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二十話 正論

ー/ー



 樹は部屋のベッドで横になりながら、莉亜との喧嘩を振り返っていた。
 初めて言い争いになったのは、初日の夕食時だ。
 仕事のことを聞かれ、樹が言葉を強めて返したことがきっかけだった。

――じゃあ仕事を辞めて、ここに来たの?
――言う必要ある? 友達作りに来たわけじゃないから干渉されるの面倒なんだけど

 このときは過去に触れてほしくなかったため、思わずきつい言い方をしてしまった。
 今思えば「そうだよ」で済んだ話だ。
 たぶん井口に引っ張られていたのかもしれない。
 他人という存在が敵に見えていたから、無意識に言葉を尖らせていた。
 見下されてると感じたのも同じ理由だろう。
 自分から喧嘩腰にいけば、相手だって言葉を尖らせる。
 でも樹の中では、“相手がなぜか喧嘩をしかけてくる”というマインドになっていた。
 だから余計に苛立ちを覚えてしまっていたのだろう。
 きっかけを作ったのは樹だった。ここに来るまでに積み重なった過去がそうさせていた。
 自分の中にあるものが考え方の方向を決め、狭い思考のもと物差しを作る。
 測れもしないのに無理やり相手に押し付けて、勝手に頭の中だけで人物像を描いた。
 その結果がこれだ。
 井口に中卒ということを馬鹿にされたのに、自分も金持ちということだけで人を測ろうとしてしまった。
 まさにクズだ。どうしようもないほどのクズ。
 自分を棚に上げるというのは、こういうことを言うのだろう。
 俺も井口と変わらない。
 樹は心の中でそう思いながら、今までの言葉を反省した。
 人は環境や周りの人間に影響を受けて、思考の進む方向が決まっていく。
 樹の場合は中学のときが起点だ。
 他人という存在を信用できなくなり、舐められたくないという思いから手を出すようにもなった。
 喧嘩ばかりで家族からも見放され、誰にも頼れないまま底辺で人生を描き続けてきた。
 最下層にいると視界が狭まり、限られた中で判断をするから、考え方が歪んできたのだろう。
 でも良い人と思える人間もいたはずだ。
 金山や原西のように寄り添ってくれる人もいる。
 だが井口や村内のような醜悪な人間に目を向けてしまう。
 もし良い人たちにファーカスを当て、考え方を歪ませていなかったら、違う道を歩いていたのかもしれない。
 汚水が流れる場所では、綺麗なものさえ汚れてしまう。
 美しいと思える心を持っているだけでも、人はまともなのかもしれないと、樹は思った。
 莉亜と喧嘩してしまう原因は分かった。
 積み重なった過去が考え方や受け取り方を歪ませ、言葉を尖らせていたからだ。
 次は莉亜の言葉に目を向ける。
 口調や感情は樹がもたらしたものだと考えれば、その部分は一旦外さないといけない。
 目を向けるべきは言葉の内容だ。
 莉亜は「常識」「当たり前」という単語をよく用いている。
 親が厳しく、家柄良いということが起因しているのかもしれない。
 莉亜は常に小綺麗な格好をし、メイクもばっちりと決めている。
 マナーなどを口うるさく教えられたのだとしたら、樹のような人間に嫌悪を抱くだろう。
 もしそうなら、金持ちに偏見を持っていた樹と類似している部分だ。
 一緒に夕食を作っていたときにも喧嘩したが、その場面での言葉がまさに物語っている。

――常識も分からないそっちが悪い。今まで真面目な人を馬鹿にして生きてきたんでしょ? だから私に突っかかる。どうせ学生時代は学校のルールも守らないで、勉強もせずに好き勝手に遊んでた。そのツケが大人になって返ってきたんだよ。その顔の傷も喧嘩でしょ? その歳になって恥ずかしいと思わないの? 喧嘩の強さなんて、なんの役にも立たない。樹くんはもっと真面目に生きるべきだよ。人生がうまくいかないのは自分のせい。それを自覚した方がいい

 この言葉から想像を膨らませると、莉亜は学生生活を真面目に送ってきたのだろう。
 言い回しからすれば、素行の悪い人間を毛嫌いしていると推測できる。
 もしかしたら真面目ということを馬鹿にされたのかもしれない。
 だから余計に言葉が尖る。
 樹は中学のとき、プロ野球選手を目指していたことを馬鹿にされた。
 そのときは殴ることで相手を黙らせたが、莉亜ならどうするのだろう?
 もし生き方を馬鹿にされた場合、どうやって自分を保とうとするのだろう?
 莉亜は料理を教える際、一つ一つを丁寧に教えていた。
 マナーを叩き込まれていたとすれば当然かもしれないが、“正しさ”を押し付けられてるような気もした。
 自分の生き方が正しい。あなたみたいな素行が悪かった人間は間違ってる。
 そう言われているようにも感じた。
 それと、あのときは怒りで気付かなかったが、「百点のものを作るには……」という言葉を莉亜は使っていた。
 なぜ丁寧に教える必要があるかを述べたときだ。
 普通なら「美味しいものを」で良いはず。
 点数に意味はあるのだろうか?
 それとも、たまたまなのだろうか?
 服装やメイクも気になる。
 出かけるわけでもないのにばっちりとメイクを施し、常に小綺麗な格好でいる。
 寝巻き姿も見たことないし、スッピン姿も見ない。朝から完璧に仕上げてくる。
 育ちの良さからと言えばそれで済むもしれないが、何か別の理由があるようにも思えた。
 莉亜は竜一に本音を話していないし、ノートにも自分の悩みや過去を書いていない。
 じゃあなぜここに来たのだろう。
 何かを求めて来てるはずだ。
 仕事はたぶん辞めている。竜一は「商社に就職してた」と過去形で話していたから。
 順調なラインに乗っていながら、その道を降りてここに来た。
 会社で何かあったのか。
 それとも別の要因なのか。
 土屋の前で喧嘩したとき、何も言い返してこなかった瞬間があった。

――お前みたいな人間が、他人の人生を摘み取ってるんだよ

 樹がそう言うと、莉亜は唇を噛み締めながら俯いていた。
 過去に何かあった可能性がある。
 思い出したくはない何か。
 その言葉が禁忌に踏み込んだのかもしれない。 
 樹は頭を悩ませる。
 今まで他人という存在のことを、ちゃんと考えたことはなかった。
 自分の視点からしか見てこなかったため、理解するための方程式を持っていない。
 竜一が、まずは自分自身と向き合えと言ったのは、そこに他人を理解する種があるからだ。
 樹は自分の経験と照らし合わせながら、莉亜の言葉を解こうとしていた。
 自分が変わるというより、莉亜の本音を引き出したい。
 いつの間にか、そういう考えに変わっていた。
 樹自身はそんなことに気付いてないが、今歩いている道で何かを拾おうとしていた。


 リビングに入ると、ダイニングで蘭がぬり絵をしていた。
 隣には莉亜が座っており、蘭が色を塗るのを見守るように眺めている。
 ソファーでは竜一と葉山がくつろいでおり、リビングには穏やかな空気が流れていた。
 だが樹が入ってきたことに気付くと、空気が少しだけ重たくなる。
 莉亜は樹を一瞥した後、視界に入れないようにするためか、蘭の方に体を向けた。
 瞬間、樹の感情に苛立ちが灯された。
 だが、大きく息を吐いて吹き消す。
 キッチンに向かい、棚に入っていたグラスを取って冷蔵庫から水を出した。
 樹の目には莉亜の背中が映る。
 莉亜とはまともに会話したことがない。口を開けばお互いに言葉を投げ合った。最初に開戦の狼煙を上げたのは樹。
 でも今は莉亜に対する見方が変わってきている。
 感情を外に置いて考えたことで、俯瞰して見れるようになった。
 莉亜に対し“なぜ”という部分はまだ残っているが、煮え立つような怒りは残っていない。今は前に進むための道を模索している。

「蘭ちゃん、ゾウは灰色だよ」

 蘭がゾウをピンクに塗ろうとしたとき、莉亜が指摘した。
 蘭はピンクの色鉛筆をケースに戻し、灰色を手に取る。

「好きな色で塗らせてあげたら」

 樹は柔らかな口調で言った。
 それに驚いたのか、竜一と葉山が視線を向けてきた。

「ゾウは灰色でしょ? 正しい色を教えてるの」

 莉亜の口調には鋭さがあり、樹を嫌悪していることは明白だった。

「自分の価値観で作った枠を他人に当てはめてはいけない。見えなくなるものが増えるから」

 莉亜は怪訝な顔を向けてきたが、樹は会話の方向性を考えながら言葉を選んでいた。どう本音を引き出すかと。

「間違ってることを正すのがダメなことなの?」

「正論だよ、間違ってない」

「じゃあ、わざわざ突っかかってこないで。樹くんみたいな人に否定されるのは嫌なの」

「喧嘩の原因を作ったのは俺だし、言い方も良くなかった。ごめん」

 莉亜は目を丸くしながら樹を見ていた。
 ずっとストレートを投げていたからこそ変化球に対応できない、といった顔だ。

「正論がダメなわけじゃないけど、状況次第では道を一つに絞って無理やり歩かせられてるように感じる。真っ直ぐ歩けない人間からしたら、それが息苦しいんだ。だから自分が間違ってると分かってても反論してしまうし、相手の言葉を受け入れられない。俺は中学の頃に夢を馬鹿にされた。『お前には無理だ』って。今思うと、あいつらが言ってたのは正論だったのかもしれない。中途半端に実力があったからこそ、自分ならできると思い込んでた。でも周りの人間からしたら、早めに諦めて別の道を進んだ方がいいって考えだったのかもしれない。その方が浅い傷で済むから」

 莉亜は黙って樹の話を聞いていた。なんでこんなことを話すのかをまだ理解していないと思う。
 樹は不器用なりに想いを伝えようとしていた。
 言葉の裏側を見ようとしたことで、莉亜の本音を知りたいと思うようになった。
 相手の立場に立ったことで、見えなかったものが見えかけてきたからだ。
 今は薄らとぼやけたまま。
 だけどその景色が鮮明になったとき、自分を変えるための種が拾えると思った。
 周りくどい言い回しながらも、自分の中にあるものを莉亜に知ってもらおうとした。
 それが何かのきっかけになると思ったからだ。

「俺は結局、中学のときに夢を諦めた。馬鹿にした奴のことも殴って黙らせた。そこから考えが歪み始めたんだと思う。今は社会の底辺でもがいてるけど、あのとき諦めてなかったら、きっと違う道を歩いていた気がするんだ。人は環境や周りの人間に左右されながら、どの道を歩くかを決める。俺はずっと選択を間違ってきた。でも、その間違いの中から何かを探したい。普通の人とは違う道を歩いてるけど、遠回りしたからこそ拾えるものがあると思う。だから正論だけが正解じゃない。今歩いてる道を、どう正解にできるかも大切なんじゃないかな」

 樹自身、この言葉で良かったのかは分からない。
 もしかしたら莉亜は、自分が否定されてると感じてるかもしれない。
 そうだった場合、また言葉を変えて届けるしかない。
 本音を引き出すことは簡単じゃないが、諦めてはいけない。
 苦悩も、自分を変えるための種だ。

「何が言いたいの?」

 莉亜は俯きながら樹に問いかけてきた。
 表情には影がかかっており、口調もどこか弱々しい。

「俺は感情だけで生きてきたから、自分を苦しめる道を選んでたんだと思う。相手の立場に立って考えたことなんてないし、考えようとも思わなかった。でもこれからは生き方を変えなければいけない。狭い視野では見えないものが多すぎる。目の前に成長できる種があったとしても、見えていなければ拾うことはできない。考え方の幅を広げるには、他人のことをもっと理解する必要があると思った。だから……本音を聞かせてほしい。なんでここに来たのか、過去に何があったのか、求めているもの、どう生きたいのか。言えない理由があるんだろうけど、言える範囲でいいから聞きたい。自分のためにもなるし、たぶん……池田のためにも」

 最後は聞こえるかどうか、というぐらいの声量だった。
 でも言いたいことは言えた。あとは莉亜がどう感じたか。
 表情を見ると、今もまだ影がかかっており、俯いたままだ。
 竜一と葉山も、莉亜に視線を向けている。
 蘭だけはなぜか樹を見ており、その感情は読めなかった。

「竜一さん、今日の買い物は私一人で行ってきます。車借りますね」

 莉亜はそう言って、リビングを出て行った。
 部屋には言葉では言い難い空気が漂っている。
 樹は不安に駆られた。
 何か傷つけることを言ってしまったのかと。
 どう気持ちを伝えていいか分からず、最後の方は思ったことをそのまま吐き出していた。
 もう少し考えて話せば良かったかもと、後悔のようなものも滲む。
 樹が小さくため息つくと、竜一と目が合った。
 顔に笑顔を浮かべており、まるで子の成長を喜ぶ父のようだった。
 樹は急に恥ずかしくなったため、足早に二階にある自室へと戻っていく。
 その間、莉亜の影のかかった表情が頭の中に浮かび、再び不安が横たわった。


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みんなのリアクション

 樹は部屋のベッドで横になりながら、莉亜との喧嘩を振り返っていた。
 初めて言い争いになったのは、初日の夕食時だ。
 仕事のことを聞かれ、樹が言葉を強めて返したことがきっかけだった。
――じゃあ仕事を辞めて、ここに来たの?
――言う必要ある? 友達作りに来たわけじゃないから干渉されるの面倒なんだけど
 このときは過去に触れてほしくなかったため、思わずきつい言い方をしてしまった。
 今思えば「そうだよ」で済んだ話だ。
 たぶん井口に引っ張られていたのかもしれない。
 他人という存在が敵に見えていたから、無意識に言葉を尖らせていた。
 見下されてると感じたのも同じ理由だろう。
 自分から喧嘩腰にいけば、相手だって言葉を尖らせる。
 でも樹の中では、“相手がなぜか喧嘩をしかけてくる”というマインドになっていた。
 だから余計に苛立ちを覚えてしまっていたのだろう。
 きっかけを作ったのは樹だった。ここに来るまでに積み重なった過去がそうさせていた。
 自分の中にあるものが考え方の方向を決め、狭い思考のもと物差しを作る。
 測れもしないのに無理やり相手に押し付けて、勝手に頭の中だけで人物像を描いた。
 その結果がこれだ。
 井口に中卒ということを馬鹿にされたのに、自分も金持ちということだけで人を測ろうとしてしまった。
 まさにクズだ。どうしようもないほどのクズ。
 自分を棚に上げるというのは、こういうことを言うのだろう。
 俺も井口と変わらない。
 樹は心の中でそう思いながら、今までの言葉を反省した。
 人は環境や周りの人間に影響を受けて、思考の進む方向が決まっていく。
 樹の場合は中学のときが起点だ。
 他人という存在を信用できなくなり、舐められたくないという思いから手を出すようにもなった。
 喧嘩ばかりで家族からも見放され、誰にも頼れないまま底辺で人生を描き続けてきた。
 最下層にいると視界が狭まり、限られた中で判断をするから、考え方が歪んできたのだろう。
 でも良い人と思える人間もいたはずだ。
 金山や原西のように寄り添ってくれる人もいる。
 だが井口や村内のような醜悪な人間に目を向けてしまう。
 もし良い人たちにファーカスを当て、考え方を歪ませていなかったら、違う道を歩いていたのかもしれない。
 汚水が流れる場所では、綺麗なものさえ汚れてしまう。
 美しいと思える心を持っているだけでも、人はまともなのかもしれないと、樹は思った。
 莉亜と喧嘩してしまう原因は分かった。
 積み重なった過去が考え方や受け取り方を歪ませ、言葉を尖らせていたからだ。
 次は莉亜の言葉に目を向ける。
 口調や感情は樹がもたらしたものだと考えれば、その部分は一旦外さないといけない。
 目を向けるべきは言葉の内容だ。
 莉亜は「常識」「当たり前」という単語をよく用いている。
 親が厳しく、家柄良いということが起因しているのかもしれない。
 莉亜は常に小綺麗な格好をし、メイクもばっちりと決めている。
 マナーなどを口うるさく教えられたのだとしたら、樹のような人間に嫌悪を抱くだろう。
 もしそうなら、金持ちに偏見を持っていた樹と類似している部分だ。
 一緒に夕食を作っていたときにも喧嘩したが、その場面での言葉がまさに物語っている。
――常識も分からないそっちが悪い。今まで真面目な人を馬鹿にして生きてきたんでしょ? だから私に突っかかる。どうせ学生時代は学校のルールも守らないで、勉強もせずに好き勝手に遊んでた。そのツケが大人になって返ってきたんだよ。その顔の傷も喧嘩でしょ? その歳になって恥ずかしいと思わないの? 喧嘩の強さなんて、なんの役にも立たない。樹くんはもっと真面目に生きるべきだよ。人生がうまくいかないのは自分のせい。それを自覚した方がいい
 この言葉から想像を膨らませると、莉亜は学生生活を真面目に送ってきたのだろう。
 言い回しからすれば、素行の悪い人間を毛嫌いしていると推測できる。
 もしかしたら真面目ということを馬鹿にされたのかもしれない。
 だから余計に言葉が尖る。
 樹は中学のとき、プロ野球選手を目指していたことを馬鹿にされた。
 そのときは殴ることで相手を黙らせたが、莉亜ならどうするのだろう?
 もし生き方を馬鹿にされた場合、どうやって自分を保とうとするのだろう?
 莉亜は料理を教える際、一つ一つを丁寧に教えていた。
 マナーを叩き込まれていたとすれば当然かもしれないが、“正しさ”を押し付けられてるような気もした。
 自分の生き方が正しい。あなたみたいな素行が悪かった人間は間違ってる。
 そう言われているようにも感じた。
 それと、あのときは怒りで気付かなかったが、「百点のものを作るには……」という言葉を莉亜は使っていた。
 なぜ丁寧に教える必要があるかを述べたときだ。
 普通なら「美味しいものを」で良いはず。
 点数に意味はあるのだろうか?
 それとも、たまたまなのだろうか?
 服装やメイクも気になる。
 出かけるわけでもないのにばっちりとメイクを施し、常に小綺麗な格好でいる。
 寝巻き姿も見たことないし、スッピン姿も見ない。朝から完璧に仕上げてくる。
 育ちの良さからと言えばそれで済むもしれないが、何か別の理由があるようにも思えた。
 莉亜は竜一に本音を話していないし、ノートにも自分の悩みや過去を書いていない。
 じゃあなぜここに来たのだろう。
 何かを求めて来てるはずだ。
 仕事はたぶん辞めている。竜一は「商社に就職してた」と過去形で話していたから。
 順調なラインに乗っていながら、その道を降りてここに来た。
 会社で何かあったのか。
 それとも別の要因なのか。
 土屋の前で喧嘩したとき、何も言い返してこなかった瞬間があった。
――お前みたいな人間が、他人の人生を摘み取ってるんだよ
 樹がそう言うと、莉亜は唇を噛み締めながら俯いていた。
 過去に何かあった可能性がある。
 思い出したくはない何か。
 その言葉が禁忌に踏み込んだのかもしれない。 
 樹は頭を悩ませる。
 今まで他人という存在のことを、ちゃんと考えたことはなかった。
 自分の視点からしか見てこなかったため、理解するための方程式を持っていない。
 竜一が、まずは自分自身と向き合えと言ったのは、そこに他人を理解する種があるからだ。
 樹は自分の経験と照らし合わせながら、莉亜の言葉を解こうとしていた。
 自分が変わるというより、莉亜の本音を引き出したい。
 いつの間にか、そういう考えに変わっていた。
 樹自身はそんなことに気付いてないが、今歩いている道で何かを拾おうとしていた。
 リビングに入ると、ダイニングで蘭がぬり絵をしていた。
 隣には莉亜が座っており、蘭が色を塗るのを見守るように眺めている。
 ソファーでは竜一と葉山がくつろいでおり、リビングには穏やかな空気が流れていた。
 だが樹が入ってきたことに気付くと、空気が少しだけ重たくなる。
 莉亜は樹を一瞥した後、視界に入れないようにするためか、蘭の方に体を向けた。
 瞬間、樹の感情に苛立ちが灯された。
 だが、大きく息を吐いて吹き消す。
 キッチンに向かい、棚に入っていたグラスを取って冷蔵庫から水を出した。
 樹の目には莉亜の背中が映る。
 莉亜とはまともに会話したことがない。口を開けばお互いに言葉を投げ合った。最初に開戦の狼煙を上げたのは樹。
 でも今は莉亜に対する見方が変わってきている。
 感情を外に置いて考えたことで、俯瞰して見れるようになった。
 莉亜に対し“なぜ”という部分はまだ残っているが、煮え立つような怒りは残っていない。今は前に進むための道を模索している。
「蘭ちゃん、ゾウは灰色だよ」
 蘭がゾウをピンクに塗ろうとしたとき、莉亜が指摘した。
 蘭はピンクの色鉛筆をケースに戻し、灰色を手に取る。
「好きな色で塗らせてあげたら」
 樹は柔らかな口調で言った。
 それに驚いたのか、竜一と葉山が視線を向けてきた。
「ゾウは灰色でしょ? 正しい色を教えてるの」
 莉亜の口調には鋭さがあり、樹を嫌悪していることは明白だった。
「自分の価値観で作った枠を他人に当てはめてはいけない。見えなくなるものが増えるから」
 莉亜は怪訝な顔を向けてきたが、樹は会話の方向性を考えながら言葉を選んでいた。どう本音を引き出すかと。
「間違ってることを正すのがダメなことなの?」
「正論だよ、間違ってない」
「じゃあ、わざわざ突っかかってこないで。樹くんみたいな人に否定されるのは嫌なの」
「喧嘩の原因を作ったのは俺だし、言い方も良くなかった。ごめん」
 莉亜は目を丸くしながら樹を見ていた。
 ずっとストレートを投げていたからこそ変化球に対応できない、といった顔だ。
「正論がダメなわけじゃないけど、状況次第では道を一つに絞って無理やり歩かせられてるように感じる。真っ直ぐ歩けない人間からしたら、それが息苦しいんだ。だから自分が間違ってると分かってても反論してしまうし、相手の言葉を受け入れられない。俺は中学の頃に夢を馬鹿にされた。『お前には無理だ』って。今思うと、あいつらが言ってたのは正論だったのかもしれない。中途半端に実力があったからこそ、自分ならできると思い込んでた。でも周りの人間からしたら、早めに諦めて別の道を進んだ方がいいって考えだったのかもしれない。その方が浅い傷で済むから」
 莉亜は黙って樹の話を聞いていた。なんでこんなことを話すのかをまだ理解していないと思う。
 樹は不器用なりに想いを伝えようとしていた。
 言葉の裏側を見ようとしたことで、莉亜の本音を知りたいと思うようになった。
 相手の立場に立ったことで、見えなかったものが見えかけてきたからだ。
 今は薄らとぼやけたまま。
 だけどその景色が鮮明になったとき、自分を変えるための種が拾えると思った。
 周りくどい言い回しながらも、自分の中にあるものを莉亜に知ってもらおうとした。
 それが何かのきっかけになると思ったからだ。
「俺は結局、中学のときに夢を諦めた。馬鹿にした奴のことも殴って黙らせた。そこから考えが歪み始めたんだと思う。今は社会の底辺でもがいてるけど、あのとき諦めてなかったら、きっと違う道を歩いていた気がするんだ。人は環境や周りの人間に左右されながら、どの道を歩くかを決める。俺はずっと選択を間違ってきた。でも、その間違いの中から何かを探したい。普通の人とは違う道を歩いてるけど、遠回りしたからこそ拾えるものがあると思う。だから正論だけが正解じゃない。今歩いてる道を、どう正解にできるかも大切なんじゃないかな」
 樹自身、この言葉で良かったのかは分からない。
 もしかしたら莉亜は、自分が否定されてると感じてるかもしれない。
 そうだった場合、また言葉を変えて届けるしかない。
 本音を引き出すことは簡単じゃないが、諦めてはいけない。
 苦悩も、自分を変えるための種だ。
「何が言いたいの?」
 莉亜は俯きながら樹に問いかけてきた。
 表情には影がかかっており、口調もどこか弱々しい。
「俺は感情だけで生きてきたから、自分を苦しめる道を選んでたんだと思う。相手の立場に立って考えたことなんてないし、考えようとも思わなかった。でもこれからは生き方を変えなければいけない。狭い視野では見えないものが多すぎる。目の前に成長できる種があったとしても、見えていなければ拾うことはできない。考え方の幅を広げるには、他人のことをもっと理解する必要があると思った。だから……本音を聞かせてほしい。なんでここに来たのか、過去に何があったのか、求めているもの、どう生きたいのか。言えない理由があるんだろうけど、言える範囲でいいから聞きたい。自分のためにもなるし、たぶん……池田のためにも」
 最後は聞こえるかどうか、というぐらいの声量だった。
 でも言いたいことは言えた。あとは莉亜がどう感じたか。
 表情を見ると、今もまだ影がかかっており、俯いたままだ。
 竜一と葉山も、莉亜に視線を向けている。
 蘭だけはなぜか樹を見ており、その感情は読めなかった。
「竜一さん、今日の買い物は私一人で行ってきます。車借りますね」
 莉亜はそう言って、リビングを出て行った。
 部屋には言葉では言い難い空気が漂っている。
 樹は不安に駆られた。
 何か傷つけることを言ってしまったのかと。
 どう気持ちを伝えていいか分からず、最後の方は思ったことをそのまま吐き出していた。
 もう少し考えて話せば良かったかもと、後悔のようなものも滲む。
 樹が小さくため息つくと、竜一と目が合った。
 顔に笑顔を浮かべており、まるで子の成長を喜ぶ父のようだった。
 樹は急に恥ずかしくなったため、足早に二階にある自室へと戻っていく。
 その間、莉亜の影のかかった表情が頭の中に浮かび、再び不安が横たわった。