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十五話 海沿いのコテージ

ー/ー



 車は国道135号線を走っていた。
 左手には空の青を反射した海が広がり、太陽の光が燦然と水面を輝かせている。
 出発して二時間ほど経ち、今は熱海の街を抜け山道に入った。
 あれから一週間。
 住んでいた家を引き払い、カバン一つで東京を出た。
 アパートは大家が直接管理する物件だったため、退去する旨を直接伝えると、明日にでも出てってほしいと言われた。
 家賃は遅れることなく支払っていたため、今まで言いづらかったのかもしれない。
 もしくは『追い出そうとしたら何をされるか分からない』と言った恐怖だろうか。
 借金取りに追われた無愛想な人間なら、そう思われていてもおかしくはない。
 そういった事情もあり、予定よりも早くコテージに向かうことになった。
 樹は悩んだ末、竜一に付いていくことを選んだ。
 最後にもう一回だけ希望を持ってみようと思えたから。
 他の人間なら付いていくことはなかったかもしれない。
 でも竜一と居れば、自分を変えられそうな気がした。
 今は何が足りないのかも分からないし、どこへ進んでいいかも分からない。
 でも彷徨っているという感じはしなかった。
 樹海の中にいるが、遠くに薄らと光が見える。
 そんな感覚があった。

「そうだ、借金は元本だけでいいってよ。利子も付かないってさ」

 助手席から海を見ていると、運転席の竜一が言った。
 たぶん交渉してくれたのだろう。
 もしそうなら簡単に諦めるということができなくなった。
 今まで以上に覚悟を持たなければいけない。
 コテージにいれる期間は基本三ヶ月らしいが、樹の場合は一ヶ月しかいられない。
 それが宮田との条件でもあった。

「なあ」

「ん?」

「俺みたいに道から外れた奴でも、やり直せるのかな」

 まだ不安は残っている。一度本気で変わろうとしたが失敗した。
 その経験値が新たな足枷となっている。
 前に進むためには、その部分と向き合わなければならない。

「多くの人間が通る道にお前はいない。でもな、地図に載ってない道もある。今はそこを歩いてるだけだ。説明書もなければ、テンプレも存在しない。だから自分と向き合って、自分だけのルートを見つける必要がある。そのためには考え方の幅を広げなければいけない。生き方を決める要素は運と環境と周りの人間、そして自分との向き合い方だ。それらが形成して自分の在り方を決める」

「それだと自分の意思では変えられないってことになるけど。運も環境も周りの人間も、俺がコントロールできる部分じゃない」

「確かに全部は無理だ。でも変えられる部分は存在する。まずは今の自分がどう形成されたかを考えろ。人生が上手くいかない理由の一つは固定概念に縛られることだ。樹の場合は中学時代のことが足枷となって、言動の方向性が偏っていた。舐められたくないって気持ちは誰にでもあるけど、お前の場合は人よりも強い。そのせいで感情を抑えきれなくなるから、すぐに手が出る。今の考え方の軸になってるものがあるだろ? それが何を選ぶかを決めてくる。居酒屋で働こうと思った理由は? 面接で酷いことを言われたのに、なぜ入ろうと思った? その行動には理由があるはず。居酒屋で働いたことを人生の点だとすれば、それを結ぶ線がある。言わば選択だな。大事なのは過去の点で、その点が次の点までの線を決める。人の根は思考だ。その根っこに目を向けなければ芽は出ない」

 自分を縛っていたのは社会ではなく自分。
 そういうことなのだろうか。
 でも一理あるな、と樹は思った。
 あのときは切羽詰まっていたため、社員になりたいという一心で居酒屋で働いた。
 他に選択肢がないとさえ感じていた。
 もし冷静になっていれば、別の場所を選んでいたかもしれない。
 過去の点に言動を決める種があるならば、それを知らずのうちに育てていたのだろう。
 結果、底辺でもがきながら道を見失った。
 阻んだのは井口だったが、そこに向かっていったのは樹自身。
 思考が道を狭めて、行き止まりへと足を向かわせた。

「人間って不便だな。捨てたほうがいいものほど大事に握りしめて、持っていなければならないものは簡単に手放してしまう。本当は変わったほうがいいことを理解してるけど、変わるためには苦しむ必要がある。俺は耐えられなかった。傷を負うくらいなら死んだほうがいいとまで思った。人が諦めるのは楽になりたいからだ」

 絶望で付いた傷を癒すには希望が必要だ。
 だが、その希望を持つことで絶望を知ることになる。
 樹は短期間でその両方に触れた。
 そして負の思考に引きずられ、人生にピリオドを打ちかけた。
 今はその間で立ち止まっている。

「生きるという行為には傷が伴うが、傷は道に変えることができる。痛みがあるうちはただの傷にしか見えないが、そこに意味を付けられる奴が前に進める。諦めるって言葉を“一旦、立ち止まる”って認識に変えてみろ。そうすれば考える余白が生まれて、意味を付けやすくなる。白紙に無理やり何かを描こうとするから、余裕がなくなって苦しむんだ。進むためには休むことも必要。その間に自分と向き合って、何を書くかを決めればいい」

 今後どう生きていきたいのかを、樹はまだ描けていない。
 それどころか、書くものすら持っていないように感じた。
 過去を振り返れば、拙い物語ばかり綴っている。そこに意味はあるのだろうか。
 いや、付けなければ前に進めない。
 負の感情で埋まっていた心に隙間が空いた。
 その空白の中で、樹は何かを描こうとしていた。
 それが希望の種となるか、絶望の種となるかはまだ分からない。
 でも竜一の言葉を聞いて、今までとは違う方向に思考を進ませようとしていた。
 育て方が分からなかった自分という存在に、少しだけ水が与えられたような感覚があった。

「コテージにも俺みたいな奴がいるの?」

「樹みたいって言われると違うけど、それぞれ別の苦悩を抱えて来てる。みんな生き方に迷いがあるっていう点では共通してるかもな」

「若いの?」

「樹とそんなに変わらないんじゃないか。一人だけ子供がいるけど」

「あんたの子?」

「一時的に預かってるんだよ。親が色々とあってな、今は東京の施設にいる」

 樹は人と接するのが苦手だ。
 歳が近いとはいえ、一緒に暮らすとなると不安が残る。
 しかも子供付きだ。
 多くの人間は可愛いともてはやすが、樹からしたら騒音を発するだけの生物でしかない。
 耳障りな甲高い声も、自由気ままに泣き散らすワガママぶりも、すべてが神経を刺激する。
 子供に苛立ったことしかない樹にとって、幼い生物は一番の懸念点だった。

「樹は子供好きじゃないだろ?」

「うん」

「蘭は他の子とは少し違う。子供っていう視点じゃなく、一人の人間として見てみろ。きっとお互いに良い刺激になると思う」

 言ってる意味がよく分からなかった。
 子供から得るものなんて一つもないだろうし、刺激があってもムカつくという感情だけだと思う。
 一人の人間として見ることはないだろう。
 鬱陶しくなるだけだから、なるべく接しないようにと樹は考えていた。


 白浜大浜海水浴場を抜け、山道に入ること十分。車はコテージへと着いた。
 木々に囲まれた木造建ての大きな家は、絵に描いたような別荘だった。
 奥には二メートルほどの木の柵が立てられており、隙間から緑の芝が見える。だぶん庭だろう。
 降車すると、海の香りを携えた風が肌を撫でた。
 すべてを忘れさせてくれるような海からの贈り物。
 胸に溜まった不満や不安を、攫ってくれるような感覚がある。
 車の荷室からボストンバックを取り出し、竜一と共にコテージへと向かった。
 玄関には屋根が付いており、柱の部分に『時の花』と書かれた木の看板が掛けられている。
 名刺にも書いてあったコテージの名前だ。
 玄関の扉を開けて中に入ると、広いエントランスが出迎えてくれた。
 正面に大きなドアあり、左手には階段と通路が見える。

「部屋は二階だけど、まずは住人に挨拶だな」

 樹は面倒だなと思いつつ、靴を脱いで竜一に付いていった。
 正面のドアを開けると、二十畳ほどのリビングが視界に入る。
 高い天井、大勢が座れるコーナーソファ、アイランドキッチンの前には二メートルほどのダイニングテーブルが置かれている。
 大きな窓の向こうには、ウッドデッキとフットサルコートぐらいの庭があり、芝が全面に生えている。
 テーブルには若い男女と幼い女の子が着いていた。
 樹たちが入ってくると、三人はドアの方に視線を集める。
「お帰りなさい」と、女性が立ち上がった。
 肩まで伸びた艶やかな髪と透き通るような白い肌は、清潔感を感じさせた。
 背筋の伸びた立ち姿に、品格の良さも垣間見える。
 ばっちりと化粧をしており、服装は白のインナーの上にベージュのシャツを羽織っている。下も同じようなベージュのロングスカートだ。
 これからどこかへ行くような、お出かけ用の服に見える。
 彼女は樹を見て、なぜか顔を硬直させていた。
 キリッとした目が呆然を表現しているが、その理由は分からない。

「えっと……その人が今日からの人ですか?」

 女性の隣に座っている男性が問いかけた。
 見た目は真面目そうな好青年だ。
 優しさを纏った雰囲気は、場の空気を調和するような柔らかさを感じる。
 男性も樹を見て硬直していた。
 初めはなんでか分からなかったが、樹は自分の顔のことを思い出した。
 繁華街で殴られ、今は左目に眼帯を付けている。
 絆創膏は外したが、まだ傷は残っていた。
 こんな人間がいきなり来たら、そんな顔にもなるだろう。

「自己紹介して」
「根本樹」

 竜一に言われ無愛想に名乗ると、沈黙がどっしりと腰を下ろした。
 まるで時間が止まったようだ。
 若い男女の表情は、加速度増して引き攣っていた。

「今ので大体分かったろ」

「まったく分かりません」

「まあ、こんな感じだから宜しく」

 女性は表情に不安を描いていた。
――こんな人と一緒に生活しないといけないの
 そんな心の声が聞こえてきそうだった。
 子供の顔を見ると“ニコッ”とした笑顔を浮かべてきたが、樹は関わりたくなかったので目を逸らす。

「まあ三人の自己紹介は晩飯のときにするか。今は疲れてるだろ? 部屋に案内するから来て」

 樹はリビングを出るとき、子供に視線を向けた。
 先ほどまでの笑顔は消えており、無表情の顔は萎れた花のように俯いていた。
 二階に上がると通路があり、ドアがいくつか並んでいる。
 ドアには数字が書かれたプレートが掛けられており、樹は三番に案内された。

「ここが樹の部屋ね。荷物置いたら出てきて。他にも案内したい場所があるから」

 部屋の中は、ベットとデスクが置かれた簡素なレイアウトだった。
 小さな冷蔵庫とテレビも置かれている。
 正面には窓があり、そこから海が見えた。
 コテージは高台にあるため、美しさを一望できる。
 少し眺めた後、ボストンバックを床に置いて廊下へと出た。

「じゃあ来て」

 案内されたのは、通路の一番奥の部屋だ。
 ドアに掛けられたプレートには『ノートの部屋』と書かれている。

「ここは過去に来た奴らの苦悩が詰まってる場所だ」

 そう言って竜一は部屋のドアを開けた。
 中には三段ラックとデスクが置かれており、広さは四畳半ほどの小さな部屋だった。
 ラックの一番上の段にはA4ノートが五冊並べられており、竜一は一冊だけ手に取って樹に差し出した。表紙には『5』と書かれている。

「読んでみて」

 竜一に言われてノートを開くと、綴られた文章が目に入ってきた。

――なんで自分だけ
――もう疲れた
――死にたい
――どうすればいいの?

 どのページにも悲観的な言葉が並べられており、心の叫びが文字から伝わってくる。

「ここに来た人間が自分の過去や心情を書いてる。どんなことがあったのか、何をされたのか、なぜここに来たのか。表では出せないような本音を文字で残してるんだ。溜め込んだもんを出すと、少しは楽になれる。コテージに来る奴は、器に色んなものが入りすぎて大事なものを入れる余地がない。でも、他人の過去や苦悩に触れることで、自分だけじゃないって分かれば少し余裕ができたりする。まずは隙間を作ることが最初の一歩だ」

 樹はノートを眺めていた。
 間接的だが他人の人生に触れている感覚があり、不思議な気持ちを抱いた。

「あんたはこれを読んでどうするの?」

「人によって求めるものや必要なものが変わる。頑張れって言葉で勇気づけられる人間もいれば、それが重荷になる人間もいる。どう生きてきたかで、言葉の受け取り方が変わるんだ。だからノートに書いてある過去や心境、言葉の使い方を見極めながら、その人間の道を形成していく。誰にでも当てはまる正解なんてないから、個人個人で見ていくしかない。すべてが常識で当て嵌められたらいいが、人生に教科書なんてない。自分で探っていくしかないんだ。俺の仕事は道に迷った奴らを、言葉という道標で前に進ませること。若い頃は力任せに生きてきたが、今は言葉で生きてる」

 言葉で人は変わるのだろうか?
 樹の頭に疑問符が打たれた。
 慰められたところで生き方に変化があるとは思わない。
 言葉だけで導けるのなら誰も苦労はしない。
 でも原西は竜一を恩人と言っていた。
 彼も言葉で生き方が変わったのだろうか?
 今の樹には、竜一の言ってることが理解できなかった。

「下にいた奴らも書いてるの?」

「男の方と子供は書いてるよ」

「女の方は?」

「莉亜は書いてない。ていうより書こうとしないって感じかな。そもそも自分の悩みを打ち明けようともしない。きっと言えない理由があるんだろう。今はその理由を探ってる途中だ」

 彼女は仕事ができそうな、真っ当な人間という印象だった。
 樹のように、道から外れたような生き方をしてるようには思えない。
 見た目で判断するなら、性格はきっちりとしてそうだったし、見た目も綺麗だ。
 ここに来てる理由を考えたが、想像すらできなかった。
 ノートを適当に捲っていると、白紙の真ん中に顔が描かれたページがあった。
 絵文字のような簡素化した顔が、涙を流してこちらを見ている。

「それは蘭の絵だよ。あいつにも一応説明したら、それを描いてた」

 三歳か四歳くらいでは、苦悩のくの字も分からない。
 きっとなんとなくのニュアンスで描いたのだろう。
 まだ痛みを知らない子供は羨ましい。
 きっと世界が美しく見えているだろうから。
 樹はそんなことを思いながら、ノートを閉じた。


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みんなのリアクション

 車は国道135号線を走っていた。
 左手には空の青を反射した海が広がり、太陽の光が燦然と水面を輝かせている。
 出発して二時間ほど経ち、今は熱海の街を抜け山道に入った。
 あれから一週間。
 住んでいた家を引き払い、カバン一つで東京を出た。
 アパートは大家が直接管理する物件だったため、退去する旨を直接伝えると、明日にでも出てってほしいと言われた。
 家賃は遅れることなく支払っていたため、今まで言いづらかったのかもしれない。
 もしくは『追い出そうとしたら何をされるか分からない』と言った恐怖だろうか。
 借金取りに追われた無愛想な人間なら、そう思われていてもおかしくはない。
 そういった事情もあり、予定よりも早くコテージに向かうことになった。
 樹は悩んだ末、竜一に付いていくことを選んだ。
 最後にもう一回だけ希望を持ってみようと思えたから。
 他の人間なら付いていくことはなかったかもしれない。
 でも竜一と居れば、自分を変えられそうな気がした。
 今は何が足りないのかも分からないし、どこへ進んでいいかも分からない。
 でも彷徨っているという感じはしなかった。
 樹海の中にいるが、遠くに薄らと光が見える。
 そんな感覚があった。
「そうだ、借金は元本だけでいいってよ。利子も付かないってさ」
 助手席から海を見ていると、運転席の竜一が言った。
 たぶん交渉してくれたのだろう。
 もしそうなら簡単に諦めるということができなくなった。
 今まで以上に覚悟を持たなければいけない。
 コテージにいれる期間は基本三ヶ月らしいが、樹の場合は一ヶ月しかいられない。
 それが宮田との条件でもあった。
「なあ」
「ん?」
「俺みたいに道から外れた奴でも、やり直せるのかな」
 まだ不安は残っている。一度本気で変わろうとしたが失敗した。
 その経験値が新たな足枷となっている。
 前に進むためには、その部分と向き合わなければならない。
「多くの人間が通る道にお前はいない。でもな、地図に載ってない道もある。今はそこを歩いてるだけだ。説明書もなければ、テンプレも存在しない。だから自分と向き合って、自分だけのルートを見つける必要がある。そのためには考え方の幅を広げなければいけない。生き方を決める要素は運と環境と周りの人間、そして自分との向き合い方だ。それらが形成して自分の在り方を決める」
「それだと自分の意思では変えられないってことになるけど。運も環境も周りの人間も、俺がコントロールできる部分じゃない」
「確かに全部は無理だ。でも変えられる部分は存在する。まずは今の自分がどう形成されたかを考えろ。人生が上手くいかない理由の一つは固定概念に縛られることだ。樹の場合は中学時代のことが足枷となって、言動の方向性が偏っていた。舐められたくないって気持ちは誰にでもあるけど、お前の場合は人よりも強い。そのせいで感情を抑えきれなくなるから、すぐに手が出る。今の考え方の軸になってるものがあるだろ? それが何を選ぶかを決めてくる。居酒屋で働こうと思った理由は? 面接で酷いことを言われたのに、なぜ入ろうと思った? その行動には理由があるはず。居酒屋で働いたことを人生の点だとすれば、それを結ぶ線がある。言わば選択だな。大事なのは過去の点で、その点が次の点までの線を決める。人の根は思考だ。その根っこに目を向けなければ芽は出ない」
 自分を縛っていたのは社会ではなく自分。
 そういうことなのだろうか。
 でも一理あるな、と樹は思った。
 あのときは切羽詰まっていたため、社員になりたいという一心で居酒屋で働いた。
 他に選択肢がないとさえ感じていた。
 もし冷静になっていれば、別の場所を選んでいたかもしれない。
 過去の点に言動を決める種があるならば、それを知らずのうちに育てていたのだろう。
 結果、底辺でもがきながら道を見失った。
 阻んだのは井口だったが、そこに向かっていったのは樹自身。
 思考が道を狭めて、行き止まりへと足を向かわせた。
「人間って不便だな。捨てたほうがいいものほど大事に握りしめて、持っていなければならないものは簡単に手放してしまう。本当は変わったほうがいいことを理解してるけど、変わるためには苦しむ必要がある。俺は耐えられなかった。傷を負うくらいなら死んだほうがいいとまで思った。人が諦めるのは楽になりたいからだ」
 絶望で付いた傷を癒すには希望が必要だ。
 だが、その希望を持つことで絶望を知ることになる。
 樹は短期間でその両方に触れた。
 そして負の思考に引きずられ、人生にピリオドを打ちかけた。
 今はその間で立ち止まっている。
「生きるという行為には傷が伴うが、傷は道に変えることができる。痛みがあるうちはただの傷にしか見えないが、そこに意味を付けられる奴が前に進める。諦めるって言葉を“一旦、立ち止まる”って認識に変えてみろ。そうすれば考える余白が生まれて、意味を付けやすくなる。白紙に無理やり何かを描こうとするから、余裕がなくなって苦しむんだ。進むためには休むことも必要。その間に自分と向き合って、何を書くかを決めればいい」
 今後どう生きていきたいのかを、樹はまだ描けていない。
 それどころか、書くものすら持っていないように感じた。
 過去を振り返れば、拙い物語ばかり綴っている。そこに意味はあるのだろうか。
 いや、付けなければ前に進めない。
 負の感情で埋まっていた心に隙間が空いた。
 その空白の中で、樹は何かを描こうとしていた。
 それが希望の種となるか、絶望の種となるかはまだ分からない。
 でも竜一の言葉を聞いて、今までとは違う方向に思考を進ませようとしていた。
 育て方が分からなかった自分という存在に、少しだけ水が与えられたような感覚があった。
「コテージにも俺みたいな奴がいるの?」
「樹みたいって言われると違うけど、それぞれ別の苦悩を抱えて来てる。みんな生き方に迷いがあるっていう点では共通してるかもな」
「若いの?」
「樹とそんなに変わらないんじゃないか。一人だけ子供がいるけど」
「あんたの子?」
「一時的に預かってるんだよ。親が色々とあってな、今は東京の施設にいる」
 樹は人と接するのが苦手だ。
 歳が近いとはいえ、一緒に暮らすとなると不安が残る。
 しかも子供付きだ。
 多くの人間は可愛いともてはやすが、樹からしたら騒音を発するだけの生物でしかない。
 耳障りな甲高い声も、自由気ままに泣き散らすワガママぶりも、すべてが神経を刺激する。
 子供に苛立ったことしかない樹にとって、幼い生物は一番の懸念点だった。
「樹は子供好きじゃないだろ?」
「うん」
「蘭は他の子とは少し違う。子供っていう視点じゃなく、一人の人間として見てみろ。きっとお互いに良い刺激になると思う」
 言ってる意味がよく分からなかった。
 子供から得るものなんて一つもないだろうし、刺激があってもムカつくという感情だけだと思う。
 一人の人間として見ることはないだろう。
 鬱陶しくなるだけだから、なるべく接しないようにと樹は考えていた。
 白浜大浜海水浴場を抜け、山道に入ること十分。車はコテージへと着いた。
 木々に囲まれた木造建ての大きな家は、絵に描いたような別荘だった。
 奥には二メートルほどの木の柵が立てられており、隙間から緑の芝が見える。だぶん庭だろう。
 降車すると、海の香りを携えた風が肌を撫でた。
 すべてを忘れさせてくれるような海からの贈り物。
 胸に溜まった不満や不安を、攫ってくれるような感覚がある。
 車の荷室からボストンバックを取り出し、竜一と共にコテージへと向かった。
 玄関には屋根が付いており、柱の部分に『時の花』と書かれた木の看板が掛けられている。
 名刺にも書いてあったコテージの名前だ。
 玄関の扉を開けて中に入ると、広いエントランスが出迎えてくれた。
 正面に大きなドアあり、左手には階段と通路が見える。
「部屋は二階だけど、まずは住人に挨拶だな」
 樹は面倒だなと思いつつ、靴を脱いで竜一に付いていった。
 正面のドアを開けると、二十畳ほどのリビングが視界に入る。
 高い天井、大勢が座れるコーナーソファ、アイランドキッチンの前には二メートルほどのダイニングテーブルが置かれている。
 大きな窓の向こうには、ウッドデッキとフットサルコートぐらいの庭があり、芝が全面に生えている。
 テーブルには若い男女と幼い女の子が着いていた。
 樹たちが入ってくると、三人はドアの方に視線を集める。
「お帰りなさい」と、女性が立ち上がった。
 肩まで伸びた艶やかな髪と透き通るような白い肌は、清潔感を感じさせた。
 背筋の伸びた立ち姿に、品格の良さも垣間見える。
 ばっちりと化粧をしており、服装は白のインナーの上にベージュのシャツを羽織っている。下も同じようなベージュのロングスカートだ。
 これからどこかへ行くような、お出かけ用の服に見える。
 彼女は樹を見て、なぜか顔を硬直させていた。
 キリッとした目が呆然を表現しているが、その理由は分からない。
「えっと……その人が今日からの人ですか?」
 女性の隣に座っている男性が問いかけた。
 見た目は真面目そうな好青年だ。
 優しさを纏った雰囲気は、場の空気を調和するような柔らかさを感じる。
 男性も樹を見て硬直していた。
 初めはなんでか分からなかったが、樹は自分の顔のことを思い出した。
 繁華街で殴られ、今は左目に眼帯を付けている。
 絆創膏は外したが、まだ傷は残っていた。
 こんな人間がいきなり来たら、そんな顔にもなるだろう。
「自己紹介して」
「根本樹」
 竜一に言われ無愛想に名乗ると、沈黙がどっしりと腰を下ろした。
 まるで時間が止まったようだ。
 若い男女の表情は、加速度増して引き攣っていた。
「今ので大体分かったろ」
「まったく分かりません」
「まあ、こんな感じだから宜しく」
 女性は表情に不安を描いていた。
――こんな人と一緒に生活しないといけないの
 そんな心の声が聞こえてきそうだった。
 子供の顔を見ると“ニコッ”とした笑顔を浮かべてきたが、樹は関わりたくなかったので目を逸らす。
「まあ三人の自己紹介は晩飯のときにするか。今は疲れてるだろ? 部屋に案内するから来て」
 樹はリビングを出るとき、子供に視線を向けた。
 先ほどまでの笑顔は消えており、無表情の顔は萎れた花のように俯いていた。
 二階に上がると通路があり、ドアがいくつか並んでいる。
 ドアには数字が書かれたプレートが掛けられており、樹は三番に案内された。
「ここが樹の部屋ね。荷物置いたら出てきて。他にも案内したい場所があるから」
 部屋の中は、ベットとデスクが置かれた簡素なレイアウトだった。
 小さな冷蔵庫とテレビも置かれている。
 正面には窓があり、そこから海が見えた。
 コテージは高台にあるため、美しさを一望できる。
 少し眺めた後、ボストンバックを床に置いて廊下へと出た。
「じゃあ来て」
 案内されたのは、通路の一番奥の部屋だ。
 ドアに掛けられたプレートには『ノートの部屋』と書かれている。
「ここは過去に来た奴らの苦悩が詰まってる場所だ」
 そう言って竜一は部屋のドアを開けた。
 中には三段ラックとデスクが置かれており、広さは四畳半ほどの小さな部屋だった。
 ラックの一番上の段にはA4ノートが五冊並べられており、竜一は一冊だけ手に取って樹に差し出した。表紙には『5』と書かれている。
「読んでみて」
 竜一に言われてノートを開くと、綴られた文章が目に入ってきた。
――なんで自分だけ
――もう疲れた
――死にたい
――どうすればいいの?
 どのページにも悲観的な言葉が並べられており、心の叫びが文字から伝わってくる。
「ここに来た人間が自分の過去や心情を書いてる。どんなことがあったのか、何をされたのか、なぜここに来たのか。表では出せないような本音を文字で残してるんだ。溜め込んだもんを出すと、少しは楽になれる。コテージに来る奴は、器に色んなものが入りすぎて大事なものを入れる余地がない。でも、他人の過去や苦悩に触れることで、自分だけじゃないって分かれば少し余裕ができたりする。まずは隙間を作ることが最初の一歩だ」
 樹はノートを眺めていた。
 間接的だが他人の人生に触れている感覚があり、不思議な気持ちを抱いた。
「あんたはこれを読んでどうするの?」
「人によって求めるものや必要なものが変わる。頑張れって言葉で勇気づけられる人間もいれば、それが重荷になる人間もいる。どう生きてきたかで、言葉の受け取り方が変わるんだ。だからノートに書いてある過去や心境、言葉の使い方を見極めながら、その人間の道を形成していく。誰にでも当てはまる正解なんてないから、個人個人で見ていくしかない。すべてが常識で当て嵌められたらいいが、人生に教科書なんてない。自分で探っていくしかないんだ。俺の仕事は道に迷った奴らを、言葉という道標で前に進ませること。若い頃は力任せに生きてきたが、今は言葉で生きてる」
 言葉で人は変わるのだろうか?
 樹の頭に疑問符が打たれた。
 慰められたところで生き方に変化があるとは思わない。
 言葉だけで導けるのなら誰も苦労はしない。
 でも原西は竜一を恩人と言っていた。
 彼も言葉で生き方が変わったのだろうか?
 今の樹には、竜一の言ってることが理解できなかった。
「下にいた奴らも書いてるの?」
「男の方と子供は書いてるよ」
「女の方は?」
「莉亜は書いてない。ていうより書こうとしないって感じかな。そもそも自分の悩みを打ち明けようともしない。きっと言えない理由があるんだろう。今はその理由を探ってる途中だ」
 彼女は仕事ができそうな、真っ当な人間という印象だった。
 樹のように、道から外れたような生き方をしてるようには思えない。
 見た目で判断するなら、性格はきっちりとしてそうだったし、見た目も綺麗だ。
 ここに来てる理由を考えたが、想像すらできなかった。
 ノートを適当に捲っていると、白紙の真ん中に顔が描かれたページがあった。
 絵文字のような簡素化した顔が、涙を流してこちらを見ている。
「それは蘭の絵だよ。あいつにも一応説明したら、それを描いてた」
 三歳か四歳くらいでは、苦悩のくの字も分からない。
 きっとなんとなくのニュアンスで描いたのだろう。
 まだ痛みを知らない子供は羨ましい。
 きっと世界が美しく見えているだろうから。
 樹はそんなことを思いながら、ノートを閉じた。