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四十五話 好きと嫌い

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 朝日が照らすダイニングには、莉亜が作った和食が並べられている。
 バランスの考えられたメニューになっており、眠気を携えた朝に優しさが添えられていた。

「いただきます」

 一同が揃ったところで、莉亜が手を合わせた。
 他の者も倣い、朝食を食べ始める。

「このお味噌汁美味しい。今度作り方教えて」

「今日の夜ご飯の担当、蓮見さんだったよね? そのときに教える」

「ありがとう」

 樹が蘭に目をやると、視線がぶつかった。
 だが綺麗な二つのガラス玉は、視線を結ぶことを拒否して落下していく。
 樹はどう話しかければいいのか迷っていた。
 昨日の夜の反応を見て、自分が拒まれていると思っていたからだ。
 今までだったら面倒だと背を向けていた。
 でも蘭が自分たちと同じような道に進んでほしくない。
 こんな小さな女の子に対して使う言葉ではないかもしれないが、今が人生の分岐点なのだと思う。
 過去の傷に縛られるというのは、痛みと共に歩くということ。
 その痛みから解放されたいがあまり、歪んだ思想で世界を嫌悪してしまう。
 蘭がどうなるかは分からないが、環境次第では汚れていく可能性もある。
 根っこまで染みついた偏見は簡単には落とせないし、余計に自分を苦しめていくだけだ。
 樹がそう考えていると、自分のお皿に玉子焼きが置かれた。
 誕生日席に座る蘭に目をやると、チラチラと樹の顔を伺っている。

「くれるの?」

 そう聞くと、蘭は小さな動作で素早く頷いた。
 樹は戸惑いながら目の前に座る莉亜を見ると、彼女も不思議そうに首を傾げた。

「お礼言ったら」

 蓮見に言われ、蘭の目を見て「ありがとう」と言う。
 すると少女は口元を緩めた。
 嬉しさを堪えるようにして。
 その反応の意味は分からなかった。でも拒まれているわけではないと知り、安堵感が胸をさする。
 その後も蘭は、自分のおかずを樹の皿に乗せていった。
 「大丈夫」と断ると不安な顔を浮かべたため、すべてもらうことにした。
 そのたびに嬉しそうな顔をする蘭に、周りの大人たちは頬を緩めた。


「そうだったんだ……」
 ウッドデッキに座り、樹は蘭の過去を葉山と蓮見に話した。
 この二人も知っていた方がいいと思ったからだ。

「いつも笑ってたから、そんなことがあったなんて想像もしてなかった」

 葉山と同じように、樹もまったく気付かなかった。
 竜一に聞いていなかったら、今もただの子供と認識していただろう。

「笑顔の使い方を間違えると、自分の本心が他人に気付いてもらえなくなるんだよね。我慢して無理に笑っていれば、それがいつしか自分を追い込んでいく。アイドルをやってるとさ、嫌なことがあっても、腹を立てても、笑い続けないといけないときがあるの。それが本当に苦しかった。だから匿名でSNSをやってる人が羨ましかった。顔と名前を隠して言いたいことが言える。炎上してもアカウントを消せばいい。ネットという世界は、何度だって生まれ変われるから。でも現実世界ではそうはいかない。傷を抱えている人ほど、素顔を見せないように生きてる。晒せば、また痛みを抱えてしまうから。そんな人たちからしたら、この世界は残酷に映ってると思うの。笑顔は幸せの象徴でもあり、不幸を隠す偽りでもあるから」

 蓮見は遠い過去を眺めるように、空を見上げた。
 傷跡を辿って編んだ言葉には、まだ痛みがあるように思う。

「大人からしたら、子供がそんな大きな傷を負っているとは考えない。樹くんに言われなかったら、僕はきっと気付くこともなかったと思う。『子供だから』で簡単に考えてしまうけど、抱える痛みや悩みは大人と一緒なのかも。勝手に小さなものと決めつけてるだけで、傷の大きさは変わらないはずなのにね」

 大人と子供では、抱えているものの大きさや数には違いがあるだろう。
 仕事や育児などの責任があるから。
 でも痛みの度合まで違うと判断してはいけない。
 そこに境界線はないのだから。

「俺は子供が苦手だった……っていうより嫌いだった。だからあいつのことを避けてきたけど、もし苦しんでいるなら変えてやりたい。俺みたいなクズだからこそ、できることがあると思うから」

「樹くんの良いところって、捻くれてるようで真っ直ぐな人だから、裏表なく言葉が届く。打算が全く感じられないんだよね。その真っ直ぐさが、時に人を傷つけてしまうかもしれないけど、誰も救えないような人を救えたりもする。もし蘭ちゃんを変えられる人がいるなら、樹くんなのかも。優しさだけでは、手の届かない場所もあるから」

「捻くれてるようで、は余計だよ」

「その通りだよ。捻くれてそうに見える」

「蓮見はひん曲がってるけどな」

「喧嘩売ってる?」

 少し間を置いて、三人の顔に笑顔が灯った。
 穏やかな空気が、心を撫でるような感覚がある。

「アイドルをしてた頃は、楽しいから笑うってことがほとんどなかった。今みたいに自然と笑顔が零れることって、ものすごく尊いんだね。少しだけ幸せを知ったような気分」

 雰囲気に浸っていると、蓮見が言葉を添えた。
 息苦しい世界で生きてきたからこそ、この平穏さの価値を知ったのだろう。
 それは樹も同じだった。

「痛みを負うから、当たり前が綺麗なものだと知れるのかも。昔の自分だったら、希死念慮が無いことを幸せだなんて思ってなかった。でも、その辛さを知ったから、目の前の当たり前を大事にしようとも思えた。傷がつかないと分からないことってあるんだよね。きっとそれが、理解の幅を広げて優しさに変わっていく。付いた傷が治らなくとも、意味にはできる」

 葉山は過去を踏み台にして、一つ上の段階へと登ろうとしていた。
 人が強くなっていく過程を側で見て、樹自身も『変わらなければ』という想いにブーストをかける。

「『あの頃があって良かった』なんて簡単には思えないけど、未来を装飾するような傷跡があってもいい。綺麗なものを知るためには必要だった、と言えるような」

 人はそれぞれ傷を抱えながら生きている。
 理由なく付けられたものだとしても、その傷にどう意味を付けるかで、前に進むことだってできる。
 でも多くの傷は、ただの痛みだ。
 それだけ意味を付けるということは難しい。
 同じ痛みを持った人を救いたい。
 そう思えれば傷口に花が咲くかもしれないが、苦しんでいるときに他人のことなど考えている余裕はない。
 自分が救われなければ、誰かを救おうとなどと思わないから。
 だが、それでも意味を付けなければならない。
 過去に縛られてれる間にも、時は流れて人は進んでいく。
 置き去りにされた人間に手を差し伸べてくれるほど、この世界は優しくはない。
 みんな自分のことで精一杯だから。

「救いって、待っていることではなく、自分で探しに行くことなのかもしれない。もし手を差し伸べても、相手が立ち止まっていたら届くものも届かない。変わろうとしない人間に何を言っても響かないように。傷は消そうとしても消えないけど、その先はまだ描ける。描こうとする人間には手だって届く。俺も、池田も、葉山も、蓮見も、何かを変えたくてここに来た。少しばかり遠回りはしたけど、それでも今は前に進もうとしてる。正規のルートを歩いている奴らとは別の道にいるけど、ここでしか拾えないものがあると思うんだ。俺はそれを大事にしたい。そしてそれが、意味になるような気がする」

 蘭は今、一人で戦っているかもしれない。
 それもまた、自分の足で探しに行くということだ。
 立ち止まることがダメなわけではないが、ずっと立ち止まっていては置いていかれていくだけ。手すら届かないほど、遠くへ。

「私も葉山くんの手を弾いてた。そのときは救ってほしいと思ってたけど、全部に背を向けて待っていただけなのかもしれない。いつか誰かが変えてくれると」

「僕も死にたいと思ってたときは、“いつか”をずっと待っていたような気がする。変わるのは無理だから、誰かが変えてくれることを」

「葉山の場合は、優しさという種を持っていたから蓮見の言葉を拾えた。たぶん俺みたいな皮肉屋では、受け取ることもできなかったと思う。『たかがアイドルだろ』なんて見下して。ここに来て、視野が広がった。今なら拾うべきものと、捨てるべきものの区別がつくような気がする。遠回りしたからこそ、見える景色もあるって知れた。今度は俺が、それを教える番なんだと思う。笑顔だけでは見えないものもあるって」

 樹の頭の中に、蘭の笑顔が浮かんだ。
 大人からしたら無邪気な笑みにしか見えないが、その奥では雨が降りしきっているかもしれない。
 傘を持たない少女に、傷口を濡らす悲しみの拭い方は分からないだろう。
 造花のような笑顔を咲かせ、痛みを耐え続ける方法しか分からないだろう。
 人生とは、綺麗なものだけを見ることではない。
 涙で咲く花も、充分に美しい。
 それを教えることが自分の役目だと、樹は思った。

「蘭ちゃんてさ、根本くんに好きになってほしいんじゃないかな」

「同じことを池田にも言われた。誰かに嫌われてることが不安なんじゃないかって」

「それもあると思うけど、別の理由もある気がする」

「別の理由?」

「うん。笑顔が嫌われないためのものなら、根本くんにも同じように振る舞うでしょ? でも昨日の夜と朝食のときの反応は、明らかに私たちとは違う。特に昨日の夜は、池田さんが嘘を付いたときに怒るように睨んでた」

「二ヶ月近く一緒にいるけど、あんな顔初めて見た」と、葉山が合いの手を入れる。

「そんな顔したら池田さんに嫌われるかもしれない。でも笑顔を放棄してまで、他の感情を優先させた。それって、新しく大切な何かができたからだと思う」

 海で話してから、蘭の反応は明らかに変わった。
 なぜかと考えたが、理解の紐を解くことができないでいる。

「『嫌われてるから好きになってもらいたい』というより『この人に好きになってもらいたい』。もしそうだとしたら、同じ好きになってもらいたいでも意味が変わってくる。今までは自分を守るために感情を使っていた。でも、自分を好きになってもらうための感情の出し方をまだ知らない。それなら昨日の反応も理解できる。全部憶測でしかないけど、もしそうなら変わろうとしている最中だと思う。初めて見せた感情もあるわけだし」

 海で話したときは不安な表情を浮かべ、昨日は怒った顔も見せた。
 蘭の中で何かが変わっているのは明らかだろう。
 過去が足枷となって未来を縛り付けることがあるように、過去が未来を照らすための道となることだってある。
 今の樹は、幼い少女の光となれるかもしれない。
 まだ小さな芽を、美しく咲かせられるかもしれない。
 樹は、どうしたら蘭が言葉を使えるようになるかを必死に考えていた。
 初めは自分のためだったが、今は自分という存在が思考の中から消え、一人の少女だけに焦点を当てている。
 私欲の無い純粋な想いは、変化という過程を無意識に歩いていた。
 当の本人は、まだ気付いていないが。

「言葉にするなら“好きになってほしい”だけど、裏を返せば『嫌われたくない』『一人になりたくない』『安心したい』がある。”だから好きになってほしい“だと思うの。たぶん蘭ちゃんはこんな生き方をしてたんじゃないかな。でも樹くんには違う感情を抱いている。それが何かはまだ断定できないし、蘭ちゃん自身も分かってないかもしれない。でも一つ言えるのは、自分のことを好きになってもらうために必死になって生きているということ。私は自分の夢を叶えるために、必死になって好かれようとしてきた。形は違うかもしれないけど、その気持ちは痛いほど分かる。迷って、苦しんで、どこに向かっていいかも分からなくなって、挙げ句の果てには心が折れていく。誰かの人生に入り込むって、自分を削らないといけないから」

 どんな想いを持っているかで、人は理解の幅が変化していく。
 蓮見はアイドル時代に学んだもので、蘭を見ているのかもしれない。
 好きに対しての価値観は、樹には無い視点だ。
 必死になって誰かに好かれたいとも、何かを削ってまで他人の人生に入り込みたいとも思ったことはない。
 もし蓮見の言う通りなら、かける言葉は変わる。
 何を求めているかは人によって千差万別で、誰が言うかでも、何を言うかでも、受け取り方が変わってくるからだ。
 海で話したときは、心の中にあるものをそのまま伝えた。
 あの中に響いた言葉があるなら、自分らしく接することが大事だと思った。
 樹なりに、最下層の人間なりに、クズなりに。

「空はあれど、飛び方を知らない。今のあいつはそんな状態なのかもな」

「もしかしたら、樹くんを見て飛べそうだって思ったのかも」

「普通、逆だろ」

「自分と重なり合う部分を見つけたのかもしれない。空を飛ぶために必要な何かを」

 葉山が空を見上げると、二人もそれに倣った。
 美しいほどの青が瞳を染める。

「飛べるといいね」

 蓮見がそう言った後、樹は「ああ」と空に声を溶かした。
 言の葉に希望を込めて。


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 朝日が照らすダイニングには、莉亜が作った和食が並べられている。
 バランスの考えられたメニューになっており、眠気を携えた朝に優しさが添えられていた。
「いただきます」
 一同が揃ったところで、莉亜が手を合わせた。
 他の者も倣い、朝食を食べ始める。
「このお味噌汁美味しい。今度作り方教えて」
「今日の夜ご飯の担当、蓮見さんだったよね? そのときに教える」
「ありがとう」
 樹が蘭に目をやると、視線がぶつかった。
 だが綺麗な二つのガラス玉は、視線を結ぶことを拒否して落下していく。
 樹はどう話しかければいいのか迷っていた。
 昨日の夜の反応を見て、自分が拒まれていると思っていたからだ。
 今までだったら面倒だと背を向けていた。
 でも蘭が自分たちと同じような道に進んでほしくない。
 こんな小さな女の子に対して使う言葉ではないかもしれないが、今が人生の分岐点なのだと思う。
 過去の傷に縛られるというのは、痛みと共に歩くということ。
 その痛みから解放されたいがあまり、歪んだ思想で世界を嫌悪してしまう。
 蘭がどうなるかは分からないが、環境次第では汚れていく可能性もある。
 根っこまで染みついた偏見は簡単には落とせないし、余計に自分を苦しめていくだけだ。
 樹がそう考えていると、自分のお皿に玉子焼きが置かれた。
 誕生日席に座る蘭に目をやると、チラチラと樹の顔を伺っている。
「くれるの?」
 そう聞くと、蘭は小さな動作で素早く頷いた。
 樹は戸惑いながら目の前に座る莉亜を見ると、彼女も不思議そうに首を傾げた。
「お礼言ったら」
 蓮見に言われ、蘭の目を見て「ありがとう」と言う。
 すると少女は口元を緩めた。
 嬉しさを堪えるようにして。
 その反応の意味は分からなかった。でも拒まれているわけではないと知り、安堵感が胸をさする。
 その後も蘭は、自分のおかずを樹の皿に乗せていった。
 「大丈夫」と断ると不安な顔を浮かべたため、すべてもらうことにした。
 そのたびに嬉しそうな顔をする蘭に、周りの大人たちは頬を緩めた。
「そうだったんだ……」
 ウッドデッキに座り、樹は蘭の過去を葉山と蓮見に話した。
 この二人も知っていた方がいいと思ったからだ。
「いつも笑ってたから、そんなことがあったなんて想像もしてなかった」
 葉山と同じように、樹もまったく気付かなかった。
 竜一に聞いていなかったら、今もただの子供と認識していただろう。
「笑顔の使い方を間違えると、自分の本心が他人に気付いてもらえなくなるんだよね。我慢して無理に笑っていれば、それがいつしか自分を追い込んでいく。アイドルをやってるとさ、嫌なことがあっても、腹を立てても、笑い続けないといけないときがあるの。それが本当に苦しかった。だから匿名でSNSをやってる人が羨ましかった。顔と名前を隠して言いたいことが言える。炎上してもアカウントを消せばいい。ネットという世界は、何度だって生まれ変われるから。でも現実世界ではそうはいかない。傷を抱えている人ほど、素顔を見せないように生きてる。晒せば、また痛みを抱えてしまうから。そんな人たちからしたら、この世界は残酷に映ってると思うの。笑顔は幸せの象徴でもあり、不幸を隠す偽りでもあるから」
 蓮見は遠い過去を眺めるように、空を見上げた。
 傷跡を辿って編んだ言葉には、まだ痛みがあるように思う。
「大人からしたら、子供がそんな大きな傷を負っているとは考えない。樹くんに言われなかったら、僕はきっと気付くこともなかったと思う。『子供だから』で簡単に考えてしまうけど、抱える痛みや悩みは大人と一緒なのかも。勝手に小さなものと決めつけてるだけで、傷の大きさは変わらないはずなのにね」
 大人と子供では、抱えているものの大きさや数には違いがあるだろう。
 仕事や育児などの責任があるから。
 でも痛みの度合まで違うと判断してはいけない。
 そこに境界線はないのだから。
「俺は子供が苦手だった……っていうより嫌いだった。だからあいつのことを避けてきたけど、もし苦しんでいるなら変えてやりたい。俺みたいなクズだからこそ、できることがあると思うから」
「樹くんの良いところって、捻くれてるようで真っ直ぐな人だから、裏表なく言葉が届く。打算が全く感じられないんだよね。その真っ直ぐさが、時に人を傷つけてしまうかもしれないけど、誰も救えないような人を救えたりもする。もし蘭ちゃんを変えられる人がいるなら、樹くんなのかも。優しさだけでは、手の届かない場所もあるから」
「捻くれてるようで、は余計だよ」
「その通りだよ。捻くれてそうに見える」
「蓮見はひん曲がってるけどな」
「喧嘩売ってる?」
 少し間を置いて、三人の顔に笑顔が灯った。
 穏やかな空気が、心を撫でるような感覚がある。
「アイドルをしてた頃は、楽しいから笑うってことがほとんどなかった。今みたいに自然と笑顔が零れることって、ものすごく尊いんだね。少しだけ幸せを知ったような気分」
 雰囲気に浸っていると、蓮見が言葉を添えた。
 息苦しい世界で生きてきたからこそ、この平穏さの価値を知ったのだろう。
 それは樹も同じだった。
「痛みを負うから、当たり前が綺麗なものだと知れるのかも。昔の自分だったら、希死念慮が無いことを幸せだなんて思ってなかった。でも、その辛さを知ったから、目の前の当たり前を大事にしようとも思えた。傷がつかないと分からないことってあるんだよね。きっとそれが、理解の幅を広げて優しさに変わっていく。付いた傷が治らなくとも、意味にはできる」
 葉山は過去を踏み台にして、一つ上の段階へと登ろうとしていた。
 人が強くなっていく過程を側で見て、樹自身も『変わらなければ』という想いにブーストをかける。
「『あの頃があって良かった』なんて簡単には思えないけど、未来を装飾するような傷跡があってもいい。綺麗なものを知るためには必要だった、と言えるような」
 人はそれぞれ傷を抱えながら生きている。
 理由なく付けられたものだとしても、その傷にどう意味を付けるかで、前に進むことだってできる。
 でも多くの傷は、ただの痛みだ。
 それだけ意味を付けるということは難しい。
 同じ痛みを持った人を救いたい。
 そう思えれば傷口に花が咲くかもしれないが、苦しんでいるときに他人のことなど考えている余裕はない。
 自分が救われなければ、誰かを救おうとなどと思わないから。
 だが、それでも意味を付けなければならない。
 過去に縛られてれる間にも、時は流れて人は進んでいく。
 置き去りにされた人間に手を差し伸べてくれるほど、この世界は優しくはない。
 みんな自分のことで精一杯だから。
「救いって、待っていることではなく、自分で探しに行くことなのかもしれない。もし手を差し伸べても、相手が立ち止まっていたら届くものも届かない。変わろうとしない人間に何を言っても響かないように。傷は消そうとしても消えないけど、その先はまだ描ける。描こうとする人間には手だって届く。俺も、池田も、葉山も、蓮見も、何かを変えたくてここに来た。少しばかり遠回りはしたけど、それでも今は前に進もうとしてる。正規のルートを歩いている奴らとは別の道にいるけど、ここでしか拾えないものがあると思うんだ。俺はそれを大事にしたい。そしてそれが、意味になるような気がする」
 蘭は今、一人で戦っているかもしれない。
 それもまた、自分の足で探しに行くということだ。
 立ち止まることがダメなわけではないが、ずっと立ち止まっていては置いていかれていくだけ。手すら届かないほど、遠くへ。
「私も葉山くんの手を弾いてた。そのときは救ってほしいと思ってたけど、全部に背を向けて待っていただけなのかもしれない。いつか誰かが変えてくれると」
「僕も死にたいと思ってたときは、“いつか”をずっと待っていたような気がする。変わるのは無理だから、誰かが変えてくれることを」
「葉山の場合は、優しさという種を持っていたから蓮見の言葉を拾えた。たぶん俺みたいな皮肉屋では、受け取ることもできなかったと思う。『たかがアイドルだろ』なんて見下して。ここに来て、視野が広がった。今なら拾うべきものと、捨てるべきものの区別がつくような気がする。遠回りしたからこそ、見える景色もあるって知れた。今度は俺が、それを教える番なんだと思う。笑顔だけでは見えないものもあるって」
 樹の頭の中に、蘭の笑顔が浮かんだ。
 大人からしたら無邪気な笑みにしか見えないが、その奥では雨が降りしきっているかもしれない。
 傘を持たない少女に、傷口を濡らす悲しみの拭い方は分からないだろう。
 造花のような笑顔を咲かせ、痛みを耐え続ける方法しか分からないだろう。
 人生とは、綺麗なものだけを見ることではない。
 涙で咲く花も、充分に美しい。
 それを教えることが自分の役目だと、樹は思った。
「蘭ちゃんてさ、根本くんに好きになってほしいんじゃないかな」
「同じことを池田にも言われた。誰かに嫌われてることが不安なんじゃないかって」
「それもあると思うけど、別の理由もある気がする」
「別の理由?」
「うん。笑顔が嫌われないためのものなら、根本くんにも同じように振る舞うでしょ? でも昨日の夜と朝食のときの反応は、明らかに私たちとは違う。特に昨日の夜は、池田さんが嘘を付いたときに怒るように睨んでた」
「二ヶ月近く一緒にいるけど、あんな顔初めて見た」と、葉山が合いの手を入れる。
「そんな顔したら池田さんに嫌われるかもしれない。でも笑顔を放棄してまで、他の感情を優先させた。それって、新しく大切な何かができたからだと思う」
 海で話してから、蘭の反応は明らかに変わった。
 なぜかと考えたが、理解の紐を解くことができないでいる。
「『嫌われてるから好きになってもらいたい』というより『この人に好きになってもらいたい』。もしそうだとしたら、同じ好きになってもらいたいでも意味が変わってくる。今までは自分を守るために感情を使っていた。でも、自分を好きになってもらうための感情の出し方をまだ知らない。それなら昨日の反応も理解できる。全部憶測でしかないけど、もしそうなら変わろうとしている最中だと思う。初めて見せた感情もあるわけだし」
 海で話したときは不安な表情を浮かべ、昨日は怒った顔も見せた。
 蘭の中で何かが変わっているのは明らかだろう。
 過去が足枷となって未来を縛り付けることがあるように、過去が未来を照らすための道となることだってある。
 今の樹は、幼い少女の光となれるかもしれない。
 まだ小さな芽を、美しく咲かせられるかもしれない。
 樹は、どうしたら蘭が言葉を使えるようになるかを必死に考えていた。
 初めは自分のためだったが、今は自分という存在が思考の中から消え、一人の少女だけに焦点を当てている。
 私欲の無い純粋な想いは、変化という過程を無意識に歩いていた。
 当の本人は、まだ気付いていないが。
「言葉にするなら“好きになってほしい”だけど、裏を返せば『嫌われたくない』『一人になりたくない』『安心したい』がある。”だから好きになってほしい“だと思うの。たぶん蘭ちゃんはこんな生き方をしてたんじゃないかな。でも樹くんには違う感情を抱いている。それが何かはまだ断定できないし、蘭ちゃん自身も分かってないかもしれない。でも一つ言えるのは、自分のことを好きになってもらうために必死になって生きているということ。私は自分の夢を叶えるために、必死になって好かれようとしてきた。形は違うかもしれないけど、その気持ちは痛いほど分かる。迷って、苦しんで、どこに向かっていいかも分からなくなって、挙げ句の果てには心が折れていく。誰かの人生に入り込むって、自分を削らないといけないから」
 どんな想いを持っているかで、人は理解の幅が変化していく。
 蓮見はアイドル時代に学んだもので、蘭を見ているのかもしれない。
 好きに対しての価値観は、樹には無い視点だ。
 必死になって誰かに好かれたいとも、何かを削ってまで他人の人生に入り込みたいとも思ったことはない。
 もし蓮見の言う通りなら、かける言葉は変わる。
 何を求めているかは人によって千差万別で、誰が言うかでも、何を言うかでも、受け取り方が変わってくるからだ。
 海で話したときは、心の中にあるものをそのまま伝えた。
 あの中に響いた言葉があるなら、自分らしく接することが大事だと思った。
 樹なりに、最下層の人間なりに、クズなりに。
「空はあれど、飛び方を知らない。今のあいつはそんな状態なのかもな」
「もしかしたら、樹くんを見て飛べそうだって思ったのかも」
「普通、逆だろ」
「自分と重なり合う部分を見つけたのかもしれない。空を飛ぶために必要な何かを」
 葉山が空を見上げると、二人もそれに倣った。
 美しいほどの青が瞳を染める。
「飛べるといいね」
 蓮見がそう言った後、樹は「ああ」と空に声を溶かした。
 言の葉に希望を込めて。