桶に入った色鮮やかなちらし寿司。
人参やインゲンが彩る筑前煮。
黄金の衣を羽織った天ぷら。
よだれを引き出すような和食が、ダイニングテーブルを装飾していた。
夕食は樹の歓迎会を兼ねて、いつもより豪勢な料理にしたらしい。
作ったのは前に座る女性だ。
目が合うと、彼女は表情を柔らかくして口を開けた。
「私は池田莉亜。ここに来て一ヶ月くらいかな。歳は二十四。樹くんより少しだけ上」
「年齢言ったっけ?」
「竜一さんから聞いた」
「そう」
樹は無愛想に返すと、莉亜は一瞬だけ顔を顰める。
「僕は葉山薫。ここに来て一ヶ月半くらい。歳は二十五」
樹の隣に座る葉山が、不穏な空気になりかけたところで自己紹介を挟んだ。
斜め前に座る子供に目をやると、視線が重なった。
女の子は先ほどよりも明るい笑みを浮かべる。
「その子は美鈴蘭。年齢は四歳。ここに来て半年くらいか」
蘭は誕生席に座っている竜一の方を向き、大きく頷いた。
「樹くんはどこから来たの?」
「東京」
莉亜の質問に、樹はぶっきらぼうに返す。
「大学生?」
「違う」
「じゃあ仕事を辞めて、ここに来たの?」
「言う必要ある? 友達作りに来たわけじゃないから干渉されるの面倒なんだけど」
あまり過去に触れてほしくなかった。
中卒ということを井口に馬鹿にされたこともあり、深掘りされるのを拒んだ。
「別に仲良くしなくてもいいけど、共同生活なんだから最低限のマナーは守ってね。君の言い方は空気を悪くするから」
「だったら話かけるなよ。お前がきっかけを作ってるんだろ」
「初対面の相手に『お前』って言い方は良くないよ。しかも私の方が歳上。敬語は使わなくてもいいけど、相手に敬意を払うことは忘れないで」
「なんで“お前”に払わないといけないの? 先に来てるからって偉ぶるなよ。それと歳が上とか関係ないだろ。たまたまお前の方が早く生まれたってだけだし、年齢なんてただの数字にしかすぎない。努力で積み上げたものでもないのにマウント取るんじゃねえよ。そういうのウザイから」
「別にマウントを取ってるわけじゃない。当たり前のことを言ってるの。社会で生きてきたなら、それくらいの礼儀は知ってるでしょ?」
――そんなことも知らないの
そう言われてるようで、苛立ちを覚えた。
莉亜は今まで、真っ当に生きてきたのかもしれない。
樹とは正反対の“あちら側の人種”。
普通と呼ばれる生き方をし、普通の道を歩んできた人間。
もしかしたら大学にも通っていたのかもしれない。
そういう人間からすれば、中卒は社会のゴミだろう。
樹の頭の中には、井口の顔が浮かんでいた。
「説教垂れんなよ。お前から何かを学びたいから、ここに来たわけじゃない。そもそも、社会の犬から教わることなんてねえよ。お前の当たり前を俺に押し付けんな。あと見下した態度やめろ、ムカつくから」
「押し付けてなんてないし、見下してもない。みんなが当たり前に分かっていることを言ってるの。常識がないと、それぞれが好き勝手に行動して収集つかなくなるでしょ? ここは共同で生活する場所なの。最低限のルールは守ってもらう」
「二人とも、落ち着いて。せっかくの歓迎会なんだから喧嘩はやめよう」
葉山は柔らかな口調で戦場に足を踏み入れた。
だがそんなことはお構いなしに、二人は言葉という銃弾を打ち続ける。
「ルールってなんだよ。お前が勝手に決めたことだろ。それを押し付けんなって言ってんだよ」
「勝手になんか決めてない。普通に生きてきたら常識くらい身に付くでしょ? それを言ってるの」
「だから見下すのをやめろって言ってんだろ」
「だから見下してない」
「なあ」
低音の声が、飛び交う銃弾を止めた。
樹と莉亜は、竜一に視線を合わせる。
「なんで二人の言葉が噛み合ってないと思う?」
急な問いかけに二人は黙り込んだ。
小さな戦場には静けさが横たわる。
「どっちの意見が正しいかで論争しても終着点は見えない。なぜ相手が“その言葉を使うのか“を考えろ。今日までの過程の中で、拾ってきたものや、見てきたものはお互いに違う。だから言葉に齟齬が生じるんだ。そのズレが争いを生む。樹は莉亜に見下されてると感じている。でも莉亜は見下していない」
「してないです」
「俺は樹の過去を知ってるから、なんで苛立ってるかを理解できる。もちろん莉亜が言ってることも理解できる」
「私、間違ってないですよね?」
「間違ってる部分もある」
莉亜は目を丸くし、『え?』という顔を見せた。
自分の正しさが否定されたが、理解できていないという表情だ。
「どこですか? 何が間違ってるんですか? 私は当たり前のことを言ってますよね? 樹くんの方が正しいってことですか?」
「常識を持つことは大事だけど、すべてを常識という檻に入れようとしてはいけない。正しさは過ちを起こすきっかけにもなるし、誰かの道を阻んだりすることもあるから。場面ごとに判断する力を身に付けなければ、いつか人を傷つけてしまう。だからバランスを持つことが重要なんだ」
竜一の言葉の直後、莉亜は硬く口を閉ざした。
落ち込んでいるというよりは、思い当たる節があるといった表情だ。
「樹は今日までのバックボーンが言葉を歪ませて感情を動かしてしまってる。喧嘩のきっかけを作ったのはお前だ。過去を詮索されたくない気持ちは分かるが、言葉の使い方は意識しろ。銃を突きつけたら、相手も銃を突きつける。粗暴な言葉は力に頼るのと一緒だ」
竜一の言っていることを理解しているが、まだ苛立ちは収まっていなかった。
吹き消された希望を再び灯し、このコテージにやって来た。
怒りを莉亜に向けることで、無意識に灯した火を守ろうとしてる。
それは意図的ではない。心が折られた経験からくる防衛本能に近かった。
他者という存在に蹂躙されないようにと無意識で抵抗し、銃を突きつける。
樹自身は、まだそれに気付いてはいないが。
「食べましょうか。池田さんが折角作ってくれたんだし」
葉山が空気を入れ替えるように言った。
だが一度重くなった空気は滞留し、住みつくように横たわっている。
「私、部屋に戻ります」
莉亜は席から立ち上がると、樹に視線を送る。
「ご飯はローテーションで作ることになってるから、明日の朝は樹くんが作って。簡単なものぐらいはできるでしょ? これは押し付けとかじゃないから」
そう言って、莉亜はリビングを後にした。
樹はやり場のない気持ちに戸惑っていると、蘭が視界に入った。
幼い女の子の表情は、感情が剥落したような無を貼り付けている。
生きてるかどうか分からない顔は、まるで人形のようだと思った。
朝日を浴びたダイニングテーブルには、茶碗に入ったご飯と小さな器に乗せられた卵が並べられていた。
「ものすごい簡素だね」
テーブルに着く葉山は顔を引き攣らせている。
「他になかったの?」
樹の前に座る莉亜は、顔を顰めながら言葉を投げてきた。
「何がいけないんだよ。これで十分だろ」
莉亜の不満な顔が理解できなかった。
卵とご飯を食べられるだけでも贅沢なのだから、これ以上に何を求めているのだろうと。
「蘭ちゃんもいるんだからね。もっと栄養とか考えなよ」
「簡単なものでいいって言ったろ」
「簡単に作れるものって意味。これじゃあ食材を器に乗せてるだけじゃん。せめて目玉焼きとかは出してよ」
「じゃあ自分でやれよ」
「ローテーションで作ってるの。昨日も言ったでしょ? ルールがあるから不快なく他人同士が生活できる。だからそれは守って」
「じゃあいちいち突っかかってくるな。お前が乱してるんだろ」
「私じゃない。樹くんでしょ」
「落ち着いて二人とも。朝から喧嘩はよそうよ」
葉山は口論を止めようと間に入るが、二人のボルテージが下がることはなかった。
まだ寝ているのか、この場に竜一と蘭はいない。
今止めれるのは葉山だけだったが、一度鳴った銃声の前では声が届いていなかった。
「てか、朝から小洒落た服着てメイクしてるぐらいなら、俺が作る前に言いに来いよ。それぐらいの時間はあったろ」
莉亜は昨日と同様、ばっちりメイクを決めていた。
服装はグレーのTシャツに下は黒のロングスカートを履いており、外行きの格好だった。
「別に私がメイクしようが、どんな服を着ようが関係ないでしょ」
「出かけるなら、外で朝飯食えばいいだろ」
「別に出かけるわけじゃない……」
莉亜の言葉に勢いがなくなった。枯れたように顔を俯かせている。
「じゃあなんで、そんなばっちり決めてるんだよ」
「だから別にいいでしょ。今はそんなこと関係な……」
「おはよう」
リビングのドアに視線を移すと、竜一と蘭が入ってきた。
飛び交う言葉が息を潜め、静けさが着座する。
蘭は莉亜の前に駆け寄ってくると、ニコッと笑顔を見せた。
「おはよう、蘭ちゃん」
莉亜は笑顔を作るが、少しばかりぎこちない。
「喧嘩するのはいいけど、朝っぱらからはやめてくれ」
「竜一さん、見てください。樹くんが朝食担当したんですけど、これ酷くないですか?」
莉亜がダイニングテーブルを指すと、樹の顔が歪む。
「樹、作れる料理ある?」
「ない」
「じゃあ、少しずつでいいから覚えていこう。自分一人だけで食べるわけじゃないから」
「……わかった」
「莉亜、今日の晩飯だけど、樹と一緒に作ってくれ」
「え? 一緒にですか」
「教えてあげて」
困惑した様子が一目で分かった。それは樹も同様だ。
二人の視線がぶつかると、お互いすぐに目を逸らした。
「でも、今日の夜は私の担当じゃ……」
莉亜の言葉を遮るように、蘭が卵を割ってご飯にかけた。
そしてかき混ぜた後、美味しそうにご飯を頬張る。
「別に仲良くなれって言ってるわけじゃない。喧嘩するならすればいい。でもちゃんと向き合ってみろ。今の莉亜に必要なものが、樹を通して知れるはずだ。昨日の二人の口論を聞いて、俺はそう感じた」
樹には竜一の言ってることが理解できなかった。
それは莉亜もだろう。
喧嘩から見えるものなんてあるのだろうか?
苛立ち以外に覚えたものはない。
昨夜のことを思い返すが、どこにも見当たらなかった。
二人は再び視線が重なるが、先ほどと同じようにすぐに目を逸らした。
「じゃあ、食べるか」
「いただきます」
竜一と葉山は卵を割り、ご飯にかける。
莉亜は箸すら持たずに、何かを考えている様子だった。
樹も食欲がわかず、目の前の“豪勢”な料理をただ眺めていた。