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四十三話 汚れた白

ー/ー



 家に着いた後、蘭はノートの部屋に来た。
 棚から一冊のノートを取り、ページを捲る。
 小さな指で一枚一枚紙を弾いていくと、涙を流している悲しい顔が目に入った。
 ここに来てすぐに描いた本心を表す絵。
 感情を縛りつけた少女は、心の叫びを鉛筆の芯に滲ませた。
 母である奈々が男を家に連れて来たのは、蘭が三歳の頃だ。
 当時は保育園に預けられており、事務の仕事をしていた奈々はいつも十八時過ぎに迎えに来ていた。

「子供が可哀想なので、もっと早く迎えに来れませんか?」

 保育士の言葉に、奈々は何度も頭を下げて謝っていた。
 その顔には疲弊が見られ、幼いながらも蘭は母を心配していた。
 ある日、保育園から帰って来ると、体の大きな男が部屋でテレビを見ていた。
 奈々には「パパになるかもしれない人」と説明されたが、まだ自我が芽生えたばかりの子供には、この人がどんな存在なのかも分からなかった。
 奈々は以前よりも明るい顔が増えていき、男といるときは楽しそうにしている。
 自分との時間が減ってはいったが、それでも母の嬉々とする顔を見れたのは嬉しかった。
 だが半年ほど経つと、蘭に対して冷たい態度を取るようになる。
 保育園から帰って来ると奈々はすぐに外へと出かけいった。
 帰ってくるのは明け方で、崩れたメイクと髪型が印象に残っていた。
 夜は奈々が置いていったレトルト料理を一人で食べ、寝る前は絵本を読んだ。
 母が唯一買ってくれたもので、嫌われた猫の話だった。

「お願いだから別れるなんて言わないで。浮気を責めたわけではないの」 

 ある日、畳の上で泣きながら男に懇願する母を、蘭は襖に隠れながら見ていた。
 なぜ涙を流しているかも分からなかったが、母が悲しんでいることだけは分かった。

「子持ちの女の相手してやってるんだから、浮気ぐらいでガタガタ言ってんじゃねえよ。お前みたいな奴を拾ってくれる男が他にいるか?」

「だから浮気を責めたわけじゃない。ただ、私との時間も大事にしてほしいの。お願いだから嫌いにならないで。ここに住んでもいいから」

 男はため息を吐き、気怠そうな顔を浮かべると蘭に視線を向けてきた。
 咄嗟に身を隠すが、「おい、ガキ」と男が荒々しい口調で呼んでくる。
 蘭は恐る恐る襖から身を出し、顔を俯かせて立ち竦む。

「こっち来い」

 そう言われ、小さな歩幅で進んでいくと「早く来い!」と怒声を上げて鞭を打たれる。
 小走りで向かうと、男は蘭の視線に合わせて顔を近づけてきた。

「今日から俺がお前の主だ。うるさくしたり、泣き叫んだりしたらお前を殴る」

 男は固めた拳を見せつけるようにして、蘭の前に出してきた。

「返事は?」

 蘭は恐怖のあまり言葉を失い、声を出すことができなかった。
 すると、男は平手で蘭を叩いた。
 何をされたのか分からなかったし、頬に帯びた熱の意味も理解できなかった。
 勝手に湧き出る名前も知らない感情が涙腺へと上ってくると、小さな雨粒が頬を濡らす。

「泣くんじゃねえ」

 再度左頬に衝撃が走る。
 奈々は呆然とした顔で蘭を見ているが、何もしなかった。
 というより何もできなかった、という方がしっくり来る表情だ。
 男は蘭の頬を掴み、刃物のような鋭い目を蘭の瞳に刺した。

「いいか、俺の前では絶対に泣くな。次はこの程度じゃ済まないからな」

 男は蘭の頬を離すと、家を出ていった。
 “これだからガキは嫌いなんだよ”と、汚れた種を吐き捨てて。
 心にのしかかるような重い空気の中、蘭は奈々に目を向ける。
 だが視線は結ばれず、母は虚ろな瞳で畳のシミを眺めていた。
 その後、男はアパートに住み始め、現実と地獄の境目すらも分からない日々が訪れた。
 初めは泣いたときに殴られていたが、不安な顔をするだけでも男は手を上げてきたため、次第に感情を隠すようになった。
 手の震えや目の動きなど、感情が出ているであろう体の部分も全て無にする。
 感情を見せるから嫌われるし、嫌われるから殴られる。
 幼い子供なりに自分が殴られる理由を考え、そう行き着いた。
 最小限の痛みで収められるように。
 暫く経つと保育園にも連れてもらえなくなり、ずっと家で過ごすようになった。
 男は働きもせずにギャンブルに明け暮れており、家は奈々が一人で支えていたため、常に死人のように生気がなかった。
 奈々が薬物に手を出すようになったのはこの頃からだ。
 初めは男の誘いにも乗らなかったが、疲弊が重なっていくと、誘惑に負けたように注射器に手を伸ばした。
 母としての自覚はあったのかもしれないが、限界が来ていたのだろう。
 蘭の前でも打つようになり、もう母の面影はなくなっていた。
 かまってもらえないし、守ってももらえない。
 死んだ目をした母はいつも冷たく蘭をあしらい、男のことを優先させる。

「お前みたいな奴は生まれてきちゃダメなんだよ。なんの役にも立たないゴミなんだから。お前は誰からも愛されることはない」

 男が蘭にそう言ったときも、奈々は無関心だった。
 この世界に一人しかいない娘が蔑まれようが、ゴミのように雑に扱われようが、奈々にとっては関係のないこと。

 自分はゴミなんだ。
 自分はいらない存在なんだ。
 自分は誰からも好きになってもらえないんだ。

――でも嫌いにならないで

 本心も言えないまま、感情を心の奥底へと仕舞った。
 あるとき、部屋にあった注射器と空パケが目に入った。
 母と男は眠っており、剥き出しのまま置かれている。
 蘭はその二つを隠そうと、キッチンにあった四角いクッキー缶を手に取る。
 奈々がいつも押入れに隠していたのを知っていた。
 見られてはいけないものだと思い、蘭は隠そうとした。
 もしかしたら褒めてもらえるかもしれない。
 優しく頭を撫でてくれるかもしれない。
 そんな無垢な想いで、注射器と白い粉が付いた空パケを缶の中に入れた。

「おい! 何してんだガキ」

 視線を声の方に向けると、男が青筋を立てながら蘭を睨め付けていた。

「どうしたの?」

 奈々は目を擦りながら、ゆっくりと上体を起こす。

「こいつ俺たちを警察に売る気だ」

 男は缶の中を指しながら怒声を上げた。
 蘭は何も言わずに表情を無に変える。
 もはや癖となっていた。自分を守るための防衛手段として感情を隠すことが。
 だが今回は、それが仇となる。
 いつも以上に重い衝撃が左目付近に走った。
 男の手はいつもと違い、力強く握られている。

「ちょっと、拳では殴らないでって言ったでしょ。顔に傷が残るかもしれないじゃない」

「こいつはサツに垂れ込もうとしてる。俺らを刑務所にぶち込む気だ」

「そんなことするわけないでしょ。まだ四歳なのよ」

「おい」

 男は蘭の頬を掴み、血走った目を近づけてきた。

「警察に言おうとしただろ? 俺を売る気だろ? なあ、なんとか言えよ」

 蘭は無表情のまま、微動だにしなかった。
 感情を見せれば嫌われる。
 嫌われたら殴られる。
 痛みを最小限にするために頭の中も真っ白にした。
 全部を無にしなければ、きっともっと嫌われるから。
 男は蘭の頬を離すと、もう一度拳を握りしめた。

「死にたいらしいな」

「やめて。蘭は警察に言おうとしてない」

「うるせえ」

 男は奈々を突き飛ばし、蘭を見下ろした。

「最後のチャンスだ。本当のことを言え」

 蘭は完全な瞑想状態に近かった。
 頭の中に何も入らないように思考をシャットダウンさせ、耳に入った言葉がそのまま抜けていくような感覚だ。

「おい聞いてんのか?」

「……」

「聞こえてるか、聞いてんだよ」

「……」

「クソガキぶっ殺すぞ!」

 男は怒声を響かせ、拳を振り上げる。
 瞬間、玄関の扉が力強く叩かれた。

「奈々、開けろ!」

 男性の声が部屋にこだますると、男の拳が顔の前で止まった。

「お前の知り合いか?」

 奈々は首を振りながら「分からない」と答える。

「絶対に出るなよ」

「でもあなたの声が聞かれた。出ないと通報されるかもしれない」

 男は舌打ちを鳴らした後、「すぐに追い返せ」と顎でしゃくり、奈々を扉まで向かわせた。
 その後の数分を、蘭はほとんど覚えていない。
 完全な無は、世界と意識を遮断していた。
 覚えているのは、泣いている母を抱きしめていたこと。
 奈々の顔を見て、ニコッと笑顔を零したことだ。
 嫌われたくない想いが、無意識に笑顔を咲かせた。
――私は味方だよ。だから嫌わないでね
 心の奥底に閉じ込めた言葉が、表情に表れたのかもしれない。 

「ごめんね、本当にごめんね」

 奈々は謝りながら、蘭を抱きしめ返した。
 このときに初めて『笑顔を見せれば、嫌われないでいられる』ということを知った。
 笑っていれば孤独にはならない。
 縛り付けていた感情の中から”笑顔“だけを取り出し、世界に結び目を作った。
 たとえ悲しくても涙を流してはいけない。
 嫌われてしまったら、またひとりぼっちになる。
 幼い少女は傷跡から生きるための方法を探し出し、笑顔という花を大事に握りしめた。
 枯れないように。
 嫌われないように。
 
 ♦︎
 
 過去に負った傷を辿った後、蘭はノートに描かれた“涙を流す悲しい顔”を眺めた。
 今もまだ癒えない痛みに、涙を流したくなることもある。
 でも笑顔以外の感情を出せば嫌われてしまう。
 寂しさで零れそうになる悲しみを堪えて、何度一人の夜を超えたのかも分からない。

「絶対に迎えに行くからね」

 母である奈々が最後に残した言葉。
 半年経ったが、まだ蘭を迎えに来ない。
 募る不安は心をざわつかせ、負の思考へと導いてゆく。
 そんな中で樹と出会った。
 樹は自分のことを嫌っていると思っていた。
 蘭が笑顔を向けると、みんな笑顔で返してくれるが彼だけは目を逸らす。

――嫌わないで

 心の声が漏れそうになるが、言葉に出してはいけない。
 笑うという感情以外を見せたら、ひとりぼっちになってしまうのだから。
 この三週間は不安でいっぱいだった。
 竜一、莉亜、葉山は蘭を可愛がってくれる。
 蓮見も初めは素っ気なかったが、今は一緒に遊んでくれるようになった。 
 でも誰か一人でも自分を嫌いだと思っている人間がいると、不安をピンチアウトしていく。
 怖かった。
 殴られるとかではなく、背中を向けられることが。
 それが蘭にかけられた呪いだった。
 でもその呪縛は、樹の言葉で少しだけ解けた。

――たとえゴミと言われて蔑まされようが、自分のために生きようと思ってる。周りの人間がどんなにクソだろうが、俺は俺でいつづける。俺のために

 樹の言ったことをすべて理解しているわけではなかったが、この言葉は心の真ん中に刺さった。
 周りに支配されてきた蘭からすれば、自分のために生きるということを考えたことがない。
 どうやって嫌われないようにするかの一択だった。
 それは血の繋がった母にもだ。
 だが初めて『この人に、自分のことを好きになってほしい』と思った。
 蘭自身もゴミだと言われ、自分はこの世界に必要ないものだと思ってきた。
 だからこそ、嫌いにならないでという想いが強くなっていたのかもしれない。
 樹の言葉は蘭にとって光だった。
 役に立たない、誰からも愛されない。
 屑に手を差し伸べる花のような言の葉。
 贈られた花束は一人の少女の心に飾られ、孤独の中に色を付けた。
 窓際で風に揺られる、美しい花のように。

 『嫌いにならないで』ではなく『好きになってほしい』

 この違いが蘭には分からなかったが、今までとは異なる想いは戸惑いを生んだ。
 海岸で「たまに遊んでもいい」と言われたときに背を向けてしまったのは、どう反応していいのかが分からなくなったからだ。
 許された笑顔すらも向けることができず、名前も知らない感情を抱きながら帰路へと就いた。
 未知の領域で彷徨いながら、蘭はノートに描かれた悲しい顔を眺める。
 そして小さな指で、目から零れる雨を拭った。
 いつか晴れてくれるようにと祈りながら。


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 家に着いた後、蘭はノートの部屋に来た。
 棚から一冊のノートを取り、ページを捲る。
 小さな指で一枚一枚紙を弾いていくと、涙を流している悲しい顔が目に入った。
 ここに来てすぐに描いた本心を表す絵。
 感情を縛りつけた少女は、心の叫びを鉛筆の芯に滲ませた。
 母である奈々が男を家に連れて来たのは、蘭が三歳の頃だ。
 当時は保育園に預けられており、事務の仕事をしていた奈々はいつも十八時過ぎに迎えに来ていた。
「子供が可哀想なので、もっと早く迎えに来れませんか?」
 保育士の言葉に、奈々は何度も頭を下げて謝っていた。
 その顔には疲弊が見られ、幼いながらも蘭は母を心配していた。
 ある日、保育園から帰って来ると、体の大きな男が部屋でテレビを見ていた。
 奈々には「パパになるかもしれない人」と説明されたが、まだ自我が芽生えたばかりの子供には、この人がどんな存在なのかも分からなかった。
 奈々は以前よりも明るい顔が増えていき、男といるときは楽しそうにしている。
 自分との時間が減ってはいったが、それでも母の嬉々とする顔を見れたのは嬉しかった。
 だが半年ほど経つと、蘭に対して冷たい態度を取るようになる。
 保育園から帰って来ると奈々はすぐに外へと出かけいった。
 帰ってくるのは明け方で、崩れたメイクと髪型が印象に残っていた。
 夜は奈々が置いていったレトルト料理を一人で食べ、寝る前は絵本を読んだ。
 母が唯一買ってくれたもので、嫌われた猫の話だった。
「お願いだから別れるなんて言わないで。浮気を責めたわけではないの」 
 ある日、畳の上で泣きながら男に懇願する母を、蘭は襖に隠れながら見ていた。
 なぜ涙を流しているかも分からなかったが、母が悲しんでいることだけは分かった。
「子持ちの女の相手してやってるんだから、浮気ぐらいでガタガタ言ってんじゃねえよ。お前みたいな奴を拾ってくれる男が他にいるか?」
「だから浮気を責めたわけじゃない。ただ、私との時間も大事にしてほしいの。お願いだから嫌いにならないで。ここに住んでもいいから」
 男はため息を吐き、気怠そうな顔を浮かべると蘭に視線を向けてきた。
 咄嗟に身を隠すが、「おい、ガキ」と男が荒々しい口調で呼んでくる。
 蘭は恐る恐る襖から身を出し、顔を俯かせて立ち竦む。
「こっち来い」
 そう言われ、小さな歩幅で進んでいくと「早く来い!」と怒声を上げて鞭を打たれる。
 小走りで向かうと、男は蘭の視線に合わせて顔を近づけてきた。
「今日から俺がお前の主だ。うるさくしたり、泣き叫んだりしたらお前を殴る」
 男は固めた拳を見せつけるようにして、蘭の前に出してきた。
「返事は?」
 蘭は恐怖のあまり言葉を失い、声を出すことができなかった。
 すると、男は平手で蘭を叩いた。
 何をされたのか分からなかったし、頬に帯びた熱の意味も理解できなかった。
 勝手に湧き出る名前も知らない感情が涙腺へと上ってくると、小さな雨粒が頬を濡らす。
「泣くんじゃねえ」
 再度左頬に衝撃が走る。
 奈々は呆然とした顔で蘭を見ているが、何もしなかった。
 というより何もできなかった、という方がしっくり来る表情だ。
 男は蘭の頬を掴み、刃物のような鋭い目を蘭の瞳に刺した。
「いいか、俺の前では絶対に泣くな。次はこの程度じゃ済まないからな」
 男は蘭の頬を離すと、家を出ていった。
 “これだからガキは嫌いなんだよ”と、汚れた種を吐き捨てて。
 心にのしかかるような重い空気の中、蘭は奈々に目を向ける。
 だが視線は結ばれず、母は虚ろな瞳で畳のシミを眺めていた。
 その後、男はアパートに住み始め、現実と地獄の境目すらも分からない日々が訪れた。
 初めは泣いたときに殴られていたが、不安な顔をするだけでも男は手を上げてきたため、次第に感情を隠すようになった。
 手の震えや目の動きなど、感情が出ているであろう体の部分も全て無にする。
 感情を見せるから嫌われるし、嫌われるから殴られる。
 幼い子供なりに自分が殴られる理由を考え、そう行き着いた。
 最小限の痛みで収められるように。
 暫く経つと保育園にも連れてもらえなくなり、ずっと家で過ごすようになった。
 男は働きもせずにギャンブルに明け暮れており、家は奈々が一人で支えていたため、常に死人のように生気がなかった。
 奈々が薬物に手を出すようになったのはこの頃からだ。
 初めは男の誘いにも乗らなかったが、疲弊が重なっていくと、誘惑に負けたように注射器に手を伸ばした。
 母としての自覚はあったのかもしれないが、限界が来ていたのだろう。
 蘭の前でも打つようになり、もう母の面影はなくなっていた。
 かまってもらえないし、守ってももらえない。
 死んだ目をした母はいつも冷たく蘭をあしらい、男のことを優先させる。
「お前みたいな奴は生まれてきちゃダメなんだよ。なんの役にも立たないゴミなんだから。お前は誰からも愛されることはない」
 男が蘭にそう言ったときも、奈々は無関心だった。
 この世界に一人しかいない娘が蔑まれようが、ゴミのように雑に扱われようが、奈々にとっては関係のないこと。
 自分はゴミなんだ。
 自分はいらない存在なんだ。
 自分は誰からも好きになってもらえないんだ。
――でも嫌いにならないで
 本心も言えないまま、感情を心の奥底へと仕舞った。
 あるとき、部屋にあった注射器と空パケが目に入った。
 母と男は眠っており、剥き出しのまま置かれている。
 蘭はその二つを隠そうと、キッチンにあった四角いクッキー缶を手に取る。
 奈々がいつも押入れに隠していたのを知っていた。
 見られてはいけないものだと思い、蘭は隠そうとした。
 もしかしたら褒めてもらえるかもしれない。
 優しく頭を撫でてくれるかもしれない。
 そんな無垢な想いで、注射器と白い粉が付いた空パケを缶の中に入れた。
「おい! 何してんだガキ」
 視線を声の方に向けると、男が青筋を立てながら蘭を睨め付けていた。
「どうしたの?」
 奈々は目を擦りながら、ゆっくりと上体を起こす。
「こいつ俺たちを警察に売る気だ」
 男は缶の中を指しながら怒声を上げた。
 蘭は何も言わずに表情を無に変える。
 もはや癖となっていた。自分を守るための防衛手段として感情を隠すことが。
 だが今回は、それが仇となる。
 いつも以上に重い衝撃が左目付近に走った。
 男の手はいつもと違い、力強く握られている。
「ちょっと、拳では殴らないでって言ったでしょ。顔に傷が残るかもしれないじゃない」
「こいつはサツに垂れ込もうとしてる。俺らを刑務所にぶち込む気だ」
「そんなことするわけないでしょ。まだ四歳なのよ」
「おい」
 男は蘭の頬を掴み、血走った目を近づけてきた。
「警察に言おうとしただろ? 俺を売る気だろ? なあ、なんとか言えよ」
 蘭は無表情のまま、微動だにしなかった。
 感情を見せれば嫌われる。
 嫌われたら殴られる。
 痛みを最小限にするために頭の中も真っ白にした。
 全部を無にしなければ、きっともっと嫌われるから。
 男は蘭の頬を離すと、もう一度拳を握りしめた。
「死にたいらしいな」
「やめて。蘭は警察に言おうとしてない」
「うるせえ」
 男は奈々を突き飛ばし、蘭を見下ろした。
「最後のチャンスだ。本当のことを言え」
 蘭は完全な瞑想状態に近かった。
 頭の中に何も入らないように思考をシャットダウンさせ、耳に入った言葉がそのまま抜けていくような感覚だ。
「おい聞いてんのか?」
「……」
「聞こえてるか、聞いてんだよ」
「……」
「クソガキぶっ殺すぞ!」
 男は怒声を響かせ、拳を振り上げる。
 瞬間、玄関の扉が力強く叩かれた。
「奈々、開けろ!」
 男性の声が部屋にこだますると、男の拳が顔の前で止まった。
「お前の知り合いか?」
 奈々は首を振りながら「分からない」と答える。
「絶対に出るなよ」
「でもあなたの声が聞かれた。出ないと通報されるかもしれない」
 男は舌打ちを鳴らした後、「すぐに追い返せ」と顎でしゃくり、奈々を扉まで向かわせた。
 その後の数分を、蘭はほとんど覚えていない。
 完全な無は、世界と意識を遮断していた。
 覚えているのは、泣いている母を抱きしめていたこと。
 奈々の顔を見て、ニコッと笑顔を零したことだ。
 嫌われたくない想いが、無意識に笑顔を咲かせた。
――私は味方だよ。だから嫌わないでね
 心の奥底に閉じ込めた言葉が、表情に表れたのかもしれない。 
「ごめんね、本当にごめんね」
 奈々は謝りながら、蘭を抱きしめ返した。
 このときに初めて『笑顔を見せれば、嫌われないでいられる』ということを知った。
 笑っていれば孤独にはならない。
 縛り付けていた感情の中から”笑顔“だけを取り出し、世界に結び目を作った。
 たとえ悲しくても涙を流してはいけない。
 嫌われてしまったら、またひとりぼっちになる。
 幼い少女は傷跡から生きるための方法を探し出し、笑顔という花を大事に握りしめた。
 枯れないように。
 嫌われないように。
 ♦︎
 過去に負った傷を辿った後、蘭はノートに描かれた“涙を流す悲しい顔”を眺めた。
 今もまだ癒えない痛みに、涙を流したくなることもある。
 でも笑顔以外の感情を出せば嫌われてしまう。
 寂しさで零れそうになる悲しみを堪えて、何度一人の夜を超えたのかも分からない。
「絶対に迎えに行くからね」
 母である奈々が最後に残した言葉。
 半年経ったが、まだ蘭を迎えに来ない。
 募る不安は心をざわつかせ、負の思考へと導いてゆく。
 そんな中で樹と出会った。
 樹は自分のことを嫌っていると思っていた。
 蘭が笑顔を向けると、みんな笑顔で返してくれるが彼だけは目を逸らす。
――嫌わないで
 心の声が漏れそうになるが、言葉に出してはいけない。
 笑うという感情以外を見せたら、ひとりぼっちになってしまうのだから。
 この三週間は不安でいっぱいだった。
 竜一、莉亜、葉山は蘭を可愛がってくれる。
 蓮見も初めは素っ気なかったが、今は一緒に遊んでくれるようになった。 
 でも誰か一人でも自分を嫌いだと思っている人間がいると、不安をピンチアウトしていく。
 怖かった。
 殴られるとかではなく、背中を向けられることが。
 それが蘭にかけられた呪いだった。
 でもその呪縛は、樹の言葉で少しだけ解けた。
――たとえゴミと言われて蔑まされようが、自分のために生きようと思ってる。周りの人間がどんなにクソだろうが、俺は俺でいつづける。俺のために
 樹の言ったことをすべて理解しているわけではなかったが、この言葉は心の真ん中に刺さった。
 周りに支配されてきた蘭からすれば、自分のために生きるということを考えたことがない。
 どうやって嫌われないようにするかの一択だった。
 それは血の繋がった母にもだ。
 だが初めて『この人に、自分のことを好きになってほしい』と思った。
 蘭自身もゴミだと言われ、自分はこの世界に必要ないものだと思ってきた。
 だからこそ、嫌いにならないでという想いが強くなっていたのかもしれない。
 樹の言葉は蘭にとって光だった。
 役に立たない、誰からも愛されない。
 屑に手を差し伸べる花のような言の葉。
 贈られた花束は一人の少女の心に飾られ、孤独の中に色を付けた。
 窓際で風に揺られる、美しい花のように。
 『嫌いにならないで』ではなく『好きになってほしい』
 この違いが蘭には分からなかったが、今までとは異なる想いは戸惑いを生んだ。
 海岸で「たまに遊んでもいい」と言われたときに背を向けてしまったのは、どう反応していいのかが分からなくなったからだ。
 許された笑顔すらも向けることができず、名前も知らない感情を抱きながら帰路へと就いた。
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 そして小さな指で、目から零れる雨を拭った。
 いつか晴れてくれるようにと祈りながら。