繁華街から少し離れた場所に、古びた五階建ての雑居ビルがある。
そこの四階に宮田たちの事務所があった。
ここに来たのは二ヶ月ぶりだ。
今はソファーに座り、手当てをしてもらっていた。
後藤は「なんで俺が」と不満を垂れている。
対面には竜一と宮田が座っており、二人が並ぶと事務所が反社色に染まる。
この二人は知り合いなのだろうか?
それとも、竜一も闇金の人間なのだろうか?
だとしたらコテージはタコ部屋のような場所で、過酷な肉体労働を強いられるのだろうか?
樹の頭にはいくつかの疑問符が絡み合い、状況の整理に時間がかかっていた。
「終わったぞ、ガキ」
後藤は樹の顔全体に絆創膏を何枚かと、左目にガーゼを貼った。
見えてはいないが、きっと適当に貼っているのだろうなと思った。なんとなくだが。
「後藤、今日はもう帰っていいぞ」
「じゃあ、お先っす。おいガキ、借りたもんはちゃんと返せよ。お前の母ちゃん泣くぞ」
きっとお前の母ちゃんも泣いてる。
そう言おうと思ったが、樹は喉元の言葉を押し戻した。
後藤は眠そうな目を擦りながら救急箱を棚に戻し、あくびをしながら事務所を出て行った。
ドアが閉まった途端、空気が重くなったように感じた。
後藤の軽い雰囲気が場を調和していたんだと思うと、あの騒々しい声にありがたみを覚える。
「こいつ、俺の後輩なんだ。昨日、たまたま会ってな、十年ぶりに一緒に飯食ってたんだよ」
竜一は親指で宮田を指した。
「あんたも闇金なの?」
「昨日、名刺渡したろ? 俺はコテージの管理人だ」
この場で言われると説得力がない。
完全に反社のように見える。
「お前、バイトクビになったんだってな。どうやって返すんだよ」
宮田の目に殺気のようなものを感じた。
返答次第では殺される。そう思うほどの圧があった。
「働けるとこ探すよ」
「どうせまた辞めるだろ」
「ちゃんとやるよ」
「おいコラ!」
宮田は木製のローテーブルを蹴飛ばした。
脛にぶつかり、樹は顔を歪める。
「野良犬に餌やってるわけじゃねえんだよ。借りたら死に物狂いで返せ。行動が伴わない奴の言葉に信用なんて付かないんだよ。バイトもろくにできねえクズなら体捌いてでも金作れ。汗水垂らせないなら血を流せ。もう選ぶっていう段階じゃねえぞ。テメエみたいなクソの体でも欲しがる奴はいるんだよ」
「好きにしろよ。どうせ社会から弾かれたクズだ。これ以上生きてても、ろくな人生は歩めない。いっそのこと殺してくれ。そうすれば迷うこともなくなる。こんな腐った世の中で真面目に生きようとした俺が馬鹿だった」
考えることも悩むこともしたくなかった。ただ無になりたい。それだけが頭の中を埋め尽くしていた。
人は未来を描けているときは生きる希望を見出せるが、描き方が分からなくなると死んでもいいと筆を折ってしまう。
苦しむことから解放されたいし、楽にしてほしい。
すべてを投げたせたらそれは叶う。
今の樹に人生という道はなかった。
崖の淵に立ち、漠然と闇の底を見下ろしているような状態だ。
片足はすでに踏み出し、あと一歩で命を捨てられるところまできている。
「だったら、頭から足先まで無駄なく使ってやるよ。お前みたいなクズでもカラスの餌くらいにはなるだろ」
宮田は樹の胸ぐらを掴み、立ち上がらせた。
「その腐った命を捌いてやるから付いてこい。無様な死に方をすると思うが、花くらいは手向けてやるよ」
宮田は樹の服を引っ張って事務所の扉へと向かった。
樹は無気力なまま、後を付いていく。
「待て」
竜一の声に宮田は足を止め、振り返る。
「鉄也、こいつ俺に預けろ」
「竜一さんとこで面倒見るってことですか? こんなクズ変われませんよ」
「変われるかどうかは他人が決めることじゃない。こいつ自身が決めることだ」
――変われない
樹は心の中でそう呟いた。
変わろうと思ったが、社会の中に自分の居場所なんてなかった。
最下層の人間に足の踏み場は用意されていない。
普通の人間のように生きるにはもう遅かった。
あとは人生という道から、飛び降りることしかできない。
「なあ」
竜一は樹の前に立つと、真剣な眼差しを送ってきた。
心の奥底に刺すような視線に、自然と耳を傾ける。
「世の中がお前を弾いてるんじゃない。一部の偏見を持った人間が弾こうとしてくるだけだ。お前が見てるのは世界のほんの一部に過ぎない。それなのに社会がどうこう言ってたら、世間もお前のことを拒むようになる。普通の人間と比べれば足の踏み場は少ないかもしれない。でもな、進むための道は自分でも作れる。まずはもう一度向き合ってみろ。人がやり直すには、まずは考え方からだ」
自分に居場所があるとは思えなかった。
どこに行ったって弾かれるだけ。
世間の人間は、底辺の住人が自分たちと同じ道を歩むのを拒んでくる。
樹はそう考えていたが、竜一の言葉に心が揺れた。
まだどこかで期待しているのかもしれない。
人生をやり直せるかもと。
「希望なんてどこにもないだろ。これ以上期待させないでくれよ。死ぬなら今が一番いい。中途半端な光が見えると覚悟が持てなくなる」
もう絶望には触れたくない。
そんな想いが、微かな期待を摘み取るように負の言葉を選んだ。
希望を持ったぶんだけ辛くなるだけだ。
人は幸福を知らなければ、不幸と感じることもない。
光があるから影があるように。
「人は揺れながら生きてる。いっときの傾きですべてを決めようとするな。0か100でしか考えられなくなれば、好転させる難易度が高くなっていく。負の感情の方が引っ張る力が強いからだ。希望がないのではなく、今は見えてないだけ。道から逸れても道はあるんだよ」
樹の心が再び揺れた。
竜一のことをよく知らないが、信じてみたいと思っている。
本心を言えば、人生をやり直したい。
枯れかけた希望の花弁を、まだポケットに忍ばせている。
きっとこれが最後のチャンスになるだろう。
だからこそ怖かった。
次に希望を見失えば、心に付く傷は尋常ではない痛みを伴う。
天秤に乗せる生と死は、心臓の鼓動を早めるように大きく揺れていた。
「お前の人生だ。どちらか選べ。無様に摘まれるか、自分の手で咲かせるか」
「俺は……」