平穏がどれだけ幸せなものかを知るには、一度地獄へと落ちるといい。
退屈な日々が天国だったと気付けるから。
翌日から、メンバーによる陰湿な嫌がらせが始まった。
レッスンのときには靴を隠され、ドラマの台本には『便器です。使ってください』とマジックで書かれる。
ネットでは『蓮見千佳は人の男を寝取る、最低なクソ女』という虚言が毎日のように投稿され、毎回同じ人たちがリポストをしていた。ちょうど三人。
心に汚物を投げ込まれているようだった。
不法投棄される言葉たちは心臓を圧迫していき、処理することもままならないほど、日に日に疲弊を積み重ねる。
感情が汚れていくのが分かった。
いつもなら気にならないことも苛立つようになっていたから。
子供の泣き声、人前でイチャつくカップル、綺麗事を吐くコメンテーター。
神経が過敏になっているのか、過剰に反応してしまう。
インタビューでも綺麗な言葉を吐くことが辛くなってきた。
アイドルとして生きたいはずなのに、アイドルとして生きるのが苦しい。
全部脱ぎ捨てて、汚れた言葉を撒き散らしたいと考えるようになってきた。
綺麗で居続けるためには、綺麗な場所に身を置かなければならない。
汚れた世界では、汚れていることが美しいから。
千切れかけた糸で繋がってる心は、すでにぶら下がっているだけだった。
それでもドラマの撮影をこなし、周りには笑顔という嘘を振る舞う。
アイドルとしての信念が、蓮見千佳という人間を保たせていたのかもしれない。
番宣のためにテレビ局に来ると、控室のある廊下で中村裕樹とすれ違った。
隣にはマネージャーがおり、鞄を二つ持っている。片方は中村のだろう。
「千佳ちゃん久しぶり」
中村が爽やかな笑顔で手を振ってきたため、蓮見は軽い会釈で応える。
「番宣?」
「はい」
「最近頑張ってるみたいだね。社長も期待してたよ」
「中村さん、二人で話したいことがあるので、少しだけお時間をいただけますか」
「いいよ。何か相談?」
「はい」
「じゃあ楽屋で話そうか」
蓮見は自分の楽屋に中村を招いた。
蓮見のマネージャーには席を外してもらい、部屋には二人きりだ。
彼は甘い表情で、蓮見をじっと見ている。
まるで餌の付いた釣り針だ。
坂井は喰らいついた挙句、捨てられてしまった。
そして今は、蓮見の前に垂らされている。
「美沙が勘違いしてます。私が中村さんを奪ったって」
言葉を聞いた途端、中村の爽やかな顔が歪んだ。
姿勢を崩し、気怠そうに座椅子の背もたれに寄りかかる。
「なんだ、そっちか。相談しに来てくれたかと思ったのに」
「中村さんから美沙に言ってください。付き合ってはないし、一切関わりもないって」
「あいつ、重いんだよね。最初は健気で可愛かったから付き合ったんだけど、だんだん鬱陶しくなってきてさ。結婚したいとか吐かし始めたから、どう切り離そうかって困ってたんだよね。美沙って、別れたらストーカーになりそうじゃん? だから千佳ちゃんの名前出して、敵意を向けさせようって思ったの」
中村は笑いながら話していた。
まるで自分には関係のないことだと言うように。
「なんで私の名前を出したんですか? そのせいで恨まれてるんですよ」
「千佳ちゃんが悪いんだよ。人がせっかく推薦してあげたのに、現場では俺のこと避けてたでしょ? しかも連絡先の交換まで拒否した。他の子は縋ってでも欲しがってくるのに。芸能で生きていきたいなら、そんな不義理なことしちゃダメだよ。だから恨まれの」
「私はアイドルですから、男性と距離を置くのは当然です。推薦してくれたことは感謝するけど、それとこれとは違う」
「真面目すぎなんだよ、千佳ちゃんは。もっと遊んだ方がいいし、男を知ってた方がいい。なんなら教えてあげようか? 美沙とは遊びだったけど、千佳ちゃんとなら本気で付き合うよ」
異性で苦労したことがないのだろう。
言葉の節々に痛さが感じられるが、本人は自信満々だ。
蓮見のことを本気で落とそうと思っているだろうし、自分ならできるとも思っている。
違う世界の人間を目の当たりにして、蓮見は会話はできないと判断した。
だが、せめて理解してほしい。
畑は違えど、同じ業界で生きているなら。
法を犯してるわけでもないし、誰かに迷惑をかけてるわけでもない。
なのになぜ、自分の信念を貫けないのだろうか。
真面目なことは長所なはずだ。
だからファンを増やせたし、個人の仕事も増えた。
否定される理由もないし、否定してくる意味も分からない。
蓮見は苛立ちを覚えた。
腐った人間しかいない、この世界の不条理さに。
「出てってください。もうあなたとは話す気もないです」
「いいの? 美沙に恨まれたままで」
「自分の手でアイドルという存在を汚したくないんです。私の光だから」
「何が汚したくないだよ。路上で男と撮られてるじゃねえか。しかも週刊誌じゃなくてSNSで」
「あれは違います。美沙が……」
坂井に嵌められたことを言おうかと思ったが、蓮見は躊躇った。
こんな状況でも坂井のことを気遣ってしまう。
言えばいいのに、言えたらいいのに、言えば楽になれるのに。
分かっていながら優しさを手放すことができなかった。
今も感謝の気持ちが残っていたから。
「あんな綺麗事言っといて、裏では素人に股を開く。とっくに汚れてんじゃねえか。それでなにが『アイドルです』だよ。本当に終わってるな、お前」
「あれは彼氏じゃないです。高校の同級生で、急に抱きつかれ……」
「SNSでもそう言ってたけどさ、誰がそんな貧弱な嘘を信じるんだよ。お前がどれだけアイドル的な模範解答をしても、もう正解にはならない。なんでか分かる? 見てる奴らは『はいはい、そんなこと言っても、帰って彼氏とズッコンバッコンするんでしょ』ってなるから。お前にアイドルとしての価値はないんだよ。男の棒を咥えた口で清純派気取ってんじゃねえよ。アバズレ」
その言葉は蓮見の心を砕いた。
『アイドルになって、自分と同じような人を変えたい』
そんな想いで続けてきたが、もう叶わない。
たった一枚の花びらをなんとか守ってきたが、無情にも摘み取られてしまった。
進むべき道を見失った蓮見は、言葉すらも失っていた。
「需要も無くなるだろうし、あとは堕ちていくだけだな。まあ顔はいいから、お前のその汚え股には価値はあるかもな」
中村は砕け散った心を踏みつけるようにして、楽屋を出ていった。
どこかで分かっていた。自分の価値が下がっていることは。
でも、信じたくなかった。
希望を見失えば、生きることすら難しくなると分かっていたから。
ましてや、ずっと憧れていたアイドルという夢は命に等しい。
その命に傷が付けられ、血の代わりに涙を流す。
花が羨ましい。
枯れてもまた咲くことができるから。
だが、人はそうはいかない。
一度萎れてしまえば、あとはゴミ同然。
正統派のアイドルとして活動してきた分、リサイクルすらできない。
もう死んでしまいたい。
そんな想いが蓮見の心臓に咲いた。