目を覚ますと、土管の外には太陽の光が差していた。
それを見て、現実世界に戻ってきたことを知る。
負の感情が瞬く間に胸の中に広がり、ため息へと変換された。
花は日光を浴び育っていくが、人は逆に萎れていく。
一日の始まりほど、憂鬱さを感じる瞬間はない。
それは今の状況だからかもしれないが。
樹は外に出て、背筋を伸ばした。コンクリートで寝てたため、節々に痛みを感じる。
近くのベンチに腰を下ろした後、ポケットからタバコを取り出した。
最後の一本は折れており、中の葉がパラパラと地面に落ちていく。
寝ているときに潰してしまったのだろう。
神様は数少ない至福すらクズには与えないらしい。
ベンチの下を見ると吸い殻が落ちていた。
まだ半分くらいのところで消されており、足跡のようなものが付いている。
吸ってる途中で用事か何かができ、捨てていったのかもしれない。
樹は吸い殻を手に取って眺めた。
金がないとはいえ、シケモクは吸ったことがない。
そもそも吸おうと思ったこともなかった。
心の底でプライドがあったのかもしれない。
底辺にいるとはいえ、そこまでは落ちぶれていないと。
でも今は、そんなプライドさえもなかった。
すべてがどうでもいいと感じてる今は、抵抗感も出てこない。
樹は吸い殻に火を付けた。
落ちるところまで落ちたなと思いつつも、肺に流し込まれる化学物質に満足感さえある。
好きな人と結ばれること。
思い描いていた夢を掴むこと。
タワマンの最上階から夜景を眺めること。
金もかけずにタバコを吸うこと。
幸せの価値は人それぞれ違う。
公園に捨てられたゴミに三つ星を付ける人間だっている。
下にいけばいくほど、普通の人間には理解されない。
世の中のすべての人間が最下層に落ちれば、この行為も普通になるのだろうか。
ふとそんなことすら頭をよぎる。
顔を上げ白煙を吐くと、青に染まる空が視界を染めた。
雲代わりの副流煙が、風に流されて消えてゆく。
夜を飲み込んだ青に嫌悪感を抱いていた。明日を引き連れ、未来への針を動かす空に。
このまま時間が止まり、何も考えずにボーッとしていたい。
そんな願いは、熱を帯びたフィルターによって掻き消された。
吸えるギリギリまで葉を燃やし尽くし、長く連なった灰は足元へと落ちていく。
靴底で灰を踏み潰すと、樹はベンチから立ち上がった。
家に帰る気も起きなかったので、とりあえず街を散策することにした。
二十分ほど歩くと、繁華街に辿り着く。
まだ七時前の欲望の街には、夜明け前の残骸が散見する。
飲み潰れて路上に寝ている若者。
酔っ払いながら壁に立ちションベンをする中年男性。
嘔吐物を啄むカラスの群れ。
普通の人間ならこの汚れた景色を厭うのだろうが、樹は安心感を抱いた。
ここならゴミが落ちてようが誰も気にしない。むしろ馴染んでいる。
普通から逸れていようとも、ここではそれがまともなのかもしれない。
そう思わせるような景色が広がっていた。
「おい」
声をかけられ振り向くと、三人の男が立っていた。
腕には刺青が彫られている。
「やっと見つけたぞ。俺たちのこと忘れてねえよな」
初めはなんのことだが分からなかった。
記憶を辿って男たちの顔を照合すると、以前飲み屋通りで喧嘩したことを思い出した。
「人違いだろ」
面倒だったので知らないフリをした。
樹は背中を向け、その場から立ち去ろうとする。
「今日で諦めようよと思ってたけど、やっと会えたんだ。逃すわけねえだろ」
男たちは樹を取り囲んだ。
鼻息の荒い表情からは怒りが滲んでいる。
「前回は加減してやったけど、今日はできねえぞ。殺されたくなかったら道開けろ」
樹は睨みを効かせたが、三人の顔に怯えがなかった。
男たちは触れることもできず樹に完敗を喫した。人数はそちらの方が多いとはいえ、力の差は本人たちが一番理解できてるはずだ。
怒りがあるとはいえ、少しくらいひよってもいいはず。
逃げ出した奴は余裕のある笑みさえ浮かべている。
「たくちゃーん、もしかしてそいつ」
声のする方に視線を移すと、五人の男がこちらに歩いてきた。
「あいつら全員格闘技習ってんだよ。やられたって言ったら、代わりに殺してくれるってさ」
「クソだな、お前ら」
「勝てばいいんだよ」
クズだ。
自分の力では勝てないから、他人の力で借りを返す。
一人では何もできない馬鹿の群れ。
こんなしょうもない人間としか関われない人生に、樹は辟易した。
強引に逃げようと思ったが、すでに五人の男たちが周りを囲んでいた。
その中の一人が樹の前に立つ。
「友達が世話になったね。少しばかり喧嘩が強いらしいけど、それは素人の世界での話。上には上がいるってことを、今から痛みを交えて教えてあげる」
「いやー、マジでキャバって最高っすね」
「逃げられた奴が一番飲んでんじゃねえよ」
「すいません」
竜一は宮田と後藤と共にキャバクラへと足を運んでいた。
今は店を後にし、繁華街を歩いている。
本来ならコテージに戻っていたが、樹から連絡が来る可能性もあるので一日だけ東京に滞在することにした。
その間、旧友に連絡し、東京の一夜を思い出で咲かせることにした。
飯を食べるだけだったのだが、後藤が合流するとキャバクラに行きたいと言い出し、そのまま流れで来ることになった。
「竜一さんも飲めばよかったのに」
「俺は車だからいいよ」
「そんなの関係ないっすよ。見つからなければ大丈夫っしょ」
後藤は酔っ払ってるからか、ずっとテンションが高い。
今日初めて後藤と会ったが、初対面ということを忘れてしまうほど、人懐っこい性格だった。
昨夜、債務者に逃げられたらしく、そのことを宮田から厳しく咎められ落ち込んでいたが、今はもう気にしていなさそうだ。
「後藤、口の聞き方に気をつけろ。俺が世話になった先輩だぞ」
「すんません」
後藤は上がった口角をへの字に曲げ、頭を下げた。
この数時間で何度も見た顔だ。
「竜一さんて人助けをしてるんすよね? それなのに俺らみたいな人間とつるんでていいんすか?」
「別に正義の味方をしてるわけじゃねえよ。道から逸れた奴が、これ以上迷わないように手を添えてるだけだ。底辺で生きてたからこそできることがある。今はそれを全うしてるだけだ」
「なんかかっこいいっすね。俺も全力で債務者から回収できるように頑張ります」
この世界に極端な善人と悪人は少ない。
人は善悪を天秤に乗せながら生きているからだ。
後藤の頑張りは世間から厭われる行いでも、今いる環境では賞賛に値することなのだろう。
どの境界線の中にいるかで思考は変わってゆく。
もし後藤が違う場所に身を置いていたら、同じ頑張りでも方向性は変わっていただろう。
環境という柵とその中にいる周りの人間。これらが自分という存在を作り出す。
そして奥に行けば行くほど固定概念に縛られ、思考が偏り狭くなりやすい。
だからこそ外からの視点を持つことが大事だ。
竜一はコテージのオーナーである土屋から言われたことを、後藤を見て思い出していた。
「昨日逃した奴、今日は必ず捕まえますよ」
「捕まえるだけじゃダメなんだよ。回収できなきゃ意味ねえんだから」
「今日はいつもと違います。なんか回収できるような気がします」
「ような、じゃダメなんだよ、バカ」
宮田が後藤の頭を叩くと、口をへの字にして「すいません」と謝罪した。
「たくちゃん、あんなのに負けたの? 大したことなかったじゃん」
「あんときは酔っ払ってたからな」
雑居ビルの間にある路地裏から数人の男たちが出てきた。
先頭を歩く男の拳には血が付いている。
「ごめんね、みんな。俺一人で終わらせちゃって」
男たちが竜一たちとすれ違い、そのまま駅方面へと歩いていった。
「喧嘩っすかね」
竜一は立ち止まり、男たちの背中を見た。
「知り合いですか?」
「いや、違う」
少しだけ気になった。
男たちではなく、やられたであろう相手の方が。
樹は壁にもたれながら、ビルの隙間に映る澄んだ空を眺めていた。
痣だらけの顔、血の付いたシワだらけのTシャツ、ゴミが散乱した路地裏。
瞳に映る青は、劣等感を煽るほど綺麗だった。
自分の愚かさと醜さを装飾しているようで嫌悪すら抱く。
この一ヶ月の出来事が走馬灯のように流れた。
希望と絶望を行き来した哀れな物語。
社会のクズが描いた、オチすらないクソな物語。
まったくもって面白くもないし、笑いにすら変えられないほど悲惨だった。
唯一の取り柄だった喧嘩の強さも、まったく歯が立たなかった。
八人に囲まれたが、相手は一人だけだ。
完膚なきまでまでに、ただひたすらに殴られた。
左の目はたぶん腫れているのだろう、視界が狭い。
口の中では鉄のような味が広がっていた。唾を吐くと赤く染まっており、口内の奥に痛みが走る。
自分には何も残っていない。
喧嘩の強さなど社会に必要はないが、自分のアイデンティティにはなっていた。
普通の人間と比較すれば自分という存在が見窄らしくなるが、優っている部分を引き合いに出し、精神が崩れないようバランスを保っていた。それが喧嘩だ。
世間一般からすればくだらないと思うかもしれないが、樹にとっては必要なことだった。
だがそれは狭い世界でしか通用しないこと。
底辺で負けないにしても、その上には自分よりも優れた人間がいる。
それを思い出した。
プロ野球選手という夢を抱いたが、実力でねじ伏せられて現実を見せられたあの日。
大人になった今も、同じように踏み潰された。
心のどこかでは自分ならできると思っていたのかもしれない。
だから再度、人生をやり直そうと考えた。
中途半端に野球が上手いから、中途半端に喧嘩ができるから、中途半端に仕事をこなせるから、淡い期待を自分に課してしまう。
取り柄のない人間は、相応に生きなければならない。
でなきゃ、ただ心を折るだけだ。
咲けない花では季節を灯せない。
美しく散るには、美しく咲かなければならない。
花弁のない花では散ることすらできない。
クズは枯れることすらできない。
春も、夏も、秋も、冬も、一年中影の中で埋もれている。
もし命を絶ったとしても、ゴミが燃やされるだけ。
でもそれでいいのかもしれない。
ここでピリオドを打つのが、もっともクズらしい死に様だ。
樹は目を閉じた。
この世界にあるものを視界に入れたくなかったから。
そして、どう命を捨てるかを頭の中で巡らせた。
「よう、昨日ぶり」
目を開けると、竜一の姿が映った。
なぜか分からないが、笑みを浮かべている。
「派手にやられたな。ひでえ顔だぞ」
「うるせえ」
「まだ生意気な口が聞けるなら、大丈夫そうだな」
「なんでここに……」
樹が質問をしようとすると、竜一の後ろから二人の男が歩いてきた。
「あー!」
柄シャツを着た男が樹の顔を見るなり、大声を上げた。
視点を合わせると後藤だった。隣にいるのは宮田だ。
「知り合い?」
竜一が聞くと、宮田は樹を見下ろして口を開いた。
「うちの顧客です」