「もうアイドルを続けることはできません」
蓮見は事務所へ行き、社長とマネージャーにそう告げた。
自分が目指していた理想への道は、もう断たれている。
数多の石が投げられ、通行することは不可能だ。
“自分と同じような人たちを変えたい”
そんな想いで今日まで続けてきた。
だが自分と同じような人間は、こんなアイドルなど嫌悪するだろう。
何一つ悪いことなどしてはいないが、表の印象ですべて判断されてしまう。
たとえ天使だったとしても、悪魔のような格好をしていれば誰も近づきはしないし、耳を貸すこともないから。
「今回のことはアイドルとして致命的だが、時間が経てばほとぼりも冷める。今は耐えよう」
社長の言葉は耳には入っているが、心までは届いていなかった。
アイドルとしての価値が無くなった今、続ける意味が何一つ見つからない。
道なき道をどう進めばいいのかも分からないし、目的地すら作ることもできない。
選択肢は一つしかなかった。
それ以外、残されていないから。
「無理です。私が目指してきたものは、二度と掴むことすらできないから。それと、他人のために何かを犠牲にするってことをしたくないんです。腐った人間に笑顔を作ることも嫌だし、道徳も分からないクズに人生を左右されることも許せない。もう蓮見千佳は死にました。これからは自分を守るために生きていきます」
社長とマネージャーは口を半開きにして驚いていた。
今までの蓮見だったら「クズ」なんて言葉は使わなかっただろう。
でも今は息を吐くように言える。
思考や生き方が変われば、それは言葉にも影響する。
どう生きていくか、何を守りたいか、何をされたくないか。
心に置いているもので、使う言葉は変わる。
「千佳ちゃん、今は苦しい時期だけど自暴自棄になってはダメ。まだやり直せるし、頑張ればまた振り向いてもらえる」
「誰にですか? ファンにですか? あいつらはアイドルを自分のおもちゃだと思ってる。なんでそんな奴らに、私の人生を捧げなければいけないんですか?」
「全員が悪い人ってわけじゃないでしょ? 千佳ちゃんのことを今も応援してくれる人もいるし……」
「そんなの分からない! いつ手のひらを返すかも分からない人間をどう信じたらいいの? ファンなんて所詮は他人だし、善人ぶってるだけかもしれない。『私はこんなときにでも推しを励ます良い人ですよ』っていうアピールの可能性だってある。誰も信じたくないし、裏切られるのも、利用されるのも嫌。二人だって私を稼ぐための駒としか思ってないんでしょ? アイドルはビジネスの道具でしかないんでしょ? もう他人のために生きたくないの! 解放されたい。こんな腐った世界から。優しく生きようとする自分からも」
自分が自分ではないみたいだった。
でも何も気にせず言葉を吐けることは楽だった。
初めからこんな生き方ができていたら、きっと違う道に進んでいたのかもしれない。
「でも他の仕事はどうするんだ? 今辞めるなんてことはできないぞ」
「今入ってる仕事はこなします。でも新しい仕事は入れないでください。ていうか、もうオファーも来ないと思うけど」
「辞めちゃダメだよ。千佳ちゃんは才能があるから絶対にやり直せる」
マネージャーは必死になって止めてきた。
だが、選択肢など蓮見にはない。
「お金のことしか考えていない人たちに指図されたくないんです。二人は信念の意味すら分からないでしょ?」
「ちゃんと“みんな”のことを考えてる。どうやったら知ってもらえるのか、どうやったらファンを増やせるのかって」
「そこに“アイドルとしての意味”が入ってないんですよ。結局売れれば正解だと思ってる人間に、私の気持ちなんて理解できない。それと、みんなのためを考えてるなら、あのクズ共をちゃんと教育した方がいい。努力すらできない人間に、人の心は掴めない。掴めたとしても、そいつらは表面でしか人を見れないクズだし、そんな奴らはすぐに離れていく。もっとビジネス以外のことも考えた方がいいですよ。だからこの事務所は大手になれない」
「蓮見、誰に言ってるのか分かってるのか? 俺は事務所の社長だぞ」
「もう辞めるので、ただの他人です」
蓮見はそう言い残して事務所を出て行った。
社長の言う通り、言い方は失礼だし、あまりに態度が悪すぎる。
でも、こうでもしないと自分を守ることなんでできない。
一度舐められたら、骨の髄までしゃぶられる。
弱さを見せたら恣意的に振る舞われ、心が折れるまで貪り尽くされる。
もうそんな生き方などしたくない。
この考えが間違っているかどうかなど、蓮見には関係なかった。
ただ、楽になりたい。
何者にも縛られない、そんな自由が欲しかった。
芸能界を辞めてから半年経ち、蓮見は意味もなく乗った電車の中で揺られていた。
握手会の出来事や写真の件でいくつかの仕事が飛んだため、思ったよりも早くピリオドを打つことができた。
グループは蓮見がいなくなってから人気が落ち、今は小さなライブハウスで活動しているようだ。
辞めてからの半年はずっと無気力だった。
就職する気も起きず、貯金を食い潰しながら部屋に引きこもる生活を続けている。
このままではダメだと分かっていても、社会に溶け込む勇気が持てない。
助けてほしい。
これが今の正直な気持ちだった。
でも誰でもではない。
信頼できて、自分が自分でいられる人の側で花を育てたい。
ただ枯れてゆく世界では、希望は咲かないから。
平日の昼ということもあり、電車の中にはほとんど人がいなかった。
蓮見は同じ車両に座る人たちを見ながら、『みんな何かを抱えて生きているのだろうか?』というような疑問を抱いた。
目には見えないが、心に傷を負って苦しんでいる最中なのかもしれない。
もしかしたら自分と同じように、生き方を見失ってしまったのかもしれない。
そう考えると、どこか仲間意識が芽生えてくる。
蓮見はスマホを取り出し、『人生を休みたい』と入力した。
自分のことを知っている人が、誰一人としていない場所に行きたい。
アイドルの蓮見千佳ではなく、一人の人間として見てくれる人たちと出会いたい。
そんな想いで、検索ボタンに親指を置いた。
スクロールしていくと、“人生の休憩所”という文字が目に入ってきた。
そこには『コテージ・時の花』と書かれている。
クリックすると詳細が記載されていた。
苦しんでいる人、迷っている人、死にたいと思っている人など、人生に行き詰まった人が三ヶ月だけコテージに宿泊できるらしい。
料金は無料で、登録なども不要。ホームページに表記されている電話番号に掛けるだけでいいみたいだ。
怪しい。
そう思ったが、何かに縋りたかった。
普段なら目にも止めないが、彷徨っている蓮見からしたら神の手のようにも感じていた。
何より、同じように人生に苦しんでいる人たちが集まっている。
ここだったら自分という存在が認められるかもしれない。
良き理解者に出会えて、共感して支えてくれる人が待っているかもしれない。
電車が駅に着くと、降車して電話をかけていた。
一人では歩くことさえもままならないため、力を貸してほしかった。
閉ざされた道をこじ開けてくれるような人に会い、希望という光を差してほしかった。
今なら神に縋る人の気持ちも理解できる。
孤独の中では、幻想にしか頼ることができないのだから。
「もしもし」
高齢の男性の声だった。優しい声が鼓膜に触れる。
「ホームページを見て……」
それから一週間後、土屋という男性とコテージに向かった。
そこには自分と同世代の人が三人おり、高校時代やアイドルをしていたときの記憶が蘇った。
舐められてはいけない。
弱さを見せてはいけない。
また同じ道を歩んではいけない。
付けられた傷が知らないうちに呪いに変わっていた。
握手をしてこようとした女性、面倒な顔をしていた男性はメンバーを思い出させた。
記憶は感情を煽り立て、コントロールできない呪縛は暴言となり、目の前の人たちに牙を向けた。
でも仕方ない、自分を守るためだ。
これ以上、心に傷を付けたくない。
そんな想いが、誰も踏み込むことのできない境界線を引いてしまっていた。
それと葉山の存在も大きい。
自分のファンだと聞いて、すぐに片山の顔がよぎった。
価値観を押し付けてきた醜いファン。
近づけてしまったら、また心が蝕まれてしまう。
過去の経験から防衛本能が過剰に働き、より強い言葉を使って遠ざけた。
――これでいい
――本当にいいの?
――だってあいつは私のファンだよ
――みんながみんな、そんな人じゃない
――下劣な人間だって知ってからじゃ遅いの。また傷を作りたいの?
――でも……
アイドルになる前の蓮見千佳と、アイドルになってからの蓮見千佳が自分に語りかけてくる。
どちらが正しいかなんて分かるはずもない。
もう悩むことすら放棄したかった。
いつになったら楽になれるのか、これだけが知りたい。
蓮見は部屋の窓から見える水平線を瞳に映し、心に付いた傷をなぞっていた。