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二十一話 言の葉の夜

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 樹はウッドデッキに座りながら夜に描かれた星を眺めていた。
 人工的な光を纏う東京では、夜空の美しさを忘れてしまう。
 人の群れや高層ビルがないこの場所は、人生の休憩所としては最適かもしれない。
 コテージの周りにある木々は、海から吹く風が弓となって葉擦れを奏でている。 
 視覚と聴覚の癒しに、少しだけ心を落ち着かせていたが、まだ樹の心には不安が腰を下ろしていた。
 夕食のとき、莉亜は部屋から出てこなかった。
 初めは葉山が呼びに行き、その後は竜一が声をかけた。
 だが「大丈夫」という一言が返ってきただけで、二人とも莉亜の様子は分からなかったそうだ。
 樹は自分の言葉で傷つけてしまったのではという懸念があった。
 以前ならそんな考えを持つことはなかったが、相手の立場に立とうとしたことで、傷をつける怖さを知った。
 人が変わることを拒んだり、難しいと感じるのは、未知の領域に足を踏み入れるからだろう。
 新たな感情や思考に触れると苦痛に変化することがある。
 今までなら素通りしていたことも、立ち止まって向き合わなければならない。
 自分だけで処理できないものは不安に変わり、対処できなければ不快になっていく。
 そして変わることを放棄し、変わらない自分を選んでしまう。
 樹は今の心境を分析して、そう感じた。
 この不安を苦痛と認識するようになれば、『どうでもいい』と手元から離してしまうだろう。
 諦めるのが一番の特効薬だから。
 今までの自分を振り返れば、そうなる可能性は高い。
 樹は覚悟を持とうとしてた。
 ここで背を向けたら、常に楽な選択をするようになってしまう。
 自分を変えるためには、道から逸れないためには、逃げてはいけない人生の要所だ。

「樹くんいますか?」
「デッキにいるよ」

 リビングから声が聞こえると、誰かがこちらに向かってくる気配がした。
 心臓の鼓動が半音ほど上がり、緊張のようなものを感じる。
 樹は大きく深呼吸し、胸を叩く鼓動を鎮めようとした。

「隣いい?」

 振り向くと莉亜が立っていた。
 白を基調とした花柄のワンピースが風で靡いている。

「うん……」

 莉亜は静かに隣に座った。
 樹は不思議に思う。時間帯的に寝巻きでもいいはずだが、日中と変わらない服装だった。
 ずっと部屋に篭っていたなら尚更。
 また着替えてきたのだろうか? だがそんな面倒なことをするのだろうか?
 樹が疑問を解こうと考えていると、莉亜が口を開いた。

「私も中学生の頃に馬鹿にされたことがあるの。勉強ばかりしてたから、素行の悪いクラスの子にガリ勉って笑われてた。それがすごい悔しくて、いつも家で泣いてたんだ。両親が厳格で昔堅気な人だから相談なんてできない。きっと『そんな人間の言うことなんて気にするな』って言われるだけだから。遊ぶことも禁止だったし、常に成績は一番じゃないといけない。友達も作れないし、周りはみんなライバルだった」

 莉亜は空を見上げた。まるで遠い日の過去を眺めるように。

「ヤンキーって言われるような子たちが嫌いだった。馬鹿にされたっていうのもあるけど、ルールも守らないで自由に生きてることが許せなかったの。『自分はこんなに頑張ってるのに、なんであなたたちは先のことも考えず遊んでるの』って。だから自分の生き方の方が正しいと証明したかった。真面目な人間が報われないといけない。非常識な人間は幸せになるべきではない。そんな考えを持つようになった。今思うと、そこから歪み始めたんだと思う」

 樹に対して嫌悪を抱いていた理由は、過去の経験も混ざっていたのだろう。
 明らかに喧嘩と分かる傷を顔に刻み、コテージへと来た。
 樹の態度も相まって、初対面の印象は最悪だっただろう。

「だんだんとね、完璧を求めるようになってきたの。自分の生き方が正しいと証明するためには、目に見える成果をあげないといけない。だから一層、勉強に力を入れた。誰にも負けたくなかったし、誰にも馬鹿にされたくなかった。当時は一番を取ることで自分の価値を作ってきたし、それが正解だと思って生きてきたの。みんなが遊んでる間に、私は机に向かって教科書の文字を頭に叩き込んだ。夢にまで出てくるくらい、ひたすら、ひたすら、詰め込んだ。その甲斐もあって、高校三年間の成績はトップを走り続けた。自分が一番だと思ってた。私の生き方は間違いじゃないと思った。きっと周りもそう感じてるはず。真面目に生きてる人間が正しいことを証明した……はずだった」

 莉亜の表情には切なさが見えた。
 孤独の中を彷徨っているようにも感じる。

「でもね、私の周りには誰もいなかった。一人で突っ走った結果、近寄りづらい人間になってたみたい。『なんか見下してるように感じる』『自分が特別だと思ってそう』『感情とかなさそう』。陰でよく言われてた。真面目に生きる人間は嫉妬されるものだと思った。自分にはないものを持ってるから僻むしかできない。悪口を言うことで足りないものを埋めた気になってる。そう思うことで自分の存在価値を保った。それから人に欠点を見せられなくなったの。もし減点でもされれば、もっと馬鹿にされる。だから常に百点の自分を維持しようと思った。自分の生き方が正しいと証明するためにも」

 常識に当てはめようとする意味が分かった。
 ただ証明したいという思いから、今の言動に繋がっている。
 莉亜は意図的に見下すという行為はしていない。
 だが根っこにある思考が、無意識に言葉や態度に滲んでしまったのだろう。
 今も節々に、思考の欠片が散らばっている。

「大学生になってからは服装やメイクにもこだわるようになった。入学したばかりの頃、すれ違った男の子たちに『服、ダッサ』って言われたの。勉強ばかりで容姿には疎かったから、確かに服装はダサかったと思う。でも悔しかった。欠落した部分が自分にあることが。それから雑誌や動画を見て、メイクやファッショにこだわるようになった。垢抜けてからは、男の子に声をかけられるようになったけど、誰とも連むことはなかった。自分はこんな人たちとは違う。遊んでばかりの人間といると自分の価値が下がる。そう思ってたから。だから一人だった。他人と関わることを避けながら、ずっと完璧でいることを選んだ。というより、それしか道を知らなかった。初めはただ認めてほしかっただけなのに、すごいねって褒められたかっただけなのに、いつからかどこに進んでいるのか分からなくなっていた。そんな人間が社会に出るとね、人を傷つけるようになるの」

 莉亜の空気感に変化を感じた。
 ここからが本題と言わんばかりの重圧が、樹にものしかかっていた。
 葉擦れの音が沈黙の中で異様に響くと、重たい扉を開けるように莉亜は口を開いた。

「就職してからすぐに成果をあげることができた。上司からは褒められたし、周りからも認めてもらえるようになったの。今までは学生という自由気ままな世界だから私は理解されなかった。仕事という真面目さが活きる場所こそが自分の居場所だ。そう思えるほど充実した一年目だった。生き方は間違ってなかったし、正しかったと証明できた。でも二年目に入って、後輩ができてから風向きが変わったの」

 人間関係の不器用さに、樹も共感していた。
 理解できないところもあるが、今の莉亜を型取っているのは間違いなく過去だと思う。
 それが足枷となって、人との距離を作っている。
 だが社会に足を踏み入れ、自分の居場所を見つけることができた。
 不思議だったのは、一人を選んでいた人間が仕事では上手くいったということだ。
 コミュ障さを感じたが、それは出ていなかったのだろうか。
 そんな疑問を抱えながら、莉亜の言葉を待った。

「同じ部署に配属された新入社員の女の子がいてね、その子はコミュニケーションを取るのが上手だった。仕事はミスが多かったんだけど、明るいキャラクターもあって、どこか許される空気を持ってたの。上司から怒られることもあるけど、その後は何もなかったかのように可愛がられてた。でも、私はその子に完璧を求めた。いつか大きなミスをするかもしれないから厳しく指導したの。朝は一時間前に来させて、ビジネスマナーの再確認や資料の読み込み。私が良いと思ったビジネス書を何十冊と渡して、休みの日に家で読んでくるように言った。月曜日には本から何を得たかも話させた。みんなが甘やかせば、その子のためにならない。だから私がきっちり指導しないとダメだと思った。全部その子のため。私と同じように百点を目指させた」

 もし自分がその子だったら……と樹は考えた。
 たった一年しか違わない人間に、なぜここまで厳しくされないといけないのか。
 きっとその子も思ってたはずだ。
 でも莉亜の過去を聞けば、厳しく指導する理由が見えてくる。

「それから半年経った頃に、その子が出勤途中に倒れたの。月曜日の朝に駅のホームで本を握りしめながら気を失ったらしい。その本は私が読めと言った本だった。上司が言うには過労らしく、半年間まともに睡眠をとってなかったらしいの。そのときに自分の愚かさに気付いた。相手のためだと思っていた行為は、相手を追い詰める行為だったと。結局それがきっかけで、その子は会社を辞めた。親から上司に連絡がきたみたい。でも私の名前は出されなかった。それが罪悪感を助長させたの。自分は無傷のまま、誰にもお咎めなしでのうのうと仕事を続ける。他人の人生を摘み取っておいて、何もなかったかのような顔しながら出世していく。本当に最低な人間だと思った。このままここにいることはできない。そう思って退職したの。親にも内緒で」

――お前みたいな人間が、他人の人生を摘み取ってるんだよ 
 樹が莉亜に浴びせた言葉だ。
 そのときの莉亜は黙って俯いていた。
 きっと後輩のことを思い出していたのだろう。
 だから何も言い返さず、沈黙という形をとった。
 完璧主義者というのは、正論という名の下に人を蹂躙し、時に悪魔へと変貌する。
 仕事でミスが多かったという大義名分もあったため、追い詰めている感覚はなかったのかもしれない。
 だがその子なりに、ミスをした後も頑張ってはいたのかもと樹は思った。
 いい加減な人間なら本も読まないはず。でもその子は半年も続けた。
 怒られた後に可愛がられることで、莉亜の目には反省していないように映ったのかもしれない。
 でもそれは、その子にしか分からない。
 もう少し話をしてから、指導の方法を考えるべきだった。
 だが莉亜は、人間関係を作るのは苦手。
 それが追い詰めてしまう行為に繋がっていたのかもしれない。

「常に百点を求めようとしてしまう。しかも自分だけに向いていたものが他人にも向くようになった。それを変えたくてここに来たの。ブレーキが効かないならレールから外れるしかない。今のままでは、また誰かを追い詰めてしまう。そう思った。でも変わるって難しいね。未だに自分の欠点を他人に見せられない。悩みを打ち明けられなかったのも、ノートに過去を書けなかったのも汚点を知られたくないから。服装もメイクもバッチリ決めるのは、百点以外の自分を見せられないから。なんでこんな生き方を選んじゃったんだろう。くだらないプライドなんか捨てたらいいのに、手から離れてくれない。人の人生を摘み取っておきながら、まだ大事に握りしめてる。偉そうに常識とか言ってたけど、私が一番非常識だった」

 プライドを手放せない。
 樹自身もそうだった。
 道から逸れると分かっていても、歪んだ世界に足を踏み入れてしまう。
 そして一度足を浸からせれば、外に出ることは困難になる。
 人間とは理性よりも感情に左右される生き物だ。
 だからハンドルをコントロールできずに、暗闇の中に進んで迷ってしまう。
 正反対の人種だと思っていた莉亜も、樹と同じように過去を彷徨っている。
 二人ともコンパスが示す方向は“変えられない自分”だった。

「正しさですべてを否定してた。いや、間違っていても自分が正しいと思い込んでた。気付いてたけど、気付いていない自分を演じていた気がする」
「俺もそうだった。変わりたいと思いながら、変われない自分を選んでしまう。選択肢は他にもあるのに、選ぶのはいつも諦めか感情の指す方だった。道を作ることよりも、見えてる道を歩くほうが楽だから。それが間違っていたとしても」

 殴るという行為は、自分を底辺に留まらせる道だ。
 だが感情にハンドルを渡し、その通りに進んできた。
 変われない自分が根っこに染み付けば、諦めという咲かない花を育てることになる。
 どれだけ水をあげようとも、吸い上げようとしなければ芽が出ることもない。
 そして選択肢があっても、道が一つしかないと錯覚を起こし、自ら光を遮断するようになる。

「変わりたくてここに来たのに、変わろうとしてくれない。私なのに私じゃないみたいだった。でも少しだけ変化はあった。樹くんなら過去を話せるかなって」

「なんで?」

「たぶんもうマイナスだから。お互いに印象は最悪でしょ? 普段ならこれ以上馬鹿にされたくないって思うけど、樹くんは私を知ろうとしてくれた。ずっと理解者が欲しかったけど、他人に欠点を晒すことができない。そんな私にとって、樹くんは最適な相手だった。だってもう晒してるから」

 莉亜は少しだけ頬を緩ませた。
 ここに来てから、初めて向けられた柔らかな表情だった。

「社会で出会ってたら、お互い嫌悪だけの存在になってたかもしれない。でもコテージに来る人は何かを抱えている。それも相まって、言えたのかもしれない。ここでは欠けてることが普通だから。やっとそれに気付けた」
「やっと言葉が入る余地ができたな」

 振り向くと、竜一と葉山が立っていた。
 二人の手には缶ビールが握られている。

「聞いてたんですか?」
「うん」

 竜一と葉山は、樹たちに缶ビールを手渡した後、ウッドデッキの段差に腰を下ろした。

「人の思考を形成してる要因はいくつかある。莉亜の場合、出発点は真面目なことを馬鹿にされたってところからだろ?」

「はい」

「あとは両親の厳しさも原因の一つかもな。でもそこは変えられないから、“真面目であることが正しい、不真面目な奴が間違ってる”、という0か100の極端な考えになったのかもしれない。それが心のバランスを保つために必要だったんだろう」

 自分を守るために矢印を外に向け、進んでる道の正当性を確保した。
 上手くいっていないときほど、思考は外側に敵を作ろうとする。
 樹は竜一の言葉を聞いて、そう感じた。

「色の濃い点が思考に落とされると、そこから線を引いて新たな点を作る。自分の生き方が正しいと証明しようとした結果、完璧主義という点が生まれた。そこから線を引くようにして考え方が派生していく。一度ルートができれば、別のルートが見えづらくなる。自分が正しいと思い込むと、自分の言動に疑問を持てなくなるように。それが絶対的な正義に変わっていくと、他人に厳しくなってしまう」

「でも、僕や竜一さんには意見を押し付けるようなことはありませんでしたよね?」

 葉山は竜一に問いかける。
 樹が来てから、莉亜の言動に変化があっと二人は言っていた。
 それは樹が喧嘩腰だったからと思っていたが、莉亜の話を聞く限り、他の人間に意見を押し付けていてもおかしくない。

「たぶん同世代を敵視してたんだろう。その中でも不真面目そうな人間に線を引いていた。薫は真面目そうに見えるし、悪口を言ってくるような印象はない。だから自分と同じカテゴリーに入ってたのかもしれない。俺に対しても敵意を向けてる素振りはなかった。年上に対しては、仕事で褒められたという経験で変化した可能性もあるが。過去の話を紐解くと、莉亜は無意識に境界線を作ってるように思える。その後輩は、あちら側に区分された。ミスをしても許されるのはおかしい。上司たちに可愛がられるのもおかしい。こいつは自分の生き方を否定してくる人間だ。本能がそう判断したのかもな。あとは嫉妬も混ざっていたんだろう。自分には持っていないものを持っていたから」

 その人がどんな人間かを判断するうえで”ミスが多い“という部分を莉亜は拾ったのかもしれない。
 実際に後輩がどういう人間かは分からないが、樹は金山という人間に会っている。
 彼はミスが多かったが、懸命に仕事に取り組んでいた。
 話をしていなかったら『どうしようもない奴』とレッテルを貼って蔑んでいたかもしれない。
 でも裏側にある想いを知って、見方が変わった。
 真面目さは立派な長所だ。
 だが、美しい花を咲かせられる種を持っていても、育て方を間違えたら咲くことすらない。
 莉亜が罪悪感を抱くのは、その後輩がいい加減な人間ではなかったと知っていたからかもしれない。
 分かっていながら戻ることができなかった。
 自分のやり方を否定すれば、今まで積み重ねたものも否定することになるから。
 ミスが多い人間に厳しく指導すること自体は間違ってはない。
 だがどう指導するかが大事だ。
 容量が少ない器に、無理やり自分のやり方を詰め込んだ。
 でもしなければいけなかったのは、入れられる容量を増やすことだ。
 だからパンクした。
 順序よく教えていたら、また違う未来が待っていたのかもしれない。
 嫉妬を捨てられていたら、傷をつけることもなかったかもしれない。
 莉亜のやり方が正しいときもあるだろうが、その後輩には当てはまらなかった。
 どんな花でも、水をあげすぎたら根が腐ってしまう。

「もう人を傷つけたくない。今の自分では、きっとまた同じことを繰り返してしまう。私は……どうすれば変われますか?」

 切望の言葉が、悲しさを纏って莉亜の口から零れた。
 生き方を見失った人間の表情をしている。
 自分が信じていた道にはもう戻れない。でもそれ以外に道を知らない。
 まるで神に願うような言の葉は、大きく揺れながら竜一へと託された。

「物事の見方を変えることと、それに意味を付けること。この二つを用いながら自分をコントロールしていく」

「どういうことですか?」

「完璧主義の人間は減点方式で生きてる。たった1悪いだけなのに他の9もそこに結んで、10すべてがダメだと思い込む。でもそこは切り離していい。できない部分は伸び代。プラス思考な人間は加点方式で生きてるからそう考えられる。理想ってのは選択肢の一つにしかすぎない。思い描いてるものから外れたとしても、その先に理想を超えるものがあったりもする。咲き方は一つだけじゃない。失敗したとしてもそれを次に生かせれば、失敗が成功の過程に変わる。言い訳で終わらせたり、そのままにしとくことが本当の失敗だ。間違えることは間違いじゃない。失敗の中でしか学べないこともある。それを知らない人間が完璧を目指すことなんてできない。ずっと真っ直ぐ歩ける人間がいないように。あと、馬鹿にしてくる人間に照準を合わせなくていいよ。それは醜悪な奴らに自分の人生を委ねるということだ。だから思考が歪む」

「ずっと固定概念に支配されてた。これが正しい、それ以外は間違いだって。馬鹿にされても気にしなくてよかったんですよね。その人たちを自分の世界に引き入れて、自ら苦しむ道を作ってた。なんでそんなことに気付けなかったんだろう。完璧を目指してたはずなのに、欠けてるところばっかりですね」

 莉亜は悔しそうな表情で唇を噛み締めている。
 目には濡れた感情が浮かび、後悔を泳がせていた。

「意味を付けるっていうのはどういうことですか?」

 これは葉山が聞いた。
 真剣な目は、何かを望むように竜一に向けられている。

「意味を持たせれば、辛い過去も必要なものだったと飲み込むことができる。意味っていうのは道だ。道が見えなくなるから行き先を見失う。だから神は偉大なんだよ」

 葉山は何かを考えるようにして、視線を落としていた。
 彼もまた、何かを抱えてここに来ている。
 樹の目には、抱えている苦悩に意味を付けようとしているように映った。

「これからは過去を背負いながら、自分と向き合って見方を変えていきます。もう誰かの人生を摘み取るような生き方をしたくないから」

 莉亜の目には意思が宿っている。
 進む道を見つけたのかは分からないが、覚悟のようなものを感じた。

「俺は色んな人間を傷つけてきた。物理的にだけど。でももう手を出したりはしない。自分を変えるためには、今までと違う考え方で生きていく必要がある。だからお互いに……なんて言うか……変われるといいな」

 誰かを励ますなどしてこなかったため、樹は言葉を詰まらせた。
 そこには恥ずかしさもあり、今までにはない感情が胸で揺蕩う。

「もしかして励まそうとしてくれてる?」

「そんなんじゃねえよ」

「竜一さん、樹くんが思いやりを身に付けようとしてます」

「うるせえな、お前だって人のこと馬鹿に……」

 莉亜が視線を送ってきたため、樹は言葉を止めた。
 雰囲気が先ほどとは変わったようにも思える。

「たくさん酷いこと言ってごめんね。それとありがとう。樹くんが私と向き合おうとしてくれたから、過去を話すことができた。お互い……変われるように頑張ろう」

 急な方向展開に樹は戸惑った。
 それと少しの照れも混ざっている。
 何か言葉を返そうかとも思ったが、まったく出てこない。
 どうしようかと考えていると、竜一が沈黙で空いた隙間を縫ってくれた。

「とりあえず酒でも飲むか」

 四人は手元の缶ビールのプルタブを引き上げた。
 プシュっという音と共に、麦の香りが鼻腔をなぞる。

「樹、何か一言」

「なんで俺なんだよ」

「なんか一言言って」

「嫌だよ」

「この場を設けたのは樹くんだから、樹くんが一言」

「お前らが勝手に集まって来たんだろ」

「ビール温くなっちゃうよ」

「じゃあ葉山が言えよ」

「僕よりも樹くんが言った方がいいよ」

「あー、樹くん勝手に飲んじゃダメじゃん」

「うるせえな」

「こういうときは、みんなで乾杯してから飲むの。常識でしょ」

「お前変わるんだろ? また常識とか言ってんじゃねーか」

「樹くんが非常識だから、教えてあげてるの」

「こんなくだらないことに常識も非常識もねえだろ」

「樹、なんか一言」

「もう飲んでるからいらないだろ」

「まだ飲まない方がいいですか?」

「早く葉山も飲めよ。俺だけ飲んでるから変な感じになってるじゃねえか」

「樹、なんか一言」

「しつけえな。早く飲めよ」

「こういうときはね……」

「あー、もううるせえな。早く飲め」

「ちょっと、やめてよ。服濡れちゃったじゃん」

「寝巻きに着替えてこいよ」

「アニメの可愛いやつだから恥ずかしい」

「お前のパジャマなんて誰も気にしねえよ」

「許さない」

「おい、やめろ。ビール臭くなるだろ」

「莉亜、もっとやれ」

「バカ、来るんじゃねえよ」

「逃げるな、樹」


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みんなのリアクション

 樹はウッドデッキに座りながら夜に描かれた星を眺めていた。
 人工的な光を纏う東京では、夜空の美しさを忘れてしまう。
 人の群れや高層ビルがないこの場所は、人生の休憩所としては最適かもしれない。
 コテージの周りにある木々は、海から吹く風が弓となって葉擦れを奏でている。 
 視覚と聴覚の癒しに、少しだけ心を落ち着かせていたが、まだ樹の心には不安が腰を下ろしていた。
 夕食のとき、莉亜は部屋から出てこなかった。
 初めは葉山が呼びに行き、その後は竜一が声をかけた。
 だが「大丈夫」という一言が返ってきただけで、二人とも莉亜の様子は分からなかったそうだ。
 樹は自分の言葉で傷つけてしまったのではという懸念があった。
 以前ならそんな考えを持つことはなかったが、相手の立場に立とうとしたことで、傷をつける怖さを知った。
 人が変わることを拒んだり、難しいと感じるのは、未知の領域に足を踏み入れるからだろう。
 新たな感情や思考に触れると苦痛に変化することがある。
 今までなら素通りしていたことも、立ち止まって向き合わなければならない。
 自分だけで処理できないものは不安に変わり、対処できなければ不快になっていく。
 そして変わることを放棄し、変わらない自分を選んでしまう。
 樹は今の心境を分析して、そう感じた。
 この不安を苦痛と認識するようになれば、『どうでもいい』と手元から離してしまうだろう。
 諦めるのが一番の特効薬だから。
 今までの自分を振り返れば、そうなる可能性は高い。
 樹は覚悟を持とうとしてた。
 ここで背を向けたら、常に楽な選択をするようになってしまう。
 自分を変えるためには、道から逸れないためには、逃げてはいけない人生の要所だ。
「樹くんいますか?」
「デッキにいるよ」
 リビングから声が聞こえると、誰かがこちらに向かってくる気配がした。
 心臓の鼓動が半音ほど上がり、緊張のようなものを感じる。
 樹は大きく深呼吸し、胸を叩く鼓動を鎮めようとした。
「隣いい?」
 振り向くと莉亜が立っていた。
 白を基調とした花柄のワンピースが風で靡いている。
「うん……」
 莉亜は静かに隣に座った。
 樹は不思議に思う。時間帯的に寝巻きでもいいはずだが、日中と変わらない服装だった。
 ずっと部屋に篭っていたなら尚更。
 また着替えてきたのだろうか? だがそんな面倒なことをするのだろうか?
 樹が疑問を解こうと考えていると、莉亜が口を開いた。
「私も中学生の頃に馬鹿にされたことがあるの。勉強ばかりしてたから、素行の悪いクラスの子にガリ勉って笑われてた。それがすごい悔しくて、いつも家で泣いてたんだ。両親が厳格で昔堅気な人だから相談なんてできない。きっと『そんな人間の言うことなんて気にするな』って言われるだけだから。遊ぶことも禁止だったし、常に成績は一番じゃないといけない。友達も作れないし、周りはみんなライバルだった」
 莉亜は空を見上げた。まるで遠い日の過去を眺めるように。
「ヤンキーって言われるような子たちが嫌いだった。馬鹿にされたっていうのもあるけど、ルールも守らないで自由に生きてることが許せなかったの。『自分はこんなに頑張ってるのに、なんであなたたちは先のことも考えず遊んでるの』って。だから自分の生き方の方が正しいと証明したかった。真面目な人間が報われないといけない。非常識な人間は幸せになるべきではない。そんな考えを持つようになった。今思うと、そこから歪み始めたんだと思う」
 樹に対して嫌悪を抱いていた理由は、過去の経験も混ざっていたのだろう。
 明らかに喧嘩と分かる傷を顔に刻み、コテージへと来た。
 樹の態度も相まって、初対面の印象は最悪だっただろう。
「だんだんとね、完璧を求めるようになってきたの。自分の生き方が正しいと証明するためには、目に見える成果をあげないといけない。だから一層、勉強に力を入れた。誰にも負けたくなかったし、誰にも馬鹿にされたくなかった。当時は一番を取ることで自分の価値を作ってきたし、それが正解だと思って生きてきたの。みんなが遊んでる間に、私は机に向かって教科書の文字を頭に叩き込んだ。夢にまで出てくるくらい、ひたすら、ひたすら、詰め込んだ。その甲斐もあって、高校三年間の成績はトップを走り続けた。自分が一番だと思ってた。私の生き方は間違いじゃないと思った。きっと周りもそう感じてるはず。真面目に生きてる人間が正しいことを証明した……はずだった」
 莉亜の表情には切なさが見えた。
 孤独の中を彷徨っているようにも感じる。
「でもね、私の周りには誰もいなかった。一人で突っ走った結果、近寄りづらい人間になってたみたい。『なんか見下してるように感じる』『自分が特別だと思ってそう』『感情とかなさそう』。陰でよく言われてた。真面目に生きる人間は嫉妬されるものだと思った。自分にはないものを持ってるから僻むしかできない。悪口を言うことで足りないものを埋めた気になってる。そう思うことで自分の存在価値を保った。それから人に欠点を見せられなくなったの。もし減点でもされれば、もっと馬鹿にされる。だから常に百点の自分を維持しようと思った。自分の生き方が正しいと証明するためにも」
 常識に当てはめようとする意味が分かった。
 ただ証明したいという思いから、今の言動に繋がっている。
 莉亜は意図的に見下すという行為はしていない。
 だが根っこにある思考が、無意識に言葉や態度に滲んでしまったのだろう。
 今も節々に、思考の欠片が散らばっている。
「大学生になってからは服装やメイクにもこだわるようになった。入学したばかりの頃、すれ違った男の子たちに『服、ダッサ』って言われたの。勉強ばかりで容姿には疎かったから、確かに服装はダサかったと思う。でも悔しかった。欠落した部分が自分にあることが。それから雑誌や動画を見て、メイクやファッショにこだわるようになった。垢抜けてからは、男の子に声をかけられるようになったけど、誰とも連むことはなかった。自分はこんな人たちとは違う。遊んでばかりの人間といると自分の価値が下がる。そう思ってたから。だから一人だった。他人と関わることを避けながら、ずっと完璧でいることを選んだ。というより、それしか道を知らなかった。初めはただ認めてほしかっただけなのに、すごいねって褒められたかっただけなのに、いつからかどこに進んでいるのか分からなくなっていた。そんな人間が社会に出るとね、人を傷つけるようになるの」
 莉亜の空気感に変化を感じた。
 ここからが本題と言わんばかりの重圧が、樹にものしかかっていた。
 葉擦れの音が沈黙の中で異様に響くと、重たい扉を開けるように莉亜は口を開いた。
「就職してからすぐに成果をあげることができた。上司からは褒められたし、周りからも認めてもらえるようになったの。今までは学生という自由気ままな世界だから私は理解されなかった。仕事という真面目さが活きる場所こそが自分の居場所だ。そう思えるほど充実した一年目だった。生き方は間違ってなかったし、正しかったと証明できた。でも二年目に入って、後輩ができてから風向きが変わったの」
 人間関係の不器用さに、樹も共感していた。
 理解できないところもあるが、今の莉亜を型取っているのは間違いなく過去だと思う。
 それが足枷となって、人との距離を作っている。
 だが社会に足を踏み入れ、自分の居場所を見つけることができた。
 不思議だったのは、一人を選んでいた人間が仕事では上手くいったということだ。
 コミュ障さを感じたが、それは出ていなかったのだろうか。
 そんな疑問を抱えながら、莉亜の言葉を待った。
「同じ部署に配属された新入社員の女の子がいてね、その子はコミュニケーションを取るのが上手だった。仕事はミスが多かったんだけど、明るいキャラクターもあって、どこか許される空気を持ってたの。上司から怒られることもあるけど、その後は何もなかったかのように可愛がられてた。でも、私はその子に完璧を求めた。いつか大きなミスをするかもしれないから厳しく指導したの。朝は一時間前に来させて、ビジネスマナーの再確認や資料の読み込み。私が良いと思ったビジネス書を何十冊と渡して、休みの日に家で読んでくるように言った。月曜日には本から何を得たかも話させた。みんなが甘やかせば、その子のためにならない。だから私がきっちり指導しないとダメだと思った。全部その子のため。私と同じように百点を目指させた」
 もし自分がその子だったら……と樹は考えた。
 たった一年しか違わない人間に、なぜここまで厳しくされないといけないのか。
 きっとその子も思ってたはずだ。
 でも莉亜の過去を聞けば、厳しく指導する理由が見えてくる。
「それから半年経った頃に、その子が出勤途中に倒れたの。月曜日の朝に駅のホームで本を握りしめながら気を失ったらしい。その本は私が読めと言った本だった。上司が言うには過労らしく、半年間まともに睡眠をとってなかったらしいの。そのときに自分の愚かさに気付いた。相手のためだと思っていた行為は、相手を追い詰める行為だったと。結局それがきっかけで、その子は会社を辞めた。親から上司に連絡がきたみたい。でも私の名前は出されなかった。それが罪悪感を助長させたの。自分は無傷のまま、誰にもお咎めなしでのうのうと仕事を続ける。他人の人生を摘み取っておいて、何もなかったかのような顔しながら出世していく。本当に最低な人間だと思った。このままここにいることはできない。そう思って退職したの。親にも内緒で」
――お前みたいな人間が、他人の人生を摘み取ってるんだよ 
 樹が莉亜に浴びせた言葉だ。
 そのときの莉亜は黙って俯いていた。
 きっと後輩のことを思い出していたのだろう。
 だから何も言い返さず、沈黙という形をとった。
 完璧主義者というのは、正論という名の下に人を蹂躙し、時に悪魔へと変貌する。
 仕事でミスが多かったという大義名分もあったため、追い詰めている感覚はなかったのかもしれない。
 だがその子なりに、ミスをした後も頑張ってはいたのかもと樹は思った。
 いい加減な人間なら本も読まないはず。でもその子は半年も続けた。
 怒られた後に可愛がられることで、莉亜の目には反省していないように映ったのかもしれない。
 でもそれは、その子にしか分からない。
 もう少し話をしてから、指導の方法を考えるべきだった。
 だが莉亜は、人間関係を作るのは苦手。
 それが追い詰めてしまう行為に繋がっていたのかもしれない。
「常に百点を求めようとしてしまう。しかも自分だけに向いていたものが他人にも向くようになった。それを変えたくてここに来たの。ブレーキが効かないならレールから外れるしかない。今のままでは、また誰かを追い詰めてしまう。そう思った。でも変わるって難しいね。未だに自分の欠点を他人に見せられない。悩みを打ち明けられなかったのも、ノートに過去を書けなかったのも汚点を知られたくないから。服装もメイクもバッチリ決めるのは、百点以外の自分を見せられないから。なんでこんな生き方を選んじゃったんだろう。くだらないプライドなんか捨てたらいいのに、手から離れてくれない。人の人生を摘み取っておきながら、まだ大事に握りしめてる。偉そうに常識とか言ってたけど、私が一番非常識だった」
 プライドを手放せない。
 樹自身もそうだった。
 道から逸れると分かっていても、歪んだ世界に足を踏み入れてしまう。
 そして一度足を浸からせれば、外に出ることは困難になる。
 人間とは理性よりも感情に左右される生き物だ。
 だからハンドルをコントロールできずに、暗闇の中に進んで迷ってしまう。
 正反対の人種だと思っていた莉亜も、樹と同じように過去を彷徨っている。
 二人ともコンパスが示す方向は“変えられない自分”だった。
「正しさですべてを否定してた。いや、間違っていても自分が正しいと思い込んでた。気付いてたけど、気付いていない自分を演じていた気がする」
「俺もそうだった。変わりたいと思いながら、変われない自分を選んでしまう。選択肢は他にもあるのに、選ぶのはいつも諦めか感情の指す方だった。道を作ることよりも、見えてる道を歩くほうが楽だから。それが間違っていたとしても」
 殴るという行為は、自分を底辺に留まらせる道だ。
 だが感情にハンドルを渡し、その通りに進んできた。
 変われない自分が根っこに染み付けば、諦めという咲かない花を育てることになる。
 どれだけ水をあげようとも、吸い上げようとしなければ芽が出ることもない。
 そして選択肢があっても、道が一つしかないと錯覚を起こし、自ら光を遮断するようになる。
「変わりたくてここに来たのに、変わろうとしてくれない。私なのに私じゃないみたいだった。でも少しだけ変化はあった。樹くんなら過去を話せるかなって」
「なんで?」
「たぶんもうマイナスだから。お互いに印象は最悪でしょ? 普段ならこれ以上馬鹿にされたくないって思うけど、樹くんは私を知ろうとしてくれた。ずっと理解者が欲しかったけど、他人に欠点を晒すことができない。そんな私にとって、樹くんは最適な相手だった。だってもう晒してるから」
 莉亜は少しだけ頬を緩ませた。
 ここに来てから、初めて向けられた柔らかな表情だった。
「社会で出会ってたら、お互い嫌悪だけの存在になってたかもしれない。でもコテージに来る人は何かを抱えている。それも相まって、言えたのかもしれない。ここでは欠けてることが普通だから。やっとそれに気付けた」
「やっと言葉が入る余地ができたな」
 振り向くと、竜一と葉山が立っていた。
 二人の手には缶ビールが握られている。
「聞いてたんですか?」
「うん」
 竜一と葉山は、樹たちに缶ビールを手渡した後、ウッドデッキの段差に腰を下ろした。
「人の思考を形成してる要因はいくつかある。莉亜の場合、出発点は真面目なことを馬鹿にされたってところからだろ?」
「はい」
「あとは両親の厳しさも原因の一つかもな。でもそこは変えられないから、“真面目であることが正しい、不真面目な奴が間違ってる”、という0か100の極端な考えになったのかもしれない。それが心のバランスを保つために必要だったんだろう」
 自分を守るために矢印を外に向け、進んでる道の正当性を確保した。
 上手くいっていないときほど、思考は外側に敵を作ろうとする。
 樹は竜一の言葉を聞いて、そう感じた。
「色の濃い点が思考に落とされると、そこから線を引いて新たな点を作る。自分の生き方が正しいと証明しようとした結果、完璧主義という点が生まれた。そこから線を引くようにして考え方が派生していく。一度ルートができれば、別のルートが見えづらくなる。自分が正しいと思い込むと、自分の言動に疑問を持てなくなるように。それが絶対的な正義に変わっていくと、他人に厳しくなってしまう」
「でも、僕や竜一さんには意見を押し付けるようなことはありませんでしたよね?」
 葉山は竜一に問いかける。
 樹が来てから、莉亜の言動に変化があっと二人は言っていた。
 それは樹が喧嘩腰だったからと思っていたが、莉亜の話を聞く限り、他の人間に意見を押し付けていてもおかしくない。
「たぶん同世代を敵視してたんだろう。その中でも不真面目そうな人間に線を引いていた。薫は真面目そうに見えるし、悪口を言ってくるような印象はない。だから自分と同じカテゴリーに入ってたのかもしれない。俺に対しても敵意を向けてる素振りはなかった。年上に対しては、仕事で褒められたという経験で変化した可能性もあるが。過去の話を紐解くと、莉亜は無意識に境界線を作ってるように思える。その後輩は、あちら側に区分された。ミスをしても許されるのはおかしい。上司たちに可愛がられるのもおかしい。こいつは自分の生き方を否定してくる人間だ。本能がそう判断したのかもな。あとは嫉妬も混ざっていたんだろう。自分には持っていないものを持っていたから」
 その人がどんな人間かを判断するうえで”ミスが多い“という部分を莉亜は拾ったのかもしれない。
 実際に後輩がどういう人間かは分からないが、樹は金山という人間に会っている。
 彼はミスが多かったが、懸命に仕事に取り組んでいた。
 話をしていなかったら『どうしようもない奴』とレッテルを貼って蔑んでいたかもしれない。
 でも裏側にある想いを知って、見方が変わった。
 真面目さは立派な長所だ。
 だが、美しい花を咲かせられる種を持っていても、育て方を間違えたら咲くことすらない。
 莉亜が罪悪感を抱くのは、その後輩がいい加減な人間ではなかったと知っていたからかもしれない。
 分かっていながら戻ることができなかった。
 自分のやり方を否定すれば、今まで積み重ねたものも否定することになるから。
 ミスが多い人間に厳しく指導すること自体は間違ってはない。
 だがどう指導するかが大事だ。
 容量が少ない器に、無理やり自分のやり方を詰め込んだ。
 でもしなければいけなかったのは、入れられる容量を増やすことだ。
 だからパンクした。
 順序よく教えていたら、また違う未来が待っていたのかもしれない。
 嫉妬を捨てられていたら、傷をつけることもなかったかもしれない。
 莉亜のやり方が正しいときもあるだろうが、その後輩には当てはまらなかった。
 どんな花でも、水をあげすぎたら根が腐ってしまう。
「もう人を傷つけたくない。今の自分では、きっとまた同じことを繰り返してしまう。私は……どうすれば変われますか?」
 切望の言葉が、悲しさを纏って莉亜の口から零れた。
 生き方を見失った人間の表情をしている。
 自分が信じていた道にはもう戻れない。でもそれ以外に道を知らない。
 まるで神に願うような言の葉は、大きく揺れながら竜一へと託された。
「物事の見方を変えることと、それに意味を付けること。この二つを用いながら自分をコントロールしていく」
「どういうことですか?」
「完璧主義の人間は減点方式で生きてる。たった1悪いだけなのに他の9もそこに結んで、10すべてがダメだと思い込む。でもそこは切り離していい。できない部分は伸び代。プラス思考な人間は加点方式で生きてるからそう考えられる。理想ってのは選択肢の一つにしかすぎない。思い描いてるものから外れたとしても、その先に理想を超えるものがあったりもする。咲き方は一つだけじゃない。失敗したとしてもそれを次に生かせれば、失敗が成功の過程に変わる。言い訳で終わらせたり、そのままにしとくことが本当の失敗だ。間違えることは間違いじゃない。失敗の中でしか学べないこともある。それを知らない人間が完璧を目指すことなんてできない。ずっと真っ直ぐ歩ける人間がいないように。あと、馬鹿にしてくる人間に照準を合わせなくていいよ。それは醜悪な奴らに自分の人生を委ねるということだ。だから思考が歪む」
「ずっと固定概念に支配されてた。これが正しい、それ以外は間違いだって。馬鹿にされても気にしなくてよかったんですよね。その人たちを自分の世界に引き入れて、自ら苦しむ道を作ってた。なんでそんなことに気付けなかったんだろう。完璧を目指してたはずなのに、欠けてるところばっかりですね」
 莉亜は悔しそうな表情で唇を噛み締めている。
 目には濡れた感情が浮かび、後悔を泳がせていた。
「意味を付けるっていうのはどういうことですか?」
 これは葉山が聞いた。
 真剣な目は、何かを望むように竜一に向けられている。
「意味を持たせれば、辛い過去も必要なものだったと飲み込むことができる。意味っていうのは道だ。道が見えなくなるから行き先を見失う。だから神は偉大なんだよ」
 葉山は何かを考えるようにして、視線を落としていた。
 彼もまた、何かを抱えてここに来ている。
 樹の目には、抱えている苦悩に意味を付けようとしているように映った。
「これからは過去を背負いながら、自分と向き合って見方を変えていきます。もう誰かの人生を摘み取るような生き方をしたくないから」
 莉亜の目には意思が宿っている。
 進む道を見つけたのかは分からないが、覚悟のようなものを感じた。
「俺は色んな人間を傷つけてきた。物理的にだけど。でももう手を出したりはしない。自分を変えるためには、今までと違う考え方で生きていく必要がある。だからお互いに……なんて言うか……変われるといいな」
 誰かを励ますなどしてこなかったため、樹は言葉を詰まらせた。
 そこには恥ずかしさもあり、今までにはない感情が胸で揺蕩う。
「もしかして励まそうとしてくれてる?」
「そんなんじゃねえよ」
「竜一さん、樹くんが思いやりを身に付けようとしてます」
「うるせえな、お前だって人のこと馬鹿に……」
 莉亜が視線を送ってきたため、樹は言葉を止めた。
 雰囲気が先ほどとは変わったようにも思える。
「たくさん酷いこと言ってごめんね。それとありがとう。樹くんが私と向き合おうとしてくれたから、過去を話すことができた。お互い……変われるように頑張ろう」
 急な方向展開に樹は戸惑った。
 それと少しの照れも混ざっている。
 何か言葉を返そうかとも思ったが、まったく出てこない。
 どうしようかと考えていると、竜一が沈黙で空いた隙間を縫ってくれた。
「とりあえず酒でも飲むか」
 四人は手元の缶ビールのプルタブを引き上げた。
 プシュっという音と共に、麦の香りが鼻腔をなぞる。
「樹、何か一言」
「なんで俺なんだよ」
「なんか一言言って」
「嫌だよ」
「この場を設けたのは樹くんだから、樹くんが一言」
「お前らが勝手に集まって来たんだろ」
「ビール温くなっちゃうよ」
「じゃあ葉山が言えよ」
「僕よりも樹くんが言った方がいいよ」
「あー、樹くん勝手に飲んじゃダメじゃん」
「うるせえな」
「こういうときは、みんなで乾杯してから飲むの。常識でしょ」
「お前変わるんだろ? また常識とか言ってんじゃねーか」
「樹くんが非常識だから、教えてあげてるの」
「こんなくだらないことに常識も非常識もねえだろ」
「樹、なんか一言」
「もう飲んでるからいらないだろ」
「まだ飲まない方がいいですか?」
「早く葉山も飲めよ。俺だけ飲んでるから変な感じになってるじゃねえか」
「樹、なんか一言」
「しつけえな。早く飲めよ」
「こういうときはね……」
「あー、もううるせえな。早く飲め」
「ちょっと、やめてよ。服濡れちゃったじゃん」
「寝巻きに着替えてこいよ」
「アニメの可愛いやつだから恥ずかしい」
「お前のパジャマなんて誰も気にしねえよ」
「許さない」
「おい、やめろ。ビール臭くなるだろ」
「莉亜、もっとやれ」
「バカ、来るんじゃねえよ」
「逃げるな、樹」