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十二話 分岐点

ー/ー



「ああ、今日はこっちに泊まる。蘭のこと宜しくな。あとお土産も買ったから……」

 樹は竜一と共に公園へと来ていた。二人は街灯下のベンチに腰掛けている。
 竜一は誰かと電話しており、その間、樹は星屑が散らばる夜空をただ眺めていた。
 井口からクビを告げられ、社会的な肩書きを失ってしまった。
 もう手は出さないと決意したが、いつもと同じ道を辿る。
 人は変われない。
 変わろうとしても他者に阻まれれば、簡単に意思は曲げられてしまう。
 社会の底辺にいれば、井口のような人間のもとでしか働くことができない。
 最下層で日の目を見れないまま、一生影の中を彷徨うのだろうと樹は思った。
 生きることに意味なんてない。
 真面目な奴ほど損をする。
 人を虐げられる奴がこの世界では上に登っていける。
 腐った社会の構造に辟易とする。
 もう変わろうなんて思わない。
 夢を持とうとするから馬鹿を見るのだ。
 だったら初めから希望は持たず、絶望の淵を歩いているほうがいい。
 落ちるところまで落ちれば、それ以下はないのだから。

「生きてりゃ、糞を踏むこともある。誰にでもな」

 竜一は電話を切った後、そう言った。
 糞とは井口のことだろうか。だとしたら秀逸な例えだ。

「俺の人生は糞ばかりで足の踏み場もない。真面目に生きることすらできない場所にいるから。一度落ちた人間は、まともな道には一生戻れない。希望を持とうとした俺が馬鹿だった」

「どう生きるにしても線の引き方は間違えるな。この世界には悪人もたくさんいるが、善人だってそれなりにいる。手を差し伸べてくれる人間すらも、悪人と同じ線の中に入れてしまえば、善人からも見放されて世の中を恨んでしまう。人は底辺に落ちそうなときほど主語が大きくなっていく生き物だ。大きな円だけで世界を見てたら、目の前の光すら気づけなくなる」

 過去を振り返ると、思い出されるのは醜悪な人間ばかりだった。
 中学時代のことが足枷となり、思考を負の道へと導かれていたのかもしれない。
 だけど忘れることができなかった。
 今も感情は冷めないまま、当時と同じ温度で保存されている。

「分かってるけど、俺にはそんな生き方はできない。期待してもろくなことなんてないから」

「なあ、大地はお前から見てどうだった?」

「優しい人……だと思う」

 原西とは数時間しか接していないが、居所になっていた。
 もしいなかったら、もっと早くに手を出していただろう。
 井口の下劣さも相まって、一緒にいることに心地良さを感じていた。

「あいつも色んなものを抱えて今を生きてる。誰かから見たら善人でも、他の人間からしたら悪人になる。それは俺もそうだし、大地も一緒だ。生きてれば誰かを傷つけることがあるだろ? そのときに過ちを背負える人間もいれば、言い訳して他責に走ったり、傷つけたことすら気づけない奴もいる。大地は前者だ。付けてしまった傷を背負ったうえで、どう生きるかを模索してる。それが優しさに繋がってるんだ。生き方は変えられる。そのためには自分のバックボーンをどう活かすかを考える必要がある。悪人ばかりと嘆くままか、その悪人から見えてくるものをどう自分に付与させられるか。今は分岐点だよ」

 自分のバックボーンを辿って、得られるものなどあるのだろうか。
 樹は考えたが、何一つ思いつかなかった。
 ただ無駄な時間を過ごしただけ。
 空っぽのバックボーンに虚しさを覚えた。

「生まれてきたことに意味ってあるのかな。もしあるなら、どう見つけたらいい?」

 なんでこんなことを聞いたのかが、樹にも分からなかった。
 生きることを諦めてはいるが、心のどこかでは希望を捨てきれていないのかもしれない。
 もしくは救ってほしいと思っている。
 目の前の見ず知らずの人間に光を求め、導いてくれるかもという期待を抱く。
 馬鹿らしいと思いつつも、樹は竜一の言葉を待っていた。

「生まれてきたことに意味なんてない。生きる意味は自分で作るもんだ」

「俺は……」

 その言葉を聞いて、樹は自然と過去を話していた。
 一人ではこの世界を歩いていけない。
 だから共に考えてほしいと思った。
 そんな想いから、初めて会った人間に自分の辿ってきた道を打ち明けた。
 プロ野球選手を目指していたが、周りに馬鹿にされ笑われたこと。
 見下されると、すぐに手を出してしまうこと。
 金山との出会い。そして人生をやり直そうとしたこと。
 竜一は何も言わずに、樹の話を聞いていた。
 合いの手も茶々も入れず、真剣な面持ちで耳を傾けてくれていたことが嬉しかった。
 世界から逸れ、道すらない場所に放り投げ出されていたと思っていたから。
 樹は淀みなく口を動かした。
 時に感情が言葉に滲むこともあったが、なるべく客観的に話した。
 自分を理解してほしいわけではなく、生きる意味に繋がるものを探してほしかった。
 本当は怖かったのだと思う。
 このまま最下層で生きることが。
 でも進もうとすれば心が折れる。
 折れないためには諦めればいい。
 根本では分かっていたが、分からないフリをしていた。
 そっちの方が、痛みを伴わないから。
 樹は自分の過去を辿りながら、胸臆にある本心と再度向き合おうとしていた。

「中学時代が枷になってるな」

 樹が話し終えると、竜一はそう言った。

「過去の経験から舐められたくないって気持ちが強くなった。殴った後に相手がなにも言わなくなったのもあって、力で解決する手段を自然と取るようになったってとこか」

 竜一の言う通りだった。
 他にも選択肢はあるはずなのに、考えることなく手が出てしまう。
 殴るという行為も自分の中で正当化していたような気もする。
 樹は過去を振り返ってそう思った。

「まあ話を聞く限り、殴られても仕方ない人間ではあるな。そこは否定しない。でも力の使い方は間違えるな。振るった拳はいずれ自分のもとに返ってくる。俺も昔は力ですべてを解決しようとしてた。当時は喧嘩ばっかりしててな。負けたこともほとんどなかったから、自分が一番偉いと勘違いしてた。だけど相手が人数揃えて来たとき、何もできずに叩きのめされた。そんときに気づいたんだよ。力だけではダメだって。ずっと力に頼ってきた分、負けたときに何も残ってなかった。今まで無駄な時間を過ごしてきたんだなって思ったら、情けなくなってきてよ。それから生き方の方向性を変えた」

 竜一は財布から名刺を出すと、樹に手渡した。
 そこには『コテージ・時の花』と書かれており、裏面には電話番号と住所が記載されていた。

「俺はコテージの管理者をやってる。もし人生をやり直したいならそこに来い。道を踏み外した奴、弾かれた奴、自ら逸れた奴、色んな人間が集まってくる。他人の人生に触れることで、自分の生き方も見えてくるもんだ」

 原西は竜一を恩人と言っていた。
 このコテージで人生を変えたのだろうか。
 でもそんな簡単に人は変われない。
 樹は懐疑的な目で名刺を見ていた。

「得られることがない場所なら、たった一日しか働いてなくても辞めたらいい。でも何かを得るためには学ぶ能力が必要となる。それがなければどこへ行っても一緒だ。クソみたいな人間を見て『クソだな』で終わるなら、それは無駄な経験でしかない。だけど反面教師にして学べることだってある。前に進むためには思考の方向性を自分の力で導くこと。色んな人間のバックボーンを知れば、考え方に幅が出る」

 金山のバックボーンを知って、変わろうと思った。
 竜一が言ってることはそういうことだろうか。
 今まで自分の視点でしか人生を見てこなかったため、考え方の幅は普通の人間より狭いかもしれない。
 だから力で解決するという方法しか選択できなかったのかもと、樹は思った。

「ずっと力に頼ってきたのに、なんでこの仕事をしようと思ったの? 罪悪感から?」

 竜一に自分を重ねていた。
 だからこそ、変化の過程を知りたかった。
 そこに生き方のヒントがあるような気がしたから。

「摘み取るような生き方じゃなく、誰かの人生を咲かせられるような生き方をしようと思っただけだ……ってのは建前で、コテージのオーナーに誘われたんだ。お前は道から逸れた生き方をしてるから、人の気持ちを理解できるって。そんときは何を言ってるのか分からなかったけど、今なら理解できる。正規ルートで生きてきた人間だと、常識という“当たり前”で人を測ろうとしてしまう。だから道から逸れた人間を余計に苦しめてしまう可能性があるんだ。ここに来る奴は、その正規ルートを歩けなくなった人間ばかりだ。遠回りに意味を付けるなら、俺みたいなクズの方が向いてることもある」

 今の樹は目的もなく彷徨っているだけだ。
 具体的にどう生きたいかを考えてこなかった。
 とにかく底辺から抜け出して、普通の人を同じようになりたい。
 そんな曖昧なビジョンだった。
 他人のためなんて考えたことはないし、自分視点しか置いてない。
 だから竜一が羨ましかった。
 自分の生き方を持っているから。

「すぐに決めろとは言わない。もし来たいと思ったら連絡してくれ。どう変わるかは自分次第って部分もあるけど、変わりたいっていう意志があるなら来て損はない。自分と向き合う覚悟を持ってるなら、もう咲かせるための種が植えられてる。あとは、それをどう育てるかだ」

 その後、竜一の携帯番号を教えてもらった。
 まだ迷いはある。
 変えたいと思う自分はいるが、また期待して絶望に触れたくはない。
 ここで諦めてしまった方がきっと楽にはなれる。
 飛べる空を探しているが、飛ぶための翼を持っていない。
 だから余計に辛くなる。
 樹の心は揺れていた。
 置かれた場所で花も咲かせられずに一生を過ごすか。
 咲くことを諦めずに育てていくか。
 どちらを選んでも、自分を傷つけるだけのような気がした。


 竜一と別れ、樹は帰路に就いていた。
 貰った名刺を見ながら、寝静まった住宅街を歩いている。
――人生の分岐点
 竜一はそう言っていた。
 社会の底辺に別れ道などあるのだろうか?
 ゴミが散乱する汚れた場所には、そもそも足の踏み場すらない。
 進もうとしても、一度落ちたら這い上がれないほどの壁もある。
 世間は最下層の住人を、人とも思っていないのかもしれない。
 樹は希望を踏み躙られたことで、思考が悲観的になっていた。
 期待を抱いているときはいい。
 だが、報われないと知ったときの絶望は容赦なく心を蝕んでいく。
 傷つかないための防衛本能が、前に進むための意志を持たせないようにしていた。
 アパートに着くと、部屋の扉の前に後藤が立っていた。
 借金取りの下っ端の方だ。
 後藤は樹に気づくと、ポケットに手を入れ、肩で風邪を切るようにこちらに向かってきた。

「おいクズ。仕事は決まったのか?」

 宮田に今日中に探せと言われていた。
 仕事を見つけることはできたが、クビなってしまった。
 もしそれを知られたら、どうなるかは分からない。
 そう考えた途端、樹の足は無意識に反対に向けられ、走り出していた。

「あっ、待てこの野郎」

 走りながら後ろを振り返ると、追いかけてくる後藤の姿が目に映った。
 樹は無我夢中で駆ける。
 星空が見守る住宅街には、二つの足音と後藤の声が響く。
「クソ」「ゴミ」「バカ」「アホ」「クズ」
 背中には罵声が幾度となく投げられた。
 逃げているということもあるが、汚れた言葉に感情や痛みは伴わなかった。
 希望を持とうとするから、人は絶望を知ってしまう
 空を見ようとするから、人は落ち込んでしまう。
 自分に期待せず、社会の底辺だと受け止めることができれば、何を言われても傷すら付くことはない。
 樹は必死に逃げながらも、そんなことを思っていた。
 自宅付近の大きな公園に駆け込むと、広場にある遊具が目に入った。
 その中にはカラフルな色で塗られた土管がいくつか並んでおり、大人でも入れるほどの大きさだった。
 後ろを見ると、声はするが後藤の姿は見えない。
 樹は土管に身を潜め、息を整えた。

「どこ行きやがった」

 後藤の声が土管付近で響く。
 樹は整えていた息を止め、物音ひとつ立てぬよう身を固めた。

「クソクズゴミ野郎、男だったら正々堂々と出てこい。ゴキブリみたいに逃げ回るんじゃねえ。テメェの……」

 後藤の声がだんだんと遠ざかっていく。
 止めていた息を大きく吐くと、体と心が一気に緩まっていった。
 底辺らしい無様さが、一周回って笑えてくる。
 前に進めばクズに阻まれ、立ち止まっていたら別のクズに追い回される。
 最下層の人間に選択肢などない。
 今日一日で、人生というものを知ったような気がした。
 もう、まともな生き方を望むのは辞めよう。 
 迷うことすら意味などない。
 借金を返すこともやめ、どこか遠くへ逃げてしまいたい。
 自分のことを知っている人間がいない場所。
 誰にも干渉されず、孤独で生きていける場所。
 そんなところに行きたかった。
 もうクズでもいい。
 クズはクズらしく、クズ相応な生き方をすればいい。
 疎まれようが、世間から後ろ指をさされようが、笑われて罵られようが、そんなの知ったこっちゃない。
 樹はすべてのことがどうでもよくなっていた。
 人は行き先を見失うと、自ら影に足を踏み入れる。
 向き合うことすら億劫になり、光などないと目を瞑ってしまう。
 もう何も考えたくなかった。思考を巡らせることすら疲れてしまった。
 眠りたい。できればそのまま目を開けることなく、暗闇の中で永遠を過ごしたい。
 樹は瞼を閉じ、視界を遮断した。
 このときだけは社会から解放される。
 意識を断ち、夢という幻想を頭の中に描き、痛みすら忘れさせてくれる自分だけの世界。
 夜に紛れた一匹の野良犬は、逃避するように現実を後にした。


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「ああ、今日はこっちに泊まる。蘭のこと宜しくな。あとお土産も買ったから……」
 樹は竜一と共に公園へと来ていた。二人は街灯下のベンチに腰掛けている。
 竜一は誰かと電話しており、その間、樹は星屑が散らばる夜空をただ眺めていた。
 井口からクビを告げられ、社会的な肩書きを失ってしまった。
 もう手は出さないと決意したが、いつもと同じ道を辿る。
 人は変われない。
 変わろうとしても他者に阻まれれば、簡単に意思は曲げられてしまう。
 社会の底辺にいれば、井口のような人間のもとでしか働くことができない。
 最下層で日の目を見れないまま、一生影の中を彷徨うのだろうと樹は思った。
 生きることに意味なんてない。
 真面目な奴ほど損をする。
 人を虐げられる奴がこの世界では上に登っていける。
 腐った社会の構造に辟易とする。
 もう変わろうなんて思わない。
 夢を持とうとするから馬鹿を見るのだ。
 だったら初めから希望は持たず、絶望の淵を歩いているほうがいい。
 落ちるところまで落ちれば、それ以下はないのだから。
「生きてりゃ、糞を踏むこともある。誰にでもな」
 竜一は電話を切った後、そう言った。
 糞とは井口のことだろうか。だとしたら秀逸な例えだ。
「俺の人生は糞ばかりで足の踏み場もない。真面目に生きることすらできない場所にいるから。一度落ちた人間は、まともな道には一生戻れない。希望を持とうとした俺が馬鹿だった」
「どう生きるにしても線の引き方は間違えるな。この世界には悪人もたくさんいるが、善人だってそれなりにいる。手を差し伸べてくれる人間すらも、悪人と同じ線の中に入れてしまえば、善人からも見放されて世の中を恨んでしまう。人は底辺に落ちそうなときほど主語が大きくなっていく生き物だ。大きな円だけで世界を見てたら、目の前の光すら気づけなくなる」
 過去を振り返ると、思い出されるのは醜悪な人間ばかりだった。
 中学時代のことが足枷となり、思考を負の道へと導かれていたのかもしれない。
 だけど忘れることができなかった。
 今も感情は冷めないまま、当時と同じ温度で保存されている。
「分かってるけど、俺にはそんな生き方はできない。期待してもろくなことなんてないから」
「なあ、大地はお前から見てどうだった?」
「優しい人……だと思う」
 原西とは数時間しか接していないが、居所になっていた。
 もしいなかったら、もっと早くに手を出していただろう。
 井口の下劣さも相まって、一緒にいることに心地良さを感じていた。
「あいつも色んなものを抱えて今を生きてる。誰かから見たら善人でも、他の人間からしたら悪人になる。それは俺もそうだし、大地も一緒だ。生きてれば誰かを傷つけることがあるだろ? そのときに過ちを背負える人間もいれば、言い訳して他責に走ったり、傷つけたことすら気づけない奴もいる。大地は前者だ。付けてしまった傷を背負ったうえで、どう生きるかを模索してる。それが優しさに繋がってるんだ。生き方は変えられる。そのためには自分のバックボーンをどう活かすかを考える必要がある。悪人ばかりと嘆くままか、その悪人から見えてくるものをどう自分に付与させられるか。今は分岐点だよ」
 自分のバックボーンを辿って、得られるものなどあるのだろうか。
 樹は考えたが、何一つ思いつかなかった。
 ただ無駄な時間を過ごしただけ。
 空っぽのバックボーンに虚しさを覚えた。
「生まれてきたことに意味ってあるのかな。もしあるなら、どう見つけたらいい?」
 なんでこんなことを聞いたのかが、樹にも分からなかった。
 生きることを諦めてはいるが、心のどこかでは希望を捨てきれていないのかもしれない。
 もしくは救ってほしいと思っている。
 目の前の見ず知らずの人間に光を求め、導いてくれるかもという期待を抱く。
 馬鹿らしいと思いつつも、樹は竜一の言葉を待っていた。
「生まれてきたことに意味なんてない。生きる意味は自分で作るもんだ」
「俺は……」
 その言葉を聞いて、樹は自然と過去を話していた。
 一人ではこの世界を歩いていけない。
 だから共に考えてほしいと思った。
 そんな想いから、初めて会った人間に自分の辿ってきた道を打ち明けた。
 プロ野球選手を目指していたが、周りに馬鹿にされ笑われたこと。
 見下されると、すぐに手を出してしまうこと。
 金山との出会い。そして人生をやり直そうとしたこと。
 竜一は何も言わずに、樹の話を聞いていた。
 合いの手も茶々も入れず、真剣な面持ちで耳を傾けてくれていたことが嬉しかった。
 世界から逸れ、道すらない場所に放り投げ出されていたと思っていたから。
 樹は淀みなく口を動かした。
 時に感情が言葉に滲むこともあったが、なるべく客観的に話した。
 自分を理解してほしいわけではなく、生きる意味に繋がるものを探してほしかった。
 本当は怖かったのだと思う。
 このまま最下層で生きることが。
 でも進もうとすれば心が折れる。
 折れないためには諦めればいい。
 根本では分かっていたが、分からないフリをしていた。
 そっちの方が、痛みを伴わないから。
 樹は自分の過去を辿りながら、胸臆にある本心と再度向き合おうとしていた。
「中学時代が枷になってるな」
 樹が話し終えると、竜一はそう言った。
「過去の経験から舐められたくないって気持ちが強くなった。殴った後に相手がなにも言わなくなったのもあって、力で解決する手段を自然と取るようになったってとこか」
 竜一の言う通りだった。
 他にも選択肢はあるはずなのに、考えることなく手が出てしまう。
 殴るという行為も自分の中で正当化していたような気もする。
 樹は過去を振り返ってそう思った。
「まあ話を聞く限り、殴られても仕方ない人間ではあるな。そこは否定しない。でも力の使い方は間違えるな。振るった拳はいずれ自分のもとに返ってくる。俺も昔は力ですべてを解決しようとしてた。当時は喧嘩ばっかりしててな。負けたこともほとんどなかったから、自分が一番偉いと勘違いしてた。だけど相手が人数揃えて来たとき、何もできずに叩きのめされた。そんときに気づいたんだよ。力だけではダメだって。ずっと力に頼ってきた分、負けたときに何も残ってなかった。今まで無駄な時間を過ごしてきたんだなって思ったら、情けなくなってきてよ。それから生き方の方向性を変えた」
 竜一は財布から名刺を出すと、樹に手渡した。
 そこには『コテージ・時の花』と書かれており、裏面には電話番号と住所が記載されていた。
「俺はコテージの管理者をやってる。もし人生をやり直したいならそこに来い。道を踏み外した奴、弾かれた奴、自ら逸れた奴、色んな人間が集まってくる。他人の人生に触れることで、自分の生き方も見えてくるもんだ」
 原西は竜一を恩人と言っていた。
 このコテージで人生を変えたのだろうか。
 でもそんな簡単に人は変われない。
 樹は懐疑的な目で名刺を見ていた。
「得られることがない場所なら、たった一日しか働いてなくても辞めたらいい。でも何かを得るためには学ぶ能力が必要となる。それがなければどこへ行っても一緒だ。クソみたいな人間を見て『クソだな』で終わるなら、それは無駄な経験でしかない。だけど反面教師にして学べることだってある。前に進むためには思考の方向性を自分の力で導くこと。色んな人間のバックボーンを知れば、考え方に幅が出る」
 金山のバックボーンを知って、変わろうと思った。
 竜一が言ってることはそういうことだろうか。
 今まで自分の視点でしか人生を見てこなかったため、考え方の幅は普通の人間より狭いかもしれない。
 だから力で解決するという方法しか選択できなかったのかもと、樹は思った。
「ずっと力に頼ってきたのに、なんでこの仕事をしようと思ったの? 罪悪感から?」
 竜一に自分を重ねていた。
 だからこそ、変化の過程を知りたかった。
 そこに生き方のヒントがあるような気がしたから。
「摘み取るような生き方じゃなく、誰かの人生を咲かせられるような生き方をしようと思っただけだ……ってのは建前で、コテージのオーナーに誘われたんだ。お前は道から逸れた生き方をしてるから、人の気持ちを理解できるって。そんときは何を言ってるのか分からなかったけど、今なら理解できる。正規ルートで生きてきた人間だと、常識という“当たり前”で人を測ろうとしてしまう。だから道から逸れた人間を余計に苦しめてしまう可能性があるんだ。ここに来る奴は、その正規ルートを歩けなくなった人間ばかりだ。遠回りに意味を付けるなら、俺みたいなクズの方が向いてることもある」
 今の樹は目的もなく彷徨っているだけだ。
 具体的にどう生きたいかを考えてこなかった。
 とにかく底辺から抜け出して、普通の人を同じようになりたい。
 そんな曖昧なビジョンだった。
 他人のためなんて考えたことはないし、自分視点しか置いてない。
 だから竜一が羨ましかった。
 自分の生き方を持っているから。
「すぐに決めろとは言わない。もし来たいと思ったら連絡してくれ。どう変わるかは自分次第って部分もあるけど、変わりたいっていう意志があるなら来て損はない。自分と向き合う覚悟を持ってるなら、もう咲かせるための種が植えられてる。あとは、それをどう育てるかだ」
 その後、竜一の携帯番号を教えてもらった。
 まだ迷いはある。
 変えたいと思う自分はいるが、また期待して絶望に触れたくはない。
 ここで諦めてしまった方がきっと楽にはなれる。
 飛べる空を探しているが、飛ぶための翼を持っていない。
 だから余計に辛くなる。
 樹の心は揺れていた。
 置かれた場所で花も咲かせられずに一生を過ごすか。
 咲くことを諦めずに育てていくか。
 どちらを選んでも、自分を傷つけるだけのような気がした。
 竜一と別れ、樹は帰路に就いていた。
 貰った名刺を見ながら、寝静まった住宅街を歩いている。
――人生の分岐点
 竜一はそう言っていた。
 社会の底辺に別れ道などあるのだろうか?
 ゴミが散乱する汚れた場所には、そもそも足の踏み場すらない。
 進もうとしても、一度落ちたら這い上がれないほどの壁もある。
 世間は最下層の住人を、人とも思っていないのかもしれない。
 樹は希望を踏み躙られたことで、思考が悲観的になっていた。
 期待を抱いているときはいい。
 だが、報われないと知ったときの絶望は容赦なく心を蝕んでいく。
 傷つかないための防衛本能が、前に進むための意志を持たせないようにしていた。
 アパートに着くと、部屋の扉の前に後藤が立っていた。
 借金取りの下っ端の方だ。
 後藤は樹に気づくと、ポケットに手を入れ、肩で風邪を切るようにこちらに向かってきた。
「おいクズ。仕事は決まったのか?」
 宮田に今日中に探せと言われていた。
 仕事を見つけることはできたが、クビなってしまった。
 もしそれを知られたら、どうなるかは分からない。
 そう考えた途端、樹の足は無意識に反対に向けられ、走り出していた。
「あっ、待てこの野郎」
 走りながら後ろを振り返ると、追いかけてくる後藤の姿が目に映った。
 樹は無我夢中で駆ける。
 星空が見守る住宅街には、二つの足音と後藤の声が響く。
「クソ」「ゴミ」「バカ」「アホ」「クズ」
 背中には罵声が幾度となく投げられた。
 逃げているということもあるが、汚れた言葉に感情や痛みは伴わなかった。
 希望を持とうとするから、人は絶望を知ってしまう
 空を見ようとするから、人は落ち込んでしまう。
 自分に期待せず、社会の底辺だと受け止めることができれば、何を言われても傷すら付くことはない。
 樹は必死に逃げながらも、そんなことを思っていた。
 自宅付近の大きな公園に駆け込むと、広場にある遊具が目に入った。
 その中にはカラフルな色で塗られた土管がいくつか並んでおり、大人でも入れるほどの大きさだった。
 後ろを見ると、声はするが後藤の姿は見えない。
 樹は土管に身を潜め、息を整えた。
「どこ行きやがった」
 後藤の声が土管付近で響く。
 樹は整えていた息を止め、物音ひとつ立てぬよう身を固めた。
「クソクズゴミ野郎、男だったら正々堂々と出てこい。ゴキブリみたいに逃げ回るんじゃねえ。テメェの……」
 後藤の声がだんだんと遠ざかっていく。
 止めていた息を大きく吐くと、体と心が一気に緩まっていった。
 底辺らしい無様さが、一周回って笑えてくる。
 前に進めばクズに阻まれ、立ち止まっていたら別のクズに追い回される。
 最下層の人間に選択肢などない。
 今日一日で、人生というものを知ったような気がした。
 もう、まともな生き方を望むのは辞めよう。 
 迷うことすら意味などない。
 借金を返すこともやめ、どこか遠くへ逃げてしまいたい。
 自分のことを知っている人間がいない場所。
 誰にも干渉されず、孤独で生きていける場所。
 そんなところに行きたかった。
 もうクズでもいい。
 クズはクズらしく、クズ相応な生き方をすればいい。
 疎まれようが、世間から後ろ指をさされようが、笑われて罵られようが、そんなの知ったこっちゃない。
 樹はすべてのことがどうでもよくなっていた。
 人は行き先を見失うと、自ら影に足を踏み入れる。
 向き合うことすら億劫になり、光などないと目を瞑ってしまう。
 もう何も考えたくなかった。思考を巡らせることすら疲れてしまった。
 眠りたい。できればそのまま目を開けることなく、暗闇の中で永遠を過ごしたい。
 樹は瞼を閉じ、視界を遮断した。
 このときだけは社会から解放される。
 意識を断ち、夢という幻想を頭の中に描き、痛みすら忘れさせてくれる自分だけの世界。
 夜に紛れた一匹の野良犬は、逃避するように現実を後にした。