太陽が西に傾き、澄んだ青は茜に染められていた。黄昏に吹く海の息吹が、肌を湿らせて心地良さを演出する。
葉山たちはコテージの庭でバーベキューの準備に取り掛かっていた。
竜一と葉山はコンロと調理台の設置。
莉亜と蘭は、折りたたみテーブルの上に肉や野菜などの食材を並べていた。
樹はコテージからクーラーボックスを持ってくると、テーブルに置いてある食材に手を伸ばす。
「あっ、樹くんがトマトつまみ食いした」
「お前だって、さっき食べてたろ」
「た、食べてないよ」
「食べてないなら動揺するなよ」
「し、してないもん」
「してんじゃねえかよ」
樹と莉亜はあれだけ歪みあっていたはずなのに、今ではその面影はない。
二人を見ていると、人は変われるという想いが一層強くなる。
葉山はコテージの二階に視線を向ける。
仲を深めたいとかではなく、純粋に推しの苦しみを理解したいと思っていた。
ここに来てるということは苦悩を抱いているということ。
命の恩人である蓮見を救いたいと願っているが、その力になれないことに憤りを感じていた。
でも何をしていいのかも分からない。
朝に言われた言葉が今もまだ心臓に突き刺さったままだ。
それが勇気を萎ませる。
「蓮見には伝えといたよ。来るかどうかは分からないけど」
竜一は葉山の胸の内を聞いていたかのように言ってきた。
「来てくれるといいですけど……」
「朝の感じだと来ないだろ」
「なんでそうやって希望をへし折ること言うの?」
「お前がトマトをつまみ食いするから」
「それ関係ないでしょ」
樹が言うように、たぶん来ないだろう。
ファンである葉山に嫌悪感を抱いているし、ここに来てから喧嘩しかしていない。
きっと他人と関わることが怖いのだと思う。
ネットで過去を遡ると、誹謗中傷も目立った。
特に写真が出てからは、連日のように毒のある言葉を浴びていただろう。
その副作用が、今もあるのかもしれない。
「もう一回誘ってみようか? 私たちも着いていくから」
「いや、俺たちのほうが嫌われてるから行かない方がいいだろ。それに喧嘩になるし」
「じゃあ、どうするの?」
莉亜に言われると、「んー」と言いながら、樹は宙を見上げた。
沈黙の中を風が横切る。
「自分が思ってることを言ってみたら。ずっと蓮見に遮られてきただろ? あいつはまだ、葉山がどういう人間かを知らない。だから言葉が届かないんじゃねえの」
自分の言葉を届けたい。
届けたいと思っているが……
「たぶん無理じゃないかな。僕のことは信用しないって言ってたし。それに、余計に傷つけるような気がする」
怖かった。これ以上嫌われることも、蓮見を追い詰めてしまうことも。
本心では諦めたくないが、どこかで諦めている自分もいる。
『余計に傷つける』という言葉には、葉山自身も含まれていた。
自分という存在を守ろうとしている臆病さに嫌悪感も湧く。
揺れる感情に苦悶しながら、葉山は思考の中を彷徨っていた。
「なんでそんなに気を遣うんだよ。言われたことを全部鵜呑みにしてたら、自分が傷つくだけだろ。喧嘩になろうが、嫌われようが、本心ぶつけて来い。純粋な想いなら、届く言葉もあるはずだから。言いたいことも言わずに受け止めるだけの関係性は、優しさなんかじゃないぞ。ちゃんと自分のことも守ってやれ」
樹の言葉が心臓に突き刺さっていた棘を引き抜いた。
実際に変わりつつある樹だからこそ、より響いたのかもしれない。
“お前も変われる”という想いがこもっているようにも感じた。
「そうだね、蓮見さんに言って……」
「薫」
竜一が言葉を制止させるように声をかけてきた。
「ちょっと散歩行こう」
「今からですか?」
「うん」
なぜかは分からないが、とりあえず「分かりました」と答える。
樹と莉亜も不思議そうに竜一を見ていた。
「悪いけど、あとやっといて」
「え?」
莉亜のリアクションを流すように、竜一はコテージの方へと歩き出した。
葉山は二階に目をやった後、竜一の背中を追った。
波音で鼓膜を濡らしながら、海沿いの道を竜一と歩いていた。
夕陽に染められた砂浜は絵画のように美しく、胸の中で渦巻く苦悩を優しく撫でる。
「なあ薫、自分のこと好きか?」
竜一の質問に言葉を詰まらせた。
正直嫌いだ。それは今だけではなく昔から。
「傷ついたときに人を憎む人間もいれば、優しくなれる人間もいる。薫は後者だ。自分が辛い経験をした分、人を傷つけないようにするだろ? それは才能だ。誰でもそう思えるわけじゃない。まあ、恨むことが悪ってわけでもねえが、恨んでる方が楽だ。感情に逆らわずに生きられるから」
長い目で見れば、苦しむのはこっちだけど。と、竜一は付言する。
「薫は相手を見て行動できるが、気遣いが過ぎて迷ってしまう。それが自分を傷つける原因だ。もっと自信を持て。お前の優しさは間違ってない」
幼い頃から周りを気にしながら生きてきた。
その生き方に疲れ、死のうと考えたこともある。
逃げ場すら見つからなかったが、蓮見のおかげで道を探すことができた。
だが今は、その恩人のことで迷っている。
「色々と考えすぎてしまうんです。その結果、何も言えずに自分を傷つける。何かを得て失うことはあるけど、何もしなければただ失うだけ。僕は後者です。こんな自分が昔から嫌いでした」
「ファミレスで働いてたんだよな」
「はい。そこの店長のパワハラが酷くて、人生から飛び降りようとしました。でも蓮見さんのおかげで踏みとどまることができた。それと、一瞬だけ変わることも。思い出すと傷が疼くので、完全には癒えてないですけど」
葉山は立ち止まり、海に視線を移した。
水平線に落ちていく夕陽が、感情に侘しさを灯す。
「たとえその傷が消せなくとも、その傷の先に描けるものはある。道にすらならない傷はただの傷だ。でも生かすことはできる。自分がどう生きたいかを明確に持てれば、あとは勇気があればいい。必要なのものは、大抵自分の中にある」
「今は傷の先を描けてません。だから道にしないといけない。僕は一人のアイドルに命を救われました。そしてその相手が目の前にいる。きっと神様が繋ぎ合わせてくれたんです。この出会いにも、この傷にも、意味を持たせようとしてくれているのかなって。きっとそれが道になるような気がするんです」
「偶然を奇跡に変えるためには、自分の力で成し遂げなければいけない。出会えたことに意味を付けるのは、神様じゃなくお前だ。もちろんその傷もな」
竜一は覚悟を持たせようとしているのだろうと感じた。
ただ肯定だけをする優しさではなく、進ませるための優しさ。
今までの自分に足りない部分だったように思える。
人との会話の中にも種があり、知らない間に拾っていることがある。
必要なものは自分の中にあるというのは、その種を見つけられるかどうかだ。
竜一は言葉の中に種を植えて渡してくれている。
優しさとは目に見える部分だけじゃないと、葉山は知った。
「そうですね。僕が意味を付けなきゃ、何も変えることはできない」
「根本から腐ってる奴は種があっても咲きはしない。たとえ弱かったとしても、自分を嫌いだったとしても、その種を咲かせられる心を持っていれば人は変われる。薫の強みは優しいとこだ。でも自分を傷つけるような優しさは優しさじゃない。相手のことばかりではなく、自身にも目を向けろ。一人で痛みを背負う必要はない」
蓮見を救いたいという想いが先行し、自分の傷を見ていなかった。
今は力になりたいという意思で痛みを軽減できているが、もし自分には無理だと諦めてしまえば、傷はさらに深いところまで刻まれる。
そうなれば、二度と立ち直ることができなくなるかもしれない。
そして誰かを救いたいという願いも放棄し、優しさすらも嫌悪してしまう。
竜一はきっと、ノートに書いた過去の傷跡を見ている。
だから懸念していたのだろう。
目的地を失ってしまうことを。
「蓮見は誰かを信じることが怖いんだと思う。それで自分を守ろうとするあまり、人を遠ざける。その状態で言葉をかけても、たぶん受け取れない。今は世の中のものすべてが汚れて見えてるだろうから。このままだとお互いの傷が深まるだけで終わる」
「何も言わないで、そっとしとくほうがいいってことですか?」
「そうじゃない。まずは伝わりやすくするための土台を作るんだ」
土台?
葉山は心の中で疑問符を打った。
竜一の言っていることが想像もつかなかったから。
「企業理念で“お客様のために”って言葉を使ったりするだろ?」
「はい」
「普通は『どうせ外向けの言葉でしょ』って受け取る奴がほとんだ。でも、『お客様のために』って言葉にバックボーンがあったとするなら、受け取り方は変わる」
「理由があるって意味ですか?」
「そう」
葉山はまだ意味が分からず、怪訝な表情を浮かべながら竜一の言葉を待った。
「例えば、その理念をあげている企業の社長が貧困家庭で育ったとする」
「はい」
「幼い頃に食べるものがなくて困っていたが、定食屋の老夫婦にタダでご飯を食べさせてもらうことがあった。少年は『いつかお金を持ってくる』と伝えたが、店主は首を振ってこう答えた。『他にも困ってる人がたくさんいるから、そのお金はあなたと同じような人を救うために使いなさい。優しさというバトンを渡すことで世の中が良くなるから』と。その恩を繋ぐために、私たちは“お客様のために”全力を尽くしているんですって言われたら、同じ言葉でも聞こえ方が変わるだろ?」
「確かに」
「人は理由を知ることで理解を経て、共感へと繋がれていくんだ。これが土台を作る方法の一つ」
「過去の話を蓮見さんにしてからの方が、言葉が伝わるってことですか?」
「話したところで、今の蓮見には受け取ってもらえるかは微妙だ。そもそも他人の言葉を疑ってる節がある」
「じゃあどうすれば?」
「ノートがあるだろ?」
コテージに来てすぐに、過去のことやこれから自分がどうなりたいかをノートに書いた。言わばバックボーンだ。
「あれは蓮見が来る前に書いたものだし、口から出たものでもない。これ以上に信用できるものは現状ないだろ。薫の本心が綴られたものを見れば、言葉の受け取り方だって変わる可能性もある。他人を知ろうとするには表面から入らなければならない。心っていうものは目に映らないから。だから蓮見は苦しんでる。どうやって信用していいか分からなくて」
どれだけ見栄えが良い料理でも、口の中に入れてみなければ味は分からない。
でもそれが毒である場合、口の中に入れてからでは遅すぎる。
自分を守るためには、手を付けないことが最善だ。
それが今の蓮見なのかもしれない。
「だけど、見てくれますかね?」
「大丈夫、俺が強引にでも見せるから。今のあいつには最高の処方箋になると思う。たぶんだけど」
「なってほしいです」
葉山は夕陽に染まる海を眺める。
寄せては返す波は、まるで人の心のように自分の世界と外の世界を行き来していた。