白日の空は青く澄み渡り、平穏を装飾するような心地良い風が肌を撫でた。
降り積もることのない気泡の雪が視界を染め、指先で触れると弾けるように消えてゆく。
庭では蘭がシャボン玉で遊んでいた。
側には葉山と蓮見がおり、虹を纏った球体を一緒になって作り出している。
樹はウッドデッキに座り、三人の姿を眺めていた。
それぞれの表情には笑顔が灯っており、暖かな空気が流れているように感じる。
蓮見がコテージに来てから一週間経ったが、当初と比べると穏やかな顔を見せることが増えたように思う。
過去が他人という存在を呪いに変え、鋭利な言葉で自分を守っていた。
だが葉山という一人のファンが鞘となり、握っていた刀を納めさせた。
今も傷は残っているだろうが、それを糧にして歩こうとしているように見える。
消せない過去に意味を付けるために。
「蓮見さん明るくなったね」
樹の隣に莉亜が腰を下ろした。
当初は莉亜と喧嘩ばかりで顔も合わせたくなかったが、今は心が落ち着くような感覚がある。
お互いの傷を知ったことで、理解を深めたからかもしれない。
「変わったって言うより、自分の居場所を見つけられたって感じだな」
「もしさ、蓮見さんが別のアイドルグループに所属してて、周りもプロ意識が高くて優しい人たちばかりだったら、今も活動を続けて幸せだと感じてたのかな?」
「そうなんじゃない」
樹が言うと、莉亜は葉山たちに視線を送る。
その瞳は悲しさを纏っているように感じた。まるで幻想を見ているように。
「だとしたら、葉山くんは命を絶っていた可能性があるってことだよね? 命を救った言葉は蓮見さんが苦しんでいたからこそ拾えた言葉であって、恵まれた環境では言えなかった思う。そう考えるとさ、人生って残酷だよね。誰かが不幸にならないと、誰かの傷を癒すことができない。生きることが難しいのは、傷を負わないと理解できないことがあるからだと思う。だけど、人を理解するために必要な傷は致命傷になる可能性もある」
莉亜は虚空を眺めていた。
もしかしたら、自分の過去を振り返っているのかもしれない。
「私は傷をつけてしまった側だから偉そうなことは言えないけど、痛みがあったから自分の生き方が間違ってると気付けた。でもその痛みすら気付けなかったら、また誰かを傷つけてしまってたと思うの。なんで学校では人の痛みを教えてくれないんだろうね。そしたら誰も傷つかないかもしれないのに」
莉亜は蓮見の傷口を見て、自分の罪を悔い改めているのかもしれない。
完璧主義という重荷を後輩にも背負わせ、人生というルートから弾いてしまった。
刻まれた十字架は、この先も痛みを与え続けるだろう。
だからこそ傷に意味が必要なのかもしれない。
生きていくうえで処方箋になるから。
「大人になるから理解するわけじゃないし、すべての傷を知ることは難しい。なにより人は、言い訳という盾を持てるから痛みを背負うこともせずに放棄だってできる。自分を楽にすることは大事だけど、楽にしたままで終わるから傷が連鎖する。俺は色んな人間を傷つけてきた。今から善人になろうなんてことは考えてないけど、自分の手が届く範囲の人には優しくしたいと思う。もちろん誰でもってわけじゃないけど、懸命に生きてる人間は報われてほしいから」
樹なりに莉亜を気遣っての言葉だった。
一人じゃないと知れば人は楽になる。
でも楽になるだけでは傷に意味を付けられない。
その先の道を示すことで、歩ける場所を作ろうと思った。
莉亜がどう思っているかまでは分からないが、今の樹ができる最大限が言葉で導くことだった。
「そうだよね。そういう人たちが報われる世界になってほしい」
莉亜は青く染まった空を見上げた。世界の広さを眺めるように。
「樹くんはあと一週間で東京に戻るんだよね?」
「うん」
「頑張ってね。頑張りすぎない程度に」
「もとがあんまり頑張ってなかったから、俺は頑張り過ぎるくらいが丁度いいよ」
「じゃあもっと頑張れ」
「なんだよそれ」
二人の顔に笑みが咲く。日常を照らすような穏やかな花が。
「池田はあんまり頑張り過ぎるなよ。完璧を求めてもキリがないんだから」
「私は楽に生きることにした。大事なときは100点を目指すけど、それ以外は80点ぐらいで生きる。残りの20点は伸び代だと思えば、自分のことを好きになれそうだから。今までは減点方式で生きてきたけど、これからは加点方式で生きてみる。自分だけじゃなくて、人の良いところも見つけられるように」
自分と向き合ったうえで、どう生きるかを決めたのかもしれない。
偏り過ぎた思考は、自分だけでなく他者をも傷つける。
自分の領域に引きずり込み、絶対的なルールを強いて正解を作り出してしまうから。
『生きるとはなにか』という問いの答えは無数にあり、時代や状況、周りの人間によって変わっていく。
人に安息が必要なのは、自分を俯瞰できる時間が生み出せるからだ。
社会という枠の中では固定概念が生まれやすく、気付かぬうちに凝り固まった考えに支配されてしまう。
狭い選択肢の中だけで生きることになれば、人は簡単に絶望に触れることになるだろう。
「良い生き方だと思う」
樹がそう言った後、二人の前に蘭が駆け寄ってきた。
手には吹き具と液体の入った容器を持っている。
蘭はニコッと笑顔を浮かべると、樹に吹き具を差し出してきた。
「俺はいいよ」
そう言うと、蘭は表情を無にして葉山たちのところへと戻っていく。
「たまには遊んであげればいいのに」
「子供は苦手なんだよ」
「あんなに可愛いのに」
「なあ」
「何?」
「なんであの子、喋らないの」
樹がコテージに来てから三週間が経ったが、蘭の声を一度も聞いてない。
初めは気にも留めなかったが、竜一といるときにすら喋らないので不思議に思ってきた。
「理由は分からない」
振り返ると竜一が立っていた。樹の隣に腰を下ろす。
「ここに来てからずっと喋ってないの?」
「ああ。なんでか考えてたけど、ずっと答えが見つからなかったんだ。でも樹が来てから理由が見えてきた」
「俺が来てから?」
樹は自分が来てからのことを振り返ったが、思い当たる節はない。
蘭とはほとんど絡んでいないし、そもそも子供が苦手なので避けていた。
「蘭は虐待されてたんだ」
「そうなんですか?」
莉亜の見開いた目には、信じられないといった驚きが滲んでいた。
樹自身も、竜一の言葉に耳を疑う。
「実はな、蘭の母親もここに来てたんだ。蘭がまだ赤ん坊だった頃だから、あいつは覚えてないと思うけど」
「家族で来たんですか?」
「家族って言っても母子だけだ。男に逃げられたらしくてな、一人では育てられないからってコテージに直接来たんだよ。最初は断ろうと思ったけど、蘭の顔を見たら無理なんて言えなかった。それで一年間だけって条件で受け入れたんだ」
「そのときから虐待されてたの?」
「虐待が始まったのはここを出ていってから。それと、手を出したのは母じゃない。新しくできた男だ」
竜一は蘭の過去を話し始めた。
二人は静かに耳を傾ける。
蘭の母は福岡へと戻り、築四十年のアパートを借りて二人で暮らしていた。
毎年感謝が綴られた手紙をもらっていたが、ある年に手紙が来なくなったため、心配になった竜一は蘭たちが居住する家まで足を運び、様子を伺おうと訪問した。
手紙に書いてあった住所をもとにアパートの部屋の前まで来ると、
「クソガキぶっ殺すぞ」
という男の怒鳴り声が中から響いてきた。
「奈々、開けろ!」
竜一はそう言って、力強くドアを叩いた。
初めは反応がなかったが、何度か叩いていているうちにドアが開き、蘭の母である奈々が出てくる。
奈々の顔はやつれており、生気が一切感じられない。
まるで生きた死人のようだった。
「竜一さん……なんで」
虚ろな目を丸くさせながら奈々は驚いていた。
肌には艶はなく、枯れた花のように萎びている。
「蘭は?」
子供の名前を出すと、奈々は黙って顔を俯かせた。
反応からすると、無事ではないかもしれない。
竜一は奈々を押しのけ、部屋の中へと入っていく。
玄関の先にはキッチンがあり、その奥に二つ部屋があった。
片方は襖が開いており、ちゃぶ台やテレビが置かれている。
もう一つの部屋は襖が閉まっていたため、竜一は迷わず足を向かわせた。
カーテンが閉まった薄暗い部屋には、大柄な男が立っていた。肉付きのよい腹が服の上からでも視認できる。
男は半袖半ズボンのジャージを着用しており、人相の悪い顔をこちらに向けていた。
鋭い目つきは、完全に竜一を敵とみなしている。
「誰だお前?」
男の声を無視し、竜一は視線を下げる。
そこには正座をした幼い女の子がおり、目元は赤く腫れていた。
「勝手に人の家に上がってんじゃ……」
「それやったのお前か?」
「は? ていうか誰だよ」
「お前が殴ったのか聞いてんだよ」
「だったらなんだよ。関係ねえ奴がいちいち首突っ込んでくんじゃ……」
竜一が男の顔面に拳をぶち込むと、鈍い音と共に巨漢は倒れた。
鼻を抑えながら悶えており、指先は血で赤く染まっている。
怒りの沸点を超えた竜一は脂肪が積み重なった腹の上に乗り、数発ほど右の拳を打ち下ろした。
「ずびばぜん……勘弁じえぐだたい」
男の弱々しい声が聞こえると、竜一は振り上げた拳を胸ぐらに持っていく。
「おいクズ、二度とこの二人に近寄るな。接近したら殺す。電話をかけても殺す。息を吐いても殺す。分かったな」
「ぶぁい」
竜一は冷静さを取り戻すと、女の子の存在を思い出す。
感情的になっていたため、暴力に配慮ができなかった。
しまった、と思い子供に目をやると無表情で俯いている。
表情からは感情を読み取れなかった。
その幼い顔には、完全な無が描かれていたから。
「蘭か?」
問いかけると、微かだが頷いた。
名前を呼ばれ、無意識に反応したように見える。
蘭は今も正座をしており、体を硬直させたように固まっていた。
竜一が顔のそばまで左手を持っていくと、蘭は唇を強く噛み締めた。
体を一切動かさず、表情は無のままで。
「もう我慢しなくていい。怒られてるときに体を動かしたら殴られてたんだろ?」
蘭は微動だにせず、反応を見せない。
「俺が言っても説得力はないけど、もうお前のことを殴る人間はいない。だから安心しろ」
変わらない無の表情は、魂が抜けているかのようだった。
その奥にある感情を引き出すには時間がかかるだろう。
子供らしさを取り戻す頃には、大人になりかける頃かもしれない。
そんな考えを巡らせていると、蘭の側にあった四角い缶に視線を奪われた。
そこには注射器と空パケが入っており、白い粉のようなものも付着している。
蘭の指を見ると、微量だが粉が付いていた。
竜一は近くにあったタオルで蘭の指を丁寧に拭いた後、視線を横へとズラした。
部屋の出入り口には立ち竦んでる奈々がおり、生気を失った顔は、何を言われるのかを察しているようだった。
「何をやった?」
竜一が奈々の前に立って問いかけると、無言のまま虚ろな目を泳がせた。
「何をやった?」
「……」
「何をやったか聞いてんだよ」
小さな声に圧を込めた。
その声に捕えられたように、泳いでいた瞳が動きを止める。
「覚せい剤……」
言下、竜一は奈々の胸ぐらを掴み、死んだ目に視線を突き刺す。
「お前のことを聞いてるんじゃねえ。なんで蘭の指に薬が付いてるかを聞いてんだよ」
「蘭が注射器を隠そうとしたの。それをこの人が見つけて……」
奈々は震わせた指をゆっくりと上げ、後ろで倒れている男を指した。
「てめえの判断でガキ作ったんなら母親を全うしろ。子供は自分の居場所も決められない。だから親が作るんだよ。こんなしょうもないもん打ってる暇があるなら、子供のために何ができるか考えろ。蘭だって必死に生きてんだよ。自分を守るために」
奈々は涙を流して、膝から崩れ落ちた。
雨音代わりの嗚咽が部屋に響く。
「私も誰かに支えてもらいたかった。一人で育てることに限界を迎えていたから。子供のことを考える余裕もなくなってたし、なんのために生きてるかも分からなくなってた。そんなときにこの人と出会ったの。すぐに同棲するようになったんだけど、まさか薬物をしているとは思わなかった。でも離れることはできない。好きだったから、また一人になりたくなかったから」
典型的な依存体質だ。
昔から何かに縋り付きながら生きてきた。それが男だったから、今も人生を預けてしまう。
別れたとしても蘭がいるから一人にはならないが、それでも『一人』という言葉を使った。
それは自分を支えてくれる人間という意味だろう。
まだ幼い子供に縋ることはできないし、支えてもくれない。
ずっと誰かの後を付いて歩いてきたから、自分が先導するということができないのだ。
だからすぐに迷ってしまう。
好きという感情も解像度を上げれば、自分を支える行為になっているだけ。恋愛はただの拠り所でしかない。
薬物も使用したのも、虐待から目を逸らしていたのも、縋れるものを失わないためだろう。
根本的な部分を変えなければ、この先も同じようなことが繰り返される。
「お前が今やらなければいけないことは、薬を抜くことと自分の力で人生を歩けるようにすることだ。頼れるものがないと不安なんだろ? でもすぐに何かに縋っていては自分の生き方を自分で決められなくなる。愛情と似ているから判別しにくいが、依存は呪いだ。成長も、忍耐も、判断も鈍らせる薬物だと思え。お前はその副作用で一人で歩くことができなくなってる。逃げるからダメなんじゃない。逃げ続けるからダメなんだ。自分と向き合わなければ、一生報われることはない。今のお前に、まともな人間は手を差し伸べないから」
忌憚のない辛辣な言葉は、奈々にとっては苦しいだろう。
でも今は甘やかしてはいけない。
竜一に依存するようになっては意味がないから。
自分の足で歩かせるには、覚悟を持たせる必要がある。
「でも……一人で歩くなんてできない。何かに縋ってないと苦しさで耐えられないの。どうしたらいい? どうしたら自分の力で歩けるの?」
一人で悩んできた経験が少ないのかもしれない。
答えを10としたとき、そこに辿り着くには1〜9という過程を進まなければならない。
でも3か4あたりのところで仮宿を見つけ、依存という答えを導き出してしまう。
簡単に不安を拭えるが、苦難と向き合うことをしないため考えの幅が狭くなる。
その積み重ねが今に至り、杖がないと歩けなくなった。
奈々の思考だと、きっと歩くことすら諦めてしまう可能性がある。
どうしたものか。
竜一が根の深さに悩んでいると、蘭が二人のもとにやってきた。
そして泣いている奈々を優しく包むように抱きしめる。
子供を天使と比喩することがあるが、まさしく天使だった。
愛情ですべての不安を溶かすような天からの授かりもの。
命の意味を知るには、言葉など不要なのかもしれないと竜一は思った。
奈々が視線を向けると、蘭はニコッと微笑んだ。
――どんなことがあっても私のお母さんだよ
優しさが滲んだ表情からは、そんな声すら聞こえてきそうだった。
「蘭……」
大粒の雨を零す奈々は、自分の娘を強く抱きしめた。
そして何度も「ごめんね、本当にごめんね」と謝罪の言葉を繰り返す。
「奈々」
彼女が落ち着きを取り戻してから、竜一は声をかけた。
「これから先、どう生きるのかを考えろ。他人に委ねてるだけでは幸せにはなれない。お前自身が誰かを幸せにしようという考えがない限り、何も返ってこないからだ。男からしたら欲を満たすための存在になってる。縋るだけっていうのはそういうことだ。『嫌いにならないでほしいから』という理由で尽くす奴もいるが、相手が醜悪な人間だったら恋人としては見なくなる。ただの所有物として扱うようになるから、間違った行為にすらブレーキがかからない。今のお前はそう見られてるんだよ。価値観を変えなければ人生も変わらない」
「苦しくなると男に縋ってたけど、これからは自分の力で歩いていけるよう頑張ります。じゃないと大事なものが分からなくなるから。この子の幸せが私の幸せになるように、考えを改めます」
竜一は冷静に奈々の言葉を聞いていた。
今はいっときの感情で言ってるだけかもしれない。
心の空いた部分に娘の優しさが入っただけで、また男に縋る可能性もある。
自分で自分を支えられるようになるには、その意思を継続させなければいけない。
人は弱い生き物だからこそ、支えが必要だ。
でもその支えが不確かなものでは意味がない。
だからこそ自分を成長させることが大切だし、考える力が重要となる。
「拠り所を男から娘には変えるなよ。血の繋がりで逃げられない分、余計なものまで背負わせてしまう。依存と愛は履き違えるな。与えたものに見返りも求めるな。逃げるときと戦うときを間違えるな。それらはすべて呪いに変わる。幸せになるために一番必要なのは成長だ。最後の最後で手を差し伸べてくれるのはお前自身だからな。それと、自分だけが報われるような生き方はするな。都合のいい人間しか、良い人だと思えなくなる。人を見誤ってしまう理由は、そういうことだ」
「はい」
奈々は再び自分の娘を抱きしめた。
蘭は笑顔を浮かべながら母を抱きしめ返す。
愛情と呼ぶにはぎこちないが、いつか親子と呼べるようになるときがくるかもしれない。
隙間を埋めるようなものではなく、器を広げてくれるような関係性に。
竜一はそうなってほしいと願いながら、拙い結び目を見下ろしていた。
♦︎
樹と莉亜はただ静かに竜一の話を聞いていた。
まだ幼い少女が抱えているものが、こんなにも重いものだとは思わなかった。
笑顔の裏に痛みが刻まれているなんて想像もしなかった。
愛されてきた人間とすら思っていた。
無愛想に接してきた自分に叱責してやりたい。
樹はそんな想いを抱きながら、楽しそうにシャボン玉を追いかける蘭を見ていた。
「蘭が笑顔でいるのは防衛本能なんだと思う。敵じゃないって思ってもらえれば、殴られることはないし孤立しないで済む。自分を守るための術を知らないから、持っているもので戦うしかなかった」
「喋らない理由はなんですか? それが自分を守ることに繋がってるとは思えない」
「お前らが喧嘩してるとき、蘭の顔見たか?」
「見てないです」
莉亜が首を横に振った後、樹は思い出したかのように言葉を零す。
「微塵も体を動かさず、表情を無にして存在を消していた」
「そうなの?」
「うん。もしかしたら殴られた記憶が蘇ったのかもしれない」
「え? どうしよう。そんなことも気にせず大声上げてた」
莉亜は頭を抱えながら、自分の行いを悔いていた。
それは樹も同様だった。
「喧嘩した奴がお前らしかいなかったから気付かなかった。笑顔は見てたけど、無表情になることはあの日以来なかったから」
「すいません……」
「いや、知れて良かった。蘭もずっとここにいるわけじゃない。いつか外に出たら、誰かの喧嘩くらい目にするだろ」
「でもなんで無表情なんだろ? 泣くとかなら分かるんだけど」
莉亜が言うように、無表情になる理由が分からなかった。
子供らしい反応とは言えないし、殴られた後にできる表情でもない。
「もし殴られた後に泣いたら、どうなると思う?」
「……黙らせるために、また殴られると思います」
竜一の質問に、莉亜が一考してから答える。
「蘭もそうだったんじゃないかって思ってる。だから感情を見せないように”無“でいることが必要だった。喋らない理由もそこから来てる可能性がある」
「どういうことですか?」
「言葉を発すれば感情を見せてしまうかもしれない。感情を見せれば殴られてしまう。だから喋らないようにして自分を守ってる」
「でも笑顔は見せますよね?」
「奈々に抱きしめてもらったとき、蘭は笑顔を見せた。そのときに“この感情は出してもいい”と判断したのかもしれない。実際、ここに来てから笑らうようになったし、周りにも可愛がってもらってた。経験から確証を得て、笑顔を増やしていったって感じだな」
笑顔に隠れて気付かなかったが、見せる感情は乏しかったのかもしれない。
愛嬌があるから感情豊かと勘違いしてしまうが、実際は一つの側面だけで判断していた。
楽しいから笑うのではなく、自分を守るために笑う。
まだ幼い少女が身に付けた処世術は、笑顔という鎧で武装することだった。
「ねえ、さっき蘭ちゃんが拭き具を渡してきて断ったでしょ? そのときの顔も無表情だった。普通なら悲しい顔するのになって思ってたけど、理由が『笑顔以外に表情を作れない』なら腑に落ちる」
樹は先ほどの蘭の表情を思い出していた。
本来なら莉亜の言うように、がっかりするのが普通だろう。
樹自身も、なんであんな顔になるのかと不思議に思っていた。
「あとは自分が殴られたことをどう解釈してるかだな。子供はまだ周りの人間をカテゴライズできないし、理由を探すにしても経験値が足りなすぎる。分かりやすいところで言えば、『嫌われてるから殴られた』と感じていれば、嫌われないように振る舞い続けるだろう。この考えが歳を重ねても剥がれなければ、『周りの目を気にしすぎる』『本音が話せない』『嫌われない自分を演じる』等の呪いに変わっていくかもしれない。まだ四歳だが、染み付いた毒は思っている以上に強いかもしれないな」
嫌われてるから殴られる。
そう認識していたとしたら、かなり生きづらい人生になるかもしれない。
嫌なことを言われても笑顔だけを振り撒いて、孤独の中でしか泣けなくなる。
そして周りには理解されないまま歳を重ね、いつかレールから外れてゆく。
まさに樹たちのような道だ。
まだ幼いからどうなるかまでは予測はできないが、環境によってはこじらせる可能性だってある。
周りの人間に左右されやすい生き方は、絶望と隣り合わせだ。
自分の力だけでは這い上がることも難しくなるだろう。
樹自身もそうだった。
この世界には金山のような善人もいるが、井口のような下劣な人間もいる。
その中で、いかにして自分を保てるかが生きるうえでは重要だ。
まだ四歳とはいえ、一生付き纏うかもしれない呪いがすでにかけられている。
それを解くには、思考に根付いた毒を取り去る必要があるのかもしれない。
「蘭ちゃんさ、樹くんに好きになってほしいのかも。さっき、私には拭き具を渡そうとしなかったでしょ? 私は普段から接してるけど、樹くんとはほとんど絡むこともない。だから不安なんだよ。誰かに嫌われてると思うことが」
「樹はずっと喧嘩ばかりで力に頼ってきた。逆に蘭は力に支配され続けてきた。正反対の人間が触れ合うことで、今まで見えなかったものが見えるようになるかもしれない。一回、蘭と正面から向き合ってみたらどうだ? 自分の成長を促すには、一番いい相手かもしれない。力に頼ることも、言い合いもできない相手をどう変えるか。これからの生き方を探すヒントが、そこにあると思う」
樹は子供が苦手だ。
自分ではコントロールすることができないから。
ムカついたからといって喧嘩することはできないし、子供相手に言い合うことすらも馬鹿げている。
関わらないように遠ざけてきた存在だが、今の樹にとっては必要なことなのかもしれない。
蘭の中に根付いた毒を取り除き、思考を変化させる。
生き方を縛られた子供にどう接していいかは分からなかったが、蘭を変えたいと思った。
自分たちと同じような道を歩かなくて済むように。
綺麗なものを綺麗と言えるような、真っ直ぐな想いで生きられるように。