十五話 海沿いのコテージ
ー/ー 車は国道135号線を走っていた。
左手には空の青を反射した海が広がり、太陽の光が燦然と水面を輝かせている。
出発して二時間ほど経ち、今は熱海の街を抜け山道に入った。
あれから一週間。
住んでいた家を引き払い、カバン一つで東京を出た。
アパートは大家が直接管理する物件だったため、退去する旨を直接伝えると、明日にでも出てってほしいと言われた。
家賃は遅れることなく支払っていたため、今まで言いづらかったのかもしれない。
もしくは『追い出そうとしたら何をされるか分からない』と言った恐怖だろうか。
借金取りに追われた無愛想な人間なら、そう思われていてもおかしくはない。
そういった事情もあり、予定よりも早くコテージに向かうことになった。
樹は悩んだ末、竜一に付いていくことを選んだ。
最後にもう一回だけ希望を持ってみようと思えたから。
他の人間なら付いていくことはなかったかもしれない。
でも竜一と居れば、自分を変えられそうな気がした。
今は何が足りないのかも分からないし、どこへ進んでいいかも分からない。
でも彷徨っているという感じはしなかった。
樹海の中にいるが、遠くに薄らと光が見える。
そんな感覚があった。
左手には空の青を反射した海が広がり、太陽の光が燦然と水面を輝かせている。
出発して二時間ほど経ち、今は熱海の街を抜け山道に入った。
あれから一週間。
住んでいた家を引き払い、カバン一つで東京を出た。
アパートは大家が直接管理する物件だったため、退去する旨を直接伝えると、明日にでも出てってほしいと言われた。
家賃は遅れることなく支払っていたため、今まで言いづらかったのかもしれない。
もしくは『追い出そうとしたら何をされるか分からない』と言った恐怖だろうか。
借金取りに追われた無愛想な人間なら、そう思われていてもおかしくはない。
そういった事情もあり、予定よりも早くコテージに向かうことになった。
樹は悩んだ末、竜一に付いていくことを選んだ。
最後にもう一回だけ希望を持ってみようと思えたから。
他の人間なら付いていくことはなかったかもしれない。
でも竜一と居れば、自分を変えられそうな気がした。
今は何が足りないのかも分からないし、どこへ進んでいいかも分からない。
でも彷徨っているという感じはしなかった。
樹海の中にいるが、遠くに薄らと光が見える。
そんな感覚があった。
「そうだ、借金は元本だけでいいってよ。利子も付かないってさ」
助手席から海を見ていると、運転席の竜一が言った。
たぶん交渉してくれたのだろう。
もしそうなら簡単に諦めるということができなくなった。
今まで以上に覚悟を持たなければいけない。
コテージにいれる期間は基本三ヶ月らしいが、樹の場合は一ヶ月しかいられない。
それが宮田との条件でもあった。
「なあ」
「ん?」
「俺みたいに道から外れた奴でも、やり直せるのかな」
まだ不安は残っている。一度本気で変わろうとしたが失敗した。
その経験値が新たな足枷となっている。
前に進むためには、その部分と向き合わなければならない。
「多くの人間が通る道にお前はいない。でもな、地図に載ってない道もある。今はそこを歩いてるだけだ。説明書もなければ、テンプレも存在しない。だから自分と向き合って、自分だけのルートを見つける必要がある。そのためには考え方の幅を広げなければいけない。生き方を決める要素は運と環境と周りの人間、そして自分との向き合い方だ。それらが形成して自分の在り方を決める」
「それだと自分の意思では変えられないってことになるけど。運も環境も周りの人間も、俺がコントロールできる部分じゃない」
「確かに全部は無理だ。でも変えられる部分は存在する。まずは今の自分がどう形成されたかを考えろ。人生が上手くいかない理由の一つは固定概念に縛られることだ。樹の場合は中学時代のことが足枷となって、言動の方向性が偏っていた。舐められたくないって気持ちは誰にでもあるけど、お前の場合は人よりも強い。そのせいで感情を抑えきれなくなるから、すぐに手が出る。今の考え方の軸になってるものがあるだろ? それが何を選ぶかを決めてくる。居酒屋で働こうと思った理由は? 面接で酷いことを言われたのに、なぜ入ろうと思った? その行動には理由があるはず。居酒屋で働いたことを人生の点だとすれば、それを結ぶ線がある。言わば選択だな。大事なのは過去の点で、その点が次の点までの線を決める。人の根は思考だ。その根っこに目を向けなければ芽は出ない」
自分を縛っていたのは社会ではなく自分。
そういうことなのだろうか。
でも一理あるな、と樹は思った。
あのときは切羽詰まっていたため、社員になりたいという一心で居酒屋で働いた。
他に選択肢がないとさえ感じていた。
もし冷静になっていれば、別の場所を選んでいたかもしれない。
過去の点に言動を決める種があるならば、それを知らずのうちに育てていたのだろう。
結果、底辺でもがきながら道を見失った。
阻んだのは井口だったが、そこに向かっていったのは樹自身。
思考が道を狭めて、行き止まりへと足を向かわせた。
「人間って不便だな。捨てたほうがいいものほど大事に握りしめて、持っていなければならないものは簡単に手放してしまう。本当は変わったほうがいいことを理解してるけど、変わるためには苦しむ必要がある。俺は耐えられなかった。傷を負うくらいなら死んだほうがいいとまで思った。人が諦めるのは楽になりたいからだ」
絶望で付いた傷を癒すには希望が必要だ。
だが、その希望を持つことで絶望を知ることになる。
樹は短期間でその両方に触れた。
そして負の思考に引きずられ、人生にピリオドを打ちかけた。
今はその間で立ち止まっている。
「生きるという行為には傷が伴うが、傷は道に変えることができる。痛みがあるうちはただの傷にしか見えないが、そこに意味を付けられる奴が前に進める。諦めるって言葉を“一旦、立ち止まる”って認識に変えてみろ。そうすれば考える余白が生まれて、意味を付けやすくなる。白紙に無理やり何かを描こうとするから、余裕がなくなって苦しむんだ。進むためには休むことも必要。その間に自分と向き合って、何を書くかを決めればいい」
今後どう生きていきたいのかを、樹はまだ描けていない。
それどころか、書くものすら持っていないように感じた。
過去を振り返れば、拙い物語ばかり綴っている。そこに意味はあるのだろうか。
いや、付けなければ前に進めない。
負の感情で埋まっていた心に隙間が空いた。
その空白の中で、樹は何かを描こうとしていた。
それが希望の種となるか、絶望の種となるかはまだ分からない。
でも竜一の言葉を聞いて、今までとは違う方向に思考を進ませようとしていた。
育て方が分からなかった自分という存在に、少しだけ水が与えられたような感覚があった。
「コテージにも俺みたいな奴がいるの?」
「樹みたいって言われると違うけど、それぞれ別の苦悩を抱えて来てる。みんな生き方に迷いがあるっていう点では共通してるかもな」
「若いの?」
「樹とそんなに変わらないんじゃないか。一人だけ子供がいるけど」
「あんたの子?」
「一時的に預かってるんだよ。親が色々とあってな、今は東京の施設にいる」
樹は人と接するのが苦手だ。
歳が近いとはいえ、一緒に暮らすとなると不安が残る。
しかも子供付きだ。
多くの人間は可愛いともてはやすが、樹からしたら騒音を発するだけの生物でしかない。
耳障りな甲高い声も、自由気ままに泣き散らすワガママぶりも、すべてが神経を刺激する。
子供に苛立ったことしかない樹にとって、幼い生物は一番の懸念点だった。
「樹は子供好きじゃないだろ?」
「うん」
「蘭は他の子とは少し違う。子供っていう視点じゃなく、一人の人間として見てみろ。きっとお互いに良い刺激になると思う」
言ってる意味がよく分からなかった。
子供から得るものなんて一つもないだろうし、刺激があってもムカつくという感情だけだと思う。
一人の人間として見ることはないだろう。
鬱陶しくなるだけだから、なるべく接しないようにと樹は考えていた。
白浜大浜海水浴場を抜け、山道に入ること十分。車はコテージへと着いた。
木々に囲まれた木造建ての大きな家は、絵に描いたような別荘だった。
奥には二メートルほどの木の柵が立てられており、隙間から緑の芝が見える。だぶん庭だろう。
降車すると、海の香りを携えた風が肌を撫でた。
すべてを忘れさせてくれるような海からの贈り物。
胸に溜まった不満や不安を、攫ってくれるような感覚がある。
車の荷室からボストンバックを取り出し、竜一と共にコテージへと向かった。
玄関には屋根が付いており、柱の部分に『時の花』と書かれた木の看板が掛けられている。
名刺にも書いてあったコテージの名前だ。
玄関の扉を開けて中に入ると、広いエントランスが出迎えてくれた。
正面に大きなドアあり、左手には階段と通路が見える。
「部屋は二階だけど、まずは住人に挨拶だな」
樹は面倒だなと思いつつ、靴を脱いで竜一に付いていった。
正面のドアを開けると、二十畳ほどのリビングが視界に入る。
高い天井、大勢が座れるコーナーソファ、アイランドキッチンの前には二メートルほどのダイニングテーブルが置かれている。
大きな窓の向こうには、ウッドデッキとフットサルコートぐらいの庭があり、芝が全面に生えている。
テーブルには若い男女と幼い女の子が着いていた。
樹たちが入ってくると、三人はドアの方に視線を集める。
「お帰りなさい」と、女性が立ち上がった。
肩まで伸びた艶やかな髪と透き通るような白い肌は、清潔感を感じさせた。
背筋の伸びた立ち姿に、品格の良さも垣間見える。
ばっちりと化粧をしており、服装は白のインナーの上にベージュのシャツを羽織っている。下も同じようなベージュのロングスカートだ。
これからどこかへ行くような、お出かけ用の服に見える。
彼女は樹を見て、なぜか顔を硬直させていた。
キリッとした目が呆然を表現しているが、その理由は分からない。
「えっと……その人が今日からの人ですか?」
女性の隣に座っている男性が問いかけた。
見た目は真面目そうな好青年だ。
優しさを纏った雰囲気は、場の空気を調和するような柔らかさを感じる。
男性も樹を見て硬直していた。
初めはなんでか分からなかったが、樹は自分の顔のことを思い出した。
繁華街で殴られ、今は左目に眼帯を付けている。
絆創膏は外したが、まだ傷は残っていた。
こんな人間がいきなり来たら、そんな顔にもなるだろう。
「自己紹介して」
「根本樹」
竜一に言われ無愛想に名乗ると、沈黙がどっしりと腰を下ろした。
まるで時間が止まったようだ。
若い男女の表情は、加速度増して引き攣っていた。
「今ので大体分かったろ」
「まったく分かりません」
「まあ、こんな感じだから宜しく」
女性は表情に不安を描いていた。
――こんな人と一緒に生活しないといけないの
そんな心の声が聞こえてきそうだった。
子供の顔を見ると“ニコッ”とした笑顔を浮かべてきたが、樹は関わりたくなかったので目を逸らす。
「まあ三人の自己紹介は晩飯のときにするか。今は疲れてるだろ? 部屋に案内するから来て」
樹はリビングを出るとき、子供に視線を向けた。
先ほどまでの笑顔は消えており、無表情の顔は萎れた花のように俯いていた。
二階に上がると通路があり、ドアがいくつか並んでいる。
ドアには数字が書かれたプレートが掛けられており、樹は三番に案内された。
「ここが樹の部屋ね。荷物置いたら出てきて。他にも案内したい場所があるから」
部屋の中は、ベットとデスクが置かれた簡素なレイアウトだった。
小さな冷蔵庫とテレビも置かれている。
正面には窓があり、そこから海が見えた。
コテージは高台にあるため、美しさを一望できる。
少し眺めた後、ボストンバックを床に置いて廊下へと出た。
「じゃあ来て」
案内されたのは、通路の一番奥の部屋だ。
ドアに掛けられたプレートには『ノートの部屋』と書かれている。
「ここは過去に来た奴らの苦悩が詰まってる場所だ」
そう言って竜一は部屋のドアを開けた。
中には三段ラックとデスクが置かれており、広さは四畳半ほどの小さな部屋だった。
ラックの一番上の段にはA4ノートが五冊並べられており、竜一は一冊だけ手に取って樹に差し出した。表紙には『5』と書かれている。
「読んでみて」
竜一に言われてノートを開くと、綴られた文章が目に入ってきた。
――なんで自分だけ
――もう疲れた
――死にたい
――どうすればいいの?
どのページにも悲観的な言葉が並べられており、心の叫びが文字から伝わってくる。
「ここに来た人間が自分の過去や心情を書いてる。どんなことがあったのか、何をされたのか、なぜここに来たのか。表では出せないような本音を文字で残してるんだ。溜め込んだもんを出すと、少しは楽になれる。コテージに来る奴は、器に色んなものが入りすぎて大事なものを入れる余地がない。でも、他人の過去や苦悩に触れることで、自分だけじゃないって分かれば少し余裕ができたりする。まずは隙間を作ることが最初の一歩だ」
樹はノートを眺めていた。
間接的だが他人の人生に触れている感覚があり、不思議な気持ちを抱いた。
「あんたはこれを読んでどうするの?」
「人によって求めるものや必要なものが変わる。頑張れって言葉で勇気づけられる人間もいれば、それが重荷になる人間もいる。どう生きてきたかで、言葉の受け取り方が変わるんだ。だからノートに書いてある過去や心境、言葉の使い方を見極めながら、その人間の道を形成していく。誰にでも当てはまる正解なんてないから、個人個人で見ていくしかない。すべてが常識で当て嵌められたらいいが、人生に教科書なんてない。自分で探っていくしかないんだ。俺の仕事は道に迷った奴らを、言葉という道標で前に進ませること。若い頃は力任せに生きてきたが、今は言葉で生きてる」
言葉で人は変わるのだろうか?
樹の頭に疑問符が打たれた。
慰められたところで生き方に変化があるとは思わない。
言葉だけで導けるのなら誰も苦労はしない。
でも原西は竜一を恩人と言っていた。
彼も言葉で生き方が変わったのだろうか?
今の樹には、竜一の言ってることが理解できなかった。
「下にいた奴らも書いてるの?」
「男の方と子供は書いてるよ」
「女の方は?」
「莉亜は書いてない。ていうより書こうとしないって感じかな。そもそも自分の悩みを打ち明けようともしない。きっと言えない理由があるんだろう。今はその理由を探ってる途中だ」
彼女は仕事ができそうな、真っ当な人間という印象だった。
樹のように、道から外れたような生き方をしてるようには思えない。
見た目で判断するなら、性格はきっちりとしてそうだったし、見た目も綺麗だ。
ここに来てる理由を考えたが、想像すらできなかった。
ノートを適当に捲っていると、白紙の真ん中に顔が描かれたページがあった。
絵文字のような簡素化した顔が、涙を流してこちらを見ている。
「それは蘭の絵だよ。あいつにも一応説明したら、それを描いてた」
三歳か四歳くらいでは、苦悩のくの字も分からない。
きっとなんとなくのニュアンスで描いたのだろう。
まだ痛みを知らない子供は羨ましい。
きっと世界が美しく見えているだろうから。
樹はそんなことを思いながら、ノートを閉じた。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
車は国道135号線を走っていた。
左手には空の青を反射した海が広がり、太陽の光が燦然と水面を輝かせている。
出発して二時間ほど経ち、今は熱海の街を抜け山道に入った。
あれから一週間。
住んでいた家を引き払い、カバン一つで東京を出た。
アパートは大家が直接管理する物件だったため、退去する旨を直接伝えると、明日にでも出てってほしいと言われた。
家賃は遅れることなく支払っていたため、今まで言いづらかったのかもしれない。
もしくは『追い出そうとしたら何をされるか分からない』と言った恐怖だろうか。
借金取りに追われた無愛想な人間なら、そう思われていてもおかしくはない。
そういった事情もあり、予定よりも早くコテージに向かうことになった。
樹は悩んだ末、竜一に付いていくことを選んだ。
最後にもう一回だけ希望を持ってみようと思えたから。
他の人間なら付いていくことはなかったかもしれない。
でも竜一と居れば、自分を変えられそうな気がした。
今は何が足りないのかも分からないし、どこへ進んでいいかも分からない。
でも彷徨っているという感じはしなかった。
樹海の中にいるが、遠くに薄らと光が見える。
そんな感覚があった。
左手には空の青を反射した海が広がり、太陽の光が燦然と水面を輝かせている。
出発して二時間ほど経ち、今は熱海の街を抜け山道に入った。
あれから一週間。
住んでいた家を引き払い、カバン一つで東京を出た。
アパートは大家が直接管理する物件だったため、退去する旨を直接伝えると、明日にでも出てってほしいと言われた。
家賃は遅れることなく支払っていたため、今まで言いづらかったのかもしれない。
もしくは『追い出そうとしたら何をされるか分からない』と言った恐怖だろうか。
借金取りに追われた無愛想な人間なら、そう思われていてもおかしくはない。
そういった事情もあり、予定よりも早くコテージに向かうことになった。
樹は悩んだ末、竜一に付いていくことを選んだ。
最後にもう一回だけ希望を持ってみようと思えたから。
他の人間なら付いていくことはなかったかもしれない。
でも竜一と居れば、自分を変えられそうな気がした。
今は何が足りないのかも分からないし、どこへ進んでいいかも分からない。
でも彷徨っているという感じはしなかった。
樹海の中にいるが、遠くに薄らと光が見える。
そんな感覚があった。
「そうだ、借金は元本だけでいいってよ。利子も付かないってさ」
助手席から海を見ていると、運転席の竜一が言った。
たぶん交渉してくれたのだろう。
もしそうなら簡単に諦めるということができなくなった。
今まで以上に覚悟を持たなければいけない。
コテージにいれる期間は基本三ヶ月らしいが、樹の場合は一ヶ月しかいられない。
それが宮田との条件でもあった。
たぶん交渉してくれたのだろう。
もしそうなら簡単に諦めるということができなくなった。
今まで以上に覚悟を持たなければいけない。
コテージにいれる期間は基本三ヶ月らしいが、樹の場合は一ヶ月しかいられない。
それが宮田との条件でもあった。
「なあ」
「ん?」
「俺みたいに道から外れた奴でも、やり直せるのかな」
まだ不安は残っている。一度本気で変わろうとしたが失敗した。
その経験値が新たな足枷となっている。
前に進むためには、その部分と向き合わなければならない。
その経験値が新たな足枷となっている。
前に進むためには、その部分と向き合わなければならない。
「多くの人間が通る道にお前はいない。でもな、地図に載ってない道もある。今はそこを歩いてるだけだ。説明書もなければ、テンプレも存在しない。だから自分と向き合って、自分だけのルートを見つける必要がある。そのためには考え方の幅を広げなければいけない。生き方を決める要素は運と環境と周りの人間、そして自分との向き合い方だ。それらが形成して自分の在り方を決める」
「それだと自分の意思では変えられないってことになるけど。運も環境も周りの人間も、俺がコントロールできる部分じゃない」
「確かに全部は無理だ。でも変えられる部分は存在する。まずは今の自分がどう形成されたかを考えろ。人生が上手くいかない理由の一つは固定概念に縛られることだ。樹の場合は中学時代のことが足枷となって、言動の方向性が偏っていた。舐められたくないって気持ちは誰にでもあるけど、お前の場合は人よりも強い。そのせいで感情を抑えきれなくなるから、すぐに手が出る。今の考え方の軸になってるものがあるだろ? それが何を選ぶかを決めてくる。居酒屋で働こうと思った理由は? 面接で酷いことを言われたのに、なぜ入ろうと思った? その行動には理由があるはず。居酒屋で働いたことを人生の点だとすれば、それを結ぶ線がある。言わば選択だな。大事なのは過去の点で、その点が次の点までの線を決める。人の根は思考だ。その根っこに目を向けなければ芽は出ない」
自分を縛っていたのは社会ではなく自分。
そういうことなのだろうか。
でも一理あるな、と樹は思った。
あのときは切羽詰まっていたため、社員になりたいという一心で居酒屋で働いた。
他に選択肢がないとさえ感じていた。
もし冷静になっていれば、別の場所を選んでいたかもしれない。
過去の点に言動を決める種があるならば、それを知らずのうちに育てていたのだろう。
結果、底辺でもがきながら道を見失った。
阻んだのは井口だったが、そこに向かっていったのは樹自身。
思考が道を狭めて、行き止まりへと足を向かわせた。
そういうことなのだろうか。
でも一理あるな、と樹は思った。
あのときは切羽詰まっていたため、社員になりたいという一心で居酒屋で働いた。
他に選択肢がないとさえ感じていた。
もし冷静になっていれば、別の場所を選んでいたかもしれない。
過去の点に言動を決める種があるならば、それを知らずのうちに育てていたのだろう。
結果、底辺でもがきながら道を見失った。
阻んだのは井口だったが、そこに向かっていったのは樹自身。
思考が道を狭めて、行き止まりへと足を向かわせた。
「人間って不便だな。捨てたほうがいいものほど大事に握りしめて、持っていなければならないものは簡単に手放してしまう。本当は変わったほうがいいことを理解してるけど、変わるためには苦しむ必要がある。俺は耐えられなかった。傷を負うくらいなら死んだほうがいいとまで思った。人が諦めるのは楽になりたいからだ」
絶望で付いた傷を癒すには希望が必要だ。
だが、その希望を持つことで絶望を知ることになる。
樹は短期間でその両方に触れた。
そして負の思考に引きずられ、人生にピリオドを打ちかけた。
今はその間で立ち止まっている。
だが、その希望を持つことで絶望を知ることになる。
樹は短期間でその両方に触れた。
そして負の思考に引きずられ、人生にピリオドを打ちかけた。
今はその間で立ち止まっている。
「生きるという行為には傷が伴うが、傷は道に変えることができる。痛みがあるうちはただの傷にしか見えないが、そこに意味を付けられる奴が前に進める。諦めるって言葉を“一旦、立ち止まる”って認識に変えてみろ。そうすれば考える余白が生まれて、意味を付けやすくなる。白紙に無理やり何かを描こうとするから、余裕がなくなって苦しむんだ。進むためには休むことも必要。その間に自分と向き合って、何を書くかを決めればいい」
今後どう生きていきたいのかを、樹はまだ描けていない。
それどころか、書くものすら持っていないように感じた。
過去を振り返れば、拙い物語ばかり綴っている。そこに意味はあるのだろうか。
いや、付けなければ前に進めない。
負の感情で埋まっていた心に隙間が空いた。
その空白の中で、樹は何かを描こうとしていた。
それが希望の種となるか、絶望の種となるかはまだ分からない。
でも竜一の言葉を聞いて、今までとは違う方向に思考を進ませようとしていた。
育て方が分からなかった自分という存在に、少しだけ水が与えられたような感覚があった。
それどころか、書くものすら持っていないように感じた。
過去を振り返れば、拙い物語ばかり綴っている。そこに意味はあるのだろうか。
いや、付けなければ前に進めない。
負の感情で埋まっていた心に隙間が空いた。
その空白の中で、樹は何かを描こうとしていた。
それが希望の種となるか、絶望の種となるかはまだ分からない。
でも竜一の言葉を聞いて、今までとは違う方向に思考を進ませようとしていた。
育て方が分からなかった自分という存在に、少しだけ水が与えられたような感覚があった。
「コテージにも俺みたいな奴がいるの?」
「樹みたいって言われると違うけど、それぞれ別の苦悩を抱えて来てる。みんな生き方に迷いがあるっていう点では共通してるかもな」
「若いの?」
「樹とそんなに変わらないんじゃないか。一人だけ子供がいるけど」
「あんたの子?」
「一時的に預かってるんだよ。親が色々とあってな、今は東京の施設にいる」
樹は人と接するのが苦手だ。
歳が近いとはいえ、一緒に暮らすとなると不安が残る。
しかも子供付きだ。
多くの人間は可愛いともてはやすが、樹からしたら騒音を発するだけの生物でしかない。
耳障りな甲高い声も、自由気ままに泣き散らすワガママぶりも、すべてが神経を刺激する。
子供に苛立ったことしかない樹にとって、幼い生物は一番の懸念点だった。
歳が近いとはいえ、一緒に暮らすとなると不安が残る。
しかも子供付きだ。
多くの人間は可愛いともてはやすが、樹からしたら騒音を発するだけの生物でしかない。
耳障りな甲高い声も、自由気ままに泣き散らすワガママぶりも、すべてが神経を刺激する。
子供に苛立ったことしかない樹にとって、幼い生物は一番の懸念点だった。
「樹は子供好きじゃないだろ?」
「うん」
「蘭は他の子とは少し違う。子供っていう視点じゃなく、一人の人間として見てみろ。きっとお互いに良い刺激になると思う」
言ってる意味がよく分からなかった。
子供から得るものなんて一つもないだろうし、刺激があってもムカつくという感情だけだと思う。
一人の人間として見ることはないだろう。
鬱陶しくなるだけだから、なるべく接しないようにと樹は考えていた。
子供から得るものなんて一つもないだろうし、刺激があってもムカつくという感情だけだと思う。
一人の人間として見ることはないだろう。
鬱陶しくなるだけだから、なるべく接しないようにと樹は考えていた。
白浜大浜海水浴場を抜け、山道に入ること十分。車はコテージへと着いた。
木々に囲まれた木造建ての大きな家は、絵に描いたような別荘だった。
奥には二メートルほどの木の柵が立てられており、隙間から緑の芝が見える。だぶん庭だろう。
降車すると、海の香りを携えた風が肌を撫でた。
すべてを忘れさせてくれるような海からの贈り物。
胸に溜まった不満や不安を、攫ってくれるような感覚がある。
車の荷室からボストンバックを取り出し、竜一と共にコテージへと向かった。
玄関には屋根が付いており、柱の部分に『時の花』と書かれた木の看板が掛けられている。
名刺にも書いてあったコテージの名前だ。
玄関の扉を開けて中に入ると、広いエントランスが出迎えてくれた。
正面に大きなドアあり、左手には階段と通路が見える。
木々に囲まれた木造建ての大きな家は、絵に描いたような別荘だった。
奥には二メートルほどの木の柵が立てられており、隙間から緑の芝が見える。だぶん庭だろう。
降車すると、海の香りを携えた風が肌を撫でた。
すべてを忘れさせてくれるような海からの贈り物。
胸に溜まった不満や不安を、攫ってくれるような感覚がある。
車の荷室からボストンバックを取り出し、竜一と共にコテージへと向かった。
玄関には屋根が付いており、柱の部分に『時の花』と書かれた木の看板が掛けられている。
名刺にも書いてあったコテージの名前だ。
玄関の扉を開けて中に入ると、広いエントランスが出迎えてくれた。
正面に大きなドアあり、左手には階段と通路が見える。
「部屋は二階だけど、まずは住人に挨拶だな」
樹は面倒だなと思いつつ、靴を脱いで竜一に付いていった。
正面のドアを開けると、二十畳ほどのリビングが視界に入る。
高い天井、大勢が座れるコーナーソファ、アイランドキッチンの前には二メートルほどのダイニングテーブルが置かれている。
大きな窓の向こうには、ウッドデッキとフットサルコートぐらいの庭があり、芝が全面に生えている。
テーブルには若い男女と幼い女の子が着いていた。
樹たちが入ってくると、三人はドアの方に視線を集める。
「お帰りなさい」と、女性が立ち上がった。
肩まで伸びた艶やかな髪と透き通るような白い肌は、清潔感を感じさせた。
背筋の伸びた立ち姿に、品格の良さも垣間見える。
ばっちりと化粧をしており、服装は白のインナーの上にベージュのシャツを羽織っている。下も同じようなベージュのロングスカートだ。
これからどこかへ行くような、お出かけ用の服に見える。
彼女は樹を見て、なぜか顔を硬直させていた。
キリッとした目が呆然を表現しているが、その理由は分からない。
正面のドアを開けると、二十畳ほどのリビングが視界に入る。
高い天井、大勢が座れるコーナーソファ、アイランドキッチンの前には二メートルほどのダイニングテーブルが置かれている。
大きな窓の向こうには、ウッドデッキとフットサルコートぐらいの庭があり、芝が全面に生えている。
テーブルには若い男女と幼い女の子が着いていた。
樹たちが入ってくると、三人はドアの方に視線を集める。
「お帰りなさい」と、女性が立ち上がった。
肩まで伸びた艶やかな髪と透き通るような白い肌は、清潔感を感じさせた。
背筋の伸びた立ち姿に、品格の良さも垣間見える。
ばっちりと化粧をしており、服装は白のインナーの上にベージュのシャツを羽織っている。下も同じようなベージュのロングスカートだ。
これからどこかへ行くような、お出かけ用の服に見える。
彼女は樹を見て、なぜか顔を硬直させていた。
キリッとした目が呆然を表現しているが、その理由は分からない。
「えっと……その人が今日からの人ですか?」
女性の隣に座っている男性が問いかけた。
見た目は真面目そうな好青年だ。
優しさを纏った雰囲気は、場の空気を調和するような柔らかさを感じる。
男性も樹を見て硬直していた。
初めはなんでか分からなかったが、樹は自分の顔のことを思い出した。
繁華街で殴られ、今は左目に眼帯を付けている。
絆創膏は外したが、まだ傷は残っていた。
こんな人間がいきなり来たら、そんな顔にもなるだろう。
見た目は真面目そうな好青年だ。
優しさを纏った雰囲気は、場の空気を調和するような柔らかさを感じる。
男性も樹を見て硬直していた。
初めはなんでか分からなかったが、樹は自分の顔のことを思い出した。
繁華街で殴られ、今は左目に眼帯を付けている。
絆創膏は外したが、まだ傷は残っていた。
こんな人間がいきなり来たら、そんな顔にもなるだろう。
「自己紹介して」
「根本樹」
竜一に言われ無愛想に名乗ると、沈黙がどっしりと腰を下ろした。
まるで時間が止まったようだ。
若い男女の表情は、加速度増して引き攣っていた。
まるで時間が止まったようだ。
若い男女の表情は、加速度増して引き攣っていた。
「今ので大体分かったろ」
「まったく分かりません」
「まあ、こんな感じだから宜しく」
女性は表情に不安を描いていた。
――こんな人と一緒に生活しないといけないの
そんな心の声が聞こえてきそうだった。
子供の顔を見ると“ニコッ”とした笑顔を浮かべてきたが、樹は関わりたくなかったので目を逸らす。
――こんな人と一緒に生活しないといけないの
そんな心の声が聞こえてきそうだった。
子供の顔を見ると“ニコッ”とした笑顔を浮かべてきたが、樹は関わりたくなかったので目を逸らす。
「まあ三人の自己紹介は晩飯のときにするか。今は疲れてるだろ? 部屋に案内するから来て」
樹はリビングを出るとき、子供に視線を向けた。
先ほどまでの笑顔は消えており、無表情の顔は萎れた花のように俯いていた。
二階に上がると通路があり、ドアがいくつか並んでいる。
ドアには数字が書かれたプレートが掛けられており、樹は三番に案内された。
先ほどまでの笑顔は消えており、無表情の顔は萎れた花のように俯いていた。
二階に上がると通路があり、ドアがいくつか並んでいる。
ドアには数字が書かれたプレートが掛けられており、樹は三番に案内された。
「ここが樹の部屋ね。荷物置いたら出てきて。他にも案内したい場所があるから」
部屋の中は、ベットとデスクが置かれた簡素なレイアウトだった。
小さな冷蔵庫とテレビも置かれている。
正面には窓があり、そこから海が見えた。
コテージは高台にあるため、美しさを一望できる。
少し眺めた後、ボストンバックを床に置いて廊下へと出た。
小さな冷蔵庫とテレビも置かれている。
正面には窓があり、そこから海が見えた。
コテージは高台にあるため、美しさを一望できる。
少し眺めた後、ボストンバックを床に置いて廊下へと出た。
「じゃあ来て」
案内されたのは、通路の一番奥の部屋だ。
ドアに掛けられたプレートには『ノートの部屋』と書かれている。
ドアに掛けられたプレートには『ノートの部屋』と書かれている。
「ここは過去に来た奴らの苦悩が詰まってる場所だ」
そう言って竜一は部屋のドアを開けた。
中には三段ラックとデスクが置かれており、広さは四畳半ほどの小さな部屋だった。
ラックの一番上の段にはA4ノートが五冊並べられており、竜一は一冊だけ手に取って樹に差し出した。表紙には『5』と書かれている。
中には三段ラックとデスクが置かれており、広さは四畳半ほどの小さな部屋だった。
ラックの一番上の段にはA4ノートが五冊並べられており、竜一は一冊だけ手に取って樹に差し出した。表紙には『5』と書かれている。
「読んでみて」
竜一に言われてノートを開くと、綴られた文章が目に入ってきた。
――なんで自分だけ
――もう疲れた
――死にたい
――どうすればいいの?
――もう疲れた
――死にたい
――どうすればいいの?
どのページにも悲観的な言葉が並べられており、心の叫びが文字から伝わってくる。
「ここに来た人間が自分の過去や心情を書いてる。どんなことがあったのか、何をされたのか、なぜここに来たのか。表では出せないような本音を文字で残してるんだ。溜め込んだもんを出すと、少しは楽になれる。コテージに来る奴は、器に色んなものが入りすぎて大事なものを入れる余地がない。でも、他人の過去や苦悩に触れることで、自分だけじゃないって分かれば少し余裕ができたりする。まずは隙間を作ることが最初の一歩だ」
樹はノートを眺めていた。
間接的だが他人の人生に触れている感覚があり、不思議な気持ちを抱いた。
間接的だが他人の人生に触れている感覚があり、不思議な気持ちを抱いた。
「あんたはこれを読んでどうするの?」
「人によって求めるものや必要なものが変わる。頑張れって言葉で勇気づけられる人間もいれば、それが重荷になる人間もいる。どう生きてきたかで、言葉の受け取り方が変わるんだ。だからノートに書いてある過去や心境、言葉の使い方を見極めながら、その人間の道を形成していく。誰にでも当てはまる正解なんてないから、個人個人で見ていくしかない。すべてが常識で当て嵌められたらいいが、人生に教科書なんてない。自分で探っていくしかないんだ。俺の仕事は道に迷った奴らを、言葉という道標で前に進ませること。若い頃は力任せに生きてきたが、今は言葉で生きてる」
言葉で人は変わるのだろうか?
樹の頭に疑問符が打たれた。
慰められたところで生き方に変化があるとは思わない。
言葉だけで導けるのなら誰も苦労はしない。
でも原西は竜一を恩人と言っていた。
彼も言葉で生き方が変わったのだろうか?
今の樹には、竜一の言ってることが理解できなかった。
樹の頭に疑問符が打たれた。
慰められたところで生き方に変化があるとは思わない。
言葉だけで導けるのなら誰も苦労はしない。
でも原西は竜一を恩人と言っていた。
彼も言葉で生き方が変わったのだろうか?
今の樹には、竜一の言ってることが理解できなかった。
「下にいた奴らも書いてるの?」
「男の方と子供は書いてるよ」
「女の方は?」
「莉亜は書いてない。ていうより書こうとしないって感じかな。そもそも自分の悩みを打ち明けようともしない。きっと言えない理由があるんだろう。今はその理由を探ってる途中だ」
彼女は仕事ができそうな、真っ当な人間という印象だった。
樹のように、道から外れたような生き方をしてるようには思えない。
見た目で判断するなら、性格はきっちりとしてそうだったし、見た目も綺麗だ。
ここに来てる理由を考えたが、想像すらできなかった。
ノートを適当に捲っていると、白紙の真ん中に顔が描かれたページがあった。
絵文字のような簡素化した顔が、涙を流してこちらを見ている。
樹のように、道から外れたような生き方をしてるようには思えない。
見た目で判断するなら、性格はきっちりとしてそうだったし、見た目も綺麗だ。
ここに来てる理由を考えたが、想像すらできなかった。
ノートを適当に捲っていると、白紙の真ん中に顔が描かれたページがあった。
絵文字のような簡素化した顔が、涙を流してこちらを見ている。
「それは蘭の絵だよ。あいつにも一応説明したら、それを描いてた」
三歳か四歳くらいでは、苦悩のくの字も分からない。
きっとなんとなくのニュアンスで描いたのだろう。
まだ痛みを知らない子供は羨ましい。
きっと世界が美しく見えているだろうから。
樹はそんなことを思いながら、ノートを閉じた。
きっとなんとなくのニュアンスで描いたのだろう。
まだ痛みを知らない子供は羨ましい。
きっと世界が美しく見えているだろうから。
樹はそんなことを思いながら、ノートを閉じた。