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三十三話 蓮見千佳 回想⑨

ー/ー



 ライブから三日後、個人仕事を終えた蓮見はタクシーでレッスン場に向かっていた。
 この日はドラマの番宣を兼ねたインタビューがあり、テレビ局でアナウンサーからいくつか質問を受けた。
 不安定な精神で挑んだからか、初めて人前で涙を流してしまった。
 限界を迎えていることは蓮見自身も分かっている。
 ファン同士の争いを目の前で見てから眠れない日が続き、食事もまともにとれていない。
 心身共に疲弊しているがドラマの撮影も始まるため、休むことすらできなかった。
 社長とマネージャーからは「気にしなくていい」と言われたが、そんなことは無理に等しい。
 脳裏に媚びついたファン同士の罵声の撃ち合いは、蓮見の心臓にも傷跡を残した。
 アイドルとして、ファンを悲しませてはいけない。
 ビジネスで言ってると思われるが、蓮見は本気でそう思っていた。
 だからこそ自分が許せない。
 もう少し警戒すべきだったし、タクシーを使って移動していれば、小田に会うこともなかった。
 一番の懸念点は、アイドルとしての発言力がなくなってしまうことだ。
 自分と同じような人を変えたいという気持ちは今もある。
――懸命に取り組めば、人は変わることができる。自分がそうだったように。
 もし写真の男性が彼氏だと思われていたら、こんな言葉も綺麗事として受け取られてしまう。
 そうなれば影響力は失うし、誰かの人生に踏み込むことすら叶わなくなる。
 歩く道を失えば、生きている意味などない。きっと死にたいと思ってしまうだろう。
 それだけアイドルというものにすべてを賭けてきた。
 ネットはまだ見てない。
 反応が怖かったから。
 SNSの通知もすべて切っている。
 たとえ99の応援コメントがあろうが、一つの中傷で心が折れてしまう。
 ネットに流された一枚の写真は、真面目に生きてきた人間を死の淵まで導いていた。

「マジ、ざまあ」

 レッスン場に着き、扉を開けると中から声が聞こえた。
 メンバーたちは、何やら楽しそうに会話している。
 蓮見は扉を全開にせず、隙間から聞き耳を立てた。

「めっちゃ良い写真撮れたね。最高じゃん」
「でしょ? 前日に予行練習までしたんだから」

 三井と坂井の声だ。
 坂井の言う、予行練習とはなんのことだろうか。

「てかさ、この男の人誰?」

「千佳のことをやたら批判してるアカウントがあってさ、こいつは使えるかもと思ってDMしたの。そしたら高校の同級生で、千佳のことめっちゃ恨んでたんだよね」

 高梨の質問に坂井は流暢に答えていた。
 蓮見はまだなんのことか分からず、耳を澄ませる。

「なんてDMしたの?」

「『千佳にいじめられてるから助けてほしい。二度とアイドルができないようなダメージを負わせたいから手伝って』って」

「したら?」

「秒で『わかった』って返ってきた」

「そいつ、めっちゃ恨んでるじゃん。ウケる」

「なんでそんなに恨んでるの?」

「なんか、高校のときに連絡先聞いたら断られたらしいよ。だから後悔させたかったんだって」

「マジ、きっしょ」

「それな」

「でも顔は良かったよ。一応連絡先知ってるから教えようか? 確か小田っていったかな」

 淀みなく続く会話に、蓮見の頭は混乱していた。
 あの写真は計画的に撮られたもので、それを坂井が企てた。
 きっと歩道橋にいた女性が坂井だ。
 レッスン後に先回りして、服を着替えたのだろう。
 分からなかった。
 なぜそこまでするのかが。
 蓮見のことを恨んでいる様子ではあったが、思い当たる節はない。
 ただ真面目にアイドルをやってきただけで、坂井を傷つけたことなんてなかった。
 時折り見せた狂気的な表情に意味があるのだろうか。
 なにがそうさせていたのだろうか。
 蓮見の頭の中は複雑に絡み合い、色んな感情が混ざり合っていた。

「ていうかさ、千佳も酷いよね。美沙から彼氏奪ったんでしょ?」

「そういや、裕樹くんと付き合ってたんだっけ?」

 中村裕樹。
 事務所の先輩で、一度だけドラマで共演したことがある。
 彼の推薦で出演が決まり、現場では連絡先を聞かれた。
 だが断った。それ以降、話しもしていない。
 坂井と中村が付き合っていたことも知らなかったし、なにより驚いた。
 そして、なぜ奪ったことになっているのかが分からない。
 混乱が加速し、思考を回す余白も無くなっていた。

「恋愛はするなって言っといて、自分は裏でちゃっかりやってる。しかも人の彼氏と。ああいう清純ぶってる女にかぎってさ、実は股が緩いんだよね。男って、なんで見分けられないだろ」

「下半身でしか考えられないからっしょ」

「それな」

 四人の笑い声が鼓膜に響くと、蓮見はレッスン場に入っていった。
 すると楽しそうな笑みは一瞬で萎れ、三井たちの表情が凍りついていく。

「千佳……いたの?」

 三井は半開きにしていた口を動かし、蓮見に問いかけてきた。

「全部聞いた」

 そう言った後、坂井に視線を移した。
 彼女だけは刺すような視線で蓮見を見ている。
 瞳には憎悪が溢れ出しており、聞かれた気まずさなど一切感じなかった。

「美沙、ちょっと来て。話したいことがある」


 レッスン場を抜け出し、蓮見と坂井は公園に来た。
 五つある遊具では、子供たちが楽しそうに遊んでいる。
 公園の隅には木製のベンチがあり、その場所からは全体が見渡せた。
 青空の下で響く、鈴のような高い声。
 目に映る景色は平穏な日常だが、二人の間には陰鬱で澱んだ空気が流れていた。

「あの写真は美沙が撮ったの?」

 どこから話を切り出そうか迷ったが、まずは写真のことを聞いた。

「そうだよ。小田って奴と一緒に千佳をハメようと思ったの。絶対に許せなかったから。撮った写真はDMで暴露系のアカウントに送った。もちろん裏アカでね」

「彼氏を奪ったってどういうこと? 私には付き合ってる人なんていないし、美沙が中村さんと付き合ってたことも知らない」

 言下、坂井の表情は狂気を宿し、殺気に満ちた視線で蓮見を刺してきた。

「嘘言わないで。ドラマで共演してから裕樹くんは千佳のことばかり話すようになったの。別れるときも好きな人ができたって言われた。それって千佳のことでしょ? 人のもの奪っといて、なにが恋愛は良くないだよ。あんたみたいな清純派ぶってるクソ女が一番ムカつく」

「中村さんとはほとんど話してないし、連絡先すらも知らない。ましてや、付き合ってるなんて(もって)ての(ほか)。美沙が勝手に想像を膨らませてるだけでしょ。なんで私が恨まれなきゃいけないの? そんな汚いことをする前に、私に聞くべきだったんじゃないの? あんな一枚の写真でも他人の人生を壊せるんだよ。もっと考えてから行動すべき。付いた傷は簡単には消えないの。それは美沙が一番分かってるでしょ」

 もし同情すべき事情があったなら、ここまで感情的にはならなかっただろう。
 だが、だだの被害妄想だったことで怒りが湧いた。
 ましてや、いじめられていた経験がある坂井なら、人の痛みを誰よりも理解してるはずだ。
 傷を負った人間にしか見えない景色。
 それを知っていながら、なぜ簡単に人を傷つけるのかが分からなかった。

「うるさい! あんたが居なければ、私は裕樹くんと結婚してたの。そうすれば、いじめた奴らにも復讐できた。侮辱していた惨めな陰キャは、芸能人と結ばれて幸せな生活を送っている。これ以上の報復はないでしょ? もう少しだった。もう少しで裕樹くんと結婚できた。それなのに……千佳が全部壊していった」

 坂井が怒声を響かせたことで、子供たちの視線がこちらへと向けられた。
 蓮見はバレないように、咄嗟に顔を俯かせる。
 オーディションのときとは、もう別人だ。
 勇気を与えてくれた一人の女の子は、どこへ行ってしまったのだろう。
 二人はどこから別の道を歩むようになったのだろう。
 もしかしたら、初めから同じ道なんて歩いていなかったのかもしれない。

――私はいじめられてから学校にも行かず、ずっと引きこもっていました。そんな私を救ってくれたのがアイドルです。自分と同じような人を励ませるようになりたいと思って、ここに来ました

 坂井が自己アピールで言っていた言葉。
 これは本心だったのか、それともアイドルになるためだけの虚言だったのか。
 最早、何を信じていいのか分からなかった。

「ねえ、美沙。なんでアイドルになったの? オーディションのときの言葉は嘘だったの?」

 蓮見は地面に零すように吐いた。
 坂井の顔を見ることが怖かったし、口から吐かれる言葉も怖かった。
 せめて、あの頃だけは本当だったと言ってほしい。
 すべてを否定されたら、もう歩けなくなる。

「あのときの言葉に偽りはない」

 蓮見は顔を上げ、坂井に視線を送る。

「本気でアイドルになりたかった。いじめてた奴を見返すために。でもね、千佳という存在に心を折られたの。私では一番になれない。ずっと千佳の後ろを付いていくだけになる。それじゃあ意味がない。だけど初めは死ぬ気で努力をしてた。でも千佳は私以上に努力を重ねる。絶対に追いつけないと思ったし、二番で居続ける覚悟もなかった。そんなときに事務所で裕樹くんと会ったの。彼は気さくに話しかけてくれて、色々アドバイスをしてくれた。二人きりになったときには連絡先を教えてくれた。困ったことがあったら、いつでも相談してって。優しい人だなって思った」

 蓮見のときと同じだ。
 きっと彼のやり口なのだろう。
 芸能に足を踏み入れたばかりの不安を抱えた女の子。
 そんなときに優しさを見せられたら、ほとんどの人間が恋心を抱いてしまう。
 きっと坂井も同じだったはずだ。

「彼は私を特別扱いしてくれたの。誰かの一番になれないと思ってたけど、この人の一番にはなりたいと思った。だからすべてを捧げたの。彼が望むことなら何でもやった。たとえ苦しさを伴うことであっても、喜んでくれるなら身も心も捧げる。私にとって裕樹くんは、ファンよりも大切な存在だから。それなのに、なんで私から奪っていくの? あんたはアイドルとして生きられるんだから一人で頑張ってればいい。二番を目指すしかない人間は何を目標に生きていけばいいの? ずっと誰かの後ろで走り続けるなんてできるわけない。邪魔をしないで。裕樹くんをたぶらかさないで。もう、何も奪わないで」

 嫉妬も入っていたのかもしれない。
 自分が理想としていたアイドル像があったのかもしれない。
 でも、現実はそんなに甘くはない。
 坂井は心が折れてしまう前に方向転換した。
 アイドルとしてではなく、“芸能人と結婚”という幸せを見せつけることで、いじめてきた人たちに復讐しようと。
 だがそれすらも叶わなくなり、自暴自棄になってしまった。
 今は他責することで、自分を守っているように見える。
 でも、まだ間に合うかもしれない。
 被害妄想だと分かれば、一緒にアイドルとして輝ける。
 蓮見自身も追い詰められているが、懸命な姿をファンに見てもらえれば、誤解だと分かってもらえる。
 枯れかけていた希望という花を、もう一度育てようと思った。
 綺麗に咲かせるためには、一人ではできない。
 勇気をくれた坂井となら、同じ道を歩けるはずだ。
 そんな想いを灯し、蓮見は口を開いた。

「何も奪ってなんかないし、失ってもない。私たちはまだやり直せる。もう一度、本気でアイドルを目指そう? 一番とか二番とか、そんなの関係ないよ。あの日、美沙が私に勇気をくれたでしょ? アイドルって誰かの光になれるんだよ。人気とかそんなんじゃなくてさ、人は変われるってことを証明しよう。今回のことは許せないけど、でも水に流す。だから私と一緒に夢を叶えてほしい。私たちだから、できることがある」

 他の三人だったら絶対に許すことはできなかったが、坂井には恩がある。
 あの日くれた勇気を、一度たりとも忘れたことはない。
 蓮見は希望を込めて言葉を渡した。
 きっと受け取ってくれると信じて。

「は? バカじゃないの? 一緒に頑張るわけないじゃん。あんたが辞めれば、私が一番になれるかもしれないのに。清純派気取ってた分、あの写真は致命傷でしょ? フォロワー数も減ってたもんね。王道のアイドル路線で進んでのに、これじゃあ戻る場所もないね。本当にいい気味。そうだ、これからはヤらせてくれるアイドルで売ればいいじゃん。人のもの取れる倫理観なら、こんなの屁でもないでしょ? もう頑張って清純派なんか気取らなくていいし、楽になりなよ。てかさ、ドラマの出演も枕で取ったんでしょ? 裕樹くんに股開いて、プロデューサーにも股を開いて、次はファンに開く? アイドルとしての需要は無くなるだろうけど、穴としてだったら求められるよ。顔だけは良いか……」

 蓮見の右手は坂井の頬を平手で打ち抜き、汚れた言葉を叩き落とした。
 手のひらにはまだ感触が残っている。
 痛みとも言えない、痺れるような震え。
 初めての暴力は恩人にだった。
 二人の間には時が止まったかのような空気が流れており、子供たちの喧騒が鮮明に聞こえる。
 坂井は曲がった首をゆっくりと正面に戻し、瞳に狂気を宿した。

「許さない。絶対に。何をしてでも、あんたを潰す」

 もうアイドルとは呼べぬ顔だった。
 人の皮を剥ぎ取り、鬼を描いたその表情は常軌を逸している。
 殺意に満ちた目、歪んだ口元から見える食いしばった歯。
 絵に描いたような憎悪は、真っ直ぐと蓮見に向けられていた。

「後悔しろ、クソ女」

 坂井は怨念だけを残して、公園から去っていった。
 蓮見は自分に問う。
 したことは正しかったのか、それとも間違っていたのか。
 手のひらを見ながら考えたが答えなど出るはずもなく、胸を締め付ける絶望が痛みへと変換されただけだった。


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 この日はドラマの番宣を兼ねたインタビューがあり、テレビ局でアナウンサーからいくつか質問を受けた。
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 限界を迎えていることは蓮見自身も分かっている。
 ファン同士の争いを目の前で見てから眠れない日が続き、食事もまともにとれていない。
 心身共に疲弊しているがドラマの撮影も始まるため、休むことすらできなかった。
 社長とマネージャーからは「気にしなくていい」と言われたが、そんなことは無理に等しい。
 脳裏に媚びついたファン同士の罵声の撃ち合いは、蓮見の心臓にも傷跡を残した。
 アイドルとして、ファンを悲しませてはいけない。
 ビジネスで言ってると思われるが、蓮見は本気でそう思っていた。
 だからこそ自分が許せない。
 もう少し警戒すべきだったし、タクシーを使って移動していれば、小田に会うこともなかった。
 一番の懸念点は、アイドルとしての発言力がなくなってしまうことだ。
 自分と同じような人を変えたいという気持ちは今もある。
――懸命に取り組めば、人は変わることができる。自分がそうだったように。
 もし写真の男性が彼氏だと思われていたら、こんな言葉も綺麗事として受け取られてしまう。
 そうなれば影響力は失うし、誰かの人生に踏み込むことすら叶わなくなる。
 歩く道を失えば、生きている意味などない。きっと死にたいと思ってしまうだろう。
 それだけアイドルというものにすべてを賭けてきた。
 ネットはまだ見てない。
 反応が怖かったから。
 SNSの通知もすべて切っている。
 たとえ99の応援コメントがあろうが、一つの中傷で心が折れてしまう。
 ネットに流された一枚の写真は、真面目に生きてきた人間を死の淵まで導いていた。
「マジ、ざまあ」
 レッスン場に着き、扉を開けると中から声が聞こえた。
 メンバーたちは、何やら楽しそうに会話している。
 蓮見は扉を全開にせず、隙間から聞き耳を立てた。
「めっちゃ良い写真撮れたね。最高じゃん」
「でしょ? 前日に予行練習までしたんだから」
 三井と坂井の声だ。
 坂井の言う、予行練習とはなんのことだろうか。
「てかさ、この男の人誰?」
「千佳のことをやたら批判してるアカウントがあってさ、こいつは使えるかもと思ってDMしたの。そしたら高校の同級生で、千佳のことめっちゃ恨んでたんだよね」
 高梨の質問に坂井は流暢に答えていた。
 蓮見はまだなんのことか分からず、耳を澄ませる。
「なんてDMしたの?」
「『千佳にいじめられてるから助けてほしい。二度とアイドルができないようなダメージを負わせたいから手伝って』って」
「したら?」
「秒で『わかった』って返ってきた」
「そいつ、めっちゃ恨んでるじゃん。ウケる」
「なんでそんなに恨んでるの?」
「なんか、高校のときに連絡先聞いたら断られたらしいよ。だから後悔させたかったんだって」
「マジ、きっしょ」
「それな」
「でも顔は良かったよ。一応連絡先知ってるから教えようか? 確か小田っていったかな」
 淀みなく続く会話に、蓮見の頭は混乱していた。
 あの写真は計画的に撮られたもので、それを坂井が企てた。
 きっと歩道橋にいた女性が坂井だ。
 レッスン後に先回りして、服を着替えたのだろう。
 分からなかった。
 なぜそこまでするのかが。
 蓮見のことを恨んでいる様子ではあったが、思い当たる節はない。
 ただ真面目にアイドルをやってきただけで、坂井を傷つけたことなんてなかった。
 時折り見せた狂気的な表情に意味があるのだろうか。
 なにがそうさせていたのだろうか。
 蓮見の頭の中は複雑に絡み合い、色んな感情が混ざり合っていた。
「ていうかさ、千佳も酷いよね。美沙から彼氏奪ったんでしょ?」
「そういや、裕樹くんと付き合ってたんだっけ?」
 中村裕樹。
 事務所の先輩で、一度だけドラマで共演したことがある。
 彼の推薦で出演が決まり、現場では連絡先を聞かれた。
 だが断った。それ以降、話しもしていない。
 坂井と中村が付き合っていたことも知らなかったし、なにより驚いた。
 そして、なぜ奪ったことになっているのかが分からない。
 混乱が加速し、思考を回す余白も無くなっていた。
「恋愛はするなって言っといて、自分は裏でちゃっかりやってる。しかも人の彼氏と。ああいう清純ぶってる女にかぎってさ、実は股が緩いんだよね。男って、なんで見分けられないだろ」
「下半身でしか考えられないからっしょ」
「それな」
 四人の笑い声が鼓膜に響くと、蓮見はレッスン場に入っていった。
 すると楽しそうな笑みは一瞬で萎れ、三井たちの表情が凍りついていく。
「千佳……いたの?」
 三井は半開きにしていた口を動かし、蓮見に問いかけてきた。
「全部聞いた」
 そう言った後、坂井に視線を移した。
 彼女だけは刺すような視線で蓮見を見ている。
 瞳には憎悪が溢れ出しており、聞かれた気まずさなど一切感じなかった。
「美沙、ちょっと来て。話したいことがある」
 レッスン場を抜け出し、蓮見と坂井は公園に来た。
 五つある遊具では、子供たちが楽しそうに遊んでいる。
 公園の隅には木製のベンチがあり、その場所からは全体が見渡せた。
 青空の下で響く、鈴のような高い声。
 目に映る景色は平穏な日常だが、二人の間には陰鬱で澱んだ空気が流れていた。
「あの写真は美沙が撮ったの?」
 どこから話を切り出そうか迷ったが、まずは写真のことを聞いた。
「そうだよ。小田って奴と一緒に千佳をハメようと思ったの。絶対に許せなかったから。撮った写真はDMで暴露系のアカウントに送った。もちろん裏アカでね」
「彼氏を奪ったってどういうこと? 私には付き合ってる人なんていないし、美沙が中村さんと付き合ってたことも知らない」
 言下、坂井の表情は狂気を宿し、殺気に満ちた視線で蓮見を刺してきた。
「嘘言わないで。ドラマで共演してから裕樹くんは千佳のことばかり話すようになったの。別れるときも好きな人ができたって言われた。それって千佳のことでしょ? 人のもの奪っといて、なにが恋愛は良くないだよ。あんたみたいな清純派ぶってるクソ女が一番ムカつく」
「中村さんとはほとんど話してないし、連絡先すらも知らない。ましてや、付き合ってるなんて|以《もって》ての|外《ほか》。美沙が勝手に想像を膨らませてるだけでしょ。なんで私が恨まれなきゃいけないの? そんな汚いことをする前に、私に聞くべきだったんじゃないの? あんな一枚の写真でも他人の人生を壊せるんだよ。もっと考えてから行動すべき。付いた傷は簡単には消えないの。それは美沙が一番分かってるでしょ」
 もし同情すべき事情があったなら、ここまで感情的にはならなかっただろう。
 だが、だだの被害妄想だったことで怒りが湧いた。
 ましてや、いじめられていた経験がある坂井なら、人の痛みを誰よりも理解してるはずだ。
 傷を負った人間にしか見えない景色。
 それを知っていながら、なぜ簡単に人を傷つけるのかが分からなかった。
「うるさい! あんたが居なければ、私は裕樹くんと結婚してたの。そうすれば、いじめた奴らにも復讐できた。侮辱していた惨めな陰キャは、芸能人と結ばれて幸せな生活を送っている。これ以上の報復はないでしょ? もう少しだった。もう少しで裕樹くんと結婚できた。それなのに……千佳が全部壊していった」
 坂井が怒声を響かせたことで、子供たちの視線がこちらへと向けられた。
 蓮見はバレないように、咄嗟に顔を俯かせる。
 オーディションのときとは、もう別人だ。
 勇気を与えてくれた一人の女の子は、どこへ行ってしまったのだろう。
 二人はどこから別の道を歩むようになったのだろう。
 もしかしたら、初めから同じ道なんて歩いていなかったのかもしれない。
――私はいじめられてから学校にも行かず、ずっと引きこもっていました。そんな私を救ってくれたのがアイドルです。自分と同じような人を励ませるようになりたいと思って、ここに来ました
 坂井が自己アピールで言っていた言葉。
 これは本心だったのか、それともアイドルになるためだけの虚言だったのか。
 最早、何を信じていいのか分からなかった。
「ねえ、美沙。なんでアイドルになったの? オーディションのときの言葉は嘘だったの?」
 蓮見は地面に零すように吐いた。
 坂井の顔を見ることが怖かったし、口から吐かれる言葉も怖かった。
 せめて、あの頃だけは本当だったと言ってほしい。
 すべてを否定されたら、もう歩けなくなる。
「あのときの言葉に偽りはない」
 蓮見は顔を上げ、坂井に視線を送る。
「本気でアイドルになりたかった。いじめてた奴を見返すために。でもね、千佳という存在に心を折られたの。私では一番になれない。ずっと千佳の後ろを付いていくだけになる。それじゃあ意味がない。だけど初めは死ぬ気で努力をしてた。でも千佳は私以上に努力を重ねる。絶対に追いつけないと思ったし、二番で居続ける覚悟もなかった。そんなときに事務所で裕樹くんと会ったの。彼は気さくに話しかけてくれて、色々アドバイスをしてくれた。二人きりになったときには連絡先を教えてくれた。困ったことがあったら、いつでも相談してって。優しい人だなって思った」
 蓮見のときと同じだ。
 きっと彼のやり口なのだろう。
 芸能に足を踏み入れたばかりの不安を抱えた女の子。
 そんなときに優しさを見せられたら、ほとんどの人間が恋心を抱いてしまう。
 きっと坂井も同じだったはずだ。
「彼は私を特別扱いしてくれたの。誰かの一番になれないと思ってたけど、この人の一番にはなりたいと思った。だからすべてを捧げたの。彼が望むことなら何でもやった。たとえ苦しさを伴うことであっても、喜んでくれるなら身も心も捧げる。私にとって裕樹くんは、ファンよりも大切な存在だから。それなのに、なんで私から奪っていくの? あんたはアイドルとして生きられるんだから一人で頑張ってればいい。二番を目指すしかない人間は何を目標に生きていけばいいの? ずっと誰かの後ろで走り続けるなんてできるわけない。邪魔をしないで。裕樹くんをたぶらかさないで。もう、何も奪わないで」
 嫉妬も入っていたのかもしれない。
 自分が理想としていたアイドル像があったのかもしれない。
 でも、現実はそんなに甘くはない。
 坂井は心が折れてしまう前に方向転換した。
 アイドルとしてではなく、“芸能人と結婚”という幸せを見せつけることで、いじめてきた人たちに復讐しようと。
 だがそれすらも叶わなくなり、自暴自棄になってしまった。
 今は他責することで、自分を守っているように見える。
 でも、まだ間に合うかもしれない。
 被害妄想だと分かれば、一緒にアイドルとして輝ける。
 蓮見自身も追い詰められているが、懸命な姿をファンに見てもらえれば、誤解だと分かってもらえる。
 枯れかけていた希望という花を、もう一度育てようと思った。
 綺麗に咲かせるためには、一人ではできない。
 勇気をくれた坂井となら、同じ道を歩けるはずだ。
 そんな想いを灯し、蓮見は口を開いた。
「何も奪ってなんかないし、失ってもない。私たちはまだやり直せる。もう一度、本気でアイドルを目指そう? 一番とか二番とか、そんなの関係ないよ。あの日、美沙が私に勇気をくれたでしょ? アイドルって誰かの光になれるんだよ。人気とかそんなんじゃなくてさ、人は変われるってことを証明しよう。今回のことは許せないけど、でも水に流す。だから私と一緒に夢を叶えてほしい。私たちだから、できることがある」
 他の三人だったら絶対に許すことはできなかったが、坂井には恩がある。
 あの日くれた勇気を、一度たりとも忘れたことはない。
 蓮見は希望を込めて言葉を渡した。
 きっと受け取ってくれると信じて。
「は? バカじゃないの? 一緒に頑張るわけないじゃん。あんたが辞めれば、私が一番になれるかもしれないのに。清純派気取ってた分、あの写真は致命傷でしょ? フォロワー数も減ってたもんね。王道のアイドル路線で進んでのに、これじゃあ戻る場所もないね。本当にいい気味。そうだ、これからはヤらせてくれるアイドルで売ればいいじゃん。人のもの取れる倫理観なら、こんなの屁でもないでしょ? もう頑張って清純派なんか気取らなくていいし、楽になりなよ。てかさ、ドラマの出演も枕で取ったんでしょ? 裕樹くんに股開いて、プロデューサーにも股を開いて、次はファンに開く? アイドルとしての需要は無くなるだろうけど、穴としてだったら求められるよ。顔だけは良いか……」
 蓮見の右手は坂井の頬を平手で打ち抜き、汚れた言葉を叩き落とした。
 手のひらにはまだ感触が残っている。
 痛みとも言えない、痺れるような震え。
 初めての暴力は恩人にだった。
 二人の間には時が止まったかのような空気が流れており、子供たちの喧騒が鮮明に聞こえる。
 坂井は曲がった首をゆっくりと正面に戻し、瞳に狂気を宿した。
「許さない。絶対に。何をしてでも、あんたを潰す」
 もうアイドルとは呼べぬ顔だった。
 人の皮を剥ぎ取り、鬼を描いたその表情は常軌を逸している。
 殺意に満ちた目、歪んだ口元から見える食いしばった歯。
 絵に描いたような憎悪は、真っ直ぐと蓮見に向けられていた。
「後悔しろ、クソ女」
 坂井は怨念だけを残して、公園から去っていった。
 蓮見は自分に問う。
 したことは正しかったのか、それとも間違っていたのか。
 手のひらを見ながら考えたが答えなど出るはずもなく、胸を締め付ける絶望が痛みへと変換されただけだった。