絶望に肩を叩かれた蓮見だったが、まだ夢は捨てきれなかった。
いつかメンバーも本気で取り組んでくれる。
失意の底に足が着きそうになるたび、頭の中で何度も復唱した。
道が見えなくなることが何よりも辛かったし、目的地を失えば自分という存在が壊れてしまう。
蓮見自身もそれを分かっていた。
歩くことすら困難な暴雨に見舞われても、すべてを吹き飛ばすような突風に吹かれようとも、希望という小さな花を枯らさないように守り続けた。
光を絶やさないように。
信じたものが、この手から零れないように。
アイドル活動とは反比例して、個人の仕事は順調だった。
再びドラマが決まると、雑誌やテレビでのインタビューが増え、多くの人に認知されていった。
インタビュアーからは蓮見個人のことを聞かれることが多かったが、無理やりにでもグループの話に引っ張っていった。
メンバーに想いが伝わるかもしれないし、自分も頑張ろうと思ってくれるかもしれない。
もし心まで届いたら、変わる可能性だってある。
そう考えていたが、蓮見が売れれば売れるほどメンバーとの溝は深まっていった。
レッスン後、ドラマのセリフを暗唱しながら国道沿いの道を歩いていた。
この日は十五時に終わりを迎え、西側に傾いた太陽を浴びながら駅へと向かう。
いつもなら他の四人はダラダラと着替えながら喋っているのだが、今日はすぐさま帰っていった。
たぶん合コンだろう。
アイドルという名刺は付加価値になる。
彼女たちも知名度は上がってきたため、男側も関係を持てれば自分のステータスとなる。
だがそんな薄っぺらい関係性など、なんの意味があるのだろうか。
蓮見は空に向かって大きくため息を吐こうとすると、目の前から通行人が歩いてきた。被っている帽子を目元まで下げる。
過剰かもしれないが、なるべくバレたくない。
プライベートという領域には踏み込まれたくなかったし、プライベートの蓮見千佳を見せてはいけない気もしていた。
もし想像と違かったとガッカリされたら……そんな悲観的なことを考えており、抱かれた幻想を守らなければと思った。
坂井は帽子を深く被る蓮見を見ると、「少し売れたぐらいで、もう芸能人ぶってるの?」と嫌味たらしく言ってくる。
結成当初はこんなことを言う人間ではなかったし、志しだって同じはずだった。
どこから道を逸れてしまったのかは分からないが、もう混じり合うことのない道にいるような気がする。
今は高梨たちと共に行動するようになり、蓮見は完全な孤独に追いやられていた。
「蓮見」
後ろから声をかけられ、咄嗟に振り向いてしまった。
気付かぬフリをした方がよかったと思ったが、もう遅い。
「久しぶり。俺のこと覚えてる?」
深く被った帽子を少しだけ上げると、高校の同級生だった小田の姿が視界に入った。
まるで男性アイドルのような、爽やかな笑顔を蓮見に向けている。
小田には良い印象がない。
彼には高校時代に連絡先を聞かれたが断った。
そのときに言われた言葉は、今もまだ忘れてはいない。
――売れてもないのにアイドルぶるなよ。お前みたいな勘違い陰キャに連絡先教えてやるんだから感謝くらいしろ。芸能界じゃ通用しない素人なんだからよ
小田の表情を見るに、自分で言ったことを覚えていないのだろうなと思った。
心に傷をつけた人間が浮かべるような笑顔ではない。
もし覚えていながらそんな顔ができるなら、彼に良心という概念は全くないのだろう。
「うん……」
なんて返していいか分からず、とりあえず頷いた。
一刻も早くこの場から立ち去りたい。
そんな想いを表情に乗せて。
「この間のドラマ見たよ。めちゃくちゃ良かった」
「ありがとう。仕事が入ってるから、もう行かなくちゃ」
仕事は入っていなかったが、早く帰りたかったので嘘をついた。
なにより、男性と二人でいるところを誰かに見られたくない。
もし写真でも撮られたら、アイドルとして致命傷になる。
これからというときの恋愛沙汰は、微かな希望すらも枯らせてしまうだろう。
蓮見は背を向けて駅へと向かおうとしたが、腕を掴まれ抱き寄せられた。
小田は後ろから抱きしめ、蓮見の帽子も外す。
他人が見たらカップルにしか見えないだろう。
今撮られたら、言い訳すらできなくなる。
蓮見は小田の腕を解いて帽子を取り返すと、力強く突き放した。
「何するの? 警察呼ぶよ」
蓮見がそう言うと、小田は悪意に満ちた笑みを浮かべる。
「冗談だよ。これくらいのことで怒るなって」
蓮見は周りを見渡した。
近くに人はいなかったが、少し離れた歩道橋に帽子を深く被っている女性が見えた。
黒のセットアップのジャージを着用している。
女性はスマホを耳に当てており、こちらには気付いていないように思えた。
見られていなかったと安堵したが、小田の行動は許せなかった。
「冗談では済まない。犯罪だよ」
「全くの他人ってわけじゃないだろ? 高校のクラスメイトに、そんな酷い言い方するなよ」
「同じクラスとかそんなこと……」
反論をしようと思ったが、今すぐここを立ち去った方がいいと感じ、蓮見は言葉を喉元から下ろした。
「もう私の前に現れないで」
背中を向けて早足で駅へと向かうと、後ろから声が投げつけられた。
「これで終わりだよ、クソ女」
汚れた言葉が鼓膜に触れたが、一刻も早く立ち去りたい気持ちで、その意味を考えることもしなかった。
これが終わりの始まりであることも知らずに。
「この写真はどういうこと?」
事務所に行くと、会議室で社長とマネージャーが待っていた。
蓮見が席に着くと、マネージャーにスマホを見せられる。
そこにはバックハグされている蓮見が写っており、男性にはモザイクがかかっていた。
昨日、小田に抱きつかれたときの写真だ。
上からのアングルだったため、歩道橋にいた女性が撮ったのだとすぐに分かった。
というか、それ以外には考えられない。
「これは高校の同級生に無理やり抱きつかれたんです。昨日、たまたま会って、すぐに立ち去ろうとしたんですけど……」
昨夜、この写真がSNSに投稿され、現在のインプレッション数は500万を超えている。
芸能人の暴露をしているアカウントで、最近も地下アイドルがデートしている写真が投稿されていた。
「千佳ちゃんのことだから彼氏じゃないと思うけど、ファンはそう思わない」
マネージャーの言う通り、ファンのアカウントは阿鼻叫喚の嵐だった。
――ウソだと言ってくれ
――ハスミンは絶対に男を作らないタイプだと思ってたのに
――もうアイドルなんて信じない
一つ一つの言葉に胸が痛んだ。
実際は彼氏でもないし、無理やり抱きつかれただけ。
だが、それを証明することもできない。
なにより清純派と呼ばれる蓮見にとっては、アイドルを続けていくうえで死活問題だ。
自分の言葉が、もうファンには届かない可能性だって考えられる。
「警察に被害届出しましょうか? 無理やり抱きついてきたなら、不同意わいせつになると思います」
「いや、これからドラマの撮影が控えてる。取り調べってなったら、スケジュールで迷惑かけることになるだろ。せっかくテレビ局とのパイプも作れてきたのに、こんなことで……」
「千佳ちゃんの仕事に影響出ますよ。アイドルの熱愛は致命傷です」
「適当に誤魔化せばすぐに収まるだろ。MVの撮影って言えばいい」
「もし嘘ってバレたら、彼氏だって言ってるようなものじゃないですか?」
「じゃあどうするんだよ」
「事実を言いましょう。高校の同級生に急に抱きつかれたって」
「そんなの信じるわけないだろ」
「嘘を付くよりマシでしょ」
「ていうか蓮見、本当に彼氏じゃないんだよな?」
社長は眉根を顰めて聞いてきた。
「違います。私はアイドルっていう仕事に信念を持っていますから、彼氏は絶対に作りません」
蓮見がそう言うと、社長は大きなため息を吐き、表情に当惑を描いて宙を見上げた。
「ライブどうします? 千佳ちゃん出しますか?」
一週間後にライブが控えている。
今回は四周年を記念して、ファンクラブ限定で行われる特別なものだった。
初めてのライブを行った場所で開催し、最後は握手会がある。
そこには片山も来るだろう。
何を言われるか分からないし、他のファンの目も気になる。
ステージに立つ自分を想像しただけで、蓮見は吐き気を催した。
「出すしかないだろ。ほとんど蓮見のファンなんだから」
「そうですよね……」
マネージャーも大きくため息を吐き、社長と同じように宙を見上げた。
二人は困惑しているが、蓮見は恐怖だった。
アイドルを通して人を変えたいと思っていたのに、アイドルとしての存在価値が無くなるかもしれない。
そうなれば、誰も蓮見のことを見なくなり、誰も蓮見の言葉を聞かなくなる。
微かな希望さえも朽ち果てて、生きていくために必要な居場所も失ってしまう。
いつか報われると信じていたから、孤独の中でも耐えることができた。
だが、進むことすら今は怖い。
人は道があるから歩くことができるし、目的地があるから苦難さえも乗り越えられる。
もし見失えば……
蓮見の心臓は悲鳴をあげるようにして、強く胸を叩いていた。
キャパ五十という小さなステージで、一人のアイドルは全力を尽くしていた。
SNSでは否定したが、写真の男性は彼氏ではないかという声が多数投稿されており、疑いが晴れぬままライブは行われた。
蓮見の声を信じてくれる人もいたが、黒だと断定し糾弾する人もいる。
毒が塗られた言葉の矢は、たった一夜で数多の傷を作った。
今も痛みは残るし、ファンの前に出るのも怖かった。
今日来てくれている人たちがどちらかは分からない。
でも全力を尽くそうと思った。
ステージに立つ以上はアイドルだし、何があろうとパフォーマンスの力は抜けない。
精神面は崩壊寸前だったが、いくつか寄せられたコメント欄の応援メッセージが、蓮見の支えになっていた。
三曲を終え、ライブがMCに移ると、蓮見の背に滴る汗が冷や汗に変わっていく。
冒頭に写真のことを話そうと思っていたが、何曲かやってからの方がいいのではということになり、ここで初めて直接ファンに説明する。
蓮見がマイクを口元に近づけると、会場の空気は一変し、緊張が走った。
震える唇を噛み締め、ゆっくりと酸素を取り込む。
息を止め、膨らんだ胸に焦点を当てると心臓の鼓動を感じた。
――大丈夫、ファンは信じてくれる
頭の中で力強く唱え、大きく息を吐いてから蓮見は言葉をマイクに乗せた。
「この度はご心配おかけして申し訳御座いませんでした。今回の件について、私の口から直接ご説明させていただきます。SNSで申し上げた通り、投稿された写真の男性は高校の同級生です。偶然会ったときにいきなり抱きつかれ、その瞬間を誰かに撮られてしまいました。お付き合いしているわけでもないし、男性とは親しい間柄でもありません。それを証明できる手段はございませんが、ファンの皆さんを裏切るような行為は一切行っていないです。疑いの目を向ける方もいらっしゃると思いますが、『信じていいよ』と胸を張って言うことができる。私はアイドルです。ステージの上でも、ステージから降りたときも」
静寂が横たわる会場。
向けられた数多の視線。
全身を打つような心臓の鼓動。
その一つ一つが緊張を煽った。
ファンの人たちはどう思っているのか分からないし、どんな言葉を用意しているのかも知らない。
でも信じてくれるはず。
懸命にアイドルというものに向き合ってきた。
目の前にいる人たちは理解してくれている。
今まで積み重ねたものは、たった一枚の写真では崩れない。
蓮見は願うように自分に言い聞かせた。
でないと、自分を保つことができなかったから。
「千佳のこと信じて……」
「裏切り者」
太陽を覆うような雲が会場にかかった。
ファンの励ましの言葉は、別のファンの罵声によってかき消され、どんよりとした重い空気が漂う。
そして空のペットボトルが客席から投げ込まれると、蓮見の額に当たった。
「お前みたいなのが、アイドルを名乗るな」
その言葉は蓮見の心に大きく傷を入れた。
緊張とは違う鼓動が、傷を何度も握りしめてくる。
「千佳に何すんだよ」
客席の中央でファン同士が取っ組み合いを始めた。
騒然とする会場にスタッフも雪崩れ込む。
罵詈雑言が飛び交う悲惨な光景に蓮見は絶句した。
誰かを救いたいと思っていたのに、夢を見させたいと思っていたのに、自分のせいで誰かを傷つけてしまった。
ファン同士が争う景色は、蓮見の思考を自責へと導く。
一切裏切るような行動は取っていない。
でも目の前の惨憺な有り様は、真面目な性格の蓮見に十字架を背負わせた。
そして、大事に育てていた希望という花の花弁が絶望へと落ちてゆく。
私のせいで……
私のせいで……
私のせいで……
その後ライブは中止し、握手会も行われなかった。