでいた。
 給料日には必ず立ち寄り、一定額を返済に充てていた。
 そして今日、返済にピリオドが打たれる。

「これで、完済だな」

 宮田は紙幣を数えた後、樹に視線を送ってきた。

「お前が真っ当に生きられるようになるとはな。また、どっかで躓くと思ってたよ」

「どんなクズでも信念さえ持てれば、真っ当に生きることができる。あんたの先輩にそう教わった」

 宮田は一笑した。どんな意味の笑いかは分からなかったが、見下すようなものではないと感じた。

「最後に教えといてやる。本当のクズは信念すら持てない。持てる時点でクズではねえよ」 
 
 どんな感情で、その言葉を受け取っていいか分からなかった。
 褒められてるような気もするすが、宮田が自分を褒めるようにも思えなかったから。

「これからどうすんだ? 今の仕事を一生続けてくのか?」

「それは分からない。でも、最下層で見てきた景色は大事にしたい。俺が生きる意味にもなるから」

「意味?」

「染み付いた汚れを言葉に変えることができたら、誰かの歩く道を美しくできる。俺は世間の人間と比べてしょうもない生き方をしてきた。でもそれは、俺自身の存在意義にもなる。クズだったからこそ救える人間もいるんだ。『無駄なことなんてない』それをこれからの人生で証明してみせるよ」

「できるのかよ、野良犬だった人間に」

 宮田が挑発するように聞いてくると、樹は「フっ」と微笑を浮かべてから言葉を返す。

「できるかどうかは俺が決める」

 宮田も樹と同じように微笑を浮かべた。
 何かを思い出すようにして。

「これからお前がどう生きるかなんて、俺には知ったこっちゃない。でも一つだけアドバイスしとく。ヤミ金なんてもんには手を出すな。お前を助けてくれる人間は、ここにはいない」

「あんたが言うと説得力があるよ。でも、もう借りることはない。真面目に生きるって決めたから。俺が俺でいるためにも」

「まあ、頑張れや。金すら産まないお前には、もう関わることもない。どこぞで自由にくたばってこい」

「ああ、(もが)きながらくたばってくるよ」


 土曜日、樹は池袋にある雑居ビルへと来ていた。
 教室のような一室には二十名の男女が並んで座っており、年齢層は幅広い。
 前にあるホワイトボードには『第一回小説講座』と書かれている。
 机にはA4サイズの封筒が置かれており、中には教科書のようなものが入っていた。
 樹は一番後ろの席でざっと中身を見ていると、部屋に五十代くらいの男性が入ってきた。
 教壇に立つとマイクを握り、話し始める。

「じゃあ、始めるか。まずは自己紹介からしよう。知ってる人もいると思うけど、俺は作家の井之川圭介だ。圭ちゃんって呼んでいいぞ」

 教室が静まり返ると「前回はもっと反応が良かったんだけどな」と、独り言のように井之川は呟いた。

「まあ人それぞれだもんな、うん」

 自分自身に言い聞かせたのか、不満そうな表情は納得したような顔に変わる。

「この中には小説を好きな人間もいれば、まったく読まない人間もいると思う。まあ、どっちでもいい。本が好きだからこそ分かることもあるし、本が好きじゃないからこそ分かることもある。それぞれの特性だから、それを活かしていけばいいよ。俺の作品を読んだことがない人もいるだろ? 『とりあえずこいつでいいや』で応募してきた奴。気にすることはないから堂々と講義を受けろ。こいつの小説を読みたいって思わせるのは俺の仕事だから、読めなんて言わない。読みたいって思わせるから」

 樹は普段小説を読まないため、井之川のことをまったく知らなかった。
 応募するときも『小説を読んだことがない人もOK』というワードに惹かれたからだ。
 井之川はルーズさを感じるし、言葉の使い方も想像していた作家とはかけ離れている。
 だが嫌な感じはしない。
 お前はお前でいい、そんな風に言ってくれているような気がしたから。

「知らない奴はネットで調べてくれ。興味ないおっさんの自己紹介なんて退屈だろ? 俺が生徒側なら早く書き方を教えてくれって思うか……おい、今何人か頷いただろ? そういうの傷つくからな」

 生徒たちに笑いが起こると、部屋に漂っていた緊張感が解けていく。

「今日やるのは小説を書くうえでの基本だ。でもそれは技術だけじゃない。自分が書く意味を見つける、という意味も含む」

 言葉の意味が分からなかったのか、何人かが首を傾げている。

「まず初めに、なんで小説を書きたいと思ったのか聞こうか。全員に聞いていくから、前から順番に言ってくれ。じゃあ、そこの綺麗なお姉さんから」

 井之川は六十代くらいの女性を指した。
 女性は「もうおばさんです」と、顔の前で手を振っている。
 場の空気が段々と井之川の色に染まってきたような気がした。
 支配するというのはこういうことだろうか、これも言葉の力なのかもしれない、と樹は思う。
 女性から始まると、それぞれが書きたい理由を述べていった。

「昔から好きだったので、自分も書いてみたいと思った」
「自分の作品をアニメ化してほしい」
「小さい頃からの夢だから」
「なんとなく」
「売れたら稼げそうだから」
 と様々な理由が飛び交った。

 井之川は一つ一つの理由を肯定するように、大きく頷いたり「いいね」と相槌を打っていた。

「じゃあ、最後は君」

 井之川から指されると、樹は一考してから口を開く。

「誰かの役に立ちたかったから」

 樹の言葉に、井之川は一瞬黙った。
 今まではすぐに肯定するような反応を見せていたため、少しだけ不安がよぎる。

「世の中には人の役に立つ仕事はたくさんある。その中で、なんで小説を選んだ?」

 井之川は真剣な顔で問いかけてきた。
 先ほどのルーズな空気感は薄れ、場の雰囲気が引き締まるのが分かった。

「今までどうしようもない人生を送ってきた。ゴミのような扱いもされたし、自分でもクズだと思ってた。そんなクソみたいな生き方に意味を持たせたい。生きることに絶望したり、希望も見えなくなった人間って、この世界には結構いると思う。だから、そんな奴らの光になれたらなって。直接は難しいけど、言葉を通してならできると思った。俺みたいなクズだからこそ救える人間もいるって信じてる。まあ、理由はダサいかもしんないけど……そんな感じ」

 言い終わると、恥ずかしさが込み上げてきた。
 初対面の人間に想いを語るなど、人生でしたことがない。
 でも、同じ夢を持っている人たちがいると思ったら、淀みなく言葉が溢れていた。
 ここでは、何を言っても笑われはしないだろうという安心感があったのかもしれない。
 樹は熱を帯びている頬を隠すため俯いていると、井之川の声が鼓膜に触れた。

「作家の良いところはな、今までの失敗や、かいてきた恥を物語に変えることができるところだ。俺の人生は、まあ酷かったんだよ。でもそのおかげで人の痛みが分かるようになった。もがいてきた奴ほど物語の中で言葉が輝き、誰かの人生に踏み込むことができる。どんな生き方をするかで書くものも変わるんだ。失敗した経験が仕事となり、金に変わる。こんな最高の仕事、他にないだろ? 俺はな、小説ってもので誰かの人生を変えたいって思ってる。こんなおっさんが夢を語ってたら世間は笑うかもしんねえが、本気で誰かを変えたいんだ。若い奴からしたら、いい歳した大人が熱くなってるのはダサいかもしれない。だけどな、笑われようが、貶されようが、これだけはいくつになっても捨てられないんだよ。クソみたいな人生に意味を付けるためにも」

 口にすれば、きっと笑われる。
 今まではそう思っていた。
 だが、目の前の大人は恥ずかしげもなく夢を語った。
 笑われることを恐れていた自分が、恥ずかしいと思えるほどの熱量で。

「かっこいいよ。俺も井之川さんみたいな作家になりたい」

「こんな三流作家を目標にするな。一ヶ月もあれば、簡単に超えられるんだから」

 冗談ぽく井之川は言っていたが、どこか恥ずかしそうに顔を赤らめている。

「全員に聞き終えたし、始めるか。まずは手元にある封筒の中身を説明するから、取り出してくれ」

 生徒たちは封筒の中に入っていた教科書やパンフレットを取り出す。

「まずは教科書なんだが……」

 一度枯れた夢は季節を重ね、美しく咲こうと芽を出し始めた。
 これからは大事に育てないといけない。
 しっかりと根を張り、心を折られようとも何度でも立ち上がる(とき)の花に。


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 会議室の掃除が終わり、樹はモップを清掃カートに仕舞った。
 窓から見える高層ビル群には夕陽がかかり、街並みをオレンジに染めている。
 コテージを出てから半年が経った。
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 世間でいう成功者とは程遠いかもしれないが、樹自身は充実していた。
 与えられた仕事に従事できること、クズだった自分が世界に混ざり合っていること。
 最下層で埋もれていた野良犬にとって、普通というだけでも特別だった。
「樹、終わったか」
 ドアの方に視線を向けると、今井が立っていた。
 清掃会社の先輩で、樹よりも歳が十個上だ。
 学生時代はラグビーをやっていたらしく、恰幅の良さは作業着の上からでも確認できた。
 無表情のときは強面だが、笑うと顔全体に優しさが広がり安心感を抱かせる。面倒見も良く、尊敬できる人だった。
「はい。終わりました」
「今日給料日だろ? 久々に行くか」
 今井は顔の前に持ってきた右手を口元に傾け、飲む仕草を見せた。
「すいません、これから用事があって」
「そっか。じゃあ、また今度だな」
 樹が申し訳なさそうに言うと、今井は穏やかな表情を浮かべた。
「はい」
「よし、今日はもう上がるか」
 今井は両手を高く上げ、上半身を目一杯伸ばした。
 樹は清掃カートを押して会議室を出ると、今井と肩を並べながらエレベーターへと向かう。
「そういえば、結婚記念日もうすぐって言ってましたよね? 何かあげるんですか?」
「あっ……」
 今井は口を半開きにしたまま、表情を固めた。
「忘れてたんですか?」
「わ、忘れてねえよ。最愛の妻との記念日を忘れる夫がどこにいるんだよ」
「『わ』を二回言ってましたよ。忘れてた人特有の言い方で」
「お前、よく覚えてたな。言ったの三ヶ月前とかだったろ?」
「なんとなく覚えてて」
「今度から忘れちゃいけないことは、全部樹に教えとくか」
「俺をスマホ代わりにしないでもらえます?」
「子供の誕生日とかもあるから、覚えるものが多いんだよ。樹も結婚したら、この大変さが分かるぞ」
「俺にはまだ、結婚は早いっすよ。それにやりたいこともあるし」
「なんだよ」
「内緒です」
「言えよ」
「いやです」
「言え、この野郎」と、今井は樹の首を腕で締め上げた。
「気が向いたら言います」
「お前の尊敬する先輩が聞いてるんだから言え」
「尊敬はしてないっす」
「そんなこと言うなら、もう二度と飯奢らないからな」
「奥さんに結婚記念日忘れてたこと言っときますね」
「樹くん、何が食べたい? 好きなもの言っていいぞ」
「寿司」
「回転寿司なら……まあいいか」
「回らないやつです」
「てめえ、この野郎」
 今井は再度、腕で首を絞めてきた。
 なんでもない日常。
 他愛もない会話。
 平凡な瞬間の積み重ねは、樹の世界に色を灯していた。
 金もなければ地位も低いし、SNSで見るような幸せな生活とはほど遠い。
 それでも生きているという実感はしっかりとある。
 真面目に何かを取り組んでいるだけでも、充分に素晴らしいことだ。
 ネットでは評価されないかもしれないが、地道に汗をかいている人間が一番美しい。
 懸命さは自分を支える誇りとなり、その誇りが命に意味を付けてゆく。
 窓から差す夕陽は、樹の笑顔を照らしていた。
 世界の片隅に咲く、名もなき一輪を見守るように。
 樹はヤミ金の事務所へと足を運んでいた。
 給料日には必ず立ち寄り、一定額を返済に充てていた。
 そして今日、返済にピリオドが打たれる。
「これで、完済だな」
 宮田は紙幣を数えた後、樹に視線を送ってきた。
「お前が真っ当に生きられるようになるとはな。また、どっかで躓くと思ってたよ」
「どんなクズでも信念さえ持てれば、真っ当に生きることができる。あんたの先輩にそう教わった」
 宮田は一笑した。どんな意味の笑いかは分からなかったが、見下すようなものではないと感じた。
「最後に教えといてやる。本当のクズは信念すら持てない。持てる時点でクズではねえよ」 
 どんな感情で、その言葉を受け取っていいか分からなかった。
 褒められてるような気もするすが、宮田が自分を褒めるようにも思えなかったから。
「これからどうすんだ? 今の仕事を一生続けてくのか?」
「それは分からない。でも、最下層で見てきた景色は大事にしたい。俺が生きる意味にもなるから」
「意味?」
「染み付いた汚れを言葉に変えることができたら、誰かの歩く道を美しくできる。俺は世間の人間と比べてしょうもない生き方をしてきた。でもそれは、俺自身の存在意義にもなる。クズだったからこそ救える人間もいるんだ。『無駄なことなんてない』それをこれからの人生で証明してみせるよ」
「できるのかよ、野良犬だった人間に」
 宮田が挑発するように聞いてくると、樹は「フっ」と微笑を浮かべてから言葉を返す。
「できるかどうかは俺が決める」
 宮田も樹と同じように微笑を浮かべた。
 何かを思い出すようにして。
「これからお前がどう生きるかなんて、俺には知ったこっちゃない。でも一つだけアドバイスしとく。ヤミ金なんてもんには手を出すな。お前を助けてくれる人間は、ここにはいない」
「あんたが言うと説得力があるよ。でも、もう借りることはない。真面目に生きるって決めたから。俺が俺でいるためにも」
「まあ、頑張れや。金すら産まないお前には、もう関わることもない。どこぞで自由にくたばってこい」
「ああ、|踠《もが》きながらくたばってくるよ」
 土曜日、樹は池袋にある雑居ビルへと来ていた。
 教室のような一室には二十名の男女が並んで座っており、年齢層は幅広い。
 前にあるホワイトボードには『第一回小説講座』と書かれている。
 机にはA4サイズの封筒が置かれており、中には教科書のようなものが入っていた。
 樹は一番後ろの席でざっと中身を見ていると、部屋に五十代くらいの男性が入ってきた。
 教壇に立つとマイクを握り、話し始める。
「じゃあ、始めるか。まずは自己紹介からしよう。知ってる人もいると思うけど、俺は作家の井之川圭介だ。圭ちゃんって呼んでいいぞ」
 教室が静まり返ると「前回はもっと反応が良かったんだけどな」と、独り言のように井之川は呟いた。
「まあ人それぞれだもんな、うん」
 自分自身に言い聞かせたのか、不満そうな表情は納得したような顔に変わる。
「この中には小説を好きな人間もいれば、まったく読まない人間もいると思う。まあ、どっちでもいい。本が好きだからこそ分かることもあるし、本が好きじゃないからこそ分かることもある。それぞれの特性だから、それを活かしていけばいいよ。俺の作品を読んだことがない人もいるだろ? 『とりあえずこいつでいいや』で応募してきた奴。気にすることはないから堂々と講義を受けろ。こいつの小説を読みたいって思わせるのは俺の仕事だから、読めなんて言わない。読みたいって思わせるから」
 樹は普段小説を読まないため、井之川のことをまったく知らなかった。
 応募するときも『小説を読んだことがない人もOK』というワードに惹かれたからだ。
 井之川はルーズさを感じるし、言葉の使い方も想像していた作家とはかけ離れている。
 だが嫌な感じはしない。
 お前はお前でいい、そんな風に言ってくれているような気がしたから。
「知らない奴はネットで調べてくれ。興味ないおっさんの自己紹介なんて退屈だろ? 俺が生徒側なら早く書き方を教えてくれって思うか……おい、今何人か頷いただろ? そういうの傷つくからな」
 生徒たちに笑いが起こると、部屋に漂っていた緊張感が解けていく。
「今日やるのは小説を書くうえでの基本だ。でもそれは技術だけじゃない。自分が書く意味を見つける、という意味も含む」
 言葉の意味が分からなかったのか、何人かが首を傾げている。
「まず初めに、なんで小説を書きたいと思ったのか聞こうか。全員に聞いていくから、前から順番に言ってくれ。じゃあ、そこの綺麗なお姉さんから」
 井之川は六十代くらいの女性を指した。
 女性は「もうおばさんです」と、顔の前で手を振っている。
 場の空気が段々と井之川の色に染まってきたような気がした。
 支配するというのはこういうことだろうか、これも言葉の力なのかもしれない、と樹は思う。
 女性から始まると、それぞれが書きたい理由を述べていった。
「昔から好きだったので、自分も書いてみたいと思った」
「自分の作品をアニメ化してほしい」
「小さい頃からの夢だから」
「なんとなく」
「売れたら稼げそうだから」
 と様々な理由が飛び交った。
 井之川は一つ一つの理由を肯定するように、大きく頷いたり「いいね」と相槌を打っていた。
「じゃあ、最後は君」
 井之川から指されると、樹は一考してから口を開く。
「誰かの役に立ちたかったから」
 樹の言葉に、井之川は一瞬黙った。
 今まではすぐに肯定するような反応を見せていたため、少しだけ不安がよぎる。
「世の中には人の役に立つ仕事はたくさんある。その中で、なんで小説を選んだ?」
 井之川は真剣な顔で問いかけてきた。
 先ほどのルーズな空気感は薄れ、場の雰囲気が引き締まるのが分かった。
「今までどうしようもない人生を送ってきた。ゴミのような扱いもされたし、自分でもクズだと思ってた。そんなクソみたいな生き方に意味を持たせたい。生きることに絶望したり、希望も見えなくなった人間って、この世界には結構いると思う。だから、そんな奴らの光になれたらなって。直接は難しいけど、言葉を通してならできると思った。俺みたいなクズだからこそ救える人間もいるって信じてる。まあ、理由はダサいかもしんないけど……そんな感じ」
 言い終わると、恥ずかしさが込み上げてきた。
 初対面の人間に想いを語るなど、人生でしたことがない。
 でも、同じ夢を持っている人たちがいると思ったら、淀みなく言葉が溢れていた。
 ここでは、何を言っても笑われはしないだろうという安心感があったのかもしれない。
 樹は熱を帯びている頬を隠すため俯いていると、井之川の声が鼓膜に触れた。
「作家の良いところはな、今までの失敗や、かいてきた恥を物語に変えることができるところだ。俺の人生は、まあ酷かったんだよ。でもそのおかげで人の痛みが分かるようになった。もがいてきた奴ほど物語の中で言葉が輝き、誰かの人生に踏み込むことができる。どんな生き方をするかで書くものも変わるんだ。失敗した経験が仕事となり、金に変わる。こんな最高の仕事、他にないだろ? 俺はな、小説ってもので誰かの人生を変えたいって思ってる。こんなおっさんが夢を語ってたら世間は笑うかもしんねえが、本気で誰かを変えたいんだ。若い奴からしたら、いい歳した大人が熱くなってるのはダサいかもしれない。だけどな、笑われようが、貶されようが、これだけはいくつになっても捨てられないんだよ。クソみたいな人生に意味を付けるためにも」
 口にすれば、きっと笑われる。
 今まではそう思っていた。
 だが、目の前の大人は恥ずかしげもなく夢を語った。
 笑われることを恐れていた自分が、恥ずかしいと思えるほどの熱量で。
「かっこいいよ。俺も井之川さんみたいな作家になりたい」
「こんな三流作家を目標にするな。一ヶ月もあれば、簡単に超えられるんだから」
 冗談ぽく井之川は言っていたが、どこか恥ずかしそうに顔を赤らめている。
「全員に聞き終えたし、始めるか。まずは手元にある封筒の中身を説明するから、取り出してくれ」
 生徒たちは封筒の中に入っていた教科書やパンフレットを取り出す。
「まずは教科書なんだが……」
 一度枯れた夢は季節を重ね、美しく咲こうと芽を出し始めた。
 これからは大事に育てないといけない。
 しっかりと根を張り、心を折られようとも何度でも立ち上がる|時《とき》の花に。