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十八話 カテゴリー

ー/ー



 夕食後、樹はウッドデッキに座りながら星空を眺めていた。
 夜に染まらず、自ら光を発している星屑たちが、今日は一段と綺麗に見える。

「コーヒー飲む?」

 隣に葉山が座った。
 両手にはカップを持っており、片方を樹に差し出す。

「うん」

 樹はカップを受け取り、一口啜る。

「また喧嘩してたね」

「聞いてたの?」

「部屋まで聞こえてきた」

 あのときは怒りで分からなかったが、それだけ大声で罵り合っていたのかと思うと、恥ずかしさが込み上げてくる。

「あいつとは合わねえんだよ。根本的に」

 性格というより、人種が違う。
 生きてきた環境も違えば、歩んできた道も違う。
 金持ちのエリートと、早期に心を腐らせた社会のクズでは噛み合うはずもない。
 地上を見下ろしながら生きてきた、ピラミッドの頂点に立つ人間。
 かたや、羨望の眼差しで空を見上げながら、汚れた最下層で這いつくばってきた人間。
 見てきた景色も、周りにいる人種も、すべてが異なっている。
 なぜ莉亜がここにいるのか分からないが、どうせちょっとしたことで躓いただけだろう。
 エリートは舗装された綺麗な道を歩いてきたから、少し汚れが付いただけで心に傷がつく。
 汚穢塗れの底辺に落ちれば、きっと息をすることすらできない。
 ただ繊細なだけで、大した傷ではない。
 樹はそう思っていた。

「合わないっていうより、合わせようとしてない、じゃないかな」

「どういうことだよ」

「樹くんも池田さんも、相手のことを自分の枠にはめようとしてる気がする。だから言葉がすれ違うんじゃないかな。頭の中で“相手はこういう人間だ”って決めつけて、それが否定に繋がっていき、言葉が研がれてしまう」

 枠にはめようとしてるつもりはない。
 実際に莉亜は自分のことを見下している。
 そのままの印象で、どういう人間かを決めてるだけだ。
 樹は葉山の言葉を受け取ることができなかった。
 というより、受け取りたくなかった。

「俺が来る前はどんな感じだったの?」

「育ちが良くて、気品がある人って印象かな」

「そうか? 口調とか粗暴だろ」

「それは樹くんが来てから」

「俺のせいって言いたいの?」

「たぶんそうだよ」

 葉山を笑顔を見せた。柔らかな表情は、空気を和ませるような感覚がある。

「うるせえな」

「でも、心の奥にあるものが表面に滲んできている気がするんだ。僕や竜一さんの前では出してなかったものを、樹くんが引き出しているように思う。それがいいかどうかは分からないけど、僕は前に進んでるように見えるかな」

 竜一も同じようなことを言っていた。
 でも樹は二人の言葉を理解できない。
 進んでるどころか、後退してるようにしか思えなかった。

「俺にはよく分からない。ムカつくってことしか頭にないから」

「今はズレがあるから、その部分にストレスが溜まっちゃうじゃないかな。でも噛み合えば、いい関係性になりそう」

「一生ならねえよ」

 葉山は笑みを浮かべた。
 いつもなら馬鹿にすんなよと苛立ちを覚えるとこだが、優しさを纏わせた表情に悪意を感じることはなかった。

「葉山はなんで、ここに来たの?」

「誰かを救えるようになりたくて」

「救われたい、じゃなくて?」

「もちろん救われたいっていうのもある。でもそれ以上に、誰かを救いたい」

 綺麗事。
 普段ならそう思うかもしれないが、葉山の言葉を聞いてもそうは思わなかった。
 ただ綺麗な言葉を並べてるのではなく、生きる覚悟のようなものを感じたから。

「僕を救ってくれた人がいるんだ。死のうと思ってたときに、その人は言葉で命を掬いあげてくれた。だから僕もそうなりたい。人の人生を導けるような存在に」

「どんな人なの?」

「会ったことはないんだ。だから相手は僕のことを知らない」

「なんだよそれ」

「そんなこともあるんだよ」

 と言って、葉山はコーヒーを口にした。
 その際、葉山の目には切なさのようなものが薄らと滲んでいた。

「もう寝るね」
「うん」

 葉山は立ち上がり、リビングに向かっていく。

「なあ」

 樹が葉山の背中に声をかけると、「何?」という顔で振り向いた。

「人って変われると思う?」

 こんな質問、同世代の人間には絶対にしない。
 でも聞いてみたかった。
 少ししか話してないが、葉山の言葉に色を感じた。
 その人にしかない、過去や思考が滲んだ言の葉。
 竜一に聞いたときは答えやヒントが欲しかったが、葉山の場合は何を言うかが知りたかった。
 この人は、どんな色で言葉を染めるのかと。

「付いた傷に意味を持たせたい。消せないなら道標にしたい。人を救うためには、自分を変えなければいけない。だから変える。痛みが無駄にならないように」

 自分と向き合いながら、変わろうともがいてる人間の言葉。
 樹はそう思った。
 葉山の言葉に色を感じたのは、胸に抱いてるものが滲んでいたからかもしれない。
 バックボーンや思考が何千何万とある単語を結んで、自分だけの言の葉を描く。
 返答を耳にして、葉山に聞きたいと思った理由が分かった。
 他の人間では描けないものを、描いてくれるような気がしたからだ。

「じゃあ、おやすみ」

 葉山は柔らかな笑みで、一日の終わりを告げた。
 樹は去り行く背中を、静かに見ていた。


 午前十時を過ぎた頃、部屋のドアがノックされた。
 ベッドに横になっていた樹は、起き上がってドアまで向かう。

「オーナーが来たから、降りてきて」

 開けると、竜一がそう言った。
 コテージのオーナーに会うのは初めてだ。
 見ず知らずの他人に会うのは正直面倒だ。ましてや金持ち。
 自分のことを見下してくるかもと考えると、自然と小さなため息が吐き出された。

「大丈夫だよ。お前が思ってるような金持ちじゃない。俺を誘ったような人だぞ。心配するな」

 竜一は樹の心を読み取っているようだった。
 というより、表情に出ていたのかもしれない。
 階段を降りてリビングに入ると、ダイニングテーブルに葉山たちが着いていた。
 莉亜はキッチンでグラスに麦茶を注いでいる。
 ダイニングには知らない背中があり、この人かっと思っていると、ゆっくりと振り向いてきた。

「君が根本樹くん?」

 七十代くらいの白髪の男性は椅子から立ち上がり、樹に視線を送ってきた。

「そうだけど」

 樹はぶっきらぼうに答える。

「この人が土屋仁志。コテージのオーナーだ」

 竜一が紹介した後、土屋はニッコリと笑顔を浮かべた。
 気品があり、温厚な雰囲気を纏っている。
 絵に描いたような隠居した金持ち。樹はそんな風に思った。

「もういい?」

 樹はすぐにでもこの場を去りたかった。
 オーナーと言えど話すのは面倒だし、なにより莉亜もいる。
 金持ちとエリートに囲まれるのは、肩身が狭かった。

「なんでだよ。とりあえず座って」

 顔を顰めながら窓側の席に着くと、莉亜がトレーに乗った麦茶をみんなの前に置き、土屋の隣に座った。
 リビング側の誕生席には蘭が座っており、ニコッと笑顔を向けてきたが、無視するように視線を逸らす。

「根本くんは、今いくつ?」

 逸らした視線が正面に座る土屋とぶつかると、優しい口調で聞いてきた。

「二十二」

「まだまだこれからだね。なんとなくだけど、若い頃の竜一くんに似てるよ」

「そうか? こんなやさぐれてはなかったよ」

 キッチン側の誕生席に座る竜一が冗談混じりで言う。

「竜一くんは触れたもの全部を傷つけるような空気を纏っていたよ。でも、隙間に優しさと自分を持っていた。私が竜一くんを誘ったのは、その微かな光が苦しんでいる人を導くように思えたからだ」

「あのときの俺に希望を感じたのは土屋さんくらいだろ。当時は耄碌(もうろく)のじいさんが何言ってるんだって思ってた」

 二人は笑みを浮かべた。
 旧友が昔を懐かしむような、温かい雰囲気が二人を包んでいる。

「お二人が知り合った経緯ってなんだったんですか? 竜一さんと土屋さんって別々の世界で生きてきたような感じがするから、どこで出会ったのか気になります」

 莉亜の問いかけに、二人は一瞬だけ口を継ぐんだ。
 暖かな空気に、悲しみが入り混じったように感じる。
 土屋はすぐに表情を戻し、刹那の沈黙を破った。

「息子がね、竜一くんを慕ってたんだよ」

「そうなんですね。息子さんっておいくつなんですか?」

「生きてれば三十歳だよ」

 土屋の言葉の後、リビングには静けさが横たわった。
 莉亜の表情は固まり、思考が止まっているかのように見える。

「……ごめんさない」

 静けさに落とされた言葉は、より一層場の空気を重たくした。
 莉亜は気まずそうに、首を垂らしている。

「気にしないで。もう十年も前のことだから」

 土屋は暗くなった空気を浄化するように、笑顔を灯した。

「雄太は無鉄砲な奴だったな。人懐っこくて、明るい性格だったけど、危なっかしさもあった」

「歳を取ってからの子供だったからね、妻も私も甘やかし過ぎた」

「簡単に言えば、馬鹿だったよ。あいつは」

「私はそこまで言ってないぞ」

「土屋さんは親バカすぎたな」

 二人は再度、懐かしむような笑顔を零した。
 竜一と土屋にしか分からない会話に、樹たちはただ黙って耳を傾けている。

「樹くんは、目標はある? 何をしたいか、どう生きたいかっていう目的地は」

 唐突に土屋に聞かれたため、一瞬思考が絡まった。
 だがすぐに解き、樹は返答する。

「ないからここに来てる」

「樹くん、ちゃんと敬語使いなよ。竜一さんならともかく、目上の人に失礼でしょ」

「なんで俺はいいんだよ」

「目上とか知ったこっちゃねえよ。なんでそんなに歳にこだわるんだよ」
「こだわってるわけじゃない。当たり前のことを言ってるだけ。子供でも歳上の人には敬語使うでしょ」

「だから人を見下すなよ」

「普通に考えれば、見下してるのは樹くんでしょ?」

「当たり前とか、普通とか、いちいち常識出してくんじゃねえよ」

「二人ともやめ……」

 葉山が止めようとすると、竜一が手を出して言葉を堰き止めた。
 そのままレフリーのいない言葉の殴り合いが続けられる。

「常識も分からないそっちが悪い。今まで真面目な人を馬鹿にして生きてきたんでしょ? だから私に突っかかる。どうせ学生時代は学校のルールも守らないで、勉強もせずに好き勝手に遊んでた。そのツケが大人になって返ってきたんだよ。その顔の傷も喧嘩でしょ? その歳になって恥ずかしいと思わないの? 喧嘩の強さなんて、なんの役にも立たない。樹くんはもっと真面目に生きるべきだよ。人生がうまくいかないのは自分のせい。それを自覚した方がいい」

 樹は強く拳を握りしめた。
 怒りを抑えられる限度を超え、纏っている空気は殺気を帯びている。

「勝手に決めつけるなよ。お前みたいに恵まれた環境で生きてきたエリートは、何もしなくてもレールが敷かれてるんだろ? ただそこを歩いてきただけの温室育ちが、他人の生き方にいちゃもん付けんな。ずっと人を見下ろしてきた奴に、あーだこーだ言われる筋合いねえよ。どうせしょうもない理由でここに来たんだろ? ちょっと躓いたくらいで、道から外れたなんて思ってんじゃねえよ。お前みたいな人間が、他人の人生を摘み取ってるんだよ」

 反論がくると思った。
 怒りに油を注ぐような、焚きつける言葉が。
 だが何も返ってこなかった。
 莉亜は口内に巻き込んだ唇を噛み締めながら、顔を俯かせていた。
 泣きそうというわけではない。
 悔しそうというわけでもない。
 理由は分からないが、何も言い返せないといった表情だった。

「せっかく来てもらったのに、はしたないところをお見せしてしまってごめんなさい。私は部屋に戻ります」

 莉亜は土屋に頭を下げ、リビングから出ていった。
 行き場の失った怒りが樹の胸で彷徨っている。
 莉亜の言葉の一つひとつが感情を揺さぶった。
 見下されてること、自分という存在が否定されてること、そして勝手に人の人生を決めつけてきたこと。
 樹の中で莉亜は、井口と同じカテゴリーに仕分けされた。
 もう嫌悪しか残ってない。
 ここにすら自分の居場所はないのかと、少しだけ絶望が顔を覗かせた。

「女には手を出さないんだな」

 竜一はなぜか嬉しそうな顔をしている。
 普通なら喧嘩を止める立場なのに、葉山の言葉を遮ってまで続けさせていた。
 なぜそうしたかは分からない。
 冷静さが欠けている頭では、考える余裕はなかった。

「どれだけムカついても女には手を出さない。それは自分の中で決めてる」
「自分の中でルールを持つことは大事だ。決めたことを守り続けることも。樹くんはきっと変われるよ。あとはいかに自分と向き合えるかだ」

 土屋も竜一と同じように、嬉しそうな顔をしていた。
 二人はどこを見て、何を感じているのだろうか。
 今の樹には想像すらできなかった。


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みんなのリアクション

 夕食後、樹はウッドデッキに座りながら星空を眺めていた。
 夜に染まらず、自ら光を発している星屑たちが、今日は一段と綺麗に見える。
「コーヒー飲む?」
 隣に葉山が座った。
 両手にはカップを持っており、片方を樹に差し出す。
「うん」
 樹はカップを受け取り、一口啜る。
「また喧嘩してたね」
「聞いてたの?」
「部屋まで聞こえてきた」
 あのときは怒りで分からなかったが、それだけ大声で罵り合っていたのかと思うと、恥ずかしさが込み上げてくる。
「あいつとは合わねえんだよ。根本的に」
 性格というより、人種が違う。
 生きてきた環境も違えば、歩んできた道も違う。
 金持ちのエリートと、早期に心を腐らせた社会のクズでは噛み合うはずもない。
 地上を見下ろしながら生きてきた、ピラミッドの頂点に立つ人間。
 かたや、羨望の眼差しで空を見上げながら、汚れた最下層で這いつくばってきた人間。
 見てきた景色も、周りにいる人種も、すべてが異なっている。
 なぜ莉亜がここにいるのか分からないが、どうせちょっとしたことで躓いただけだろう。
 エリートは舗装された綺麗な道を歩いてきたから、少し汚れが付いただけで心に傷がつく。
 汚穢塗れの底辺に落ちれば、きっと息をすることすらできない。
 ただ繊細なだけで、大した傷ではない。
 樹はそう思っていた。
「合わないっていうより、合わせようとしてない、じゃないかな」
「どういうことだよ」
「樹くんも池田さんも、相手のことを自分の枠にはめようとしてる気がする。だから言葉がすれ違うんじゃないかな。頭の中で“相手はこういう人間だ”って決めつけて、それが否定に繋がっていき、言葉が研がれてしまう」
 枠にはめようとしてるつもりはない。
 実際に莉亜は自分のことを見下している。
 そのままの印象で、どういう人間かを決めてるだけだ。
 樹は葉山の言葉を受け取ることができなかった。
 というより、受け取りたくなかった。
「俺が来る前はどんな感じだったの?」
「育ちが良くて、気品がある人って印象かな」
「そうか? 口調とか粗暴だろ」
「それは樹くんが来てから」
「俺のせいって言いたいの?」
「たぶんそうだよ」
 葉山を笑顔を見せた。柔らかな表情は、空気を和ませるような感覚がある。
「うるせえな」
「でも、心の奥にあるものが表面に滲んできている気がするんだ。僕や竜一さんの前では出してなかったものを、樹くんが引き出しているように思う。それがいいかどうかは分からないけど、僕は前に進んでるように見えるかな」
 竜一も同じようなことを言っていた。
 でも樹は二人の言葉を理解できない。
 進んでるどころか、後退してるようにしか思えなかった。
「俺にはよく分からない。ムカつくってことしか頭にないから」
「今はズレがあるから、その部分にストレスが溜まっちゃうじゃないかな。でも噛み合えば、いい関係性になりそう」
「一生ならねえよ」
 葉山は笑みを浮かべた。
 いつもなら馬鹿にすんなよと苛立ちを覚えるとこだが、優しさを纏わせた表情に悪意を感じることはなかった。
「葉山はなんで、ここに来たの?」
「誰かを救えるようになりたくて」
「救われたい、じゃなくて?」
「もちろん救われたいっていうのもある。でもそれ以上に、誰かを救いたい」
 綺麗事。
 普段ならそう思うかもしれないが、葉山の言葉を聞いてもそうは思わなかった。
 ただ綺麗な言葉を並べてるのではなく、生きる覚悟のようなものを感じたから。
「僕を救ってくれた人がいるんだ。死のうと思ってたときに、その人は言葉で命を掬いあげてくれた。だから僕もそうなりたい。人の人生を導けるような存在に」
「どんな人なの?」
「会ったことはないんだ。だから相手は僕のことを知らない」
「なんだよそれ」
「そんなこともあるんだよ」
 と言って、葉山はコーヒーを口にした。
 その際、葉山の目には切なさのようなものが薄らと滲んでいた。
「もう寝るね」
「うん」
 葉山は立ち上がり、リビングに向かっていく。
「なあ」
 樹が葉山の背中に声をかけると、「何?」という顔で振り向いた。
「人って変われると思う?」
 こんな質問、同世代の人間には絶対にしない。
 でも聞いてみたかった。
 少ししか話してないが、葉山の言葉に色を感じた。
 その人にしかない、過去や思考が滲んだ言の葉。
 竜一に聞いたときは答えやヒントが欲しかったが、葉山の場合は何を言うかが知りたかった。
 この人は、どんな色で言葉を染めるのかと。
「付いた傷に意味を持たせたい。消せないなら道標にしたい。人を救うためには、自分を変えなければいけない。だから変える。痛みが無駄にならないように」
 自分と向き合いながら、変わろうともがいてる人間の言葉。
 樹はそう思った。
 葉山の言葉に色を感じたのは、胸に抱いてるものが滲んでいたからかもしれない。
 バックボーンや思考が何千何万とある単語を結んで、自分だけの言の葉を描く。
 返答を耳にして、葉山に聞きたいと思った理由が分かった。
 他の人間では描けないものを、描いてくれるような気がしたからだ。
「じゃあ、おやすみ」
 葉山は柔らかな笑みで、一日の終わりを告げた。
 樹は去り行く背中を、静かに見ていた。
 午前十時を過ぎた頃、部屋のドアがノックされた。
 ベッドに横になっていた樹は、起き上がってドアまで向かう。
「オーナーが来たから、降りてきて」
 開けると、竜一がそう言った。
 コテージのオーナーに会うのは初めてだ。
 見ず知らずの他人に会うのは正直面倒だ。ましてや金持ち。
 自分のことを見下してくるかもと考えると、自然と小さなため息が吐き出された。
「大丈夫だよ。お前が思ってるような金持ちじゃない。俺を誘ったような人だぞ。心配するな」
 竜一は樹の心を読み取っているようだった。
 というより、表情に出ていたのかもしれない。
 階段を降りてリビングに入ると、ダイニングテーブルに葉山たちが着いていた。
 莉亜はキッチンでグラスに麦茶を注いでいる。
 ダイニングには知らない背中があり、この人かっと思っていると、ゆっくりと振り向いてきた。
「君が根本樹くん?」
 七十代くらいの白髪の男性は椅子から立ち上がり、樹に視線を送ってきた。
「そうだけど」
 樹はぶっきらぼうに答える。
「この人が土屋仁志。コテージのオーナーだ」
 竜一が紹介した後、土屋はニッコリと笑顔を浮かべた。
 気品があり、温厚な雰囲気を纏っている。
 絵に描いたような隠居した金持ち。樹はそんな風に思った。
「もういい?」
 樹はすぐにでもこの場を去りたかった。
 オーナーと言えど話すのは面倒だし、なにより莉亜もいる。
 金持ちとエリートに囲まれるのは、肩身が狭かった。
「なんでだよ。とりあえず座って」
 顔を顰めながら窓側の席に着くと、莉亜がトレーに乗った麦茶をみんなの前に置き、土屋の隣に座った。
 リビング側の誕生席には蘭が座っており、ニコッと笑顔を向けてきたが、無視するように視線を逸らす。
「根本くんは、今いくつ?」
 逸らした視線が正面に座る土屋とぶつかると、優しい口調で聞いてきた。
「二十二」
「まだまだこれからだね。なんとなくだけど、若い頃の竜一くんに似てるよ」
「そうか? こんなやさぐれてはなかったよ」
 キッチン側の誕生席に座る竜一が冗談混じりで言う。
「竜一くんは触れたもの全部を傷つけるような空気を纏っていたよ。でも、隙間に優しさと自分を持っていた。私が竜一くんを誘ったのは、その微かな光が苦しんでいる人を導くように思えたからだ」
「あのときの俺に希望を感じたのは土屋さんくらいだろ。当時は|耄碌《もうろく》のじいさんが何言ってるんだって思ってた」
 二人は笑みを浮かべた。
 旧友が昔を懐かしむような、温かい雰囲気が二人を包んでいる。
「お二人が知り合った経緯ってなんだったんですか? 竜一さんと土屋さんって別々の世界で生きてきたような感じがするから、どこで出会ったのか気になります」
 莉亜の問いかけに、二人は一瞬だけ口を継ぐんだ。
 暖かな空気に、悲しみが入り混じったように感じる。
 土屋はすぐに表情を戻し、刹那の沈黙を破った。
「息子がね、竜一くんを慕ってたんだよ」
「そうなんですね。息子さんっておいくつなんですか?」
「生きてれば三十歳だよ」
 土屋の言葉の後、リビングには静けさが横たわった。
 莉亜の表情は固まり、思考が止まっているかのように見える。
「……ごめんさない」
 静けさに落とされた言葉は、より一層場の空気を重たくした。
 莉亜は気まずそうに、首を垂らしている。
「気にしないで。もう十年も前のことだから」
 土屋は暗くなった空気を浄化するように、笑顔を灯した。
「雄太は無鉄砲な奴だったな。人懐っこくて、明るい性格だったけど、危なっかしさもあった」
「歳を取ってからの子供だったからね、妻も私も甘やかし過ぎた」
「簡単に言えば、馬鹿だったよ。あいつは」
「私はそこまで言ってないぞ」
「土屋さんは親バカすぎたな」
 二人は再度、懐かしむような笑顔を零した。
 竜一と土屋にしか分からない会話に、樹たちはただ黙って耳を傾けている。
「樹くんは、目標はある? 何をしたいか、どう生きたいかっていう目的地は」
 唐突に土屋に聞かれたため、一瞬思考が絡まった。
 だがすぐに解き、樹は返答する。
「ないからここに来てる」
「樹くん、ちゃんと敬語使いなよ。竜一さんならともかく、目上の人に失礼でしょ」
「なんで俺はいいんだよ」
「目上とか知ったこっちゃねえよ。なんでそんなに歳にこだわるんだよ」
「こだわってるわけじゃない。当たり前のことを言ってるだけ。子供でも歳上の人には敬語使うでしょ」
「だから人を見下すなよ」
「普通に考えれば、見下してるのは樹くんでしょ?」
「当たり前とか、普通とか、いちいち常識出してくんじゃねえよ」
「二人ともやめ……」
 葉山が止めようとすると、竜一が手を出して言葉を堰き止めた。
 そのままレフリーのいない言葉の殴り合いが続けられる。
「常識も分からないそっちが悪い。今まで真面目な人を馬鹿にして生きてきたんでしょ? だから私に突っかかる。どうせ学生時代は学校のルールも守らないで、勉強もせずに好き勝手に遊んでた。そのツケが大人になって返ってきたんだよ。その顔の傷も喧嘩でしょ? その歳になって恥ずかしいと思わないの? 喧嘩の強さなんて、なんの役にも立たない。樹くんはもっと真面目に生きるべきだよ。人生がうまくいかないのは自分のせい。それを自覚した方がいい」
 樹は強く拳を握りしめた。
 怒りを抑えられる限度を超え、纏っている空気は殺気を帯びている。
「勝手に決めつけるなよ。お前みたいに恵まれた環境で生きてきたエリートは、何もしなくてもレールが敷かれてるんだろ? ただそこを歩いてきただけの温室育ちが、他人の生き方にいちゃもん付けんな。ずっと人を見下ろしてきた奴に、あーだこーだ言われる筋合いねえよ。どうせしょうもない理由でここに来たんだろ? ちょっと躓いたくらいで、道から外れたなんて思ってんじゃねえよ。お前みたいな人間が、他人の人生を摘み取ってるんだよ」
 反論がくると思った。
 怒りに油を注ぐような、焚きつける言葉が。
 だが何も返ってこなかった。
 莉亜は口内に巻き込んだ唇を噛み締めながら、顔を俯かせていた。
 泣きそうというわけではない。
 悔しそうというわけでもない。
 理由は分からないが、何も言い返せないといった表情だった。
「せっかく来てもらったのに、はしたないところをお見せしてしまってごめんなさい。私は部屋に戻ります」
 莉亜は土屋に頭を下げ、リビングから出ていった。
 行き場の失った怒りが樹の胸で彷徨っている。
 莉亜の言葉の一つひとつが感情を揺さぶった。
 見下されてること、自分という存在が否定されてること、そして勝手に人の人生を決めつけてきたこと。
 樹の中で莉亜は、井口と同じカテゴリーに仕分けされた。
 もう嫌悪しか残ってない。
 ここにすら自分の居場所はないのかと、少しだけ絶望が顔を覗かせた。
「女には手を出さないんだな」
 竜一はなぜか嬉しそうな顔をしている。
 普通なら喧嘩を止める立場なのに、葉山の言葉を遮ってまで続けさせていた。
 なぜそうしたかは分からない。
 冷静さが欠けている頭では、考える余裕はなかった。
「どれだけムカついても女には手を出さない。それは自分の中で決めてる」
「自分の中でルールを持つことは大事だ。決めたことを守り続けることも。樹くんはきっと変われるよ。あとはいかに自分と向き合えるかだ」
 土屋も竜一と同じように、嬉しそうな顔をしていた。
 二人はどこを見て、何を感じているのだろうか。
 今の樹には想像すらできなかった。