コテージの脇にある喫煙所で、樹はタバコを吸っていた。
オーナーは樹に会うためだけに、わざわざ東京から来たみたいだ。
先ほど竜一が駅まで送り、束の間の初対面は幕を閉じた。
隠居生活の金持ちだから、きっと暇を持て余しているのだろう。
わざわざ時間をかけて会いに来る必要などない。ましてや、東京から数時間もかけている。
余生でゆっくりと命を枯らしていくだけの人生だから、無駄なことすらも厭わずできるのかもしれない。
樹はそう思いながら白煙を空に吐いた。
ここでは皆、貯金を切り崩しながら生活してる。
樹に貯蓄はほとんどない。
このタバコも竜一から貰ったものだ。
自分の力だけで生きることもできない社会の底辺さに、樹は嫌気が差す。
「オーナーが頑張れってよ」
竜一がタバコを咥えながら歩いてきた。
樹の隣に立つと、ポケットからジッポを取り出し火をつける。
「真面目に生きてればきっと報われるから、希望は捨てるなだって」
「金持ちに言われても嫌味にしか聞こえない。どうせ暇だから、余興程度にコテージを建てただけだろ? じじいは道楽でやってるから気楽でいいけど、底辺の人間からしたら簡単に希望なんて持てねえよ」
富裕層の手のひらの上で転がされてるような感覚があった。
暇を持て余した余生で、道から外れた人間を集めて観賞を楽しむ。
特に社会の底辺でもがいてるクズは、見てて面白いだろ。
自分とは正反対の人間を眺める機会なんて滅多にないのだから。
そう考えると、土屋に対して怒りのようなものが出てきた。
「居酒屋の店長に、中卒を馬鹿にされてどう思った?」
唐突に話の流れとは関係ない質問がきたため、樹は一瞬だけ思考が固まった。
「ムカついた。中卒ってだけでクズと決めつけられたから」
「偏見を持たれるのは嫌か?」
「それは誰だってそうだろ」
「じゃあなんでお前は、金持ちに対して偏見を持つ?」
竜一の言葉がグサッと心に刺さった。
樹は何も言い返せない。
偏見を向けてくる人間は、自分が嫌いな人種だったはず。
それなのに、いつの間にかそちら側に足を踏み入れていた。
しかも竜一に言われるまで、金持ちに対して偏見を持ってることすら気付いていなかった。
底辺を見下す高飛車で傲慢な奴ら。
樹の中で枠を作り、無意識にカテゴリーの中に放り込んでいた。
だから何を言ってもいい。
そう思っていたのかもしれない。
「偏見を持って、決めつけてくる人間は樹が嫌ってたタイプだろ? そんな奴らから虐げられて道から外れた。でも今のお前は、そいつらとなんら変わらない。人は他人の言動には敏感だが、自分の言動には鈍感だ。相手も見ずに、自分の都合に合わせて輪郭を描くな。線の引き方を間違えれば、歪んだ思考で生きることになる。そうなれば真っ直ぐ歩くことなんてできない。肩書きだけで判断するな。中身を見てから言葉を決めろ」
歪んでいたことさえ知らずに、真っ直ぐ進もうとしていた。
どこから曲がり始めたのかも分からない。
変わるためにここに来たはずが、余計に道を逸れているように思えた。
「元々金持ちが嫌いだったところに莉亜という存在が現れた。そして莉亜の実家も裕福だ。それがバイアスをかけて主語を大きくした。金持ちは皆、底辺を否定してくると。だから樹の言葉にも棘が付く。今は狭い道に入り込んでて、そこに固定概念が根付いてしまうと帰ってくることが困難になる。偏見を持ってるときは言葉の入る余地がない。だから何を言っても変えることができないんだ。環境で上手くいかないのと、自分の見方が悪くて上手くいかないのは違うからな。まだ引き返せるところを歩いていたから良かったけど、もっと先に進んでしまうと偏見の塊みたいな人間が生み出される。お前が嫌う人種だ」
もしかしたら井口や村内も、昔は真っ直ぐ歩こうとしていたのかもしれない。
何かのきっかかで思考が逸れ、卑しい怪物に変わってしまった。
そして樹自身もそちら側に片足を入れ、思考が歪み始めていた。
常に自分と向き合っていなければ気付かぬうちに道を逸れてしまい、誰でも怪物になってしまう可能性がある。
怪物は自分のことを怪物とは思っていない。だから人間に戻ることができないのだ。
むしろ、人間を怪物だと思っている。
だから平気で傷をつけれてしまうのかもしれない。
「クズが這い上がれないのは、自分で縛り付けてるからなんだな。しかも、周りが縛ってると勘違いする。だから視点が自分に向かない」
「実際に環境が悪いってこともあるから一概には言えないけどな。でも自分の欠点を知ろうとしない奴は、種すら持つこともできない。成長するためには思考の向け方を意識すること。それが種であり、育てるということだ」
中学時代には夢という種を持っていた。
でも周りに奪われ、育てるものがなくなった。
今思えば、自ら捨てたのかもしれない。
育ちづらい環境ではあったが、持つことはできたはずだ。
手元から離してしまったから、水をあげることも叶わなくなった。
――あいつらが
そんな思いがあったからこそ、目を向けるべきところに視点を置けなくなってしまった。
すべてが環境のせいではない。
自分で変えられるべき場所はある。
そこを見つけていたら、違う道を歩いていたのかもしれない。
「竜一さんは、どうやって変われたの? なんで人を変えようと思ったの?」
「さっき土屋さんの子供の話をしたろ?」
「亡くなったって人?」
「ああ。雄太って言うんだけど、本当に何も考えない馬鹿でな。可愛げはあるけど、感情の赴くままに生きてた奴だった。男って不良がかっこいいって思う時期があるだろ? 雄太もそれだった。そのときに俺と会ったんだよ」
竜一が話すには、雄太は普通の大学生だったそうだ。
繁華街に足を踏み入れるようになったのは、大学の先輩にクラブに誘われたのが起因らしい。
ある日、酔っ払ったチンピラが店内で暴れていたことがあった。
当時の竜一はセキュリティーをしており、男にハイキックを喰らわせ一撃で伸した。
それを見ていた雄太が、竜一に声をかけてきたのが二人の出会いだそうだ。
そのときの雄太の目は輝いており、羨望のような眼差しを竜一に向けていた。
それから雄太は生まれたての雛のように、竜一の後を付いてくるようになった。
「あいつは気が弱いけど見栄は張るんだよ。喧嘩も弱いくせに、喧嘩上等とか言って。だからこの世界には向かないと思った。いずれ痛い目を見ると思ったから。案の定、薬に手を出してな。当時流行ってたドラッグがあったんだが、ファッションみたいな感覚で打ってた。それがかっこいいって。そのときに土屋さんと会ったんだよ。息子を心配して繁華街まで来てな、無理やり家に連れ戻そうとしてた」
最初は雄太も抵抗していたらしいが、竜一が説得して親元に返したそうだ。
もう戻ってこないように竜一が厳しく言ったこともあり、それから繁華街で雄太の姿を見ることはなかった。
だが一ヶ月後、予想だにしない形で再会した。
棺桶に入った雄太の顔は原型を留めていないほど殴られており、最早誰かも分からなかった。
最後の晴れ舞台である葬式もせず、火葬場には家族と竜一しかいない。
「売人をやっていたみたいだ。ヤクザの下で働いていたらしく、薬をこっそりとくすねたのがバレたらしい。警察の人がそう言ってた。まあ行ったことの報復だよ。本当にこの子はバカだ」
土屋は悔しそうに涙を流しながら、そう言った。
土屋の妻も涙を流しており、二つの雨は悲しい音を携えながら床を濡らしていた。
「なんで俺を呼んだんだよ。あんたらからしたら、俺みたいな奴は憎い存在だろ?」
竜一は火葬が終わったあと、ロビーのベンチで問いかけた。
なんで自分だけが呼ばれたのかが、分からなかったからだ。
「君は雄太を真っ当な道に戻そうとしてくれた。それが分からなかったんだよ。あの子はすぐに流されるところがある。だから利用しようとすればできたはずだ。それなのに君は家に帰れと説得してくれた。それはなぜだ?」
「弱者を使って小銭を稼ごうなんて思わねえよ。俺は自分の好きなように生きたいだけだ。だから自分の中のルールは絶対に守る。他人を蹂躙して自由を広げない。道を作るのは自分の力で。それだけの話だ。別に善人でもない。邪魔する奴は力でねじ伏せるし、それを悪いとも思ってない。雄太を説得したのも、あいつはこちら側の人間ではないと判断したからだ。あんたのためではない」
「私からしたら、君もそちら側の人間ではないと思う」
「俺が真っ当に見えるか?」
「どんな道を歩んでいようが、自分の中にルールを課せる人間なら私は信用できる。君は世間から見たら悪人なのかもしれない。だけど芯がある。真っ当な道を歩いてる人間でも、それを持っている人は少ない。君は誰かの道標になれる。息子もその”光“に導かれたんじゃないかな」
きっと息子の死で頭がおかしくなったのだろう。
普通の人間なら、竜一に光など感じない。
たった一人の子供を亡くしたことで、若い人間に情を抱いてるのかもしれない。
もしくは自分の子と重ねているか。
耄碌した目で何を見ているのかは分からないが、自分が誰かの道標になることはありえないと、竜一は思った。
「多くの人は人生という道で彷徨い、苦しみながら生きている。私は道標を作ってやりたいんだ。自分の進むべき道を見つけられるように。その手助けを君にお願いしたい。道を逸れてしまった人の気持ちを理解するためには振り幅のある人間が必要だ。当たり前というルートから外れても、道に戻れる希望を捨てさせたくない。君ならそれができるように思うんだ」
「真っ当な道を歩いてない俺に頼むのはおかしいだろ。それに振り幅なんてない。今は息子が亡くなって、思考が絡まってるんだよ。もう少し冷静になってから考えるんだな」
「じゃあ君も真っ当な道を歩けばいい。逸れた道にいる人間が戻ってくれば振り幅に変わる。その幅が、苦しんでる人間を理解するためには必要なんだ。真面目に生き続けた人間は素晴らしい。でも他人の人生に光を当てられるのは影を知ってる人間だ。人には出来ることと出来ないことがある。君なら誰かの人生に光を当てられると思うんだ」
誰かに期待されることなど、いつぶりだろう。
喧嘩ばかりで親にすら見放された自分を、目の前の人間は信用してくれている。
そのことに少しだけ心が揺れた。
だが、他人の人生を導けるとは思えなかった。
影は知ってるが、光を知らない。
真っ当な道を歩いてきた人間の気持ちなど、理解できるはずもない。
竜一からしたら、土屋の求めるものは“自分にはできない”ことだった。
「俺には無理だ。真っ当に生きてきた人間の方が相応しいよ。こんな社会のクズじゃ、誰の人生も導けない」
「今すぐとは言わないから一週間だけ考えてくれ。また君に会いに行く。自分の中に芯を持ってる人間なら、道を作れるはずだ」
その一週間後、敵対してた人間から報復を受けた。
数人の男たちの奇襲され、抵抗する余裕もなかった。
竜一は傷だらけの姿で壁にもたれながら、繁華街の路地裏から空を見上げていた。
力でねじ伏せてきた人生だったが、もう何も残っていない。
積み上げてきたものなど、何一つなかった。
力を使えば誰かの上に立てる。
だが力だけの人生は、一度の敗北ですべてを失う。
無力さを思い知った。どれだけ無駄な時間を過ごしてきたのかも知った。
竜一は自分という存在を情けなく思った。
「竜一くん」
声の方に視線をやると、誰かが駆け寄ってきた。
目が腫れているため、視界はぼんやりとしている。
「大丈夫?」
男性が近寄ってくると焦点が徐々に合っていき、その人物が土屋だと分かった。
「誰かに殴られたのかい? とりあえず救急車を呼ぼう」
土屋がポケットから携帯を取り出すと、竜一は腕を掴んで止めた。
「呼ばなくていい。大したことないから」
「ダメだよ。ちゃんと警察に言って、犯人を捕まえてもらおう」
「俺は真っ当な人間じゃないし、法も守ってない人間だ。もし刺されたとしても警察には頼らねえよ。その覚悟でこの生き方をしてる。これも俺のルールだ」
「君はやっぱり、そちら側の人間じゃない。こちら側に来るべきだ。何かを変えられる人間は生き方に信念がある。このまま埋もれてはいけない。私と共に道を作ってくれ」
嘘偽りがないと分かるほど、土屋の目は光って見えた。
この人は自分を導いてくれるかもしれないと思えるほどに。
「今さら変われねえよ。ずっとクズみいたいな生き方をしてきた。こんな人間では誰かを導くことなんてできっこねえ」
「環境という柵と、その中にいる周りの人間。これらが自分という存在を作り出す。柵の中に行けば行くほど固定概念に縛られ、思考が偏って狭くなりやすい。だからこそ外からの視点を持つことが大事だ。今まで描いてきた人生を消すことはできない。でもそれを生かすことはできる。きっと君の生きる理由にもなるはずだ」
嬉しかった。
社会から逸れた生き方をしていた竜一にとって、表の世界に足の踏み場などないと思っていたから。
なにより、自分を必要としてくれる人間がいることに心が動いた。
道を見失った今、その言葉が心の奥底まで響いてくる。
竜一の首は自然と縦に振られていた。
土屋は笑顔を灯し、影に光を差す。
その後、土屋は薬物依存者を支援するための施設を東京に建てた。
そして下田には、人生に行き詰まった人のための休憩所を設けた。
休むなら海の近くがいいだろう、という土屋の考えだ。
「俺が人を変えようと思ったのは期待に応えたかったからだ。変わろうと思ったのも同じ理由だ。だから他人を理解しようと思った。自分の中にある枠を人に当てはめないで、その人間の言葉を聞く。そうやって必要なものを探してきた。固定概念を持っていると見えなくなるものが多い。人を変えるためには、自分が見えていないところを”見ようと“する意識が必要となってくる。今の樹に足りないものはそれじゃないか」
竜一は過去の話を、そう締め括った。
樹は話を聞いて、無意識に自分と重ね合わせていた。
力で解決してきた人間は、力以外に頼るものがない。
だからこそ変わらないといけないのだが、それ以外に道を知らない。
竜一は土屋という存在がいたから、今の生き方を選んだ。
人生に目的地ができたということだ。
樹は何をしたいのかをまだ見つけられていない。
ここに来てからは莉亜と喧嘩ばかりで、色んなことを忘れていた気がする。
変わりたいと思っていた自分が、悠遠のように思えた。
「今の樹にとって莉亜という存在は重要だと思う。それは向こうもだ。だから言葉を変えてみろ。お互いに感情を投げてるだけだから、傷つけ合うだけのやりとりになってる。相手のことを理解しようとしてみろ。そうすれば言葉の聞こえ方、受け取り方も変わってくるから。見えない部分にその人間の本質が隠されていて、見ようとしなければ気付くことはない」
「つっても、たぶん喧嘩になる。そんときは耐えながら聞けってこと?」
「我慢しろってわけじゃない。反論の仕方を変えてみろ。莉亜も否定されてると感じるから、自分の方が正しいと言葉を突き立ててくる。お互いにそうなれば、いかに相手をねじ伏せられるかが争点になるだろ? でもそれは無駄な争いだ。樹が莉亜に言った言葉を振り返ってみろ。なぜその言葉を使ったのか、なぜきつい言い方をしてしまったのか。そこに他人を理解する種が散りばめられてる。種が拾えたら、次は莉亜から言われた言葉を振り返る。なぜその言葉を使ってくるのかと。そしたら口論にも意味が生まれるはずだ。あいつは俺たちの前では本心を見せない。でも樹と喧嘩したことで、言葉に本音が混ざってきた。たぶん莉亜の奥底にあるものを引き出せるのはお前だ。勝ち負けの喧嘩じゃなくて、次に進むための喧嘩をしてみろ。お互いのためにも」
今まで怒り任せに言葉を投げつけてきたため、相手側にしか視点が向いていなかった。
だが竜一は自分自身に目を向けて、変化の種を探せと言ってる。
感情が動く起点は莉亜だと思っていたが、竜一から指摘されたことで、自分が起因を作っていたと知った。
莉亜に抱いてる印象が思考を狭めてると判断し、一度白紙に戻すことにした。
樹自身はまだ気付いていないが、少しだけ思考の進む道が変わってきている。
見えていなかった景色の輪郭が、薄らと描かれ始めた。