部屋の掃除をした後、樹は服を折り畳んで鞄の中に仕舞った。
コテージに来てから一ヶ月、濃縮された日々を過ごしてきたが、今日で旅立たなければならない。
誕生日から四日経ったが、蘭は未だに声を発していなかった。食事以外は自室にこもり、外にも出てこない。
最後くらいは言葉を耳にしたいと思っていたが、叶いそうにもなかった。
自分ができることはしたが、それでも後悔は残る。
この先、竜一から近況を聞くことができても、力になれることは限られてくる。
樹自身も自分の人生を歩まなければならないため、会うのが今日で最後かもしれない。
そう考えると、胸の中で不安が蠢いた。
「樹、そろそろ行くぞ」
廊下から竜一の声が聞こえた。
樹は「うん」と返した後、部屋を見渡し、思い出を仕舞ってから廊下へと出た。
玄関には莉亜たちの姿があり、そこには絵本を持った蘭もいた。
一瞬だけ目があったがすぐに逸らされたため、かける言葉を見失う。
「しょうがないから外まで見送ってやろう」
気まずい空気を察したのか、莉亜がいつもより声のトーンを上げて言った。
「しょうがないから見送られてやるよ」
「最後まで偉そうに」
莉亜はそう言った後、少しだけ寂しそうな表情を浮かべた。
それに釣られるように、樹の顔も少しだけ引き攣ってしまう。
玄関を出ると、車がコテージの前に止められており、すぐに出発できる状態で止められていた。
樹は後部座席に鞄を置いた後、コテージの方に振り返る。
莉亜、蘭、蓮見、葉山が横一列に並んでおり、樹の隣には竜一が立っている。
「元気でね、樹くん」
「ああ」
葉山の声を皮切りに、別れの空気が漂った。
海から吹いてくる風さえも、惜しみたくなるような感覚がある。
「喧嘩ばかりで迷惑かけちゃってごめんね。大事な期間だったのに、無駄なことで時間を使わせちゃった」
蓮見が言うと、樹は首を横に振った。
「蓮見が来たから、葉山が一歩進めた。それに、喧嘩することが間違いかって言ったらそうでもない。その人間を知れるきっかけになったりもする。だから無駄なことではなかったし、俺たちには必要なことだったんだよ。なあ?」と、樹は莉亜に視線を送った。
「私たちなんて喧嘩しかしてなかったんだよ。樹くんがちょっかいばっかりかけてくるから」
「俺は何もしてねえよ。お前がふっかけってきたんだろ」
「ふっかけてないよ。私はお淑やかに接してたじゃん」
「葉山、こいつがお淑やかだったことがあるか?」
「樹くんが来る前は、そんな感じだったよ」
「猫被ってただけだろ。俺より喧嘩っ早いし」
「竜一さん、その人、海に捨ててきてください。魚の餌にしましょう」
「お淑やかな人間が言うセリフじゃねえだろ」
樹がツッコミを入れると笑いが起こった。和やかな空気が場を包む。
「樹くんのおかげで生き方を見つけられた。それと背負っていくものも。ここに来てくれてありがとう。私の恩人だよ」
「俺は何もしてない。全部この人のおかげ」と、樹は親指で竜一を指した。
「お前が莉亜を変えたんだ。お礼は素直に受け取っておけ」
「そうだぞ樹。私のお礼を喜んで受け取れ」
「なんでお前が上からなんだよ」
笑顔が溢れていた。旅立つ者との別れに相応しい、希望に満ちた空気感。
花束代わりの言葉たちが、樹の背中を押してくれる。
だが、晴れやかな場所にも雲がかかっている箇所があった。
幼い少女の顔には、悲しみのような感情が滲んでいる。
「蘭、これが最後だ。何か言いたいことがあったら言っておけ」
竜一が問うと、蘭は顔を俯かせた。
両手で持っている絵本を、力強く握りしめながら。
「蘭ちゃん、樹くんに何か言わなくていい?」
莉亜がしゃがんで顔を覗きこんだが、蘭は唇を固く結んでいる。
一同は少女の言葉を待った。もしかしたらという期待を抱きながら。
けれど、樹たちの鼓膜に幼き子の想いが編まれることはなかった。
「じゃあ、行くか」
竜一は運転席へと向かっていった。
樹は最後に蘭を見るが、今もまだ唇を固結びしている。
声が聞きたかった。
言葉が欲しかった。
色んな感情が見たかった。
その願いは叶うことなく、最後の最後に未練を残す形となった。
もっと早く一緒に遊んでいれば。
もっと早く言葉をかけてやれば。
もっと早く……
樹の頭の中には、後悔を装飾するような言葉たちが行き交っていた。
思い返せば、してやれることはたくさんあっただろう。
取り戻せない時間にifを投げかけても遅いが、それでも仮定してしまう。
もしも、あのとき、ああしていればと。
樹は後悔を滲ませながら、助手席のドアハンドルに手をかけた。
「樹」
後ろから声が聞こえた。
だが初めて聞く声だ。
済んだ鈴の音のような高い声。
振り返ると、莉亜たちの驚く表情が目に飛び込んできた。
そして、必死に何かを訴えようとする蘭の顔も。
「今の……」
樹が零すように言葉を吐くと、蘭は両手に持った絵本を勢いよく突き出した。
「ありがとう」
蘭の声。
蘭の言葉。
蘭の感情。
一瞬、何が起こったのかが分からなかったが、胸臆から何かが込み上げてくるのは、はっきりと分かった。
「樹、ありがとう」
立ち尽くしていると、二言目が編まれた。
握りしめていた後悔を捨てて蘭のもとへと駆け寄ると、樹は視線を合わせるようにしゃがんだ。
「ずっと聞きたかった、その声が」
樹がそう言うと、蘭の目に涙が浮かんだ。
「悲しいときは泣いていい。涙は想いを伝えるためにあるものだから」
言下、蘭の瞳から涙が零れる。
「帰っちゃイヤだよ。もっと樹と遊びたいし、ずっとここに居てほしい。仲良くなってきたのに、なんで離れるの。ひとりにしないでよ」
今ままで抑え込んでいたものが溢れるように、感情は大雨となって少女の頬を濡らしてゆく。
蘭は声を出しながら泣いていた。
自分のことを知ってほしいと言わんばかりに。
樹は蘭の頭を優しく撫で、言葉を編み始めた。
思い出の中に縫い合わせるように。
「辛いことや悲しいことが、この先もあると思う。誰も信用できなくなったり、生きていくことが嫌になったりするときが。でも、自分を否定しなくていい。誰かに嫌われたからといって、自分の価値が下がるわけじゃないから。別に一人だっていいし、友達を無理に作ろうともしなくていい。自分のことを好きと思えるようになれたら、大切な人は自然と見つけられる。自分のことを嫌ってくる人間に目を向けても、余計に自分を嫌いになるだけだ。そしたら誰の手も掴むことができない。だから、自分くらいは自分のことを好きでいてやれ。好きになる理由が見つからなくてもいい。真っ直ぐ生きているだけで、人は美しいから」
きっと言葉の意味は理解はしていないだろう。
でも、それで良かった。
いつか道から外れそうになったとき、この言葉を思い出して支えになってほしい。
樹は、未来の蘭のために花を添えた。
言葉という花束なら、大人になっても枯れはしないから。
「イヤだよ。なんでもっと早く遊んでくれなかったの。なんでひとりでどこかに行くの」
蘭は心に縫われていた想いを解き、言葉に変えてぶつけてきた。
樹は湧き上がる感情をグッと堪え、涙で濡れている少女の目を優しく拭った。
「そっちの方がいい。笑顔だけでは自分を知ってもらえないからな。泣きたいときは泣いて、笑いたいときには笑え。その方が自分らしくなれる」
「帰っちゃうの?」
「うん」
樹が頷くと、蘭は寂しさを携えながら顔を俯かせた。
その表情に言葉が詰まるが、押し出すように声を出す。
「これからは自分の好きと思うものを大事にしろ。周りの人間を気にして生きてると、自分が何者なのかも分からなくなる。好きって気持ちは、その人の個性になるし、それが自分という存在を支えてくれる。今は理解できないかもしれないけど覚えといて。迷ったときの道標になると思うから」
蘭が涙ぐみながら頷くと、樹は微笑みを浮かべた。
再度蘭の頭を撫でた後、樹は助手席へと乗り込む。
「もういいか?」
運転席に座った竜一がそう聞いてきたため、樹は「うん」とだけ返した。
エンジンがかかり、樹は窓を開ける。
「今度電話するから、ちゃんと出ろよ」
莉亜の張った声が海風と共に車内へと入る。
「ああ」
視線を下ろすと、蘭がこちらを見上げていた。
絵本を力強く握りしめており、潤んだ目が太陽の光で輝いている。
「じゃあな、蘭」
車が発車し、四つの蕾と別れを告げる。
季節の中で咲けなかった花。
一つの咲き方しか知らなかった花。
誰かを咲かせたいと願っていた花。
孤独の中で彷徨っていた花。
毒を植え付けられた小さな花。
多種多様な花たちは、ぶつかりながらも色を灯した。
季節外れの名もない花も、道を見つけることができれば『時の花』となれる。
樹はこの一ヶ月を噛み締めた。
思考の中に根を張り、言葉という水で育てた、まだ見窄らしい夢を想い描きながら。
「頑張れ、樹」
車が国道へと入ろうとすると声が聞こえた。
サイドミラーで後方を確認すると、絵本を体の前に突き出した蘭が映っている。
樹の涙腺は解かれ、抑えていた感情が雨となって頬を優しく撫でた。
「重いもん背負わされたな」
「もう簡単には折れない。どれだけダサい生き方になろうが、どれだけ周りに見下されようが、真っ直ぐに生きると決めた。俺が俺でいられる理由になるから」
樹は涙を拭い、覚悟を込めた言葉を編んだ。
二度と解けないようにと、力強く心に結んで。
「くだらねえプライドは捨てた方がいい。でも、自分を自分たらしめるものは、生きるために必要な道に変わる。今のお前だったら、自分が守りたいと思うものを大事にしていれば真っ直ぐ歩ける。だから、信念だけは絶対に捨てるなよ」
「うん」
竹ノ塚駅に着くと、ロータリーにコテージのオーナーである土屋の姿が見えた。
車は土屋の前に止まり、樹と竜一は降車する。
「どうだった? 一ヶ月だが、人生を休憩してみて」
土屋は穏やかな口調と優しさが滲む笑顔で問いかけてきた。
「今まで狭い世界の中だけで生きてきたけど、他人の抱えているものを知れて、考えを広げることができた。苦しいときほど固定概念の外を見ることが大事なんだな。自分で決めつけていた境界線でしんどくなって、選択肢があるのにもう無理だなんて勝手に諦めて、結果自分のことを一番苦しめてたのは自分だった。ずっと選び方が下手くそだったんだと思う。だから迷い続けてきた」
ずっと力で解決してきたが、この一ヶ月は別の選択肢を強いられてきた。
その中で苦しみながら、見えなかった道を見つけることができた。
言葉は時に絶望を生み出すが、使い方を変えれば光にだってなる。
そのことを知れたのが、一番の収穫だったかもしれない。
「どれだけ良い環境にいても、どれだけ成長を促すことに優れた人間がいても、本人が変わろうとしなければ何も変えられない。成長を感じているなら、それは樹くん自身が積み重ねたものだ。だから誇りに思っていい。この一ヶ月で得たものは、必ず生きるうえでの支えになるよ」
「うん」
「樹」
視線を横に向けると、夕陽に照らされる竜一が映った。
初めて会った日のことが頭の中で思い出される。
「今のお前には言葉がある。そして言葉を作るのは思考だ。考え方で選ぶものが変わり、生み出されるものも変わっていく。いずれ人は離れていくが、自分の中に落とし込んだものは消えることはない。大事に育てていけよ。これからの生き方で咲き方も変わるから。それと、環境や周りの人間に左右されることがこの先もきっとある。でもペンは離すなよ。お前の物語なんだから」
「ああ」
竜一は両手を高く上げて背筋を伸ばした後、大きく息を吐いて樹を見た。
「頑張れよ。野良犬」
竜一はそう言って、運転席へと向かっていった。
「なあ」
樹が竜一の背中に声をかけた。
振り返る恩人に言葉を投げる。
「俺みたいな奴でも、誰かを救えたりするのかな?」
竜一は一考した後、言葉を投げ返してきた。
「まずは根を張れ。根っこが無かったらどんな場所でも咲けはしない。今のお前には立派な根がある。それをどこに植えるか考えろ。生き様はいつか言葉となって、誰かの人生の道となる。お前だから救える人間は、この世界にまだいる。だから真っ直ぐ生きろ。信念は花と一緒だから」
「ちゃんと根を植えるよ、俺自身のためにも。それと、こんな汚れた野良犬を拾ってくれてありがとう」
竜一は一笑した後、背中を向けて手を振った。
「私たちも行くか。アパートはここから五分くらいだから」
「うん」
樹と土屋は、大通りの方へと歩き出した。
最下層で彷徨っていたクズな野良犬が、拙い第一章を終わらせた。
この別れは新たな人生の始まりとなる。
今日までの日々に意味を付けるなら、『心に染み付いた汚れた色でも、使い方次第で景色を彩ることができる』ということだろう。
それを知った第一章。そのおかげで第二章の冒頭を自分らしく描くことができるかもしれない。
希望というより、挑戦という気持ちが強かった。
自らの力で歩もうとする想いが、そう思わせているのだろう。
人は変われる。
変われないと思うのは、大きな部分だけを見てしまうからだ。
小さな積み重ねがあるからこそ成長を実感し、後に変わったと思うことができる。
生き方を0か100で考えてはいけない。
極端な二択は、自分を苦しめてしまうだけだから。
咲くか散るかの人生では、人の美しさを知ることはできない。
「樹」
背中に触れた声で振り向くと、車の前で立っている竜一が見えた。
「見窄らしい花でもいい、胸張って咲いてこい」
ロータリーに響いた激励は、第二章の始まりに種を植える。
樹は一笑した後、背中を向けて手を振った。
「咲いてくるよ」
自分自身に言い聞かせるよう、言の葉を思考に根付かせて。