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三十七話 泥で引いた境界線

ー/ー



 平和と名付けられるような静かな朝だった。
 差し込む光が窓枠を影で映し出し、朝食が並ぶテーブルに線を描いている。
 一同がダイニングに着いた中、一つの空席が寂しさを催す。
 葉山はじっと席を見ていた。
 昨日から部屋に閉じこもっている、一人の元アイドルを心配しながら。

「食うか」

 竜一の声が合図となり、それぞれが朝食に手を付ける。
 だが葉山だけは両の手を膝上に置いたままだった。
 握りしめた拳は純粋な想いの表れであり、ファンとしての証だ。
 何もできない不甲斐ない自分。
 命を救ってくれた人に恩返しもできない悔しさ。
 推しに勇気も与えられない未熟さ。
 爪痕の残る手のひらには、色んな想いが詰まっていた。

「葉山くん、心配なのは分かるけど食べた方がいいよ」

「そういや、昨日の夜も食事とってなかったろ? 自分の心配もしろ」

「うん……」

 莉亜と樹の言葉に頷きはするが、胸に詰まった複雑な感情たちが食欲を葬る。
 昨夜、ネットで蓮見のことを調べた。
 デビューから引退までの点と線を辿り、どんな言葉をかけたらいいのかを考えた。
 大きな変換点は男性との写真だろう。
 蓮見は否定していたが、彼氏と断定している人も多くいた。
 その中にはファンだった人もいる。
 もし蓮見の言う通り、同級生に急に抱きつかれていたとしたら、その疑いを拭いきれていない状況は苦しかったはずだ。
 ファンにすら信じてもらえないとなれば、ファンを嫌いになる理由も頷ける。
 自分の言葉よりも、たった一枚の写真を信用してしまうのだから。

「おはよう」

 竜一がドアの方を向いて言った。
 そこには蓮見の姿があり、目線を泳がせながら立ちすくんでいた。

「蓮見の分もあるから、座って」

 竜一に言われると、蓮見は重たそうに足を踏み出した。
 席に着くと、誕生日席に座っている蘭が蓮見に向かって笑顔を浮かべる。
 蓮見は子供の無邪気な笑顔に「お、おはよう」と戸惑いながら返した。
 平穏な光景にも見えるが、きっと蓮見は苦しんでいるのだと思う。
 この場所に来ているということは、一人では抱えきれないものがあるからだ。
 攻撃的になる理由も、きっと意味があるはず。
 葉山は肺に酸素を送り込んだ後、大きく息を吐いた。
 何かを変えようとするとき、人は勇気を持たなければならない。
 傷がつくかもしれないが、それでも前に進まないといけないときがある。
 命を繋いでくれた恩人のためにも、光を与えてくれた推しのためにも、痛みは堪えなければ。

「蓮見さん」

 蓮見は研いだ刃物のような視線をぶつけてきた。
 葉山は一瞬怯むが、恐れを飲み込んで話しかける。

「しつこいかもしれないけど、もし苦しんでいるなら協力したい。前にテレビのインタビューで泣いていたことがあったよね? あのときの言葉で僕は救われたんだ。だから今度は僕が力になりたい。誰も信用できなくなってるなら、信用してもらえるように頑張るから……だから……」

「だから言ったでしょ。私は自分のファンが嫌いなの。信用できない相手の言葉を信用できると思う? 覚悟もないのに力になりたいなんて言わないでよ」

 蓮見の鋭利な口調は、葉山の差し出した優しさを切断した。
 食卓には重苦しい空気が漂い、平穏な朝に雲をかける。

「蓮見さん、もう少し言い方があるんじゃない? 葉山くんは純粋な気持ちで協力したいって言ってるだけだよ」

「純粋? どうせ下心でしょ。私のファンなんてそんな奴しかいない。自分の価値観を押し付けて、アイドルを自分のおもちゃとしてしか見てないクズ。それが私のファン。優しくすれば付き合えるとか思ってる? 馬鹿にしないで。男はヤレるかどうかでしか女を見てないの。こいつも一緒」

「そんな言い方しなくていいんじゃない。葉山くんは本当に助けたいと思って言ってるんだよ。なんで力になってくれようとする人を突き放すの?」

「助けてなんて頼んでない! もう関わろうとしないで。期待させるようなことも言わないで。それが苦しくさせるの。一生一人でいい。誰の力も借りるつもりなんてない。他人といるくらいなら孤独の方がマシ。だからこれ以上、優しさなんて見せないで。私はあなたを信用することはない」

 蓮見の指先は葉山に向いていた。
 心の底から叫んでいるような言葉。その一つ一つが葉山の心臓に突き刺ささり、痛みへと変わっていく。

「なんで敵を作ろうとするんだよ。自分から苦しい方へ行くだけだろ。それに、助けてほしいからここに来たんじゃねえの? 俺とか池田ならともかく、葉山は信用できるだろ。お前に散々言われながら暴言の一つも吐いてない。それはファンだからっていう理由だけではできることじゃないだろ。頼ってもいいんじゃねえか、葉山だったら」

 樹の言う通り、もし誰にも関わってほしくなかったらここには来ない。
 さっきの言葉も本音のようには感じなかった。
 力を借りたいけど、借りられない。
 そんな想いが言葉に込められているように思える。

「それができるなら、とっくにやってる。もう苦しみたくないし、こんな自分なんか捨ててしまいたい。でもできないの。だから関わろとしないで。期待も希望も見せないで。どうせ辛くなるだけだから。ほっといてくれることが一番助かる。自分のことだけ考えてればいい。私に手を差し伸ばしても苦しくなるだけだよ」

 蓮見は席から立ち上がると、リビングを出て行った。
 葉山の右手はズボンを握りしめており、皺の一つ一つが悔しさを表現しているようだった。


 蓮見は自分の部屋に戻ると、ベッドに横たわった。
 真っ白な天井を眺めながら、自分の吐き出した言葉に胸を痛める。
 本心では誰かに助けてほしいと願っているのに、実際は突き放してしまう。
 過去の経験からくる不安が、差し伸べられた手に拒否反応を示す。
 見放されるのではないか。
 裏切られるのではないか。
 また傷つけられるのではないか。
 自分を守るようにして、思考はネガティブに足を踏み入れようとする。
 間違っていると頭では分かっているが、コントロールすることができない。
 痛みを伴う記憶が、周りの人間すべてを敵と認識させていた。

「入っていいか?」

 ドアがノックされた後、声が聞こえた。
 たぶん竜一だろう。
 蓮見は寝たふりをしようか迷ったが、「うん……」と答えていた。
 竜一は部屋に入ってくると、机の下に収まっていたキャスター付きの椅子を引き、腰をかけた。
 蓮見は起き上がり、顔を伏せながら体育座りで向き合う。

「出てけって言うなら、出てくけど」

 不貞腐れて言う自分に嫌悪感を抱いた。
 まるで子供みたい。
 全部私が悪いのに。
 蓮見がそう思っていると、竜一が口を開く。

「そんなこと言いに来たわけじゃない」

 伏せた顔を上げ、竜一に視点を合わせる。

「アイドル時代のことをネットで見たよ。大変だったな」

 あまり知られたくはなかった。
 覚悟はしていたが、自分の過去を覗かれると少しだけ息がしづらくなる。

「何かを信じるって簡単にできることじゃないし、無理に信用しようとしなくてもいい。今は自分を楽にしてあげることを考えろ。余白がなければ、愛情や優しさを受け取ることもできない。言い訳や逃げるという行為はそのためにある。でも、余裕が生まれたらちゃんと自分と向き合え。背を向けたままの人間に声をかけてくれるほど、この世界は優しくない」

「優しさなんていらないし、他人を信用することもない。どうせみんな自分のことしか考えてないんだから。利己的な人間に近づかれても迷惑なだけ。だったら一人のままでいい」

 嘘だ。本当は救ってほしい。
 竜一を部屋に入れたのも、手を差し伸べてくれるかもと思ったからだ。
 でも本心とは裏腹に、言葉は真逆の方向へと向かってしまう。
 そして正当化するように、他人を批判する。

「じゃあ、なんでここに来た?」

 竜一の言葉に蓮見は口を噤ませた。
――本当は助けてほしいんだろ
 質問の裏側には、そんな意味も含まれているように感じた。
 まるですべてを見透かしたような竜一の視線に、蓮見は言葉を見失う。

「守ってくれるのが自分しかいなかった。だから傷がつかないように人を突き放す。でも何かを変えたかったから、ここに来た」

 本音を代弁されているようだった。
 今ここで、全部の苦しみを吐き出してしまいたい。
 でも人を信用するという恐怖が、湧き上がってくる言葉たちを喉元で堰き止める。

「今は周りを敵にするほうが楽だろ? それは否定しない。でも誰かを恨み続けていたら、一生苦しさは纏わり付いてくる。邪念は際限なく生み出され、自分という存在を肯定してくれるから。だけど何かを変えてくれることはない。頭の中だけで善悪を判断し、世の中が悪いと大義名分を作れば、否定することでしか自分を保てなくなる。アイドルをやっていたときにもいただろ? 批判ばかりして自分を棚に上げるような奴。誰でも怪物になり得るんだよ。そうならないために、自分と向き合う必要があるんだ」

 嫌悪していた人間に近づいていることは分かっていた。
 でも止めることができないし、汚れていくほうが痛みを感じないで済んだ。
 綺麗なものを見ようとすれば、また傷がつくかもしれないから。

「過去のインタビューを見る限り、真面目に生きようとしているのは感じた。でも何かしらの出来事があり、自分が理想とする生き方ができなくなった。今は強いられた道を、迷いながら歩いているように見える」

 何ひとつ竜一には話していないが、予想は正しかった。
 ファンの中には蓮見のことをまったく理解できていない人間もいたが、たった数日しか顔を合わせていない竜一は、心に閉まっていた苦悩に触れてきた。
 長年見てるからと言って、解像度が上がるわけではない。
 きっとどう見るかが大切なのだろう。
 その見方を形成しているのが経験なのか、それとも天性のものなのかは分からないが、周りにはいなかったタイプの大人だと思った。

「勝手に自分の考えを押し付けないでよ。全部想像のくせに」 

 竜一に相談すれば解決するかもしれない。
 でも言葉は反対方向に歩き出し、差し伸べられた手から離れていってしまう。
 もっと素直になれたら、どれだけ楽に生きられたのだろう。
 人は少しくらい傲慢な方が幸せになれる。
 蓮見は自分の偏屈さを通して、そう感じた。

「まあ、どうあれ、線の引き方は間違えるな。苦しいときほど一括りにして物事を見てしまう。個人で線を引けないと、敵と味方の区別もつかなくなるぞ」

 葉山のことは信用していいのだろうか?
 ふとそんなことが頭によぎった。
 ファンと言えど、片山のような醜悪な人間には見えない。
 でも坂井のような人間だっている。
 初めは良い人だと思っても、心の中までは覗くことができない。
 見た目だけでは判断がつかないからこそ、どこに足を踏み入れていいのか分からなかった。
 その迷いが蓮見を苦しめ、結果、楽になりたくて人を突き放してしまう。

「夜にバーベキューをやるから、食べたくなったら降りてこい。蓮見の歓迎会も兼ねてるから」

「……行くわけないじゃん」

「まあ、好きにしたらいいよ」

 竜一は微笑を浮かべた後、ドアの方へと向かっていった。

「ねえ」

 蓮見が呼び止めると、ノブを掴んだまま竜一は振り返る。

「葉山って人は、なんで私を助けたいなんて思うの? あれだけ言われたのに怒ることもしない。ファンだとしても、失望して嫌いになるのが普通だと思う」

「本人に聞いてみたら?」

「それは……嫌だ」

 暴言を嵐の如く吐いたため、面と向かって話すことができなかった。
 どう喋っていいかも分からないし、“ファン”という怖さもある。

「じゃあノートの部屋に行け。そこに薫の過去や、なんでここに来たのかが記されてる。あと、蓮見のこともな」

「私のこと?」

「お前に救われたときのことが書かれてる。もし読みたくなったら言え。どのノートに書いてあるか教えるから」

 竜一はそう言って部屋を出て行った。
 一人になった蓮見は、前に葉山が言っていた言葉を思い出していた。

――前にテレビのインタビューで泣いていたことがあったよね? あのときの言葉で僕は救われたんだ

 小田との写真がネットに上げられ、四周年のライブではファンが揉めた。
 心身的に疲弊していた時期だったため、感情のコントロールが効かずにカメラの前で涙を流してしまった。
 きっとそのときのことを言っているのだろう。
 蓮見自信、何を言っているのかを覚えていなかった。
 ネットには上がっているらしいが、過去の自分を見ると苦しくなるため見返すことができない。
 葉山は蓮見のことを命の恩人と言っていたが、そんな大それたことを知らないうちにしていたことに驚きがあった。
 どんな言葉を、どんな想いで放ったのだろう。
 蓮見は記憶を辿ったが、思い出すことはできなかった。


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 自分の言葉よりも、たった一枚の写真を信用してしまうのだから。
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 平穏な光景にも見えるが、きっと蓮見は苦しんでいるのだと思う。
 この場所に来ているということは、一人では抱えきれないものがあるからだ。
 攻撃的になる理由も、きっと意味があるはず。
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 何かを変えようとするとき、人は勇気を持たなければならない。
 傷がつくかもしれないが、それでも前に進まないといけないときがある。
 命を繋いでくれた恩人のためにも、光を与えてくれた推しのためにも、痛みは堪えなければ。
「蓮見さん」
 蓮見は研いだ刃物のような視線をぶつけてきた。
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「だから言ったでしょ。私は自分のファンが嫌いなの。信用できない相手の言葉を信用できると思う? 覚悟もないのに力になりたいなんて言わないでよ」
 蓮見の鋭利な口調は、葉山の差し出した優しさを切断した。
 食卓には重苦しい空気が漂い、平穏な朝に雲をかける。
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「助けてなんて頼んでない! もう関わろうとしないで。期待させるようなことも言わないで。それが苦しくさせるの。一生一人でいい。誰の力も借りるつもりなんてない。他人といるくらいなら孤独の方がマシ。だからこれ以上、優しさなんて見せないで。私はあなたを信用することはない」
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 心の底から叫んでいるような言葉。その一つ一つが葉山の心臓に突き刺ささり、痛みへと変わっていく。
「なんで敵を作ろうとするんだよ。自分から苦しい方へ行くだけだろ。それに、助けてほしいからここに来たんじゃねえの? 俺とか池田ならともかく、葉山は信用できるだろ。お前に散々言われながら暴言の一つも吐いてない。それはファンだからっていう理由だけではできることじゃないだろ。頼ってもいいんじゃねえか、葉山だったら」
 樹の言う通り、もし誰にも関わってほしくなかったらここには来ない。
 さっきの言葉も本音のようには感じなかった。
 力を借りたいけど、借りられない。
 そんな想いが言葉に込められているように思える。
「それができるなら、とっくにやってる。もう苦しみたくないし、こんな自分なんか捨ててしまいたい。でもできないの。だから関わろとしないで。期待も希望も見せないで。どうせ辛くなるだけだから。ほっといてくれることが一番助かる。自分のことだけ考えてればいい。私に手を差し伸ばしても苦しくなるだけだよ」
 蓮見は席から立ち上がると、リビングを出て行った。
 葉山の右手はズボンを握りしめており、皺の一つ一つが悔しさを表現しているようだった。
 蓮見は自分の部屋に戻ると、ベッドに横たわった。
 真っ白な天井を眺めながら、自分の吐き出した言葉に胸を痛める。
 本心では誰かに助けてほしいと願っているのに、実際は突き放してしまう。
 過去の経験からくる不安が、差し伸べられた手に拒否反応を示す。
 見放されるのではないか。
 裏切られるのではないか。
 また傷つけられるのではないか。
 自分を守るようにして、思考はネガティブに足を踏み入れようとする。
 間違っていると頭では分かっているが、コントロールすることができない。
 痛みを伴う記憶が、周りの人間すべてを敵と認識させていた。
「入っていいか?」
 ドアがノックされた後、声が聞こえた。
 たぶん竜一だろう。
 蓮見は寝たふりをしようか迷ったが、「うん……」と答えていた。
 竜一は部屋に入ってくると、机の下に収まっていたキャスター付きの椅子を引き、腰をかけた。
 蓮見は起き上がり、顔を伏せながら体育座りで向き合う。
「出てけって言うなら、出てくけど」
 不貞腐れて言う自分に嫌悪感を抱いた。
 まるで子供みたい。
 全部私が悪いのに。
 蓮見がそう思っていると、竜一が口を開く。
「そんなこと言いに来たわけじゃない」
 伏せた顔を上げ、竜一に視点を合わせる。
「アイドル時代のことをネットで見たよ。大変だったな」
 あまり知られたくはなかった。
 覚悟はしていたが、自分の過去を覗かれると少しだけ息がしづらくなる。
「何かを信じるって簡単にできることじゃないし、無理に信用しようとしなくてもいい。今は自分を楽にしてあげることを考えろ。余白がなければ、愛情や優しさを受け取ることもできない。言い訳や逃げるという行為はそのためにある。でも、余裕が生まれたらちゃんと自分と向き合え。背を向けたままの人間に声をかけてくれるほど、この世界は優しくない」
「優しさなんていらないし、他人を信用することもない。どうせみんな自分のことしか考えてないんだから。利己的な人間に近づかれても迷惑なだけ。だったら一人のままでいい」
 嘘だ。本当は救ってほしい。
 竜一を部屋に入れたのも、手を差し伸べてくれるかもと思ったからだ。
 でも本心とは裏腹に、言葉は真逆の方向へと向かってしまう。
 そして正当化するように、他人を批判する。
「じゃあ、なんでここに来た?」
 竜一の言葉に蓮見は口を噤ませた。
――本当は助けてほしいんだろ
 質問の裏側には、そんな意味も含まれているように感じた。
 まるですべてを見透かしたような竜一の視線に、蓮見は言葉を見失う。
「守ってくれるのが自分しかいなかった。だから傷がつかないように人を突き放す。でも何かを変えたかったから、ここに来た」
 本音を代弁されているようだった。
 今ここで、全部の苦しみを吐き出してしまいたい。
 でも人を信用するという恐怖が、湧き上がってくる言葉たちを喉元で堰き止める。
「今は周りを敵にするほうが楽だろ? それは否定しない。でも誰かを恨み続けていたら、一生苦しさは纏わり付いてくる。邪念は際限なく生み出され、自分という存在を肯定してくれるから。だけど何かを変えてくれることはない。頭の中だけで善悪を判断し、世の中が悪いと大義名分を作れば、否定することでしか自分を保てなくなる。アイドルをやっていたときにもいただろ? 批判ばかりして自分を棚に上げるような奴。誰でも怪物になり得るんだよ。そうならないために、自分と向き合う必要があるんだ」
 嫌悪していた人間に近づいていることは分かっていた。
 でも止めることができないし、汚れていくほうが痛みを感じないで済んだ。
 綺麗なものを見ようとすれば、また傷がつくかもしれないから。
「過去のインタビューを見る限り、真面目に生きようとしているのは感じた。でも何かしらの出来事があり、自分が理想とする生き方ができなくなった。今は強いられた道を、迷いながら歩いているように見える」
 何ひとつ竜一には話していないが、予想は正しかった。
 ファンの中には蓮見のことをまったく理解できていない人間もいたが、たった数日しか顔を合わせていない竜一は、心に閉まっていた苦悩に触れてきた。
 長年見てるからと言って、解像度が上がるわけではない。
 きっとどう見るかが大切なのだろう。
 その見方を形成しているのが経験なのか、それとも天性のものなのかは分からないが、周りにはいなかったタイプの大人だと思った。
「勝手に自分の考えを押し付けないでよ。全部想像のくせに」 
 竜一に相談すれば解決するかもしれない。
 でも言葉は反対方向に歩き出し、差し伸べられた手から離れていってしまう。
 もっと素直になれたら、どれだけ楽に生きられたのだろう。
 人は少しくらい傲慢な方が幸せになれる。
 蓮見は自分の偏屈さを通して、そう感じた。
「まあ、どうあれ、線の引き方は間違えるな。苦しいときほど一括りにして物事を見てしまう。個人で線を引けないと、敵と味方の区別もつかなくなるぞ」
 葉山のことは信用していいのだろうか?
 ふとそんなことが頭によぎった。
 ファンと言えど、片山のような醜悪な人間には見えない。
 でも坂井のような人間だっている。
 初めは良い人だと思っても、心の中までは覗くことができない。
 見た目だけでは判断がつかないからこそ、どこに足を踏み入れていいのか分からなかった。
 その迷いが蓮見を苦しめ、結果、楽になりたくて人を突き放してしまう。
「夜にバーベキューをやるから、食べたくなったら降りてこい。蓮見の歓迎会も兼ねてるから」
「……行くわけないじゃん」
「まあ、好きにしたらいいよ」
 竜一は微笑を浮かべた後、ドアの方へと向かっていった。
「ねえ」
 蓮見が呼び止めると、ノブを掴んだまま竜一は振り返る。
「葉山って人は、なんで私を助けたいなんて思うの? あれだけ言われたのに怒ることもしない。ファンだとしても、失望して嫌いになるのが普通だと思う」
「本人に聞いてみたら?」
「それは……嫌だ」
 暴言を嵐の如く吐いたため、面と向かって話すことができなかった。
 どう喋っていいかも分からないし、“ファン”という怖さもある。
「じゃあノートの部屋に行け。そこに薫の過去や、なんでここに来たのかが記されてる。あと、蓮見のこともな」
「私のこと?」
「お前に救われたときのことが書かれてる。もし読みたくなったら言え。どのノートに書いてあるか教えるから」
 竜一はそう言って部屋を出て行った。
 一人になった蓮見は、前に葉山が言っていた言葉を思い出していた。
――前にテレビのインタビューで泣いていたことがあったよね? あのときの言葉で僕は救われたんだ
 小田との写真がネットに上げられ、四周年のライブではファンが揉めた。
 心身的に疲弊していた時期だったため、感情のコントロールが効かずにカメラの前で涙を流してしまった。
 きっとそのときのことを言っているのだろう。
 蓮見自信、何を言っているのかを覚えていなかった。
 ネットには上がっているらしいが、過去の自分を見ると苦しくなるため見返すことができない。
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 どんな言葉を、どんな想いで放ったのだろう。
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