車は海沿いの道を走り、スーパーへと向かっていた。
窓から見える海には太陽の光が反射し、ダイヤモンドが散りばめらたように輝いている。
だがそんな美しい光景も、蘭の目には入っていなかった。
視界に映っているのは、助手席に座る樹だ。
朝食から数時間経ったが、樹が自分のもとに来ないことを不安に思っていた。
玉子焼きや他のおかずを与えたにも関わらず、懐いてくる様子はない。
好きな食べ物じゃなかったのだろうか?
それともまだ与えた量が少なかったのだろうか?
そんな疑問を抱きながら、後部座席から樹を見ていた。
「蘭ちゃん、明日誕生日なの?」
隣に座る莉亜が顔を覗かせて聞いてきた。
蘭は会話を聞いていなかったため、咄嗟に笑顔を作って誤魔化す。
「もう五歳か。早いもんだな」
「保育園とか行かせないの?」
「悩まどころではあるな。子供同士だと気遣いとかないだろ? そうなると生きづらさを感じるかもしれない。でも小学校に行くことを考えると、早めに他人と触れさせておいた方がいい。どっちが正しいかなんて周りの人間次第だからな。だから今は検討中」
「確かに」
樹と竜一の会話が、蘭の耳に入る。
たぶん自分のことだろうなと思うが、言っている内容までは分からなかった。
「樹くんみたいな人がいたら怖いですもんね」
「なんで俺が出てくるんだよ」
「こういう素っ気ない子供の方が、二人きりなると優しかったりするんだよ」
「俺で例えるなよ」
「男の子のツンデレって可愛いですよね」
「可愛くねえよ。ただ生意気なだけだろ」
「樹くんは捻くれてるから、そんな見方しかできないんだ」
「うるせえな」
車内に大人の笑い声が響くと、蘭は羨望を抱いた。
言葉を発せないため、会話の中には紛れることができない。
今まではそんなことを思わなかったが、今日は孤独に感じていた。
だが、心の中に巣を作る悲しみは表情に笑顔を作らせる。
周りの人間からしたら、一緒に楽しんでいるようにしか見えないだろう。
この笑顔の裏にある『言葉で繋がりたい』という本心を、誰が読み取れるのだろう。
笑顔が自分を守る鎧から、孤独を生み出す呪いになった。
声を出せば他の感情が漏れてしまう。
そうなれば嫌われるかもしれない。
蘭は孤独の中を彷徨いながら、楽しそうに話しをする大人たちに紛れた。
「今週は忙しいな。蘭の誕生日会と樹の送別会をやらなくちゃいけないから」
「俺のはいいよ」
「やろうよ。何もしないでお別れするのは悲しいじゃん」
蘭は「お別れ」というワードを聞いて、莉亜を見上げた。
視線に気付いた莉亜は、優しい口調で説明を始める。
「樹くんね、あと五日でコテージを出ていくの。寂しいけど、お別れしないといけないんだ」
その言葉に蘭の表情は固まった。
差し込んだ光が消えていくような感覚。
孤独の中に添えられた花が枯れていくような絶望感。
羽がもがれ、自由という名の空が遠ざかっていく。
「大丈夫、蘭ちゃん?」
ショックのあまり、蘭の表情は無だった。
莉亜の心配そうな声も、蘭の心までは届いていない。
「どうした?」
竜一がそう言った後、樹が後部座席に視線を送ってきた。
蘭は我に返り、急いで窓の外へと顔を向ける。
どんな反応をしていいか分からなかったため、車外へと意識を移した。
双眸には青い海が映り込むが、悲しみを帯びた感情では眼前に広がる美しさもぼやけていた。
買い物を済ませた後、莉亜と蘭が二階にあるアパレルショップへと向かったため、樹と竜一は喫煙所でタバコを吸って時間を潰していた。
「土屋さんが、樹の住む場所と仕事先見つけてくれたよ」
「なんの仕事?」
「土屋さんはビルのオーナーもやってるんだけど、そこに入ってる清掃会社の社員が今月辞めるらしんいんだ。で、社長にお願いして樹を推薦してくれた」
「ありがとう……」
樹は言葉とは裏腹に表情を萎ませた。
「清掃の仕事は嫌か?」
「そうじゃない。これから自分の力で生きていこうとしてるのに、全部手配してもらっていいのかなって」
「使えるものは使っとけ。大事なのはどういう姿勢で取り組むかだ。必死に生きてる人間が苦しんでいるなら手を差し伸べなければならない。これが土屋さんの考えだ。お前は恩恵を受ける“べき”人間だから余計なことは気にしなくていい。自分が自分でいられるように懸命に生きろ。それと、真面目に生きる人間はいつか報われると証明してこい。今のお前になら、それができる」
何かを背負っているようだった。
重荷ではなく、自分を強くしてくれるような何か。
樹はそれが嬉しかった。
自分のためが、誰かのためになるかもしれないから。
以前ならそんなことは思わなかっただろう。
考えや価値観の幅が広がったことで、生きる意味が変わった。
変われないと諦めていたときと、変われると希望を持っているときでは、世界の見え方が違う。
この二つを経験していることが、人としての強度を上げる。
「期待されるのは得意じゃないけど、俺なりに生きてみるよ。遠回りしたことが正しかったと思えるように」
竜一は優しく微笑んだ。
自分の息子の成長を喜ぶように。
「あとは、やり残したことがないように去ることだな」
「蘭か?」
「うん。誰かを変えたという事実が、長い人生の中で支えになるような気がする。それと、自分の生き方が間違っていないという証明にも。だから、俺のためにあいつを変える。邪な考えかもしれないけど、俺が俺でいられるために」
「始まりは自分のためでも、それがいつか誰かのために変わっていく。そういうもんだよ、人って生き物は」
「でも、まだどうやったら変えられるかが分からない。池田のときは言葉を通して考えることができたけど、あいつは本音の欠片すら見せない。仮に求めていることを知れたとしても、それが正しいのかさえ確認できない。言葉がこれだけ重要なものだなんて知りもしなかった」
当たり前にあるものほど、生きるうえで重要だったりする。
失ってから気付くのが人であり、失うまで気付かないのが人である。
「周りに合わせて生きてきた人間は愛されかたを知らない。だから余計に愛されにくくなる。自分の本心を隠している分、相手は理解できないし、理解できなければ好きにもなれない。愛はひとつじゃなく、幅があるものだ。人それぞれで価値感は変わり、同じ幅の人間といると安心を得れる。でも、その人間の求めてるものが分からなければ不安になってくる。自分のことをどう思っているのだろうか? 本当は嫌われてるのではないか? その不安が、苛立ちや嫌悪に繋がって人間関係が上手くいかなくなる。都合のいい相手と思われてる場合は一緒に居られるだろうけど、本人が苦しくなるだけだ。だからワガママを言うことも、時には大事だんだよ。人は与えてもらうだけでは満足できない。与える側に立つことで、自分という存在に意義を見出せるから」
今の蘭が求めているものは分からない。
バックボーンや態度で予測するしかないからだ。
言葉を使えるから人が繋がるのではなく、理解できるようになるから繋がれる。
蘭は笑顔という細い糸だけで結び目を作ろうとしているが、周りの人間によっては簡単に解かれてしまう。
最悪、千切られて修復が不可能になってしまう場合も……
「蘭は子供だ。大人は年齢という枠で許容してくれるかもしれないが、同世代なら話しは変わってくる。さらに言えば、蘭が歳を重ねるたびに周りの目も厳しくなってくるだろう。自分を出すということは、自分がどいういう人間かを知ってもらうということ。それができなければ理解者すらも現れない。愛されるためには、その人間の核となる部分を表に出す必要がある。その後は価値感の問題だな」
「『なんでこんな奴に友達がいるんだよ』って思ったことがあるけど、確かに自分を晒け出してる。だから同じ価値感の人間が集まってくるんだな」
「まあ、周りの奴も本心ではどう思ってるかは分からないし、晒け出せばいいってわけでもないけどな。でも分かりやすい分、何をしたら喜ぶか、何をしたら怒るかっていう線引きはしやすい」
「なんで人間ってこんなに複雑なんだろうな。もっとシンプルな生き物だったら楽なのに」
「面倒な生き物だからこそ、色んなものが発展していったんだよ。昔の哲学者の本読んでみろ。絶対に友達になれねえぞ」
「現代の人間と友達になれてないから、逆に合うかも」
「やめとけ。面倒になってぶん殴るから」
「フフっ」
樹は笑みを浮かべると、タバコの火を消して吸殻を灰皿の中へと落とした。
「いる?」
部屋のベッドの上で絵本を読んでいると、ドア越しから声が聞こえた。
蘭は本を置いてドアを開けると、そこには竜一が立っている。
「入っていい?」
蘭は頷くと、ベッドへと向かった。
竜一は部屋の中に入り、机の下に収まっていたキャスター付きの椅子を引いて、腰を下ろす。
「誰かに嫌われることが怖いか?」
何を言われるのだろうと待っていると、竜一はそう問いかけてきた。
蘭は咄嗟に掛け布団で顔を隠す。
本心を突かれため困惑してしまった。ずっと隠していたものを晒されるのは怖い。
きっと嫌われる。
そんな想いを抱きながら、蘭は沈黙の中に潜り込んだ。
「どんな人間でも誰かには嫌われるし、嫌われることが間違ってるわけじゃない」
言葉を受け、蘭は覗くようにして掛け布団を目元まで下ろす。
「蘭は嫌いなものはあるか?」
分からなかった。
蘭は自分に嫌いなものがあるかどうかも。
ずっと嫌われないように生きてきたため、自分の気持ちに目を向けたことがない。
そもそも『嫌い』とはどういうことなのかも知らない。
漠然としたものに囚われながら、幼い少女は周りの目を気にして生きてきた。
他人からどう思われるかでしか、自分を守る術がないから。
”嫌われる“に付属する『孤独』や『殴られる』といったものが今の蘭を形成しているが、まだ俯瞰できるほどの経験値もない。
だから彷徨う。光を探しながら。
「もっと自分の気持ちも大事にしてやれ。蘭だって誰かを嫌いになっていいし、思ってることを言ってもいい。してほしいことや、してほしくないことが蘭にもあるだろ? それは伝えていいことなんだ。樹と莉亜は仲が悪かったけど、今はどうだ? あれだけ喧嘩してても笑って話してるだろ? 一度嫌いになったとしても、理解できればその人を好きになることだってある。だから怖がらなくていい。蘭は蘭のままでも、ちゃんと愛される」
自分を好きになってくれる人なんているのだろうか?
心の奥底でしがみつくように居座っている負の感情。
暴力で思考を蹂躙されてから、蘭は自分のことをゴミのように思っていた。
嫌われたくないという想いは日々強くなり、幼い子から言葉を奪ってしまった。
――ちゃんと愛される
卑下している人間にとって、どれほど尊い言葉だろうか。
自分を信じることもできない人間にとって、どれほど価値のある言葉だろうか。
竜一から差し出された言葉の花束を、蘭は脳内で握りしめる。
「でも、自分の思ってることを伝えないと好きになってもらえない。人は理解できないものを遠ざけてしまうから。蘭は樹に好きになってもらいたいんだろ? 今まで自分の食べてるものをあげたことなかったもんな」
言い当てられたことに恥ずかしさを覚え、蘭は再び掛け布団で顔を隠した。
「なんでかは分からないけど、自分の気持ちをあいつに伝えてみろ。どんな言葉でも受け止めてくれるから」
蘭は掛け布団を目元まで下ろし、覗くように竜一を見る。
「心配しなくていい。蘭を嫌いになる人間がいたら、そいつの見る目がないだけだ」
竜一は優しく微笑んだ。
その笑みは、思考に絡まった呪いを少しだけ緩めた。