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四十二話 ゴミとゴミ

ー/ー



 樹はノートの部屋に来ると、棚の中に並んだノートから一冊を手に取った。
 蘭の話を聞いて、あることを思い出した。
 そのときは何も感じなかったが、今は違う。
 親指をスライドさせながら、一枚一枚の傷跡を弾くように捲っていくと、探していたものが樹の目に入ってきた。
 蘭が描いたであろう、絵文字のような簡素化した顔。
 その目からは涙が零れ、何かを訴えるように悲しげにこちらを見ている。
 笑うことしかできない蘭からしたら、この絵は本心なのかもしれない。
 今もまだ傷跡に苦しみながら、心を笑顔で隠して世界に迎合する。
 そういう意味では大人と変わらない。
 周りに合わせるように自分を殺し、何者かを演じながら社会に溶け込んでゆく。
 子供だからと偏見を持っていた。
 まだ汚れを知らない無垢な瞳だと、希望しか持っていない無知な人間だと。
 樹は自分の愚かさと視野の狭さに嫌悪した。
 自分よりも大きな傷を抱えているのにも関わらず、自分の方が苦しい人生を送っていると思い込んでいたことに。
 もし竜一の言うことが正しかったら、蘭は何を望んでいるのだろうか。

 自分を認めてほしい。
 愛してほしい。
 友達が欲しい。
 居場所が欲しい。
 安心したい。

 大人が求めるものならいくつか思いつくが、子供は違うのだろうか?
 それとも、なんら変わりはないのだろうか?
 そもそも何も求めていないのかもしれない。
 ただ生きることだけを考え、懸命に命を灯し続けてるだけかもしれない。
 正直分からない。
 人は理解できないものとぶつかると、背を向けたくなる。
 余計な苦しみから逃げたいからだ。
 でも今は向き合いたい。
 蘭のためというより、自分のためだ。
 今の樹では、葉山のように誰かを一番上に置くことはできなかった。
 自分という存在がいなければ、他人のことで苦しむことはできなかった。
 でもそれでいいのかもしれない。
 始まりは自分でも、歩いている最中には変わっているかもしれないから。
 入り口で彷徨(うろつ)いているだけでは、進むことすらできない。
 自分を変えたいという原動力があるから、背を向けないようにと考え続けられる。
 話し合うことはできないし、自分の言葉も理解されないかもしれない。
 だけど逃げずに向き合おう、と樹は思った。
 自分のために。


 リビングに降りると、ソファに蘭と莉亜の姿が見えた。
 絵本を読んでもらっており、優しい声が耳に入ってくる。

「なあ」

 声をかけると、蘭と莉亜が樹に視線を送った。

「どうしたの?」

「ちょっと、借りていい?」

 蘭に目をやると、幼い顔に笑顔が灯った。
 本来なら可愛いと感じる表情なのだろうが、バックボーンが悲しみを誘う。
 莉亜も同じように感じているのか、蘭を見る目がどこか寂しそうだ。

「私も行く?」

「大丈夫」

「蘭ちゃん、樹くんとお出かけしよっか」

 少女は頷くと、再度笑顔を見せた。
 どんな想いで笑っているのかは分からないが、今の笑顔は傷跡そのものだ。
 白紙にしか居場所がないなら、周りの人間が作ってあげなければならない。
 悲しみを描けるような世界を。
 樹と蘭は海沿いの道を辿り、海岸へと来た。
 平日ということもあり観光客は少なく、耳元で囁くような波音が心を撫でた。
 この日は秋の訪れを感じるような涼しさで、威勢を張っていた夏もようやく眠りについたようだ。
 蘭は砂で山を作り、樹は隣に腰を下ろして見守るように眺めていた。
 どんな言葉をかけたらいいのかを考えたが、竜一のように何かを変えるようなことは言えない。
 少し背伸びをして大人ぶる言葉を模索したが、きっとそれでは届かないような気がした。
 子供が相手だからではなく、自分の言葉じゃなくなるから。

「なあ」

 蘭は手を止めて、樹に視線を送る。
 表情はいつものように笑っていた。

「お前もいつか外に出て、色んな人間を見ることになると思う。世界には良い人もいれば悪い人もいて、正直区別すら付かなくなることもある。そうなるとさ、みんなが嫌な奴に見えるんだよ。どいつもこいつも自分のことしか考えてないとか、否定しなくてもいいのに誰かを否定したりとか。全員がそんな人間じゃないし、手を差し伸べようとしてくれる人だっているのに、それすら疑ってしまう。そうやって人は腐っていくけど、自分では気付けないんだよ。世の中が悪いって思ってるから。途中で気付けるときもあるんだけど、悪い人間に捕まると、またその繰り返し。普通に生きたいのにさ、ただ真面目に何かを追いかけたいだけなのにさ、そんなことすら、ものすごく難しいことに感じるんだ」

 樹は自分の人生を振り返りながら、思うがままに話した。
 一つの感情しか見せられない少女に、自分の言葉で伝えるため。

「俺は色んな人間に嫌われてきた。きっとこれからも誰かに嫌われる。でもさ、自分のことだけは嫌いになりたくないんだよ。周りから馬鹿にされようが、価値がないと言われようが、俺が俺のことをどう思えるかが大事なんだと思う。つっても、何度も自分のことを嫌いになったし、今も好きになれてないけど」

 蘭は真剣な眼差しで話を聞いていた。
 意味を理解しているかまでは分からないが、言葉は届いているようにも思える。

「世間からしたら、俺みたいな奴は生きてる価値なんてないんだよ。何かを生み出してるわけでもないし、誰かの役に立ってるわけでもない。いてもいなくてもいい存在。むしろいらない方だな。だけど、こんな役立たずの人間でも何者かにはなれると思うんだ。ずっとクズみたいな生き方をしてきたけど、もう諦めたくない。たとえゴミと言われて蔑まされようが、自分のために生きようと思ってる。周りの人間がどんなにクソだろうが、俺は俺でいつづける。俺のために」

 樹は自分の本心を曝け出した。
 子供とか大人とか関係なく、対等な人間として話す。
 それが今の樹にできることだった。
 これで他の感情が出てくるとも思わなかったし、喋るようになるとも思っていない。
 まずは自分が、どういう人間かを知ってもらおうと考えた。
 理解できない部分もあるだろうが、それでも自分の言葉で伝えたかった。
 これが何かの始まりなってくれたらという想いを込めて。

「それとさ、無理して笑わなくてもいいよ。泣きたいときは泣けばいいし、怒りたいときは怒っていい。感情を出すから嫌われるんじゃなくて、その感情で他人を振り回すから嫌われる。意味もなく怒る。自分が悪いのに泣いて誤魔化す。人のことを馬鹿にして笑う。感情が悪いわけではなく、感情の使い方が下手だから傷をつけるんだ。お前が思ってるより、人はそんな簡単に人のことを嫌いにはならない」

 蘭は不安気な顔を浮かべて樹を見た。今まで見せなかった表情だ。

「俺に嫌われてると思ってる?」

 蘭は何も言わずに俯いた。それは当然の反応だ。
 子供が苦手な樹は、蘭を避けるように過ごしてきた。
 自分が不安を煽っていたことを、今になって知る。

「正直に話すと、子供が苦手だったんだよ。だからどう接していいか分からなかった。不安にさせたのは悪い。でも嫌いなわけじゃない」

 蘭は顔を上げて樹を見てきた。
 真っ直ぐで無垢な瞳は「本当に?」と問いかけてきているようだった。

「本当に嫌いじゃない。だから……たまには遊んでもいい」

 そう言うと、蘭は立ち上がって走り出した。

「おい」

 急な展開に戸惑いながら、蘭を追いかける。

「どうした?」

 海岸を出て歩道に入ったところで捕まえることができた。
 顔を覗き込もうとするが、背を向けられる。
 何か傷つけることを言ってしまったのだろうか?
 でもどの言葉なのかすらも分からない。
 もしかしたら、「たまに」というのが悪かったのか。
 照れ隠しで言った言葉が、別の受け取り方をされた可能性もある。
 ”たまに“だから、あまり好きではない。
 子供ならそう考えてもおかしくはなかった。
 樹は自分の言葉を反省しながら、足早に歩いていく蘭の背中を眺めていた。


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 樹はノートの部屋に来ると、棚の中に並んだノートから一冊を手に取った。
 蘭の話を聞いて、あることを思い出した。
 そのときは何も感じなかったが、今は違う。
 親指をスライドさせながら、一枚一枚の傷跡を弾くように捲っていくと、探していたものが樹の目に入ってきた。
 蘭が描いたであろう、絵文字のような簡素化した顔。
 その目からは涙が零れ、何かを訴えるように悲しげにこちらを見ている。
 笑うことしかできない蘭からしたら、この絵は本心なのかもしれない。
 今もまだ傷跡に苦しみながら、心を笑顔で隠して世界に迎合する。
 そういう意味では大人と変わらない。
 周りに合わせるように自分を殺し、何者かを演じながら社会に溶け込んでゆく。
 子供だからと偏見を持っていた。
 まだ汚れを知らない無垢な瞳だと、希望しか持っていない無知な人間だと。
 樹は自分の愚かさと視野の狭さに嫌悪した。
 自分よりも大きな傷を抱えているのにも関わらず、自分の方が苦しい人生を送っていると思い込んでいたことに。
 もし竜一の言うことが正しかったら、蘭は何を望んでいるのだろうか。
 自分を認めてほしい。
 愛してほしい。
 友達が欲しい。
 居場所が欲しい。
 安心したい。
 大人が求めるものならいくつか思いつくが、子供は違うのだろうか?
 それとも、なんら変わりはないのだろうか?
 そもそも何も求めていないのかもしれない。
 ただ生きることだけを考え、懸命に命を灯し続けてるだけかもしれない。
 正直分からない。
 人は理解できないものとぶつかると、背を向けたくなる。
 余計な苦しみから逃げたいからだ。
 でも今は向き合いたい。
 蘭のためというより、自分のためだ。
 今の樹では、葉山のように誰かを一番上に置くことはできなかった。
 自分という存在がいなければ、他人のことで苦しむことはできなかった。
 でもそれでいいのかもしれない。
 始まりは自分でも、歩いている最中には変わっているかもしれないから。
 入り口で|彷徨《うろつ》いているだけでは、進むことすらできない。
 自分を変えたいという原動力があるから、背を向けないようにと考え続けられる。
 話し合うことはできないし、自分の言葉も理解されないかもしれない。
 だけど逃げずに向き合おう、と樹は思った。
 自分のために。
 リビングに降りると、ソファに蘭と莉亜の姿が見えた。
 絵本を読んでもらっており、優しい声が耳に入ってくる。
「なあ」
 声をかけると、蘭と莉亜が樹に視線を送った。
「どうしたの?」
「ちょっと、借りていい?」
 蘭に目をやると、幼い顔に笑顔が灯った。
 本来なら可愛いと感じる表情なのだろうが、バックボーンが悲しみを誘う。
 莉亜も同じように感じているのか、蘭を見る目がどこか寂しそうだ。
「私も行く?」
「大丈夫」
「蘭ちゃん、樹くんとお出かけしよっか」
 少女は頷くと、再度笑顔を見せた。
 どんな想いで笑っているのかは分からないが、今の笑顔は傷跡そのものだ。
 白紙にしか居場所がないなら、周りの人間が作ってあげなければならない。
 悲しみを描けるような世界を。
 樹と蘭は海沿いの道を辿り、海岸へと来た。
 平日ということもあり観光客は少なく、耳元で囁くような波音が心を撫でた。
 この日は秋の訪れを感じるような涼しさで、威勢を張っていた夏もようやく眠りについたようだ。
 蘭は砂で山を作り、樹は隣に腰を下ろして見守るように眺めていた。
 どんな言葉をかけたらいいのかを考えたが、竜一のように何かを変えるようなことは言えない。
 少し背伸びをして大人ぶる言葉を模索したが、きっとそれでは届かないような気がした。
 子供が相手だからではなく、自分の言葉じゃなくなるから。
「なあ」
 蘭は手を止めて、樹に視線を送る。
 表情はいつものように笑っていた。
「お前もいつか外に出て、色んな人間を見ることになると思う。世界には良い人もいれば悪い人もいて、正直区別すら付かなくなることもある。そうなるとさ、みんなが嫌な奴に見えるんだよ。どいつもこいつも自分のことしか考えてないとか、否定しなくてもいいのに誰かを否定したりとか。全員がそんな人間じゃないし、手を差し伸べようとしてくれる人だっているのに、それすら疑ってしまう。そうやって人は腐っていくけど、自分では気付けないんだよ。世の中が悪いって思ってるから。途中で気付けるときもあるんだけど、悪い人間に捕まると、またその繰り返し。普通に生きたいのにさ、ただ真面目に何かを追いかけたいだけなのにさ、そんなことすら、ものすごく難しいことに感じるんだ」
 樹は自分の人生を振り返りながら、思うがままに話した。
 一つの感情しか見せられない少女に、自分の言葉で伝えるため。
「俺は色んな人間に嫌われてきた。きっとこれからも誰かに嫌われる。でもさ、自分のことだけは嫌いになりたくないんだよ。周りから馬鹿にされようが、価値がないと言われようが、俺が俺のことをどう思えるかが大事なんだと思う。つっても、何度も自分のことを嫌いになったし、今も好きになれてないけど」
 蘭は真剣な眼差しで話を聞いていた。
 意味を理解しているかまでは分からないが、言葉は届いているようにも思える。
「世間からしたら、俺みたいな奴は生きてる価値なんてないんだよ。何かを生み出してるわけでもないし、誰かの役に立ってるわけでもない。いてもいなくてもいい存在。むしろいらない方だな。だけど、こんな役立たずの人間でも何者かにはなれると思うんだ。ずっとクズみたいな生き方をしてきたけど、もう諦めたくない。たとえゴミと言われて蔑まされようが、自分のために生きようと思ってる。周りの人間がどんなにクソだろうが、俺は俺でいつづける。俺のために」
 樹は自分の本心を曝け出した。
 子供とか大人とか関係なく、対等な人間として話す。
 それが今の樹にできることだった。
 これで他の感情が出てくるとも思わなかったし、喋るようになるとも思っていない。
 まずは自分が、どういう人間かを知ってもらおうと考えた。
 理解できない部分もあるだろうが、それでも自分の言葉で伝えたかった。
 これが何かの始まりなってくれたらという想いを込めて。
「それとさ、無理して笑わなくてもいいよ。泣きたいときは泣けばいいし、怒りたいときは怒っていい。感情を出すから嫌われるんじゃなくて、その感情で他人を振り回すから嫌われる。意味もなく怒る。自分が悪いのに泣いて誤魔化す。人のことを馬鹿にして笑う。感情が悪いわけではなく、感情の使い方が下手だから傷をつけるんだ。お前が思ってるより、人はそんな簡単に人のことを嫌いにはならない」
 蘭は不安気な顔を浮かべて樹を見た。今まで見せなかった表情だ。
「俺に嫌われてると思ってる?」
 蘭は何も言わずに俯いた。それは当然の反応だ。
 子供が苦手な樹は、蘭を避けるように過ごしてきた。
 自分が不安を煽っていたことを、今になって知る。
「正直に話すと、子供が苦手だったんだよ。だからどう接していいか分からなかった。不安にさせたのは悪い。でも嫌いなわけじゃない」
 蘭は顔を上げて樹を見てきた。
 真っ直ぐで無垢な瞳は「本当に?」と問いかけてきているようだった。
「本当に嫌いじゃない。だから……たまには遊んでもいい」
 そう言うと、蘭は立ち上がって走り出した。
「おい」
 急な展開に戸惑いながら、蘭を追いかける。
「どうした?」
 海岸を出て歩道に入ったところで捕まえることができた。
 顔を覗き込もうとするが、背を向けられる。
 何か傷つけることを言ってしまったのだろうか?
 でもどの言葉なのかすらも分からない。
 もしかしたら、「たまに」というのが悪かったのか。
 照れ隠しで言った言葉が、別の受け取り方をされた可能性もある。
 ”たまに“だから、あまり好きではない。
 子供ならそう考えてもおかしくはなかった。
 樹は自分の言葉を反省しながら、足早に歩いていく蘭の背中を眺めていた。