表示設定
表示設定
目次 目次




四十四話 言の葉を持たぬ花

ー/ー



 夜を灯す星たちの下で、海が波音を囁く。
 樹は夕食後、莉亜と共にコンビニでアイスを買い、海沿いの道を歩いてコテージへと戻っていた。

「蘭ちゃんと何を話したの?」 

「俺が一方的に自分の気持ちを伝えただけ」

「どうだった?」

 その質問に言葉が(つか)えた。
 関係性を縮めるどころか、余計に不安にさせたような気がしたからだ。
 人と関わってこなかった分、想いを伝えることに樹は照れがある。
 普通に「一緒に遊ぼう」と言えばいいのに、「たまに」なんて言葉で誤魔化したため、溝が深まったかもと思っていた。
 夕食時も蘭は黙々と食べており、笑顔すら見せていない。
 伝え方の難しさに、樹は難儀していた。

「まあ、難しいよね。大人同士ですら理解できないことなんて山のようにある。育ってきた環境も違えば、経験してきたことも違う。同じ言葉でも、どんな道を辿ってきたかで受け取り方が変わるんだもん。ましてや蘭ちゃんは言葉を使わない。本心すら見えないなら、どうやって人を変えればいいんだろうね」

「俺はさ、言葉で人を変えるって意味が分からなかった。そんなことできるはずないって思ってたから。でも過去を辿れば、言葉に影響を受けて自分を形成してた。それは子供も同じなのかもしれない。正直、どうすればいいかなんて分からないけど、今俺が持ってるものは言葉だけだ。だから言葉であいつを変えてみたい。ムカついたら喧嘩して、力だけで解決してきたけど、これからは違うもので生きてみたい。自分のためにも」

 ここに来てから言葉の意味を知った。
 元を辿れば生きるための道具に過ぎなかったのかもしれないが、現代においては世界や個人を作るものだ。
 思想や性格、仕事に人間関係。
 すべてを結ぶツールと言ってもいい。
 生きる意味も、生きていく理由も、言葉があるから見つかるのかもしれない。
 言葉があるから何かが生まれ、言葉があるから何かと結ばれる。
 人とは何かと聞かれたら、今なら言葉と答えるだろう。
 これが樹の考えだった。

「私もそうだった。言葉に支配されて、言葉で他人を支配してしまった。結ぶはずのものが縛りつけるものに変わったとき、人は言葉で誰かの尊厳を殺してしまうのかもしれない。ただ使うのではなく、どう使うかを考えていれば、この世界にある無数の傷も、もう少し減っていたのかもね。蘭ちゃんには自由に生きてもらいたい。言葉に縛られないように」

「もし感情を隠すために言葉を使ってないなら、あいつはこれからも苦しむことになる。言葉があれば自分を知ってもらえる。でも知ってもらえなければ、人に合わせがら生きていくしかない。外の世界は優しい人間よりも、力のある人間がルールになるから」

 全員が察してくれるわけではない。
 樹自身も蘭のバックボーンを聞くまでは、だたの子供としか見ていなかった。
 人はすべてのことを経験できないから、経験したことだけで人を測る。
 言葉が必要なのは、理解の補助になるからだ。
 だから支配するために使ってはいけない。
 言葉は結ぶためにあるものだから。

「今思うと優しさってすごいよね。持ってて当たり前みたいに言われるけどさ、持ってる人が特別なんだよ。自分のことで精一杯なのに、他人のことまで見てる余裕はない。この世界には、自分が理解できないことまで受け入れてくれる人もいるけど、そういう人ほどたくさんの傷を抱えてるんじゃないかなって思うの。人の器は痛みによって大きくなる。だから優しいんだよね。私が言うと、言い訳みたいに聞こえちゃうけど」

「ここに来る前なら、その言葉を否定してたと思う。そんな奴いねえよって。でも今は、俺自身がそうなりたいって思ってる。ずっとクズみたいな生き方をしてたから、たまには誰かの役に立ちたい。生きてることに意味を付けられるように」

「できるよ、樹くんなら。私が保証する」

 樹は口角を緩ませた。肯定してもらえたことが嬉しかったから。
 否定され続けた人生の中で、生きるための理由を探すのは難しい。
 でも意識を広げれば、小さな欠片が落ちていることに気付ける。
 ずっとゴミだと思っていたものも、手に取ってみれば美しい花かもしれない。

「照れてるな、樹」

「うるせえ、黙れ」

「あっ、酷い。丹精込めて言った『できるよ、樹くんなら』を返して」

「もう飲み込んだから無理」

「じゃあ吐き出せ」

「やめろ、飯食った後だから別のもの吐くぞ」

「ちょっと汚いからやめて」

「お前が吐かせようとしたんだろ」

「もう少しデリカシーを身に付けた方がいいよ。私のデリカシー少し分けようか?」

「池田のはいらない」

「何それ、めっちゃ失礼」

「やっぱり、そっちの方がいいよ」

「そっちって?」

「肩肘張らないで生きてる方が」

「もしかして口説いてる?」

「なんでだよ」

「急に褒めたから」

「お前を口説くくらいなら、カブトムシ口説いた方が有意義だよ」

「今のはムカつく。三回回ってから私に謝って」

「回る意味ねえだろ」

 星たちが照らす夜の底で、二人の笑い声が響いた。


 蘭はソファで絵本を読んでいた。
 母が唯一買ってくれた宝物であり、何百回と頭の中に注ぎ込んだ物語だ。
 捨てられた猫の話は自分と重なる部分があり、本を読んでいる間は孤独が紛れ、心に付いた傷も少しは癒えた。
 だがラストシーンだけは嫌いだった。
 自分では物語の結末を変えることができないため、最後のページを破ってピリオドをゴミ箱に捨てた。
 一人の夜に縋れるものは絵本しかないし、なにより物語を嫌いになりたくない。
 好きなままで終われるなら、ずっと孤独の支えになってくれる。
 友達のいない蘭にとって、本の中のキャラクターたちが唯一の救いだった。

「蘭ちゃん、その絵本好きだね」

 蘭を挟むようにして、葉山と蓮見がソファに腰を下ろした。

「私もこの本読んでた。確か、捨てられた猫のお話だよね?」

 蘭はいつものようにニコッと笑顔を零す。

「僕はあんまり絵本とか読んでこなかったから、幼い頃の思い出があるのって羨ましい」

「私は絵本ばかり読んでた。子供の頃から他人と関わることが苦手で、一人でいることが多かったの。でも物語の中に入れば、一人じゃないような気がした。ただ楽しいから読んでる子もいると思うけど、私は自分が救われるために読んでた。だから絵本を見ると、寂しさと楽しさの両方が思い出される」

――私も一緒

 蘭は心でそう言うと、もう一度蓮見に笑顔を向けた。
 同じ想いを持っている人がいて、嬉しかったから。

「蘭ちゃんもそう?」

 蘭は笑顔に感情を染み込ませ、気持ちを伝えた。
 嬉しいという想いなら、嫌われることはない。

「これって子供向けなの? っていう絵本がたまにあるけど、作者の幼い頃の思い出が影響してたりするのかもね。何かに寄り添うような物語は」

「私はそういう本が好きだったかな。ストーリーを楽しむための物語より、メッセージがあるような絵本ばかり選んでた。まだ幼いから意味とかは分からなかったけど、なんか救われるような気がしたんだよね。内容は暗いし、主人公が最後に死んじゃったりするんだけどさ、どこかに希望のようなものがあった。今思うと、私のような子供に寄り添って書いてくれてたのかも」

 蓮見は蘭が持っている絵本に目を向けた。

「この物語も、最後に猫が……」

 蘭は笑顔を浮かべながら、蓮見を凝視する。

「ん? 私の顔に何か付いてる?」

 蘭は何も言わずに、ただ笑顔を蓮見に向ける。

「ねえ、顔に何か付いてる?」

「ううん、何も付いてないよ」

 蓮見は怪訝な顔で戸惑っていた。
 蘭の笑顔の裏には、「それ以上は言わないで」というメッセージが託されていた。
 破り捨てたページを拾われたくない。
 “好き”で終わっている宝物を嫌いになりたくない。
 言葉では伝えられないため、蘭なりの表現で蓮見の言葉を奪った。

「あっ」

 葉山が窓の方に目を向けると声を上げた。
 ウッドデッキには猫がおり、リビングを覗くようにしてこちらを見ている。
 シルバーの毛に黒の縞模様があり、いわゆるサバトラと言われる猫だ。
 葉山はキッチンから缶詰を持ってくると、窓を開けて猫の前に餌を置く。
 蘭と蓮見も猫を囲むように腰を下ろし、三人で野良猫の食事を見守った。

「最近よく来るね、この猫」

「樹くんが餌を上げてから来るようになった」

「あー、だから根本くんに懐いてるんだ」

「あと、どこか似ているって感じたのかも」

「確かに野良っぽい」

 蘭も二人と同様、樹に野良っぽさを感じていた。
 ここに来る人はみんな孤独感を纏っているが、樹はまた違う種類のぼっちに見えた。
 まるで絵本に出てくる“嫌われた猫”のような。

「樹くんて、ここに来たときは『誰とも関わらないぞ』って感じだったんだ。でも孤独には見えなかった。それがひとりぼっちの人からすると、希望にも見えると思うんだよね。一人でいることが悪いわけじゃないって思えるから。近寄りがたさはあったけど、話しやすかった。学生時代に会ってたら憧れてたかも」

「孤独ってさ、色んな種類のものがあるんだよね。誰にも縋れないとき、周りから浮いてるとき、劣等感を感じてるとき。私はいくつかの孤独を辿ってきたけど、それぞれで違う苦しさがあった。共通しているのは“私が私でいられなくなる”ってこと。自分らしさを否定されると、自分らしさすら分からなくなる。だから迷うんだよね。どこに足を踏み出せばいいかで。結果、道なき道を歩き出して崖にぶつかる。これが絶望の正体なんだと思う」

「そんなときに、何かに縋りたくなるのかな。認められたい、愛されたい、理解してもらいたい。生きるって一人だけでは補えないことが多いから、誰かの手を握りたくなる。自分のことを好きになってもらいたいのは、安心したいのかもね」

 二人の会話に、蘭は耳を傾けていた。
 半分以上は理解できていないが、ひとりぼっちの話をしているのは分かった。
 まだ生きるという意味を知らない少女は、無意識に言葉の中からヒントを見つけようとしている。
 何かを拾おうと、自分を好きになってもらえるようにと。

「おかえり」

 葉山がドアの方に向かって声をかけた。
 樹と莉亜がコンビニから帰ってきたようだ。

「ただいま……あっ、樹くんの友達が来てるよ」

「友達じゃねえよ」

 樹と莉亜も、猫の側まできて腰を下ろす。

「猫って可愛いよね。見てるだけで癒される」

 莉亜は猫の背中を優しく撫でた。猫は触れられてることも気にせず、缶の中の餌を食べている。

「樹くんに会いに来たんじゃない? 寂しがってると思って」

「なんで俺が気を遣われてんだよ。餌を食いに来ただけだろ」

「それアイス?」

 葉山は樹が持っているコンビニの袋を、視線で指した。

「うん。箱で買ってきたから、全員分あるよ」

「よし、みんなで食べよう」

 莉亜が言うと、樹は箱を開けてチョコを纏ったアイスの棒を配り始めた。

「はい」

 樹にアイスを差し出されたが、蘭は受け取らずに立ち上がる。
 そしてソファへと向かい、クッションで顔を隠した。

「どうしたの、蘭ちゃん?」

 莉亜の声が聞こえたが、蘭はクッションを手放さない。

「アイス嫌いなのかな?」

「この間は美味しそうに食べてたよ」

「じゃあ、根本くんが怖いからじゃない」

「それはあるかも」

「おい」

 違う。怖いからじゃない。
 今まで嫌われないように生きてきた蘭は、好きになってもらう方法を知らない。
 どんな反応をしていいのか困惑し、思わず顔を隠した。
 もしかしたら笑顔以外の感情が出てしまうかも、という懸念もある。
 未知の想いは蘭を迷わせていた。
 笑顔以外に必要なものは何かと。

「どうした?」

 樹はそう言いながら、蘭の顔を覆っていたクッションを取り上げた。
 急に目の前に現れた樹を見て、蘭は一瞬固まる。
 数秒の沈黙を置いた後、クッションを取り返そうと手を伸ばすが、樹が高く上げたため届かない。
 蘭は表情を動かさないようにしながら、背中を向けてソファに顔を埋めた。
 これなら自分の顔を見られることはない。

「いらないなら、俺が食うぞ」

 蘭は顔を埋めたまま、首を大きく振る。

「じゃあこっち向いて」

 そう言われたが、どうしていいか分からない。
 困っていると、莉亜の声が聞こえてきた。

「あっ、樹くんが蘭ちゃんのアイス食べた」 

 振り返ると、アイスはまだ袋に入っていた。莉亜が嘘を付いたということにタイムラグで気付く。
 蘭は莉亜を睨んだ後、ソファから立ち上がって駆け足でリビングを出た。

「ごめん、蘭ちゃん」

 莉亜の謝罪を背中で受け止め、二階へと上がる。
 『嫌われないように』と『好きになってほしい』
 一緒のように感じるが実際には違う。
 言い換えれば、マイナスにならないようにから、プラスにしていくということだ。
 今までは笑顔という境界線を引いて自分のテリトリーを守ってきたが、好きになってもらうためには、こちらから踏み込まなければならない。
 もしくは踏み込んできてもらい、自分を晒さなければいけない。
 蘭はまだ幼いため、そこまでは考えていないが、違いがあることには薄らと気付いている。
 だからこそ、どんな顔をすればいいのかが分からない。
 分からないから見せられないし、見せられないから逃げることしかできない。
 大人でも通る道のりを、まだ幼い少女も通っていた。
 経験の無さから、自分が何に悩んでいるのかさえもまだ曖昧だが、少しずつ感情に変化はあった。
 閉じ込めていたものが、知らないうちに表情へと滲み始めている。
 蘭はまだ、そのことに気付いていなかった。


スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 四十五話 好きと嫌い


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 夜を灯す星たちの下で、海が波音を囁く。
 樹は夕食後、莉亜と共にコンビニでアイスを買い、海沿いの道を歩いてコテージへと戻っていた。
「蘭ちゃんと何を話したの?」 
「俺が一方的に自分の気持ちを伝えただけ」
「どうだった?」
 その質問に言葉が|痞《つか》えた。
 関係性を縮めるどころか、余計に不安にさせたような気がしたからだ。
 人と関わってこなかった分、想いを伝えることに樹は照れがある。
 普通に「一緒に遊ぼう」と言えばいいのに、「たまに」なんて言葉で誤魔化したため、溝が深まったかもと思っていた。
 夕食時も蘭は黙々と食べており、笑顔すら見せていない。
 伝え方の難しさに、樹は難儀していた。
「まあ、難しいよね。大人同士ですら理解できないことなんて山のようにある。育ってきた環境も違えば、経験してきたことも違う。同じ言葉でも、どんな道を辿ってきたかで受け取り方が変わるんだもん。ましてや蘭ちゃんは言葉を使わない。本心すら見えないなら、どうやって人を変えればいいんだろうね」
「俺はさ、言葉で人を変えるって意味が分からなかった。そんなことできるはずないって思ってたから。でも過去を辿れば、言葉に影響を受けて自分を形成してた。それは子供も同じなのかもしれない。正直、どうすればいいかなんて分からないけど、今俺が持ってるものは言葉だけだ。だから言葉であいつを変えてみたい。ムカついたら喧嘩して、力だけで解決してきたけど、これからは違うもので生きてみたい。自分のためにも」
 ここに来てから言葉の意味を知った。
 元を辿れば生きるための道具に過ぎなかったのかもしれないが、現代においては世界や個人を作るものだ。
 思想や性格、仕事に人間関係。
 すべてを結ぶツールと言ってもいい。
 生きる意味も、生きていく理由も、言葉があるから見つかるのかもしれない。
 言葉があるから何かが生まれ、言葉があるから何かと結ばれる。
 人とは何かと聞かれたら、今なら言葉と答えるだろう。
 これが樹の考えだった。
「私もそうだった。言葉に支配されて、言葉で他人を支配してしまった。結ぶはずのものが縛りつけるものに変わったとき、人は言葉で誰かの尊厳を殺してしまうのかもしれない。ただ使うのではなく、どう使うかを考えていれば、この世界にある無数の傷も、もう少し減っていたのかもね。蘭ちゃんには自由に生きてもらいたい。言葉に縛られないように」
「もし感情を隠すために言葉を使ってないなら、あいつはこれからも苦しむことになる。言葉があれば自分を知ってもらえる。でも知ってもらえなければ、人に合わせがら生きていくしかない。外の世界は優しい人間よりも、力のある人間がルールになるから」
 全員が察してくれるわけではない。
 樹自身も蘭のバックボーンを聞くまでは、だたの子供としか見ていなかった。
 人はすべてのことを経験できないから、経験したことだけで人を測る。
 言葉が必要なのは、理解の補助になるからだ。
 だから支配するために使ってはいけない。
 言葉は結ぶためにあるものだから。
「今思うと優しさってすごいよね。持ってて当たり前みたいに言われるけどさ、持ってる人が特別なんだよ。自分のことで精一杯なのに、他人のことまで見てる余裕はない。この世界には、自分が理解できないことまで受け入れてくれる人もいるけど、そういう人ほどたくさんの傷を抱えてるんじゃないかなって思うの。人の器は痛みによって大きくなる。だから優しいんだよね。私が言うと、言い訳みたいに聞こえちゃうけど」
「ここに来る前なら、その言葉を否定してたと思う。そんな奴いねえよって。でも今は、俺自身がそうなりたいって思ってる。ずっとクズみたいな生き方をしてたから、たまには誰かの役に立ちたい。生きてることに意味を付けられるように」
「できるよ、樹くんなら。私が保証する」
 樹は口角を緩ませた。肯定してもらえたことが嬉しかったから。
 否定され続けた人生の中で、生きるための理由を探すのは難しい。
 でも意識を広げれば、小さな欠片が落ちていることに気付ける。
 ずっとゴミだと思っていたものも、手に取ってみれば美しい花かもしれない。
「照れてるな、樹」
「うるせえ、黙れ」
「あっ、酷い。丹精込めて言った『できるよ、樹くんなら』を返して」
「もう飲み込んだから無理」
「じゃあ吐き出せ」
「やめろ、飯食った後だから別のもの吐くぞ」
「ちょっと汚いからやめて」
「お前が吐かせようとしたんだろ」
「もう少しデリカシーを身に付けた方がいいよ。私のデリカシー少し分けようか?」
「池田のはいらない」
「何それ、めっちゃ失礼」
「やっぱり、そっちの方がいいよ」
「そっちって?」
「肩肘張らないで生きてる方が」
「もしかして口説いてる?」
「なんでだよ」
「急に褒めたから」
「お前を口説くくらいなら、カブトムシ口説いた方が有意義だよ」
「今のはムカつく。三回回ってから私に謝って」
「回る意味ねえだろ」
 星たちが照らす夜の底で、二人の笑い声が響いた。
 蘭はソファで絵本を読んでいた。
 母が唯一買ってくれた宝物であり、何百回と頭の中に注ぎ込んだ物語だ。
 捨てられた猫の話は自分と重なる部分があり、本を読んでいる間は孤独が紛れ、心に付いた傷も少しは癒えた。
 だがラストシーンだけは嫌いだった。
 自分では物語の結末を変えることができないため、最後のページを破ってピリオドをゴミ箱に捨てた。
 一人の夜に縋れるものは絵本しかないし、なにより物語を嫌いになりたくない。
 好きなままで終われるなら、ずっと孤独の支えになってくれる。
 友達のいない蘭にとって、本の中のキャラクターたちが唯一の救いだった。
「蘭ちゃん、その絵本好きだね」
 蘭を挟むようにして、葉山と蓮見がソファに腰を下ろした。
「私もこの本読んでた。確か、捨てられた猫のお話だよね?」
 蘭はいつものようにニコッと笑顔を零す。
「僕はあんまり絵本とか読んでこなかったから、幼い頃の思い出があるのって羨ましい」
「私は絵本ばかり読んでた。子供の頃から他人と関わることが苦手で、一人でいることが多かったの。でも物語の中に入れば、一人じゃないような気がした。ただ楽しいから読んでる子もいると思うけど、私は自分が救われるために読んでた。だから絵本を見ると、寂しさと楽しさの両方が思い出される」
――私も一緒
 蘭は心でそう言うと、もう一度蓮見に笑顔を向けた。
 同じ想いを持っている人がいて、嬉しかったから。
「蘭ちゃんもそう?」
 蘭は笑顔に感情を染み込ませ、気持ちを伝えた。
 嬉しいという想いなら、嫌われることはない。
「これって子供向けなの? っていう絵本がたまにあるけど、作者の幼い頃の思い出が影響してたりするのかもね。何かに寄り添うような物語は」
「私はそういう本が好きだったかな。ストーリーを楽しむための物語より、メッセージがあるような絵本ばかり選んでた。まだ幼いから意味とかは分からなかったけど、なんか救われるような気がしたんだよね。内容は暗いし、主人公が最後に死んじゃったりするんだけどさ、どこかに希望のようなものがあった。今思うと、私のような子供に寄り添って書いてくれてたのかも」
 蓮見は蘭が持っている絵本に目を向けた。
「この物語も、最後に猫が……」
 蘭は笑顔を浮かべながら、蓮見を凝視する。
「ん? 私の顔に何か付いてる?」
 蘭は何も言わずに、ただ笑顔を蓮見に向ける。
「ねえ、顔に何か付いてる?」
「ううん、何も付いてないよ」
 蓮見は怪訝な顔で戸惑っていた。
 蘭の笑顔の裏には、「それ以上は言わないで」というメッセージが託されていた。
 破り捨てたページを拾われたくない。
 “好き”で終わっている宝物を嫌いになりたくない。
 言葉では伝えられないため、蘭なりの表現で蓮見の言葉を奪った。
「あっ」
 葉山が窓の方に目を向けると声を上げた。
 ウッドデッキには猫がおり、リビングを覗くようにしてこちらを見ている。
 シルバーの毛に黒の縞模様があり、いわゆるサバトラと言われる猫だ。
 葉山はキッチンから缶詰を持ってくると、窓を開けて猫の前に餌を置く。
 蘭と蓮見も猫を囲むように腰を下ろし、三人で野良猫の食事を見守った。
「最近よく来るね、この猫」
「樹くんが餌を上げてから来るようになった」
「あー、だから根本くんに懐いてるんだ」
「あと、どこか似ているって感じたのかも」
「確かに野良っぽい」
 蘭も二人と同様、樹に野良っぽさを感じていた。
 ここに来る人はみんな孤独感を纏っているが、樹はまた違う種類のぼっちに見えた。
 まるで絵本に出てくる“嫌われた猫”のような。
「樹くんて、ここに来たときは『誰とも関わらないぞ』って感じだったんだ。でも孤独には見えなかった。それがひとりぼっちの人からすると、希望にも見えると思うんだよね。一人でいることが悪いわけじゃないって思えるから。近寄りがたさはあったけど、話しやすかった。学生時代に会ってたら憧れてたかも」
「孤独ってさ、色んな種類のものがあるんだよね。誰にも縋れないとき、周りから浮いてるとき、劣等感を感じてるとき。私はいくつかの孤独を辿ってきたけど、それぞれで違う苦しさがあった。共通しているのは“私が私でいられなくなる”ってこと。自分らしさを否定されると、自分らしさすら分からなくなる。だから迷うんだよね。どこに足を踏み出せばいいかで。結果、道なき道を歩き出して崖にぶつかる。これが絶望の正体なんだと思う」
「そんなときに、何かに縋りたくなるのかな。認められたい、愛されたい、理解してもらいたい。生きるって一人だけでは補えないことが多いから、誰かの手を握りたくなる。自分のことを好きになってもらいたいのは、安心したいのかもね」
 二人の会話に、蘭は耳を傾けていた。
 半分以上は理解できていないが、ひとりぼっちの話をしているのは分かった。
 まだ生きるという意味を知らない少女は、無意識に言葉の中からヒントを見つけようとしている。
 何かを拾おうと、自分を好きになってもらえるようにと。
「おかえり」
 葉山がドアの方に向かって声をかけた。
 樹と莉亜がコンビニから帰ってきたようだ。
「ただいま……あっ、樹くんの友達が来てるよ」
「友達じゃねえよ」
 樹と莉亜も、猫の側まできて腰を下ろす。
「猫って可愛いよね。見てるだけで癒される」
 莉亜は猫の背中を優しく撫でた。猫は触れられてることも気にせず、缶の中の餌を食べている。
「樹くんに会いに来たんじゃない? 寂しがってると思って」
「なんで俺が気を遣われてんだよ。餌を食いに来ただけだろ」
「それアイス?」
 葉山は樹が持っているコンビニの袋を、視線で指した。
「うん。箱で買ってきたから、全員分あるよ」
「よし、みんなで食べよう」
 莉亜が言うと、樹は箱を開けてチョコを纏ったアイスの棒を配り始めた。
「はい」
 樹にアイスを差し出されたが、蘭は受け取らずに立ち上がる。
 そしてソファへと向かい、クッションで顔を隠した。
「どうしたの、蘭ちゃん?」
 莉亜の声が聞こえたが、蘭はクッションを手放さない。
「アイス嫌いなのかな?」
「この間は美味しそうに食べてたよ」
「じゃあ、根本くんが怖いからじゃない」
「それはあるかも」
「おい」
 違う。怖いからじゃない。
 今まで嫌われないように生きてきた蘭は、好きになってもらう方法を知らない。
 どんな反応をしていいのか困惑し、思わず顔を隠した。
 もしかしたら笑顔以外の感情が出てしまうかも、という懸念もある。
 未知の想いは蘭を迷わせていた。
 笑顔以外に必要なものは何かと。
「どうした?」
 樹はそう言いながら、蘭の顔を覆っていたクッションを取り上げた。
 急に目の前に現れた樹を見て、蘭は一瞬固まる。
 数秒の沈黙を置いた後、クッションを取り返そうと手を伸ばすが、樹が高く上げたため届かない。
 蘭は表情を動かさないようにしながら、背中を向けてソファに顔を埋めた。
 これなら自分の顔を見られることはない。
「いらないなら、俺が食うぞ」
 蘭は顔を埋めたまま、首を大きく振る。
「じゃあこっち向いて」
 そう言われたが、どうしていいか分からない。
 困っていると、莉亜の声が聞こえてきた。
「あっ、樹くんが蘭ちゃんのアイス食べた」 
 振り返ると、アイスはまだ袋に入っていた。莉亜が嘘を付いたということにタイムラグで気付く。
 蘭は莉亜を睨んだ後、ソファから立ち上がって駆け足でリビングを出た。
「ごめん、蘭ちゃん」
 莉亜の謝罪を背中で受け止め、二階へと上がる。
 『嫌われないように』と『好きになってほしい』
 一緒のように感じるが実際には違う。
 言い換えれば、マイナスにならないようにから、プラスにしていくということだ。
 今までは笑顔という境界線を引いて自分のテリトリーを守ってきたが、好きになってもらうためには、こちらから踏み込まなければならない。
 もしくは踏み込んできてもらい、自分を晒さなければいけない。
 蘭はまだ幼いため、そこまでは考えていないが、違いがあることには薄らと気付いている。
 だからこそ、どんな顔をすればいいのかが分からない。
 分からないから見せられないし、見せられないから逃げることしかできない。
 大人でも通る道のりを、まだ幼い少女も通っていた。
 経験の無さから、自分が何に悩んでいるのかさえもまだ曖昧だが、少しずつ感情に変化はあった。
 閉じ込めていたものが、知らないうちに表情へと滲み始めている。
 蘭はまだ、そのことに気付いていなかった。