表示設定
表示設定
目次 目次




二十三話 推し花

ー/ー



 夕食は歓迎会を兼ね、土屋が寿司をとってくれたが、当の本人の姿はリビングにはなかった。
 竜一と土屋がコテージに連れ戻してきた後、蓮見は部屋に篭った。
 それから数時間経ったが、一向に姿を現さない。
 葉山が夕食を部屋まで持っていったが、応答はなかったらしい。
 萎れた空気が漂うリビングでは、葉山の落ち込んだ表情が様になっていた。

「さっきも言ったけど、気にしなくていいよ。たまたま気が立ってただけかもしれないし」

 白紙に筆を下ろすように、莉亜が沈黙に言葉を添える。

「うん」

 蓮見が暴雨を降らしてから、葉山は「うん」としか言ってない。
 他の言葉が流されて、それしか残っていないような感じだ。

「あいつ有名だったの?」

「それなりに認知はされていたと思う」

「池田は知ってる?」

 樹が聞くと、莉亜は首を横に振った。

「私は芸能とか疎いから。竜一さんは?」

「知ってるよ。薫がノートに蓮見を書いてたから」

「竜一さんが土屋さんに頼んで、連れてきたってことですか?」

「いや、本当にたまたまだ。俺も最初に名前を聞いたときは驚いた。こんな偶然もあるんだなって」

「でもここに来てるってことは、アイドルは辞めたってこと?」

「半年前に辞めてる」

 莉亜が視線を向けると、葉山はもの悲しそうな表情で言葉を零した。

「そうなんだ……だけどあの言い方は酷いよね。アイドルやってたときも、あんな感じだったの?」

 葉山は大きく首を振った。
 そのアクションに感情が垣間見える。

「グループのために献身的な人だった。謙虚だし、ひとつひとつの仕事を懸命にこなしてるように見えた」

「猫被ってたんだろ」

「今の蓮見さんは、本来の蓮見さんではないと思う」

「ファンだからそう思いたいのは分かるけど、たぶんあっちが本来のあいつだよ」

 樹の言い分に葉山は何も返さなかった。
 もしかしたら葉山自身もそう感じてる部分があるのかもしれない。
 樹は少し言いすぎたかなと、葉山の顔を見て思った。

「どんな人間でも表と裏がある。でもさっきのが表とは限らない。ああいう態度をとることで、本来の自分を隠してるかもしれないしな」

「あっちを隠した方がいいと思いますけど」

 竜一の言葉に対し、莉亜は不服な顔を浮かべる。

「お前らも自分を守るために、色んなもん飾り付けてただろ?」

 竜一は樹と莉亜を見た。
 二人は視線を感じると、同時に顔を俯かせる。 
 樹は先ほどの蓮見との喧嘩で反省する部分があった。

――勝手にキレてんのはお前だろ。初対面の相手に自分本位な態度とってんじゃねえよ

 自分も同じように初日から莉亜に喧嘩腰でいったのに、それを棚上げするように蓮見を責めた。
 棘の付いた言葉を投げつけられたことで感情が晒され、ブレーキが効かなくなっていたのだろう。
 経験を活かすことができれば、違う方向に進んでいたかもしれない。
 だが蓮見の態度には、今も苛立ちは残る。

「感情が入ると冷静にはいられない。だからブーメランを投げることもある。それが人間という生き物だ。相手の立場に立つには余計なものを入れてはいけない。まあ、それが難しいんだけど」

「今の彼女は、余計なものが思考の中に入り込んでいるんだろう。そしてその余計な部分が軸となり、真っ直ぐ歩くことができないでいる。生き方に正解はないが、今の自分にとって必要なものはある。まずはそれを見つけるところからだね」 

 土屋は竜一の言葉に付言するように言った。
 樹も莉亜も、生き方を馬鹿にされたことが起因となって余計なものが生み出された。
 初めは小さなシミ程度だったかもしれない。
 だがそれが思考の色となり、いつからか軸になっていた。
 飾り付けたものが本来の自分ではないはずなのに、それが自分だと思い込んでしまうと、変わることが難しくなる。

「葉山くん、なんで蓮見さんはアイドルを辞めたの?」

「男性に後ろからハグされてる写真がネットに上げられたことがあって、それが原因とは言われてる」

「アイドルにとっては致命的だね」

「あと、握手会でファンを怒鳴りつけたらしい。握手会に行ったファンの人が投稿してた」

「どんなアイドルだよ」

「きっと何か理由があると思うんだ。もし苦しんでいるなら、僕は手を差し伸べたい。何かできるわけじゃないけど、少しでも楽になってくれたらって思う」

 好きなアイドルに自分を知ってもらいたい。
 そんな下心ではなく、心から救いたいと願っているように思えた。
 同時に、あれだけ暴言を吐いてきた相手に、葉山の優しさが届くとも思えなかった。

「置かれた環境や周りの人間、どこを歩いてきたかで考え方や価値観が変わる。それと選択肢も。蓮見が今の生き方を選んだ理由があるのかもしれない。もしくはそうせざるを得なかったか。それを知れたら、きっかけぐらいは作れるかもな」

 竜一の言葉を、樹は噛み締めた。
 樹や莉亜は周りの人間に影響を受け、自分が苦しむような道を選んだ。
 蓮見にも理由があるなら、きっと言葉の中にそれが散りばめられてるはず。
 喧嘩腰の態度、ファンへの嫌悪、一つ一つの単語。
 これらを紐解いていけば、蓮見千佳の本音に届くかもしれない。

「葉山が手助けしたいって言うなら俺も手伝うよ。あいつのことは好きじゃないけど、今は迷ってるだけかもしれないし。それに、俺が変わるためにも必要なことだと思うから。理解しようとすること、他人を知ろうとすること、これが俺の課題」

「私も手伝う。自分を変えるためには、他人との向き合い方も考えないといけない。今は過去の経験に引っ張られて偏見を持ってしまってるから。それと、葉山くん自身が前に進むきっかけにもなるかもしれない。一人では無理でも、みんなで力を合わせれば解決できるかもしれないし」

 樹と莉亜の言葉に、「ありがとう」と葉山は返した。
 竜一と土屋は、三人のやりとりに笑みを零す。

「でも大丈夫か? 樹と莉亜は、また喧嘩になりそうだけど」

「さっきは急に喧嘩売られたから、感情的になっただけだよ」

「私もです。次は葉山くんのためにも、冷静に相手の言葉を聞きます」

「まあ喧嘩になったらなったでいいよ。そこから得られるものもあるからな」

「だから、ならねえって」

「樹くんが怒ったら私が止めますから、大丈夫です」

「お前の方が心配だよ」

「樹くんに心配される日がくるなんて、私もだいぶ落ちたな」

「ぶっ飛ばすぞ」

「あー、手は出さないって言ってたのにもう破ろうとしてる」

「お前は別だよ」

「なんで私はいいの?」

「お前はいいんだよ」

「女の子を殴ってくる人は本当に最低だよね、蘭ちゃん」

 莉亜が聞くと、蘭の表情が固まった。
 そして俯きながら小さく頷く。

「殴るとかそんな怖い話、嫌だよね。ごめんね」

 莉亜が謝るといつものような子供らしい笑顔を見せたが、どこかぎこちなさを感じた。
 夕食後、土屋を見送り、それぞれが部屋へと散らばっていった。
 それから数時間経った深夜一時頃、樹は喉が渇いたため一階へと降りる。
 リビングからは明かりが漏れており、誰かがいる気配があった。
 中に入ると、ソファに座る葉山がおり、ウトウトしながら目を擦っている。
 コクン、と首が折れると葉山は首を横に振った。
 寝てはダメだと言うように。
 樹は察し、半分開いたドアを静かに閉めて部屋へと戻った。


「なんであんたに言われないといけないの」
「そういうルールなんだよ」
「押し付けるような言い方やめて」
「押し付けてないだろ」
「ちょっと、どうしたの?」

 樹と蓮見が玄関で怒声を響かせていると、二階から莉亜と葉山が降りてきた。
 竜一はリビングのドアのところに立っており、二人の口論を俯瞰するように見ている。

「『飯はローテーションだから、今日の晩飯一緒に作るぞ』って樹が言ったらこうなった」

 樹と竜一が買い物に出かけようとしたとき、コンビニの袋を持った蓮見と玄関で鉢合わせた。
 蓮見との関係性を構築するため、樹なりのアプローチで声をかけたのだが、優しく投げたつもりの言葉は容赦なく打ち返された。

「ここに来るまでに色々と苦しいことがあったのかもしれない。でも一緒に生活するなら、最低限のことはしてほしい。なるべく喧嘩しないようにとか。もちろん、私たちも気を付ける」

 莉亜は柔らかな口調で話した。
 場の空気を悪くしないようにという気遣いを感じる。

「じゃあ命令はしないで。あと、人を見下すような態度もやめて」

 蓮見は樹を睨み付けた。
 完全に敵意を向けているのが誰の目にも分かる。

「してないだろ」
「してる」
「お前が勝手に……」
「樹くん」

 莉亜が首を横に振った。
 それを見て、昨日の夜のことを思い出す。
 莉亜と共に、蓮見と喧嘩しないと約束した。
 それは葉山のためでもあるし、自分のためでもある。
 樹は感情を染めていた怒りをグッと堪え、宥めるように息を吐いた。

「蓮見さん、私たちは争いたいわけじゃないの。できれば仲良くしたい」

 刃物を向けている目の前の人間を諭すように、莉亜は穏やかに言葉を渡した。
 これで少しは変わるかなと樹は思ったが、秒でその考えは覆された。

「いい子ぶった人間が一番嫌いなの。そういう奴ほど簡単に人を裏切るから。男に好かれたいから優しい自分を演じてるだけでしょ? 私が来て、嫉妬した? 紅一点だったもんね。嘘くさいんだよ、全部」

 莉亜の眉間に皺が寄っていた。
 血が出るのではというほど、唇を噛み締めている。
 たぶん我慢しているのだろう。
 あと一言でも罵声を浴びせれば、器から怒りが溢れ出そうだ。

「いい加減にしろ。勝手な想像だけで人を決めつけてたら、お前自身が苦しむだけだぞ。何があったのかは知らねえけど、もし人生を変えたいと思ってここに来たなら、その態度は余計に変わらない自分を選択してるだけだ。周りすべてが敵だと思ってるうちは、周りもお前を敵だと認識する。お前は外に目を向け過ぎなんだよ。もっと自分を見ろ」

 今までの樹なら、もっと単調な言葉で相手を刺していただろう。
 考え方が変わってきたことで、言葉の選び方と使い方にも変化が生じた。
 ねじ伏せようとするだけの口論も、相手の内側を言及するものになっている。

「だから上からものを言わないで。あんただって人生が上手くいってないからここにいるんでしょ? それなのに、どの口が言ってるの? 偉そうなことを言う前に、まずは自分の生き方をどうにかしなよ。それとね、この世界は良い人間ばかりじゃないの。周りすべてを敵だと思っていないと、利用されるだけの人生に成り果てる。弱いままじゃダメなの。敵を作ってでも強く在ろうとしなければ生きていけないんだよ。私を守れるのは私だけだから」

 その言葉に、蓮見千佳という人間の人生が垣間見えたような気がした。
 莉亜も同じことを感じたのか、先ほどまでの怒りは消え、蓮見の言葉を反芻しているように思えた。

「私は一人でやるから、もう関わらないで。そっちが何もしなければ、こちらも何もしない」

「蓮見さん」

 吹き荒れる嵐の中に、葉山が足を踏み込む。

「ノートのこと聞いた?」

「ノート?」

「ここに来た人たちの傷が刻まれてる。それを見れば、他人の見方も変わるかもしれない」

「だから関わらないでって言ってるでしょ。昨日も言ったけど、あんたみたいな……」

「蓮見」

 一同の視線が、語尾を奪った竜一へと集まる。

「薫に案内してもらえ」

「だから、私は……」

 竜一の目は、蓮見の口を塞ぐほどの威圧感があった。
 先ほどまで荒れていた場が、一瞬で静けさを纏う。
 置き所を見失った瞳を泳がせながら、蓮見は「早く案内して」とボソッと零した。
 未だ強がっているようには見えるが、勢いは完全に失っている。
 普段の竜一なら見せないであろう空気感に、力の出しどころを学んだ。
 常に力んでいては、言葉の力もなくなる。
 ここぞというところで使うからこそ、たった一言でも重みが増すのだろう。
 あれだけ威勢を張っていた蓮見が、今は普通の女の子のように感じる。
 階段を上がっていく二人の背中を見ながら、樹はそんなことを考えていた。


スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 二十四話 言の葉巡り


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 夕食は歓迎会を兼ね、土屋が寿司をとってくれたが、当の本人の姿はリビングにはなかった。
 竜一と土屋がコテージに連れ戻してきた後、蓮見は部屋に篭った。
 それから数時間経ったが、一向に姿を現さない。
 葉山が夕食を部屋まで持っていったが、応答はなかったらしい。
 萎れた空気が漂うリビングでは、葉山の落ち込んだ表情が様になっていた。
「さっきも言ったけど、気にしなくていいよ。たまたま気が立ってただけかもしれないし」
 白紙に筆を下ろすように、莉亜が沈黙に言葉を添える。
「うん」
 蓮見が暴雨を降らしてから、葉山は「うん」としか言ってない。
 他の言葉が流されて、それしか残っていないような感じだ。
「あいつ有名だったの?」
「それなりに認知はされていたと思う」
「池田は知ってる?」
 樹が聞くと、莉亜は首を横に振った。
「私は芸能とか疎いから。竜一さんは?」
「知ってるよ。薫がノートに蓮見を書いてたから」
「竜一さんが土屋さんに頼んで、連れてきたってことですか?」
「いや、本当にたまたまだ。俺も最初に名前を聞いたときは驚いた。こんな偶然もあるんだなって」
「でもここに来てるってことは、アイドルは辞めたってこと?」
「半年前に辞めてる」
 莉亜が視線を向けると、葉山はもの悲しそうな表情で言葉を零した。
「そうなんだ……だけどあの言い方は酷いよね。アイドルやってたときも、あんな感じだったの?」
 葉山は大きく首を振った。
 そのアクションに感情が垣間見える。
「グループのために献身的な人だった。謙虚だし、ひとつひとつの仕事を懸命にこなしてるように見えた」
「猫被ってたんだろ」
「今の蓮見さんは、本来の蓮見さんではないと思う」
「ファンだからそう思いたいのは分かるけど、たぶんあっちが本来のあいつだよ」
 樹の言い分に葉山は何も返さなかった。
 もしかしたら葉山自身もそう感じてる部分があるのかもしれない。
 樹は少し言いすぎたかなと、葉山の顔を見て思った。
「どんな人間でも表と裏がある。でもさっきのが表とは限らない。ああいう態度をとることで、本来の自分を隠してるかもしれないしな」
「あっちを隠した方がいいと思いますけど」
 竜一の言葉に対し、莉亜は不服な顔を浮かべる。
「お前らも自分を守るために、色んなもん飾り付けてただろ?」
 竜一は樹と莉亜を見た。
 二人は視線を感じると、同時に顔を俯かせる。 
 樹は先ほどの蓮見との喧嘩で反省する部分があった。
――勝手にキレてんのはお前だろ。初対面の相手に自分本位な態度とってんじゃねえよ
 自分も同じように初日から莉亜に喧嘩腰でいったのに、それを棚上げするように蓮見を責めた。
 棘の付いた言葉を投げつけられたことで感情が晒され、ブレーキが効かなくなっていたのだろう。
 経験を活かすことができれば、違う方向に進んでいたかもしれない。
 だが蓮見の態度には、今も苛立ちは残る。
「感情が入ると冷静にはいられない。だからブーメランを投げることもある。それが人間という生き物だ。相手の立場に立つには余計なものを入れてはいけない。まあ、それが難しいんだけど」
「今の彼女は、余計なものが思考の中に入り込んでいるんだろう。そしてその余計な部分が軸となり、真っ直ぐ歩くことができないでいる。生き方に正解はないが、今の自分にとって必要なものはある。まずはそれを見つけるところからだね」 
 土屋は竜一の言葉に付言するように言った。
 樹も莉亜も、生き方を馬鹿にされたことが起因となって余計なものが生み出された。
 初めは小さなシミ程度だったかもしれない。
 だがそれが思考の色となり、いつからか軸になっていた。
 飾り付けたものが本来の自分ではないはずなのに、それが自分だと思い込んでしまうと、変わることが難しくなる。
「葉山くん、なんで蓮見さんはアイドルを辞めたの?」
「男性に後ろからハグされてる写真がネットに上げられたことがあって、それが原因とは言われてる」
「アイドルにとっては致命的だね」
「あと、握手会でファンを怒鳴りつけたらしい。握手会に行ったファンの人が投稿してた」
「どんなアイドルだよ」
「きっと何か理由があると思うんだ。もし苦しんでいるなら、僕は手を差し伸べたい。何かできるわけじゃないけど、少しでも楽になってくれたらって思う」
 好きなアイドルに自分を知ってもらいたい。
 そんな下心ではなく、心から救いたいと願っているように思えた。
 同時に、あれだけ暴言を吐いてきた相手に、葉山の優しさが届くとも思えなかった。
「置かれた環境や周りの人間、どこを歩いてきたかで考え方や価値観が変わる。それと選択肢も。蓮見が今の生き方を選んだ理由があるのかもしれない。もしくはそうせざるを得なかったか。それを知れたら、きっかけぐらいは作れるかもな」
 竜一の言葉を、樹は噛み締めた。
 樹や莉亜は周りの人間に影響を受け、自分が苦しむような道を選んだ。
 蓮見にも理由があるなら、きっと言葉の中にそれが散りばめられてるはず。
 喧嘩腰の態度、ファンへの嫌悪、一つ一つの単語。
 これらを紐解いていけば、蓮見千佳の本音に届くかもしれない。
「葉山が手助けしたいって言うなら俺も手伝うよ。あいつのことは好きじゃないけど、今は迷ってるだけかもしれないし。それに、俺が変わるためにも必要なことだと思うから。理解しようとすること、他人を知ろうとすること、これが俺の課題」
「私も手伝う。自分を変えるためには、他人との向き合い方も考えないといけない。今は過去の経験に引っ張られて偏見を持ってしまってるから。それと、葉山くん自身が前に進むきっかけにもなるかもしれない。一人では無理でも、みんなで力を合わせれば解決できるかもしれないし」
 樹と莉亜の言葉に、「ありがとう」と葉山は返した。
 竜一と土屋は、三人のやりとりに笑みを零す。
「でも大丈夫か? 樹と莉亜は、また喧嘩になりそうだけど」
「さっきは急に喧嘩売られたから、感情的になっただけだよ」
「私もです。次は葉山くんのためにも、冷静に相手の言葉を聞きます」
「まあ喧嘩になったらなったでいいよ。そこから得られるものもあるからな」
「だから、ならねえって」
「樹くんが怒ったら私が止めますから、大丈夫です」
「お前の方が心配だよ」
「樹くんに心配される日がくるなんて、私もだいぶ落ちたな」
「ぶっ飛ばすぞ」
「あー、手は出さないって言ってたのにもう破ろうとしてる」
「お前は別だよ」
「なんで私はいいの?」
「お前はいいんだよ」
「女の子を殴ってくる人は本当に最低だよね、蘭ちゃん」
 莉亜が聞くと、蘭の表情が固まった。
 そして俯きながら小さく頷く。
「殴るとかそんな怖い話、嫌だよね。ごめんね」
 莉亜が謝るといつものような子供らしい笑顔を見せたが、どこかぎこちなさを感じた。
 夕食後、土屋を見送り、それぞれが部屋へと散らばっていった。
 それから数時間経った深夜一時頃、樹は喉が渇いたため一階へと降りる。
 リビングからは明かりが漏れており、誰かがいる気配があった。
 中に入ると、ソファに座る葉山がおり、ウトウトしながら目を擦っている。
 コクン、と首が折れると葉山は首を横に振った。
 寝てはダメだと言うように。
 樹は察し、半分開いたドアを静かに閉めて部屋へと戻った。
「なんであんたに言われないといけないの」
「そういうルールなんだよ」
「押し付けるような言い方やめて」
「押し付けてないだろ」
「ちょっと、どうしたの?」
 樹と蓮見が玄関で怒声を響かせていると、二階から莉亜と葉山が降りてきた。
 竜一はリビングのドアのところに立っており、二人の口論を俯瞰するように見ている。
「『飯はローテーションだから、今日の晩飯一緒に作るぞ』って樹が言ったらこうなった」
 樹と竜一が買い物に出かけようとしたとき、コンビニの袋を持った蓮見と玄関で鉢合わせた。
 蓮見との関係性を構築するため、樹なりのアプローチで声をかけたのだが、優しく投げたつもりの言葉は容赦なく打ち返された。
「ここに来るまでに色々と苦しいことがあったのかもしれない。でも一緒に生活するなら、最低限のことはしてほしい。なるべく喧嘩しないようにとか。もちろん、私たちも気を付ける」
 莉亜は柔らかな口調で話した。
 場の空気を悪くしないようにという気遣いを感じる。
「じゃあ命令はしないで。あと、人を見下すような態度もやめて」
 蓮見は樹を睨み付けた。
 完全に敵意を向けているのが誰の目にも分かる。
「してないだろ」
「してる」
「お前が勝手に……」
「樹くん」
 莉亜が首を横に振った。
 それを見て、昨日の夜のことを思い出す。
 莉亜と共に、蓮見と喧嘩しないと約束した。
 それは葉山のためでもあるし、自分のためでもある。
 樹は感情を染めていた怒りをグッと堪え、宥めるように息を吐いた。
「蓮見さん、私たちは争いたいわけじゃないの。できれば仲良くしたい」
 刃物を向けている目の前の人間を諭すように、莉亜は穏やかに言葉を渡した。
 これで少しは変わるかなと樹は思ったが、秒でその考えは覆された。
「いい子ぶった人間が一番嫌いなの。そういう奴ほど簡単に人を裏切るから。男に好かれたいから優しい自分を演じてるだけでしょ? 私が来て、嫉妬した? 紅一点だったもんね。嘘くさいんだよ、全部」
 莉亜の眉間に皺が寄っていた。
 血が出るのではというほど、唇を噛み締めている。
 たぶん我慢しているのだろう。
 あと一言でも罵声を浴びせれば、器から怒りが溢れ出そうだ。
「いい加減にしろ。勝手な想像だけで人を決めつけてたら、お前自身が苦しむだけだぞ。何があったのかは知らねえけど、もし人生を変えたいと思ってここに来たなら、その態度は余計に変わらない自分を選択してるだけだ。周りすべてが敵だと思ってるうちは、周りもお前を敵だと認識する。お前は外に目を向け過ぎなんだよ。もっと自分を見ろ」
 今までの樹なら、もっと単調な言葉で相手を刺していただろう。
 考え方が変わってきたことで、言葉の選び方と使い方にも変化が生じた。
 ねじ伏せようとするだけの口論も、相手の内側を言及するものになっている。
「だから上からものを言わないで。あんただって人生が上手くいってないからここにいるんでしょ? それなのに、どの口が言ってるの? 偉そうなことを言う前に、まずは自分の生き方をどうにかしなよ。それとね、この世界は良い人間ばかりじゃないの。周りすべてを敵だと思っていないと、利用されるだけの人生に成り果てる。弱いままじゃダメなの。敵を作ってでも強く在ろうとしなければ生きていけないんだよ。私を守れるのは私だけだから」
 その言葉に、蓮見千佳という人間の人生が垣間見えたような気がした。
 莉亜も同じことを感じたのか、先ほどまでの怒りは消え、蓮見の言葉を反芻しているように思えた。
「私は一人でやるから、もう関わらないで。そっちが何もしなければ、こちらも何もしない」
「蓮見さん」
 吹き荒れる嵐の中に、葉山が足を踏み込む。
「ノートのこと聞いた?」
「ノート?」
「ここに来た人たちの傷が刻まれてる。それを見れば、他人の見方も変わるかもしれない」
「だから関わらないでって言ってるでしょ。昨日も言ったけど、あんたみたいな……」
「蓮見」
 一同の視線が、語尾を奪った竜一へと集まる。
「薫に案内してもらえ」
「だから、私は……」
 竜一の目は、蓮見の口を塞ぐほどの威圧感があった。
 先ほどまで荒れていた場が、一瞬で静けさを纏う。
 置き所を見失った瞳を泳がせながら、蓮見は「早く案内して」とボソッと零した。
 未だ強がっているようには見えるが、勢いは完全に失っている。
 普段の竜一なら見せないであろう空気感に、力の出しどころを学んだ。
 常に力んでいては、言葉の力もなくなる。
 ここぞというところで使うからこそ、たった一言でも重みが増すのだろう。
 あれだけ威勢を張っていた蓮見が、今は普通の女の子のように感じる。
 階段を上がっていく二人の背中を見ながら、樹はそんなことを考えていた。