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三十九話 傷跡に落ちる雨粒

ー/ー



「ちょっとやめてよ。蘭ちゃんも笑わないで」

 蓮見はコテージから庭を眺めていた。
 樹がホース手にし、莉亜に水をかけている。
 二人の仲睦まじい光景は、世界との距離を感じさせた。
 自分だけが取り残されているような楽しそうな笑い声。
 立ち止まっている間にも時は流れ、同世代の人たちの背中はどんどん遠くなっていく。
 このままではダメだと分かってはいるが、傷つきたくないという想いが足枷となる。

――助けてほしい

 たった一言が言えたなら、どれだけ楽になれるのだろう。
 感情が澱んでいくたびに外の世界が汚れて映り、それに伴うように人を信用をすることが怖くなっていく。
 蓮見は矛盾を抱える想いに戸惑い、だんだんと考えることすら億劫になっていた。
 悩み苦しむことから逃れたいという気持ちが、脳にブレーキをかけているのかもしれない。

「あいつら遊んでるじゃねえか」

 振り向くと、竜一と葉山が立っていた。
 蓮見はどうしていいか分からずに立ち竦んでいると、葉山と視線が重なる。
 彼は何か言いたそうな顔をしていたが、言葉を飲み込むようにして俯いた。
 葉山には酷いことを言い過ぎた。
 投げつけた暴言を思い出すと、罪悪感のようなものが胸に纏わり付く。
 自分の醜さと、人を傷つけてしまった痛みが、蓮見の心臓を握りしめていた。

「蓮見、付いてきて」

 竜一はそう言うと、リビングを出て行った。
 有無を言わさず行ってしまったため、蓮見は選択権も与えられず後を付いて行く。
 すれ違い様に葉山と目が合うと、今度は蓮見が視線を逸らした。
 何か言われてしまったら、また醜悪な自分が牙を見せてしまう。
 これ以上傷つけたくないし、これ以上堕ちていきたくない。
 そんな想いが歩度(ほど)を速めた。
 リビングを出ると階段を上がる竜一の背中が見えた。
 どこに行くのだろうと思考を巡らせながら二階まで来ると、ノートの部屋の前に竜一が立っていた。

「薫の傷跡を見せる。そのうえでどう接していくか決めろ」

「私は見たいなんて言ってない」

「じゃあ見てくれ。俺からのお願いだ」

 竜一に言われると、なぜか断り辛い。

「……分かった」  

「ありがとう」

 竜一が部屋の中に入っていくと、蓮見も後に続いた。
 棚の中から一冊のノートを取り、何かを探すように竜一はページを捲っている。
 葉山は蓮見に命を救われたと言っていた。
 だがそのときの言葉は覚えていなかったため、少し気になっていた。

「座って」

 そう言われ、蓮見は椅子に腰を下ろす。
 竜一は机の上にノートを置いた。開かれたページには丁寧な文字が並んでいる。

「これは心の奥底にあるものを言語化したものだ。目には見えない想いが詰まってる。なんで薫が蓮見の力になりたいか分かるか?」

「私のファンだから。それと……命を救われたから」

「それだけじゃない。自分の命に理由を付けるためでもある」

「命の理由?」

「蓮見にもアイドルを目指した理由があるだろ? きっとそれがアイデンティティになってたと思う。なんのために生きるか、どうなりたいか。そういった目的地があるから人は希望を持てる。今の薫にも歩きたい道があって、辿り着きたい場所があるんだ。それを今のお前に知ってもらいたい」

――自分と同じような人を救いたい

 そんな純粋な願いは汚れた世界で散っていった。
 想いを叶えようと必死になって走り続けたが、なんのために走っているのかも分からなくなった。
 真面目な人間が損をして、怠慢な人間が常識を作り上げる汚穢(おわい)だらけの場所。
 懸命に育てたが、泥の中で枯らしてしまった希望という花。
 残っているものなど何もない。あるとしても傷跡だけ。
 葉山はそんな人間を救いたいと言っている。
 彼の想いを知れば私は変われるのだろうか。また花を育てられるのだろうか。
 蓮見の心は揺れる。
 希望と絶望の間を行き来しながら、寄せては返す波のように。

「読み終わったら本棚に仕舞っといて。それと、いい肉買ったから食べないと勿体無いぞ」

 竜一はそう言い残して、部屋を出て行った。
 一人残された部屋で、蓮見はノートに視線を移す。

『僕は弱い人間だ』

 こんな一文から文書は始まっている。
 読み進めると、小学生の頃にいじめられたことが綴られていた。
 気弱だったため、周りから馬鹿にされていたようだ。
 何か反論すれば、それ以上に仕返しがくるため、この頃から本音を隠しながら生きてきたと書かれている。
 中学でも同じように日陰で過ごし、光を避けながら歩いていたようだ。
 誰とも揉めないように、ただ何もない日常を送れるように。
 初めはあらすじのようにザックリと書かれていたが、叙々に具体的なエピソードも記されるようになった。そして心の声も。

 ♦︎
 
「葉山、放課後の掃除変わってほしいんだけどいいかな? どうしても大事な用事ができちゃって」

 クラスの女子が帰宅しようとしていた葉山に声をかけてきた。
 高三の受験時期だったため帰って勉強をしたかったが、陰口を叩かれるの面倒だったので葉山は了承した。
 彼女は嬉しそうな表情を浮かべると「ありがとう」と返し、後ろにいた仲の良いクラスメイトに駆け寄っていった。

「ね、代わってくれるでしょ?」
「私も今度代わってもらおう」
「つーか、カラオケじゃなくて映画見に行かない?」
「私、服見たいんだけど」

 数名の女子は、放課後を満喫するための予定を立てながら教室を出て行った。
――僕が我慢すれば、何事も起こらない
 そんな心の声も知らずに。
 大学でもずっと一人だった。だから特に思い出はないし、語ることもない。
 今思えば、このときが人生で一番良い時期だった。
 何もない退屈な日々ではあったが、波風のない日常は幸せと呼べる。
 それを知ったのは、もう少し後のことだ。
 就職は飲食業と決めていた。
 いつかカフェを開きたいと思っていたからだ。
 そこには本がたくさんあって、一日中のんびりと過ごせるような空間がある。
 深夜にも営業し、眠れない夜を超えられる秘密基地。
 孤独で苦しんでいる人たちが、静かに生きられるような居場所があればと子供の頃から思っていた。
 その夢が葉山にとって生きる支えとなっていた。
 だがその夢も、社会に出ると幻想へと変わっていく。
 飲食業界の大手に就職し、社会への一歩を踏み出すことになった。
 ここは主にカフェやバーなどを経営しているが、三年前から新しい事業としてファミレスも立ち上げた。
 葉山はカフェの方で働きたかったが、新規事業の方が人手不足ということで、そちらに回された。これが死へと近づく第一歩となる。



「店長、15卓のお客様が頼んだのはカレーだそうです」
「あっ」
 厨房の入り口の前には壁で仕切られた空間があり、客席からは見えないようになっていた。
 その場所には水やグラス、トレーなどが置かれている。
 店長である米倉はそこにスツールを置き、営業中によくスマホで漫画を読んでいた。
 そして今も、平常運転でサボっている。
 米倉は葉山が持っているオムライスを、しでかしたというような顔で眺めており、頭を掻きながら何かを考えていた。
 店長という肩書きではあるが、よく失敗をする。
 葉山がファミレスに勤めてから半年が経ったが、改善する見込みはなかった。
 本人の意識が低いこともあるが、なにより責任転嫁が上手かった。
 今も思案しているように見えるが、たぶんろくな案ではない。
 米倉は葉山の持っているオムライスを手に取ると、そのまま厨房に入っていった。

「ごめん、さっきのカレー間違いだった。“葉山が”打ち間違えたみたい。ほんとにごめんね」

 厨房に響いた嘘を訂正するため中に入ると、キッチンの人たちの鋭い視線が刺さった。

「しっかりしろ、葉山。お前は社員だろ。何回失敗するんだよ」

 今日だけでもオーダーミスが三回あった。
 全部米倉のミスだが、全部葉山のせいにされ、三回とも頭を下げることになった。
――なんで自分が
 四度目となる謝罪をしながら心の中でそう思ったが、揉め事になるくらいならと耐えることにした。 



「お前のせいでこの店の売り上げが落ちてるんだよ。上からも怒られるし、どうしてくれんだ」
 営業が終わると客席で説教が始まった。
 昼過ぎに本社から部長が来て、売り上げのことで米倉はキツく言われていた。
 その鬱憤を晴らすかのように、部下に罵倒を投げつける。
 葉山は真面目に仕事をし、大きなミスもなく会社に貢献していた。
 なぜ、サボっている不真面目な人間に怒られなければいけないのだろうか。
 疑問が湧くが、ここで反論しても意味はない。
 自分が我慢すれば済むことだ、と葉山は言いたいことを飲み込んで謝罪した。

「罰として、お前一人で店を締めろ」

 店内を見渡すと、食器を下げ終えていない席がいくつかあった。
 今日は花火大会があり、その帰りに多くの人がファミレスへと押し寄せた。
 本来なら問題なく終わらせることはできたが、米倉がサボっていたため、バイトの終業時間までに片付けることができなかった。

「はい……」

「お前が来てから俺の人生狂いっぱなしだよ。部長に怒られたのも、売り上げが落ちたのも、全部お前のせい。なんでこんな役立たずのクズを俺が面倒みないといけないんだよ。足引っ張るのやめてく……そうだ! 今日はお前のせいで疲れたから、早番変われ」

「明日、遅番で入ってるんですけど」

「じゃあ一日働けばいいだろ。俺の若い頃はそんなの当たり前だったぞ。最近の奴は……」

 その後、一時間ほど説教され、店締めを始めたのは日付を超えた二十五時過ぎだった。
 米倉がキッチンの人を返してしまったため、皿洗いもする羽目になった。
 日に日にパワハラは強度を増し、理不尽に怒られる回数が増えてゆく。
――僕が我慢すればいい
 そう思うことで心を保っていた。
 自分を責めれば期待しなくて済むし、変えられないものに目を向ければ苦しむだけだ。
 この時点で人生に諦めていた。
 早朝から深夜まで働き、休日を返上してまで駆り出される。
 こんな日が半年以上続き、夢であったカフェも頭から抜け落ちていた。
 死にたい。
 ただそれだけを望む日々だった。


 ファミレスに勤務してから一年半が過ぎ、葉山は限界を迎えていた。
 この日も帰宅したのは深夜三時だ。二時間後には出勤するため家を出なければいけない。
 このときは死ぬことが希望だった。
 電車を見るたび、自分が跳ねられている姿を想像してしまう。
 それで少しだけ楽になれることもあった。
 この世界に自分がいないと思えることが、生きていくうえで必要なことだったから。
 逃げてしまえばいいのだろうが、この頃は逃げるという選択すら持てなかった。
 『どうやったら死ねるか』が頭を埋め尽くして、思考の幅を狭めていたからだろう。
 死ぬか、死にながら生きるかの二択しかなく、もうすでに死んでいるのと変わりなかった。
 ベッドの上に置いてあるロープを取ろうとしたとき、床に置いてあったリモコンを踏んでしまった。テレビ画面の明かりが陰湿な部屋を照らす。
 そこにはアナウンサーにインタビューを受けるアイドルが映っていた。
 アイドルには興味がなく、名前すらも分からない。
 ただ、彼女が無理やり笑顔を作っているのだけは分かった。
 苦しそうに引き攣った顔は、笑顔だけでは隠せない。
 精神的に限界を迎えているのか、彼女は時折り涙を堪えるような仕草をしていた。
 唇を噛み締め、苦悩を飲み込むように俯く。
 葉山はいつの間にか彼女に見入っていた。
 自分と重なる部分を感じ、鏡を見ているような気分だった。

「アイドルとして大切にしてることはなんですか?」

 アナウンサーが質問をすると、彼女は数秒ほどの沈黙を作った。
 そして、ゆっくりと口を開く。

「この仕事って酷いことを言われたり、勝手に価値観を押し付けられたりして、自分という存在が分からなくなるときがあるんです。好きで始めたことなのに、いつの間にか他人の言葉に支配されて、周りに“どう生きるか”を決められていく。それでも自分のことは自分で守ってあげないといけない。誰かに頼ることすら困難なときがあるから。画面の向こうには、同じように苦しんでいる人がたくさんいると思います。真面目に生きたいけど生きられない人、いつか報われるために必死になって努力してる人、孤独の中でもがき続けている人。私はそんな人たちに、こう伝えたいんです」

 彼女は涙ぐみながらも懸命に言葉を編んでいた。
 それが葉山の心臓に絡みついていた希死念慮をゆっくりと解いていく。

「苦しかったら逃げてもいいし、弱音だって吐いてもいい。我慢ばかりして自分を責めてなくてもいい。だから絶対に負けないで。自分のことをもっと大切にして。たとえ笑えない日があっても、無理しなくていい。あなたは一人じゃないから、理解してくれる人がここにいるから、だから諦めないで。生きるということは残酷なことだけど、希望だけは捨てちゃいけない。あなたが守りたいものは間違ってないから。他人の言葉に人生を左右されて、命に傷をつけてしまうことがあると思う。でも、あなたはあなたのままいればいい。自分の弱さを呪わないで。その弱さが誰かの道標になるから」

 彼女はそう言った後、泣きながら崩れ落ちた。
 アナウンサーに背中を摩られながら、「ごめんなさい」と謝罪する。
 葉山自身も涙を零していた。
 胸の中に降り積もっていた本音。
 心を覆い尽くしていた希死念慮。
 冬の終わりを告げるように、澱んだ想いは涙へと変わり溶けてゆく。
 現実世界では言えない言葉を、見ず知らずの彼女が代弁してくれた。
 まったくの他人だし、住んでる世界も違う。
 でも同じように苦しんでいる人がいると知れて、一人じゃないと思えた。
 差し込んだ光は別の選択肢をも照らす。
 闇夜の中では見えなかった未来という道。
 “どう”生きるべきかという問いが朽ちた思考に提示され、希望が芽吹き始める。
 一人のアイドルは枯れ落ちた花びらを拾い集め、『あなたはきっと咲ける』と花束を渡してきた。
 葉山は渡されたものを強く握りしめ、彼女の言葉を噛み締める。
――死ぬ必要なんてない。逃げてもいいんだ 
 夜明け前に降った言の葉は、解けかけていた命の糸を結び直した。

 

「なんだよこれ?」
 ファミレスの休憩室で辞表を渡すと、米倉は不快な顔を浮かべながら葉山の顔を見た。

「今月いっぱいで辞めさせていただきます」

 葉山は覚悟を込めて言った。
 一人のアイドルがくれた希望という花束を胸に。

「お前みたいにすぐ逃げ出す奴は他ではやっていけない。社会経験が乏しいから知らないと思うが、外はもっと厳しいぞ。俺がどれだけ優しいか分かってないだろ? 社会は葉山のような無能を相手にすらしない。ここを辞めたらきっと後悔する。それに育ててもらった恩も返してないだろ。俺がどれだけお前の成長に貢献したか、ちゃんと考えたか? 厳しくするのは愛情なんだよ。それも理解できてないなら、外に出ても苦しくなるだけだ。お前のために言うが、辞めることは許さない。葉山のためを思って言ってるからな」

 育ててもらった覚えなどない。
 自分のミスを押し付け、楽したいがために部下の休日すらも削る。
 これのどこに愛情があるのだろう。
 ただ自分の行いを棚に上げているだけだ。
 辞めてほしくないのは、奴隷がいなくなるからだろう。

「外の世界を確かに知りません。でも、死にたくなるような場所が優しいというなら、たとえ無能でも懸命に生きようとしてる人が見捨てられるというなら、それは世界が間違ってます。僕はあなたのような人間になりたくない。これが社会というのなら、弾かれてでも染まるわけにはいかない。孤独で苦しんでいる人間が救われるような場所を、いつか作ってみせます。この命を誰かのために使える人になりたいから」

 米倉は葉山の忌憚ない言葉に狼狽えていた。
 今まで逆らったことはないし、反論すらもしてこなかった。
 小学生の頃に虐められてから、揉め事を起こさないようにと心がけてきたからだ。
 だが、初めて自分の意思を示した。
 意味もなく傷をつけてくる人間に命を預けてはいけない。
 どうせ死ぬなら、人を救うために使いたい。
 自分と同じように本音を胸臆に仕舞い込んでいる人が、生きていける場所を作りたい。
 そんな想いが言葉に宿っていた。

「正直に言えば、ここに入社したことは最悪でした。もう一度人生をやり直せるとしたら、絶対に来ることはないです。でもひとつだけお礼を言わせてください。あなたのおかげで痛みを知ることができました。優しさがどれだけ高価なもので、かけがえのないものなのかも知れた。いつかこの傷を誰かの道標にしたいと思います。どれだけ苦しくても、僕はあなたのような人間にならないよう努めます。人の醜さというものが、どれだけ汚れたものなのかを教えてもらいましたから。これがあなたから学んだ唯一のことです。生きる目的を作ってくれて、傷跡を残してくれて、ありがとうございました。恩返しは辞めることです。今まで辛かったですよね? こんな無能の世話をするのは」

 葉山はそう言い残し、休憩室を後にした。
 米倉は何か言いたそうにしてたが、言葉が出てこないのか口をパクパクとさせていた。
 人は変われる。
 そのことを一人のアイドルが教えてくれた。
 自分も同じように、誰かの支えになれるような人間になりたい。
 この傷に意味を付け、いつか誰かの道標になってほしい。
 葉山は目的地を見つけ、希望を胸に歩き出した。
 優しさという種を握りしめながら。


 その後、彼女の足跡を追った。
 蓮見千佳という人間は絵に描いたようなアイドルで、インタビューの言葉からは懸命さが伝わってくる。
 自分もこんな生き方ができれば。そんなことすら思わせてくれた。
 だが、数日前に男性との写真がネットに上げらてしまったらしい。
 本人は否定しているが、信じていない人が多かった。
 それはファンも同様だ。
 僕は彼女の言葉を信じようと思う。
 仮に嘘だったとしても構わない。
 命を救ってくれた彼女が、幸せになってくれればそれで良かった。
 アイドルとしてステージに立つ蓮見千佳はとても輝いていたし、なにより光だった。
 僕の生きる理由を作ってくれて、僕が生きる意味を教えてくれる。
 いつかそんな人間になりたい。
 こんな弱い僕でも、なにも言えなかった僕でも、あなたのように誰かを救えるように。
 
 ♦︎

 蓮見は文字に込められた想いを反芻しながら、葉山の傷跡を辿っていた。
 あの日、涙を流しながら吐いた言葉を今も覚えていない。
 感情のコントロールが効いていなかったため、きっと無意識に近かったのだろう。
 抑えていた本音が溢れ出し、蓮見千佳という人間を世間に晒け出した。
 こんな醜態を晒していたと知ると恥ずかしさが込み上げるが、本心を出していなければ葉山は命を絶っていたかもしれない。
 テレビで涙を流して本音を言うなど弱さでしかない。
 でもその弱さが命を繋ぎ止め、勇気に変わった。
 自分と同じような人を変えたいと願い、アイドルになった蓮見。
 もう叶えることなどできないと思っていたが、すでに叶えていた。
 醜悪な人間にフォーカスを当てていたことで、大切なものを見落としていた気がする。

――私は、私を傷つけてしまった

 葉山と自分を重ね合わせると、そんな言葉が頭をよぎった。
 悲しみが感情を纏い、涙腺の紐が徐々に緩み始める。
 ページの下に目を向けると、数行開けて文字が綴られていた。
 そこにはメッセージが記されている。



 もしあなたがここに来て、誰にも打ち明けられずに苦しんでいるのなら、今度は僕があなたの力になりたいと思います。
 負け続けても、自分のことを大切にできなかったとしても、無理して笑う日が続いたとしても、あなたは一人じゃないです。
 理解してくれる人間が、この世界の片隅で同じようにもがいています。
 あの日の涙で僕は一歩踏み出せました。
 命を繋ぎ止め、この枯れた命に意味を持たせようとも思えました。
 汚れた世界で生きていくことは難しいことです。
 でもあなたの幸せを心から願うファンがいることを忘れないでください。
 たとえ否定されても、たとえ多くの人から罵声を浴びても、あなたはあなたのままでいてください。
 蓮見千佳の生き方は間違ってないです。
 一人の命を救ったことが、なによりの証明です。
「あなたのおかげで、生きていて良かったと思うことができました」
 いつかそう伝えられる日まで、僕はあなたのように生きたいと思います。



 蓮見の涙腺が解け、綺麗な雨が傷跡に落ちた。
 雨粒が滲む文字。透明な悲しみが二人を繋ぐ。
 泥を弾くような葉山の言葉は、くすんだ瞳に希望を映した。
 ずっと誰かに認めてもらいたかった。
 ずっと誰かに寄り添ってほしいと願っていた。
 こんなにも近くに理解者がいたのに、気付きもせずに傷つけてしまった。
 痛みに意味を付けなければいけなかったのに、自分を守るために鋭利な言葉を振り回す。
 愚かだ。
 本当に。
 一番見てほしかった人に、一番知ってほしかった人に、一番守らなければならない人に、私は……
 蓮見は自分の行いを悔やんだ。でも逃げてはいけない。
 二つの傷に意味を付けるためにも、葉山と向き合う必要がある。
 たとえ罵声を浴びようとうも、新しい傷をつけようとも。


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 樹がホース手にし、莉亜に水をかけている。
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 自分だけが取り残されているような楽しそうな笑い声。
 立ち止まっている間にも時は流れ、同世代の人たちの背中はどんどん遠くなっていく。
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 感情が澱んでいくたびに外の世界が汚れて映り、それに伴うように人を信用をすることが怖くなっていく。
 蓮見は矛盾を抱える想いに戸惑い、だんだんと考えることすら億劫になっていた。
 悩み苦しむことから逃れたいという気持ちが、脳にブレーキをかけているのかもしれない。
「あいつら遊んでるじゃねえか」
 振り向くと、竜一と葉山が立っていた。
 蓮見はどうしていいか分からずに立ち竦んでいると、葉山と視線が重なる。
 彼は何か言いたそうな顔をしていたが、言葉を飲み込むようにして俯いた。
 葉山には酷いことを言い過ぎた。
 投げつけた暴言を思い出すと、罪悪感のようなものが胸に纏わり付く。
 自分の醜さと、人を傷つけてしまった痛みが、蓮見の心臓を握りしめていた。
「蓮見、付いてきて」
 竜一はそう言うと、リビングを出て行った。
 有無を言わさず行ってしまったため、蓮見は選択権も与えられず後を付いて行く。
 すれ違い様に葉山と目が合うと、今度は蓮見が視線を逸らした。
 何か言われてしまったら、また醜悪な自分が牙を見せてしまう。
 これ以上傷つけたくないし、これ以上堕ちていきたくない。
 そんな想いが|歩度《ほど》を速めた。
 リビングを出ると階段を上がる竜一の背中が見えた。
 どこに行くのだろうと思考を巡らせながら二階まで来ると、ノートの部屋の前に竜一が立っていた。
「薫の傷跡を見せる。そのうえでどう接していくか決めろ」
「私は見たいなんて言ってない」
「じゃあ見てくれ。俺からのお願いだ」
 竜一に言われると、なぜか断り辛い。
「……分かった」  
「ありがとう」
 竜一が部屋の中に入っていくと、蓮見も後に続いた。
 棚の中から一冊のノートを取り、何かを探すように竜一はページを捲っている。
 葉山は蓮見に命を救われたと言っていた。
 だがそのときの言葉は覚えていなかったため、少し気になっていた。
「座って」
 そう言われ、蓮見は椅子に腰を下ろす。
 竜一は机の上にノートを置いた。開かれたページには丁寧な文字が並んでいる。
「これは心の奥底にあるものを言語化したものだ。目には見えない想いが詰まってる。なんで薫が蓮見の力になりたいか分かるか?」
「私のファンだから。それと……命を救われたから」
「それだけじゃない。自分の命に理由を付けるためでもある」
「命の理由?」
「蓮見にもアイドルを目指した理由があるだろ? きっとそれがアイデンティティになってたと思う。なんのために生きるか、どうなりたいか。そういった目的地があるから人は希望を持てる。今の薫にも歩きたい道があって、辿り着きたい場所があるんだ。それを今のお前に知ってもらいたい」
――自分と同じような人を救いたい
 そんな純粋な願いは汚れた世界で散っていった。
 想いを叶えようと必死になって走り続けたが、なんのために走っているのかも分からなくなった。
 真面目な人間が損をして、怠慢な人間が常識を作り上げる|汚穢《おわい》だらけの場所。
 懸命に育てたが、泥の中で枯らしてしまった希望という花。
 残っているものなど何もない。あるとしても傷跡だけ。
 葉山はそんな人間を救いたいと言っている。
 彼の想いを知れば私は変われるのだろうか。また花を育てられるのだろうか。
 蓮見の心は揺れる。
 希望と絶望の間を行き来しながら、寄せては返す波のように。
「読み終わったら本棚に仕舞っといて。それと、いい肉買ったから食べないと勿体無いぞ」
 竜一はそう言い残して、部屋を出て行った。
 一人残された部屋で、蓮見はノートに視線を移す。
『僕は弱い人間だ』
 こんな一文から文書は始まっている。
 読み進めると、小学生の頃にいじめられたことが綴られていた。
 気弱だったため、周りから馬鹿にされていたようだ。
 何か反論すれば、それ以上に仕返しがくるため、この頃から本音を隠しながら生きてきたと書かれている。
 中学でも同じように日陰で過ごし、光を避けながら歩いていたようだ。
 誰とも揉めないように、ただ何もない日常を送れるように。
 初めはあらすじのようにザックリと書かれていたが、叙々に具体的なエピソードも記されるようになった。そして心の声も。
 ♦︎
「葉山、放課後の掃除変わってほしいんだけどいいかな? どうしても大事な用事ができちゃって」
 クラスの女子が帰宅しようとしていた葉山に声をかけてきた。
 高三の受験時期だったため帰って勉強をしたかったが、陰口を叩かれるの面倒だったので葉山は了承した。
 彼女は嬉しそうな表情を浮かべると「ありがとう」と返し、後ろにいた仲の良いクラスメイトに駆け寄っていった。
「ね、代わってくれるでしょ?」
「私も今度代わってもらおう」
「つーか、カラオケじゃなくて映画見に行かない?」
「私、服見たいんだけど」
 数名の女子は、放課後を満喫するための予定を立てながら教室を出て行った。
――僕が我慢すれば、何事も起こらない
 そんな心の声も知らずに。
 大学でもずっと一人だった。だから特に思い出はないし、語ることもない。
 今思えば、このときが人生で一番良い時期だった。
 何もない退屈な日々ではあったが、波風のない日常は幸せと呼べる。
 それを知ったのは、もう少し後のことだ。
 就職は飲食業と決めていた。
 いつかカフェを開きたいと思っていたからだ。
 そこには本がたくさんあって、一日中のんびりと過ごせるような空間がある。
 深夜にも営業し、眠れない夜を超えられる秘密基地。
 孤独で苦しんでいる人たちが、静かに生きられるような居場所があればと子供の頃から思っていた。
 その夢が葉山にとって生きる支えとなっていた。
 だがその夢も、社会に出ると幻想へと変わっていく。
 飲食業界の大手に就職し、社会への一歩を踏み出すことになった。
 ここは主にカフェやバーなどを経営しているが、三年前から新しい事業としてファミレスも立ち上げた。
 葉山はカフェの方で働きたかったが、新規事業の方が人手不足ということで、そちらに回された。これが死へと近づく第一歩となる。
「店長、15卓のお客様が頼んだのはカレーだそうです」
「あっ」
 厨房の入り口の前には壁で仕切られた空間があり、客席からは見えないようになっていた。
 その場所には水やグラス、トレーなどが置かれている。
 店長である米倉はそこにスツールを置き、営業中によくスマホで漫画を読んでいた。
 そして今も、平常運転でサボっている。
 米倉は葉山が持っているオムライスを、しでかしたというような顔で眺めており、頭を掻きながら何かを考えていた。
 店長という肩書きではあるが、よく失敗をする。
 葉山がファミレスに勤めてから半年が経ったが、改善する見込みはなかった。
 本人の意識が低いこともあるが、なにより責任転嫁が上手かった。
 今も思案しているように見えるが、たぶんろくな案ではない。
 米倉は葉山の持っているオムライスを手に取ると、そのまま厨房に入っていった。
「ごめん、さっきのカレー間違いだった。“葉山が”打ち間違えたみたい。ほんとにごめんね」
 厨房に響いた嘘を訂正するため中に入ると、キッチンの人たちの鋭い視線が刺さった。
「しっかりしろ、葉山。お前は社員だろ。何回失敗するんだよ」
 今日だけでもオーダーミスが三回あった。
 全部米倉のミスだが、全部葉山のせいにされ、三回とも頭を下げることになった。
――なんで自分が
 四度目となる謝罪をしながら心の中でそう思ったが、揉め事になるくらいならと耐えることにした。 
「お前のせいでこの店の売り上げが落ちてるんだよ。上からも怒られるし、どうしてくれんだ」
 営業が終わると客席で説教が始まった。
 昼過ぎに本社から部長が来て、売り上げのことで米倉はキツく言われていた。
 その鬱憤を晴らすかのように、部下に罵倒を投げつける。
 葉山は真面目に仕事をし、大きなミスもなく会社に貢献していた。
 なぜ、サボっている不真面目な人間に怒られなければいけないのだろうか。
 疑問が湧くが、ここで反論しても意味はない。
 自分が我慢すれば済むことだ、と葉山は言いたいことを飲み込んで謝罪した。
「罰として、お前一人で店を締めろ」
 店内を見渡すと、食器を下げ終えていない席がいくつかあった。
 今日は花火大会があり、その帰りに多くの人がファミレスへと押し寄せた。
 本来なら問題なく終わらせることはできたが、米倉がサボっていたため、バイトの終業時間までに片付けることができなかった。
「はい……」
「お前が来てから俺の人生狂いっぱなしだよ。部長に怒られたのも、売り上げが落ちたのも、全部お前のせい。なんでこんな役立たずのクズを俺が面倒みないといけないんだよ。足引っ張るのやめてく……そうだ! 今日はお前のせいで疲れたから、早番変われ」
「明日、遅番で入ってるんですけど」
「じゃあ一日働けばいいだろ。俺の若い頃はそんなの当たり前だったぞ。最近の奴は……」
 その後、一時間ほど説教され、店締めを始めたのは日付を超えた二十五時過ぎだった。
 米倉がキッチンの人を返してしまったため、皿洗いもする羽目になった。
 日に日にパワハラは強度を増し、理不尽に怒られる回数が増えてゆく。
――僕が我慢すればいい
 そう思うことで心を保っていた。
 自分を責めれば期待しなくて済むし、変えられないものに目を向ければ苦しむだけだ。
 この時点で人生に諦めていた。
 早朝から深夜まで働き、休日を返上してまで駆り出される。
 こんな日が半年以上続き、夢であったカフェも頭から抜け落ちていた。
 死にたい。
 ただそれだけを望む日々だった。
 ファミレスに勤務してから一年半が過ぎ、葉山は限界を迎えていた。
 この日も帰宅したのは深夜三時だ。二時間後には出勤するため家を出なければいけない。
 このときは死ぬことが希望だった。
 電車を見るたび、自分が跳ねられている姿を想像してしまう。
 それで少しだけ楽になれることもあった。
 この世界に自分がいないと思えることが、生きていくうえで必要なことだったから。
 逃げてしまえばいいのだろうが、この頃は逃げるという選択すら持てなかった。
 『どうやったら死ねるか』が頭を埋め尽くして、思考の幅を狭めていたからだろう。
 死ぬか、死にながら生きるかの二択しかなく、もうすでに死んでいるのと変わりなかった。
 ベッドの上に置いてあるロープを取ろうとしたとき、床に置いてあったリモコンを踏んでしまった。テレビ画面の明かりが陰湿な部屋を照らす。
 そこにはアナウンサーにインタビューを受けるアイドルが映っていた。
 アイドルには興味がなく、名前すらも分からない。
 ただ、彼女が無理やり笑顔を作っているのだけは分かった。
 苦しそうに引き攣った顔は、笑顔だけでは隠せない。
 精神的に限界を迎えているのか、彼女は時折り涙を堪えるような仕草をしていた。
 唇を噛み締め、苦悩を飲み込むように俯く。
 葉山はいつの間にか彼女に見入っていた。
 自分と重なる部分を感じ、鏡を見ているような気分だった。
「アイドルとして大切にしてることはなんですか?」
 アナウンサーが質問をすると、彼女は数秒ほどの沈黙を作った。
 そして、ゆっくりと口を開く。
「この仕事って酷いことを言われたり、勝手に価値観を押し付けられたりして、自分という存在が分からなくなるときがあるんです。好きで始めたことなのに、いつの間にか他人の言葉に支配されて、周りに“どう生きるか”を決められていく。それでも自分のことは自分で守ってあげないといけない。誰かに頼ることすら困難なときがあるから。画面の向こうには、同じように苦しんでいる人がたくさんいると思います。真面目に生きたいけど生きられない人、いつか報われるために必死になって努力してる人、孤独の中でもがき続けている人。私はそんな人たちに、こう伝えたいんです」
 彼女は涙ぐみながらも懸命に言葉を編んでいた。
 それが葉山の心臓に絡みついていた希死念慮をゆっくりと解いていく。
「苦しかったら逃げてもいいし、弱音だって吐いてもいい。我慢ばかりして自分を責めてなくてもいい。だから絶対に負けないで。自分のことをもっと大切にして。たとえ笑えない日があっても、無理しなくていい。あなたは一人じゃないから、理解してくれる人がここにいるから、だから諦めないで。生きるということは残酷なことだけど、希望だけは捨てちゃいけない。あなたが守りたいものは間違ってないから。他人の言葉に人生を左右されて、命に傷をつけてしまうことがあると思う。でも、あなたはあなたのままいればいい。自分の弱さを呪わないで。その弱さが誰かの道標になるから」
 彼女はそう言った後、泣きながら崩れ落ちた。
 アナウンサーに背中を摩られながら、「ごめんなさい」と謝罪する。
 葉山自身も涙を零していた。
 胸の中に降り積もっていた本音。
 心を覆い尽くしていた希死念慮。
 冬の終わりを告げるように、澱んだ想いは涙へと変わり溶けてゆく。
 現実世界では言えない言葉を、見ず知らずの彼女が代弁してくれた。
 まったくの他人だし、住んでる世界も違う。
 でも同じように苦しんでいる人がいると知れて、一人じゃないと思えた。
 差し込んだ光は別の選択肢をも照らす。
 闇夜の中では見えなかった未来という道。
 “どう”生きるべきかという問いが朽ちた思考に提示され、希望が芽吹き始める。
 一人のアイドルは枯れ落ちた花びらを拾い集め、『あなたはきっと咲ける』と花束を渡してきた。
 葉山は渡されたものを強く握りしめ、彼女の言葉を噛み締める。
――死ぬ必要なんてない。逃げてもいいんだ 
 夜明け前に降った言の葉は、解けかけていた命の糸を結び直した。
「なんだよこれ?」
 ファミレスの休憩室で辞表を渡すと、米倉は不快な顔を浮かべながら葉山の顔を見た。
「今月いっぱいで辞めさせていただきます」
 葉山は覚悟を込めて言った。
 一人のアイドルがくれた希望という花束を胸に。
「お前みたいにすぐ逃げ出す奴は他ではやっていけない。社会経験が乏しいから知らないと思うが、外はもっと厳しいぞ。俺がどれだけ優しいか分かってないだろ? 社会は葉山のような無能を相手にすらしない。ここを辞めたらきっと後悔する。それに育ててもらった恩も返してないだろ。俺がどれだけお前の成長に貢献したか、ちゃんと考えたか? 厳しくするのは愛情なんだよ。それも理解できてないなら、外に出ても苦しくなるだけだ。お前のために言うが、辞めることは許さない。葉山のためを思って言ってるからな」
 育ててもらった覚えなどない。
 自分のミスを押し付け、楽したいがために部下の休日すらも削る。
 これのどこに愛情があるのだろう。
 ただ自分の行いを棚に上げているだけだ。
 辞めてほしくないのは、奴隷がいなくなるからだろう。
「外の世界を確かに知りません。でも、死にたくなるような場所が優しいというなら、たとえ無能でも懸命に生きようとしてる人が見捨てられるというなら、それは世界が間違ってます。僕はあなたのような人間になりたくない。これが社会というのなら、弾かれてでも染まるわけにはいかない。孤独で苦しんでいる人間が救われるような場所を、いつか作ってみせます。この命を誰かのために使える人になりたいから」
 米倉は葉山の忌憚ない言葉に狼狽えていた。
 今まで逆らったことはないし、反論すらもしてこなかった。
 小学生の頃に虐められてから、揉め事を起こさないようにと心がけてきたからだ。
 だが、初めて自分の意思を示した。
 意味もなく傷をつけてくる人間に命を預けてはいけない。
 どうせ死ぬなら、人を救うために使いたい。
 自分と同じように本音を胸臆に仕舞い込んでいる人が、生きていける場所を作りたい。
 そんな想いが言葉に宿っていた。
「正直に言えば、ここに入社したことは最悪でした。もう一度人生をやり直せるとしたら、絶対に来ることはないです。でもひとつだけお礼を言わせてください。あなたのおかげで痛みを知ることができました。優しさがどれだけ高価なもので、かけがえのないものなのかも知れた。いつかこの傷を誰かの道標にしたいと思います。どれだけ苦しくても、僕はあなたのような人間にならないよう努めます。人の醜さというものが、どれだけ汚れたものなのかを教えてもらいましたから。これがあなたから学んだ唯一のことです。生きる目的を作ってくれて、傷跡を残してくれて、ありがとうございました。恩返しは辞めることです。今まで辛かったですよね? こんな無能の世話をするのは」
 葉山はそう言い残し、休憩室を後にした。
 米倉は何か言いたそうにしてたが、言葉が出てこないのか口をパクパクとさせていた。
 人は変われる。
 そのことを一人のアイドルが教えてくれた。
 自分も同じように、誰かの支えになれるような人間になりたい。
 この傷に意味を付け、いつか誰かの道標になってほしい。
 葉山は目的地を見つけ、希望を胸に歩き出した。
 優しさという種を握りしめながら。
 その後、彼女の足跡を追った。
 蓮見千佳という人間は絵に描いたようなアイドルで、インタビューの言葉からは懸命さが伝わってくる。
 自分もこんな生き方ができれば。そんなことすら思わせてくれた。
 だが、数日前に男性との写真がネットに上げらてしまったらしい。
 本人は否定しているが、信じていない人が多かった。
 それはファンも同様だ。
 僕は彼女の言葉を信じようと思う。
 仮に嘘だったとしても構わない。
 命を救ってくれた彼女が、幸せになってくれればそれで良かった。
 アイドルとしてステージに立つ蓮見千佳はとても輝いていたし、なにより光だった。
 僕の生きる理由を作ってくれて、僕が生きる意味を教えてくれる。
 いつかそんな人間になりたい。
 こんな弱い僕でも、なにも言えなかった僕でも、あなたのように誰かを救えるように。
 ♦︎
 蓮見は文字に込められた想いを反芻しながら、葉山の傷跡を辿っていた。
 あの日、涙を流しながら吐いた言葉を今も覚えていない。
 感情のコントロールが効いていなかったため、きっと無意識に近かったのだろう。
 抑えていた本音が溢れ出し、蓮見千佳という人間を世間に晒け出した。
 こんな醜態を晒していたと知ると恥ずかしさが込み上げるが、本心を出していなければ葉山は命を絶っていたかもしれない。
 テレビで涙を流して本音を言うなど弱さでしかない。
 でもその弱さが命を繋ぎ止め、勇気に変わった。
 自分と同じような人を変えたいと願い、アイドルになった蓮見。
 もう叶えることなどできないと思っていたが、すでに叶えていた。
 醜悪な人間にフォーカスを当てていたことで、大切なものを見落としていた気がする。
――私は、私を傷つけてしまった
 葉山と自分を重ね合わせると、そんな言葉が頭をよぎった。
 悲しみが感情を纏い、涙腺の紐が徐々に緩み始める。
 ページの下に目を向けると、数行開けて文字が綴られていた。
 そこにはメッセージが記されている。
 もしあなたがここに来て、誰にも打ち明けられずに苦しんでいるのなら、今度は僕があなたの力になりたいと思います。
 負け続けても、自分のことを大切にできなかったとしても、無理して笑う日が続いたとしても、あなたは一人じゃないです。
 理解してくれる人間が、この世界の片隅で同じようにもがいています。
 あの日の涙で僕は一歩踏み出せました。
 命を繋ぎ止め、この枯れた命に意味を持たせようとも思えました。
 汚れた世界で生きていくことは難しいことです。
 でもあなたの幸せを心から願うファンがいることを忘れないでください。
 たとえ否定されても、たとえ多くの人から罵声を浴びても、あなたはあなたのままでいてください。
 蓮見千佳の生き方は間違ってないです。
 一人の命を救ったことが、なによりの証明です。
「あなたのおかげで、生きていて良かったと思うことができました」
 いつかそう伝えられる日まで、僕はあなたのように生きたいと思います。
 蓮見の涙腺が解け、綺麗な雨が傷跡に落ちた。
 雨粒が滲む文字。透明な悲しみが二人を繋ぐ。
 泥を弾くような葉山の言葉は、くすんだ瞳に希望を映した。
 ずっと誰かに認めてもらいたかった。
 ずっと誰かに寄り添ってほしいと願っていた。
 こんなにも近くに理解者がいたのに、気付きもせずに傷つけてしまった。
 痛みに意味を付けなければいけなかったのに、自分を守るために鋭利な言葉を振り回す。
 愚かだ。
 本当に。
 一番見てほしかった人に、一番知ってほしかった人に、一番守らなければならない人に、私は……
 蓮見は自分の行いを悔やんだ。でも逃げてはいけない。
 二つの傷に意味を付けるためにも、葉山と向き合う必要がある。
 たとえ罵声を浴びようとうも、新しい傷をつけようとも。