四十七話 泡沫に花は微笑む
ー/ー 葉山がリビングの壁に掛かったカレンダーに『樹くん、最後の日』と書いた。
十月十八日、樹がコテージを出発する日だ。
十月十八日、樹がコテージを出発する日だ。
「あと五日か……」
莉亜がため息混じりに声を出すと、ココアの湯気が呼気で揺れる。
「寂しいの?」
蓮見が聞くと、莉亜は顔の前で小さく手を振り、
「ほら、樹くんが私と会えなくなるのを寂しがるから」
「俺は別に寂しくねえよ」
「もういっぺん言ってみろ」
「別に寂しくねえよ」
「酷い」
莉亜は隣に座る蓮見の肩に顔を埋め、泣く素振りを見せる。
「可哀想に」
蓮見は、莉亜の頭を優しく二回撫でた。
「樹くんが初めて来た日はどうなるかと思ったけど、みんな仲良くなれて良かった」
葉山は穏やかな笑みを携えながら、樹の隣に腰を下ろした。
「聞いて、蓮見さん。樹くんね、初対面なのに私にウザいとか言ってきたんだよ。本当に酷いよね」
「最低だね」
「でしょ」
「そんなこと言ってねえよ」
「言ったよ」
「うん、言ってた」
「だったらこいつの方が酷かったろ。全員に喧嘩売ってたんだだから」
樹が蓮見を指すと、葉山が手首を掴んできて、そっと指を下ろさせる。
「蓮見さんは仕方なかったから」
「ファン丸出しで擁護するなよ。悪いことは悪いと言ってやるのが本当のファンだぞ」
「そのうえで、すべてを受け止めるのも本当のファンだよ」
「いいファンを持ったね、蓮見さん」
「うん」
和やかな空気が流れ、樹だけ蚊帳の外に置かれているようだった。
三人は合わせたようにカップを持ち上げ、湯気の立つココアを啜る。
「なんか俺だけ損してねえか」
「でも、みんな変わったよね」
莉亜はココアに視線を置き、零すように言葉を吐いた。
「変わりたいと思ってここに来たけど、人は変われないって思ってた。だけど何かに縋りたいし、一人では苦しい。救われたいって都合のいいことを願う割には、自ら孤独を選んでいたような気もする。今考えると、選択肢はたくさんあったんだなって思うの。でもそれに気付けなかった。特定のものに縛られると、生き方まで決められてしまうから」
「人生ってさ、拾うことと捨てることを繰り返していくことなんだと思う」
莉亜の言葉の後に葉山が続くと、樹たちは視線を送った。
「拾ったもので思考を型取り、捨てることで洗練させていく。自分だけで判断ができなくなるのは、拾いすぎて抱えきれなくなったときと、拾ってきたものが少なすぎるときなのかなって思う。池田さんの場合は前者のような気がするから、変わったというより余計なものを捨てられたのかもね」
「バランスが大事ってことだ」
蓮見が言うと、葉山はゆっくりと頷いた。
「私の場合は量というより、一つのものが大きすぎたのかもしれない。だから拾わなければならないものを拾えなかった。それでバランスがおかしくなって重荷になってたんだと思う。樹くんにだいぶ軽くしてもらったけど」
蓮見は少しだけ口角を上げて樹を見てきた。
それに面映さが芽生え、視線を宙で泳がせる。
「改めて考えると、竜一さんてすごいよね。人はすべてのことを経験できないし、すべての悩みを抱えることもできない。でもここに来る人は色んな痛みを背負ってる。自分の中にあるものだったら答えを導けるかもしれないけど、ないものはできない。だけど常に何かしらの答えを持ってる。どんな考えで言葉を編んでるんだろう」
莉亜の言う通り、竜一は色んな角度から物事を見ている。
樹自身も言葉で照らしてもらい、固定概念に埋もれていた道を教えてもらった。
樹と竜一は似ている部分があったものの、莉亜に至っては類似しているようには思えない。
だが完璧主義という呪いを解いた。
竜一が完璧を追い求める性格には見えない。過去の話を聞いても、それは感じない。
多くの人間を見てきたのかもしれないが、自身に関連のない悩みに答えなど持てるのだろうか?
そんな疑問を抱いていると、葉山が口を開いた。
「『一人の人間に言葉を向けるときは、その人が何を求めているのかを考えろ。選択肢は一つじゃない。答えはその都度変わる』。ノートに過去のことを書いた後、竜一さんにそう言われたんだ。“答えはその都度変わる”っていう部分が、初めは理解できなかった。普通は一つじゃないのって。でも今なら分かる。同じ悩みでも、どんなときに傷を負ったのか、誰に負わされたかで処方の仕方が変わると思うんだ」
「変わる?」と、莉亜は首を傾げて聞いた。
「例えば、いじめられていた子がここに来たとする。その子が社会に馴染めるようになるためには、“誰にいじめられた”という部分にも焦点を当てなければならない。ただのクラスメイトと、親友だと思っていた相手では、同じ種類の傷でも痛み方は変わってくるでしょ? もし後者だった場合、より人を信用できないと思うんだ。さらに言えば、どんなことをされたかでも抱えてるものは変わる」
「いじめられたという傷だけではなく、誰も信用できないという傷もある」
蓮見の言葉に「そう」と葉山は答え、話を続ける。
「大きな傷で隠れてしまってるけど、辿っていけば別の傷も見えてくる。ノートにバックボーンを書いてもらうのは、一つ一つの小さな傷も紐解いて、その人に合った言葉を編むためじゃないかな。その積み重ねが考え方の幅を広げて、多くの悩みを導いていけるようになる……って僕は思う」
「自分でも分からない傷ってあるよね。他人に言われて初めて認知できたり、理由すらも見つからなかったり」
「うん。アイドルをやってたときは、何に苦しんでるのかも分からないときがあった。たぶん、自分のキャパを超えて処理できてなかったんだと思う。一つ一つの傷を数えてたら心がもたないから」
それぞれが自分の傷を振り返るようにして、言葉を交わした。
自分自身を言語化するとは、途切れていた糸を結び直す作業に近いのかもしれない。
結び目を見つけることができれば、再度歩いていける。
言葉は時に道になると、樹は思った。
「傷があるから人を理解できる。理解できるから優しさを持てる。僕はそう思うようにした。過去に意味を付けることができれば、いつか誰かの道標になる。それが命を結ぶようなものに変わってくれれば、付いた傷も笑って許せるから」
葉山の表情には色んな想いが縫われているように見えた。
決意、悲しみ、温もり、切なさ、複数の感情が染みた顔は、一人の人間の成長を感じることができる。
傷と向き合った人間だけが持つ、弱さという強さ。
真面目さという非凡な才が、痛みを乗り越えて傷口に花を咲かせたのかもしれない。
「葉山なら、できると思う」
樹が笑みを浮かべて言うと、葉山は照れくさそうに「ありがとう」と零した。
「樹」
リビングのドアに目をやると、竜一が立っていた。
「蘭が一緒に遊びたいって」
視線を下にズラすと、蘭の姿が目に入った。竜一の足にしがみつきながら隠れている。
「蘭ちゃんおいで。樹くんも遊びたいって」
莉亜が言うと、蘭は顔を覗かせて樹を見た。
少し驚いたように、目を丸くさせている。
「遊ぼう」
蘭は言葉に誘われるようにして、小さな歩幅で樹の前にやってきた。
恥ずかしいのか、顔を伏せている。
「何して遊ぶ?」
樹が顔を覗いて聞くと、蘭は窓を開けて庭へと走り出した。
「おい」と、声をかけるが蘭は止まらない。
樹がどうすればと困惑していると、莉亜が椅子から立ち上がった。
「しょうがないから、私も手伝ってやるか」
莉亜はそう言うと、サイドボードの中からシャボン玉セットを手に取った。
そして、樹の腕を掴んで走り出す。
「おい、サンダル」
「気にするな」
ウッドデッキにあったサンダルを履こうとするも、莉亜はお構いなしに庭へと出た。
「蘭ちゃん、シャボン玉しよう」
庭の中央で立ち止まっていた蘭は振り返り、小さく頷く。
莉亜は蘭の視線に合わせるようにしゃがむと、シャボン玉液と吹き具を渡した。
「樹くんも」
樹もしゃがんで、莉亜からシャボン液と吹き具を受け取る。
「シャボン玉なんて絶対にやらないでしょ?」
「たぶん、小学生以来」
「意外とね、大人になっても楽しいよ」
莉亜は容器の蓋を外して吹き具を液に付けると、シャボン玉を空へと舞い上がらせた。
虹を纏った透明な泡沫は、雪のように美しかった。
降り積もることのない刹那の幻想。
童心を揺さぶる光景は、心を浄化させるようだった。
途端、シャボン玉が樹の顔に当たる。
横に目を向けると、いたずらっ子のような笑みを浮かべた莉亜の顔と、不安そうにこちらを見る蘭の顔が視界に入った。
たぶん莉亜が指示したのだろう。二人の表情の落差ですぐに分かる。
樹は吹き具に液を付けると、シャボン玉を蘭の顔に目掛けて吹いた。
優しい吹雪に、蘭はギュッと目を瞑る。
数秒の間を置いた後、瞼を上げて無垢な瞳をこちらに向けてきた。
言葉なき不安に、樹は微笑みで返す。
すると、蘭は口角を緩めて顔を俯かせた。照れくさそうにする仕草は、今までで一番子供らしい表情だった。
「蘭ちゃん、やり返せ」
莉亜が煽ると、蘭は樹に目掛けてシャボン玉を吹いた。
「おい」と反応すると、零れ出たような嬉しさが蘭の表情を覆っていた。
「楽しいね」
莉亜が聞くと、蘭はニコッと笑顔を向けた。
そこに言葉はなかったが、どこか本心を見れたような気がした。
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