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四十八話 野良猫と少女

ー/ー



 夕食後、樹は部屋に戻り、ベッドの上で横になっていた。
 たった一時間だが、蘭と一緒に遊んだことで距離が縮まった気がする。
 夕食のときも、蘭は自分の分の餃子を樹に差し出してきた。
「ありがとう」と受け取ると、嬉しそうに頬を緩め、可愛らしい笑顔を咲かせた。
 だが、まだ言葉は使ってこない。
 表情だけで、心の内に辿り着くのも限界がある。
 樹たちは蘭のバックボーンを知っているため寛容に見れるが、外の人たちが同じように接してくれるかは分からない。
 学校に通うようになれば、同世代の子らと一緒の空間で過ごすことになる。
 教師には事情を話すかもしれないが、子供らにまでは分からない。
 だとしたら、何も話さない蘭をどう見るのだろう?
 言葉を持てないことが障壁となり、孤独の中で生きていくかもしれない。
 最悪、いじめられることだって考えられる。
 これ以上傷が増えれば、笑顔すら見せることができなくなるだろう。
 誰も信用できず、外の世界に足を踏み出すこともできなくなるだろう。
 いずれ樹たちのように道を外れて、足の踏み場すらない場所で立ち尽くしてしまうかもしれない。
 そうなれば、息をすることすら苦しくなる。
 人は言葉に支配されながら生きていて、言葉の積み重ねで形成されていく。
 言葉で人を知り、言葉で知ってもらい、言葉で迎合し、言葉で居場所を見つける。
 そして行き着いた先が、自分という存在だ。
 見えない部分を言葉に変えることで自分を証明できるようになり、理解を得ることで存在を認めてもらえるようになる。
 そういう意味では、世界はとても残酷なのかもしれない。
 だからこそ、蘭に言葉を使ってほしかった。
 言葉がなければ、きっと何度も躓いてしまうから。
 手を差し伸べてすらもらえないかもしれないから。
 ずっと竜一と一緒にいるわけではないだろうし、竜一のような人間がいること自体が稀だ。
 善人だけの世界など、どこにもない。
 卑俗な人間は、弱者を食い物にしながら跋扈する。
 そんな汚れた場所で、綺麗なものを綺麗と言えるようになってほしい。
 自分のように、歪ませないでほしい。
 樹は真っ白な天井を見上げながらそう願っていると、ドアを叩く小さな音が鼓膜に触れる。
 樹はベッドから起き上がり、誰だろうとドアノブを回した。
 開けると、そこには樹を見上げる蘭が立っていた。

「なに……」

 樹の言葉を遮るように、蘭は部屋へと入っていく。
 そして辺りを見渡すと、椅子の上に掛けてあったTシャツを手に取った。

「どうした? それに何かあるの?」

 樹は蘭の視線に合わせてしゃがむと、そう問いかけた。
 瞬間、幼い子の顔は不安を描いて、樹の顔をじっと見てくる。
 なぜそんな顔をするのか分からなかった。
 なぜ、絶対に離さないと言わんばかりに、Tシャツを強く握りしめているのかも分からなかった。
 表情だけでは、蘭の心の声を読み取ることができない。

「蘭ちゃん、どうしたの?」

 振り返ると、ドアのところに莉亜が立っていた。

「なんか、急に来たんだけどさ……」

 と、樹が莉亜に向かって言うと、蘭が急にドアの方へと走り出した。
 蘭は小さな手で莉亜を押しのけると、階段方面へと向かった。
 ドンドン、っと駆け降りていく音が部屋まで響いていくる。

「待って蘭ちゃん」

 莉亜が追いかけていったため、樹も後を追った。
 リビングに入ると、竜一と葉山と蓮見がダイニングに着いており、ソファの方に目をやっていた。
 その先を辿ると、莉亜がソファの裏側で「どうしたの?」と視線を下に向けて聞いている。
 たぶん、そこに蘭がいるのだろう。
 樹がソファの方へ足を運ぼうとすると、半分に破られたカレンダーが床に落ちていた。
 十八日の枠に『樹くん、最後の日』と書かれていたため、十月だと分かる。

「蘭ちゃんが破いたんだよ」

 樹が破られたカレンダーを見ていると、葉山がそう言った。

「なんで?」
「分からない」

 視線を移すと、蘭がソファの背もたれから覗くようにしてこちらを見ていた。
 目が合うと、急いで体を隠す。

「なんでTシャツ取った?」

 ソファ裏に行くと、蘭が体を丸めてしゃがみ込んでいた。
 樹の問いかけには応じず、手に持っていたTシャツを力強く握りしめている。

「もうすぐ樹くんがここを出て行くでしょ? その話をしてたら、カレンダーをいきなり破き出したの」

 カレンダーが掛けられていたところに目をやると、蘭がいつも座っているダイニングチェアが置かれていた。
 壁には傷跡のように引き裂かれたカレンダーが、右肩下がりにぶらついている。

「なんで破った?」

 改めて投げかけるが、質問の答えは返ってこなかった。

「なあ、言いたいことがあるなら言っていいぞ。感情を出したからって嫌いにはならない。ちゃんと受け止めるから、お前の気持ちを言葉で聞かせてほしい」

 樹が想いを伝えると、蘭の口は一瞬だけ開いたが、すぐさま言葉を飲み込むように固く閉じられる。
 本人はたぶん無自覚だろうが、蘭は笑顔以外の表情も見せるようになった。
 だが、言葉は出せないでいる。
 まだ不安が残っており、嫌われたくないという防衛本能が幼い少女を檻の中に閉じ込めているのかもしれない。
 心にある大きな傷は、他人との間に境界線を引いた。
 その線はいずれ、小さな傷をいくつも作っていくことになるだろう。
 一つ一つが擦り傷だとしても、連なれば一生消えない大きな傷に変化する。
 今が分岐点だ。
 傷を傷のままにして枯れていくか、傷に意味を持たせて美しく飾れるかの。
 蘭は顔を上げて樹の顔を見た。
 その目には、絡み合った複数の感情が滲んでいる。
 何を言えばいい。
 それは樹だけではなく、蘭も同じ想いのような気がした。

「蘭ちゃん」

 蘭がドアの方へ走り出すと、莉亜が声をあげた。
 樹は立ち上がるが、どうしていいかは分からない。
 言葉が欲しいと言ったのに、自身も言葉を出せなかった。
 正解の見えない問いに、思考の行き先を見失ってしまったから。
 蘭はリビングから出た後、再度戻ってきて、握りしめていたTシャツを竜一へと渡した。
 そして樹を一瞥すると、リビングを走って出ていく。

「どうしたんだろう、蘭ちゃん……」

 莉亜の困惑混じりの声が、樹の鼓膜に触れる。
 言葉を持つ者と、持てない者。
 そこには大きな溝があり、手を差し伸べても届かない距離があった。
 でも背を向けることはできない。
 世界を嫌悪することになれば、自身にも返ってきてしまうから。

「蘭ちゃん、樹くんに帰ってほしくないのかも」

 一同は蓮見に視線を向ける。

「カレンダーを破ったのも、根本くんのTシャツを取ったのも、蘭ちゃんなりのメッセージじゃないかな」

「Tシャツは分からなくもないけど、カレンダーを破ったことは関係あるの?」

 葉山が聞くと、蓮見はソファ前のローテーブルを指した。
 そこには絵本があり、蘭が毎日読んでいたものだ。

「あっ」

 何かを思い出したように、莉亜が声をあげる。

「何?」

「一番最後のページ開いて」

 樹は絵本を手に取って最後のページを開くと、根本からごっそり破られた跡があった。

「ここに来たばっかりのときに、なんで破られてるのかを聞いたの。でも教えてくれなかったから、気にはなってたんだよね」

「破るっていう行為に何か意味があるのかも。蘭ちゃんなりの」

「その絵本って、どんな物語なの?」

 蓮見が言った後、葉山が問いかけた。

「捨て……」
「捨てられた猫の話」

 蓮見が言おうとすると、樹が先に質問の答えを出す。

「樹くん、この絵本知ってるの?」

 莉亜が聞いてきたため、樹は小さく頷く。

「俺も幼いときに読んでた」

 樹は懐かしむように絵本を眺めた。
 自身もよく読んでおり、好きな物語だったから。

「主人公は生まれたばかりの猫なんだ。でもその家では、すでにたくさんの猫が飼われていて、これ以上いらないからって理由で路地裏に捨てられる」

「酷いよね」

 莉亜は何度も蘭に読み聞かせているため、感情移入しているのかもしれない。

「外に放り出された後は、他の野良猫にいじめられたり、群れにも入らせてもらえなかったりで、餌すら確保できなかった。それで、死にかけたんだけど……」

太々(ふてぶて)しい猫に餌を分けてもらって、命を救われる」

 莉亜が樹の言葉を繋ぐように言った。

「そう。その猫も主人公と同じように飼い主に捨てられ、常に一匹で行動してた。違うのは孤独を感じていなかったということ。他の猫からも嫌われてるし、群れに近づけばみんな離れていく。でも堂々と生きていた。主人公は孤独に寂しさを覚えていたが、その猫のおかげで嫌われてもいいと思えるようになったんだ」

「それで、最後はどうなるの?」

 莉亜は物語の結末を知らないらしく、興味津々と言った様子で尋ねてきた。

「その太々しい猫が死ぬ」

「バッドエンドなの?」

 莉亜が驚きと落胆を混ぜたような表情を浮かべると、樹は首を振って応えた。

「子供の頃はそう思ってた。だけど作者が伝えたかったのは、繋がりの大切さではなく、生き様の方だと思う。たとえ周りから嫌われようと、自分の生き方を変えなくていい。あなたはあなたのままでいればいいんだよって」

「破られたページにはどんなものが描かれてたの?」と、莉亜は絵本を指して聞いてきた。

「笑顔を浮かべながら永遠の眠りにつく太々しい猫を、主人公の猫が泣きながら抱きしめる絵」

 樹は幼い頃に見た最後のシーンを思い浮かべながら、破られた跡を優しくなぞった。

「死んじゃったことが悲しかったから、蘭ちゃんは破り捨てたのかな?」

「それもあるかもしれないけど、自分と重ねてたのかも」

「主人公の猫と?」

「うん。もし孤独を感じてたなら、自分と同じような存在がいて安心できたのかもしれない。絵本とはいえ、子供の頃だと現実との区別がつかないだろ? いつか自分のところにも太々しい猫みたいな人が来るかもしれない。一人ぼっちの自分を救ってくれるかもしれない。そんな希望を抱いていた可能性はある」

「死んでしまったら、また一人になっちゃうもんね」

 莉亜は声色に寂しさを滲ませた。
 少しだけ重たくなった空気が、感情を萎ませる。

「その太々しい猫と樹を重ねてるのかもな。死にはしないが、旅立つって意味では一緒だから」

 竜一の言うように、樹と重ね合わせているなら今までの行動にも納得がいく。
 そして、蘭にとって自分が特別な存在だという責任も感じた。
 一つの言葉で、一人の人間の人生が左右されるかもしれない。
 背負った責任は、これまで生きてきた中で一番重いものだった。

「根本くん、もう少しここにいてあげたら。特別な事情がないんだったら側にいてあげてほしい」

 蓮見は樹に借金があることを知らない。
 樹自身ももう少し時間が欲しかったが、一ヶ月という期限が宮田との約束だ。

「それはできない。あと五日でここを出ていかないといけないから。でも、限られた時間で自分ができることはする。あいつが誰の目も気にすることなく、自分らしく生きられるように」

 樹が覚悟を込めた言葉を放った後、竜一は微笑みを浮かべた。
 『成長したな』と言わんばかりの顔は、自分の変化を気付かせるものだった。

「誰かを変えたという事実が、生きるうえでの支えになる。蘭ちゃんだけじゃなくて、樹くんのためにも」

 莉亜の言葉に、樹は「うん」と力強く頷いた。


 真っ黒なキャンパスに散らばった星々たちは、幼い少女の顔を優しく照らしていた。
 蘭はベッドの上に座り、ただ静かに夜空を眺めている。
 樹が去ってしまうことが悲しかった。
 コテージには竜一たちがいるが、また一人になってしまうような感覚があったからだ。
 好きになってほしい。
 今までと違う感情は、蘭の中に戸惑いを覚えさせた。
 嫌われないために笑顔という鎧を身に付けていたが、好きになってもらうための方法はまだ知らない。
 言葉を使えたらと考えるが、縛り付けられるような抵抗感がある。
 もし樹に嫌われたら、永遠に一人のまま。
 そんな呪いが、感情の言語化を阻んでいた。
 だが、少しだけ違う感情を見せることができた。
 ここを出て行ってほしくないという想いが、自然と体を動かさせたのだ。
 それは絵本を破り捨てたときと一緒だった。
 無意識にページに手をかけ、物語が終わらないように自らの手で太々しい猫の死をなかったことにした。
 見えなければないのと同じ。
 まだ知見の少ない少女は、そんな方法でしか悲しみを拭えなかった。
 本心では、樹と話したい。
 きっと言葉がなければ、自分を好きにはなってもらえない。
 それは莉亜たちを見ていて思ったことだ。
 でもできない。
 過去の出来事が、自分らしく生きることを拒絶させるから。
 蘭は星を見上げながら、物語の猫に想いを馳せた。


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 夕食後、樹は部屋に戻り、ベッドの上で横になっていた。
 たった一時間だが、蘭と一緒に遊んだことで距離が縮まった気がする。
 夕食のときも、蘭は自分の分の餃子を樹に差し出してきた。
「ありがとう」と受け取ると、嬉しそうに頬を緩め、可愛らしい笑顔を咲かせた。
 だが、まだ言葉は使ってこない。
 表情だけで、心の内に辿り着くのも限界がある。
 樹たちは蘭のバックボーンを知っているため寛容に見れるが、外の人たちが同じように接してくれるかは分からない。
 学校に通うようになれば、同世代の子らと一緒の空間で過ごすことになる。
 教師には事情を話すかもしれないが、子供らにまでは分からない。
 だとしたら、何も話さない蘭をどう見るのだろう?
 言葉を持てないことが障壁となり、孤独の中で生きていくかもしれない。
 最悪、いじめられることだって考えられる。
 これ以上傷が増えれば、笑顔すら見せることができなくなるだろう。
 誰も信用できず、外の世界に足を踏み出すこともできなくなるだろう。
 いずれ樹たちのように道を外れて、足の踏み場すらない場所で立ち尽くしてしまうかもしれない。
 そうなれば、息をすることすら苦しくなる。
 人は言葉に支配されながら生きていて、言葉の積み重ねで形成されていく。
 言葉で人を知り、言葉で知ってもらい、言葉で迎合し、言葉で居場所を見つける。
 そして行き着いた先が、自分という存在だ。
 見えない部分を言葉に変えることで自分を証明できるようになり、理解を得ることで存在を認めてもらえるようになる。
 そういう意味では、世界はとても残酷なのかもしれない。
 だからこそ、蘭に言葉を使ってほしかった。
 言葉がなければ、きっと何度も躓いてしまうから。
 手を差し伸べてすらもらえないかもしれないから。
 ずっと竜一と一緒にいるわけではないだろうし、竜一のような人間がいること自体が稀だ。
 善人だけの世界など、どこにもない。
 卑俗な人間は、弱者を食い物にしながら跋扈する。
 そんな汚れた場所で、綺麗なものを綺麗と言えるようになってほしい。
 自分のように、歪ませないでほしい。
 樹は真っ白な天井を見上げながらそう願っていると、ドアを叩く小さな音が鼓膜に触れる。
 樹はベッドから起き上がり、誰だろうとドアノブを回した。
 開けると、そこには樹を見上げる蘭が立っていた。
「なに……」
 樹の言葉を遮るように、蘭は部屋へと入っていく。
 そして辺りを見渡すと、椅子の上に掛けてあったTシャツを手に取った。
「どうした? それに何かあるの?」
 樹は蘭の視線に合わせてしゃがむと、そう問いかけた。
 瞬間、幼い子の顔は不安を描いて、樹の顔をじっと見てくる。
 なぜそんな顔をするのか分からなかった。
 なぜ、絶対に離さないと言わんばかりに、Tシャツを強く握りしめているのかも分からなかった。
 表情だけでは、蘭の心の声を読み取ることができない。
「蘭ちゃん、どうしたの?」
 振り返ると、ドアのところに莉亜が立っていた。
「なんか、急に来たんだけどさ……」
 と、樹が莉亜に向かって言うと、蘭が急にドアの方へと走り出した。
 蘭は小さな手で莉亜を押しのけると、階段方面へと向かった。
 ドンドン、っと駆け降りていく音が部屋まで響いていくる。
「待って蘭ちゃん」
 莉亜が追いかけていったため、樹も後を追った。
 リビングに入ると、竜一と葉山と蓮見がダイニングに着いており、ソファの方に目をやっていた。
 その先を辿ると、莉亜がソファの裏側で「どうしたの?」と視線を下に向けて聞いている。
 たぶん、そこに蘭がいるのだろう。
 樹がソファの方へ足を運ぼうとすると、半分に破られたカレンダーが床に落ちていた。
 十八日の枠に『樹くん、最後の日』と書かれていたため、十月だと分かる。
「蘭ちゃんが破いたんだよ」
 樹が破られたカレンダーを見ていると、葉山がそう言った。
「なんで?」
「分からない」
 視線を移すと、蘭がソファの背もたれから覗くようにしてこちらを見ていた。
 目が合うと、急いで体を隠す。
「なんでTシャツ取った?」
 ソファ裏に行くと、蘭が体を丸めてしゃがみ込んでいた。
 樹の問いかけには応じず、手に持っていたTシャツを力強く握りしめている。
「もうすぐ樹くんがここを出て行くでしょ? その話をしてたら、カレンダーをいきなり破き出したの」
 カレンダーが掛けられていたところに目をやると、蘭がいつも座っているダイニングチェアが置かれていた。
 壁には傷跡のように引き裂かれたカレンダーが、右肩下がりにぶらついている。
「なんで破った?」
 改めて投げかけるが、質問の答えは返ってこなかった。
「なあ、言いたいことがあるなら言っていいぞ。感情を出したからって嫌いにはならない。ちゃんと受け止めるから、お前の気持ちを言葉で聞かせてほしい」
 樹が想いを伝えると、蘭の口は一瞬だけ開いたが、すぐさま言葉を飲み込むように固く閉じられる。
 本人はたぶん無自覚だろうが、蘭は笑顔以外の表情も見せるようになった。
 だが、言葉は出せないでいる。
 まだ不安が残っており、嫌われたくないという防衛本能が幼い少女を檻の中に閉じ込めているのかもしれない。
 心にある大きな傷は、他人との間に境界線を引いた。
 その線はいずれ、小さな傷をいくつも作っていくことになるだろう。
 一つ一つが擦り傷だとしても、連なれば一生消えない大きな傷に変化する。
 今が分岐点だ。
 傷を傷のままにして枯れていくか、傷に意味を持たせて美しく飾れるかの。
 蘭は顔を上げて樹の顔を見た。
 その目には、絡み合った複数の感情が滲んでいる。
 何を言えばいい。
 それは樹だけではなく、蘭も同じ想いのような気がした。
「蘭ちゃん」
 蘭がドアの方へ走り出すと、莉亜が声をあげた。
 樹は立ち上がるが、どうしていいかは分からない。
 言葉が欲しいと言ったのに、自身も言葉を出せなかった。
 正解の見えない問いに、思考の行き先を見失ってしまったから。
 蘭はリビングから出た後、再度戻ってきて、握りしめていたTシャツを竜一へと渡した。
 そして樹を一瞥すると、リビングを走って出ていく。
「どうしたんだろう、蘭ちゃん……」
 莉亜の困惑混じりの声が、樹の鼓膜に触れる。
 言葉を持つ者と、持てない者。
 そこには大きな溝があり、手を差し伸べても届かない距離があった。
 でも背を向けることはできない。
 世界を嫌悪することになれば、自身にも返ってきてしまうから。
「蘭ちゃん、樹くんに帰ってほしくないのかも」
 一同は蓮見に視線を向ける。
「カレンダーを破ったのも、根本くんのTシャツを取ったのも、蘭ちゃんなりのメッセージじゃないかな」
「Tシャツは分からなくもないけど、カレンダーを破ったことは関係あるの?」
 葉山が聞くと、蓮見はソファ前のローテーブルを指した。
 そこには絵本があり、蘭が毎日読んでいたものだ。
「あっ」
 何かを思い出したように、莉亜が声をあげる。
「何?」
「一番最後のページ開いて」
 樹は絵本を手に取って最後のページを開くと、根本からごっそり破られた跡があった。
「ここに来たばっかりのときに、なんで破られてるのかを聞いたの。でも教えてくれなかったから、気にはなってたんだよね」
「破るっていう行為に何か意味があるのかも。蘭ちゃんなりの」
「その絵本って、どんな物語なの?」
 蓮見が言った後、葉山が問いかけた。
「捨て……」
「捨てられた猫の話」
 蓮見が言おうとすると、樹が先に質問の答えを出す。
「樹くん、この絵本知ってるの?」
 莉亜が聞いてきたため、樹は小さく頷く。
「俺も幼いときに読んでた」
 樹は懐かしむように絵本を眺めた。
 自身もよく読んでおり、好きな物語だったから。
「主人公は生まれたばかりの猫なんだ。でもその家では、すでにたくさんの猫が飼われていて、これ以上いらないからって理由で路地裏に捨てられる」
「酷いよね」
 莉亜は何度も蘭に読み聞かせているため、感情移入しているのかもしれない。
「外に放り出された後は、他の野良猫にいじめられたり、群れにも入らせてもらえなかったりで、餌すら確保できなかった。それで、死にかけたんだけど……」
「|太々《ふてぶて》しい猫に餌を分けてもらって、命を救われる」
 莉亜が樹の言葉を繋ぐように言った。
「そう。その猫も主人公と同じように飼い主に捨てられ、常に一匹で行動してた。違うのは孤独を感じていなかったということ。他の猫からも嫌われてるし、群れに近づけばみんな離れていく。でも堂々と生きていた。主人公は孤独に寂しさを覚えていたが、その猫のおかげで嫌われてもいいと思えるようになったんだ」
「それで、最後はどうなるの?」
 莉亜は物語の結末を知らないらしく、興味津々と言った様子で尋ねてきた。
「その太々しい猫が死ぬ」
「バッドエンドなの?」
 莉亜が驚きと落胆を混ぜたような表情を浮かべると、樹は首を振って応えた。
「子供の頃はそう思ってた。だけど作者が伝えたかったのは、繋がりの大切さではなく、生き様の方だと思う。たとえ周りから嫌われようと、自分の生き方を変えなくていい。あなたはあなたのままでいればいいんだよって」
「破られたページにはどんなものが描かれてたの?」と、莉亜は絵本を指して聞いてきた。
「笑顔を浮かべながら永遠の眠りにつく太々しい猫を、主人公の猫が泣きながら抱きしめる絵」
 樹は幼い頃に見た最後のシーンを思い浮かべながら、破られた跡を優しくなぞった。
「死んじゃったことが悲しかったから、蘭ちゃんは破り捨てたのかな?」
「それもあるかもしれないけど、自分と重ねてたのかも」
「主人公の猫と?」
「うん。もし孤独を感じてたなら、自分と同じような存在がいて安心できたのかもしれない。絵本とはいえ、子供の頃だと現実との区別がつかないだろ? いつか自分のところにも太々しい猫みたいな人が来るかもしれない。一人ぼっちの自分を救ってくれるかもしれない。そんな希望を抱いていた可能性はある」
「死んでしまったら、また一人になっちゃうもんね」
 莉亜は声色に寂しさを滲ませた。
 少しだけ重たくなった空気が、感情を萎ませる。
「その太々しい猫と樹を重ねてるのかもな。死にはしないが、旅立つって意味では一緒だから」
 竜一の言うように、樹と重ね合わせているなら今までの行動にも納得がいく。
 そして、蘭にとって自分が特別な存在だという責任も感じた。
 一つの言葉で、一人の人間の人生が左右されるかもしれない。
 背負った責任は、これまで生きてきた中で一番重いものだった。
「根本くん、もう少しここにいてあげたら。特別な事情がないんだったら側にいてあげてほしい」
 蓮見は樹に借金があることを知らない。
 樹自身ももう少し時間が欲しかったが、一ヶ月という期限が宮田との約束だ。
「それはできない。あと五日でここを出ていかないといけないから。でも、限られた時間で自分ができることはする。あいつが誰の目も気にすることなく、自分らしく生きられるように」
 樹が覚悟を込めた言葉を放った後、竜一は微笑みを浮かべた。
 『成長したな』と言わんばかりの顔は、自分の変化を気付かせるものだった。
「誰かを変えたという事実が、生きるうえでの支えになる。蘭ちゃんだけじゃなくて、樹くんのためにも」
 莉亜の言葉に、樹は「うん」と力強く頷いた。
 真っ黒なキャンパスに散らばった星々たちは、幼い少女の顔を優しく照らしていた。
 蘭はベッドの上に座り、ただ静かに夜空を眺めている。
 樹が去ってしまうことが悲しかった。
 コテージには竜一たちがいるが、また一人になってしまうような感覚があったからだ。
 好きになってほしい。
 今までと違う感情は、蘭の中に戸惑いを覚えさせた。
 嫌われないために笑顔という鎧を身に付けていたが、好きになってもらうための方法はまだ知らない。
 言葉を使えたらと考えるが、縛り付けられるような抵抗感がある。
 もし樹に嫌われたら、永遠に一人のまま。
 そんな呪いが、感情の言語化を阻んでいた。
 だが、少しだけ違う感情を見せることができた。
 ここを出て行ってほしくないという想いが、自然と体を動かさせたのだ。
 それは絵本を破り捨てたときと一緒だった。
 無意識にページに手をかけ、物語が終わらないように自らの手で太々しい猫の死をなかったことにした。
 見えなければないのと同じ。
 まだ知見の少ない少女は、そんな方法でしか悲しみを拭えなかった。
 本心では、樹と話したい。
 きっと言葉がなければ、自分を好きにはなってもらえない。
 それは莉亜たちを見ていて思ったことだ。
 でもできない。
 過去の出来事が、自分らしく生きることを拒絶させるから。
 蘭は星を見上げながら、物語の猫に想いを馳せた。