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十一話 三つ星のクズ

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 夜になると、飲み屋通りの店から明かりがつき始めた。
 昼間は廃れたような寂しさが漂っていたが、看板や提灯の光が雰囲気を醸し出し、風景をガラッと変えた。
 開店直後はまったくと言っていいほど客は入ってこなかったが、夕陽が眠りにつく頃には、店の半分ほどは埋まるようになった。
 樹は初めての接客業だったため、戸惑いと緊張が渦巻いていたが、卒なく仕事をこなしていた。
 まだ無愛想だが、客との最低限のやり取りはできる。
 飲み屋に来る人間は面倒な奴ばっかりだと思っていたが、案外普通だ。
 絡まれることもなかったし、無理な注文をしてくる客もおらず、ここまでは平穏が続いていた。
 ホールは樹と原西の二人で担当してる。
 最初は店長もいたが、落ち着いてくると厨房に入り、スマホを片手にタバコを吸い出した。
 なんでこんな人間が店長なのだろうか。
 まだ初日だが、何度も同じことを思った。
 社会不適合者である自分がそう思うくらいだから、普通の人間なら一層強く思うだろう。
 樹はそんなことを考えながら、できたての唐揚げを客席へと運んだ。

「いらっしゃいませ」

 客席に料理を運んだ後、男性二名が店へと入ってきた。
 原西が中央の席へと客を案内する。
 
「生ビール二つお願いします」
「かしこまりました」

 原西は注文を受けると、樹のもとへと来た。

「落ち着いてきたし、ビール作ってみようか」
「はい」

 厨房へと入り、ビールサーバーの前まで来る。

「じゃあジョッキ二つ出して」

 冷蔵庫から冷えたジョッキ取り出し、ステンレスの台に置いた。

「慣れたら二つ同時に作れるようになってほしいけど、今日は一つずつ作ろう」

「はい」

「先にやるから見てて」

 原西はジョッキを一つ取り、サーバーの注ぎ口まで持ってくる。

「ビールが出る部分をコックって言うんだけど、コックに対してグラスを斜めに傾ける。大体45度くらいかな。グラスとコックは離れないように注いでね。高さが出るとビール同士がぶつかって粗い泡ができちゃうから」

「はい」

「注ぐときはジョッキの内側に沿わせるように入れる」

 原西がレバーを奥に倒すと、コックからビールが注がれる。

「レバーを手前に引くと泡が出るから、角度を保ちながらギリギリまで入れる」

 七割くらい入ったところで、泡に切り替えた。
 ジョッキの淵を越え、泡が山なりになったところでレバーを戻すと、7:3の綺麗なビールが出来上がる。

「泡が溢れるくらいまで入れていいから。少ないと客席に持って行くまでに減っちゃうから。それと、ビールの中にコックを入れて泡を注ぐ人がいるんだけど、あれをすると鉄の臭いが付いたりするから絶対にしないでね」

「分かりました」

「じゃあ、次は根本くんがやってみて」

 樹が空のジョッキを手に取ると、奥でタバコを吸っていた井口がヤジを飛ばしてきた。

「中卒には難しいんじゃねーか。今の説明も半分くらい分かってねーだろ。なんせ昨日までニートだったもんな」

 人の心を引っ掻くような、ざらついた笑いが厨房に響く。
 キッチンの二人は表情を変えずに淡々と料理を作っていた。
 きっといつもと同じ光景なのだろう。反応すらしない無の表情が物語っている。
 樹は喉元にせり上がってくる苛立ちをグッと堪えた。
 ここでキレたりしたら、また振り出しに戻ってしまう。
 今はまだ認めてもらえてないから当たりが厳しいだけで、懸命に仕事をこなせばきっと罵倒はなくなる。
 樹はそう言い聞かして、怒りを飲み込んだ。

「根本くんは優秀ですよ。初日でこれだけできるなら、すぐに全部の仕事を覚えると思います。まだミスもしてないし」

 原西の言葉に、樹は感情をグッと堪えた。
 今度は怒りではなく、嬉しさの方だ。
 真面目に取り組んでいたからこそ、褒めてもらえたことが胸に沁みた。
 適当に業務をこなしていた以前の樹では、きっとただの言葉として受け取っていただろう。
 自分の変化に少しだけ希望が持てた。
 この先、何かを見つけられるのではと。

「初日にしてはな」

 井口は不快な表情を見せた。
 樹が褒められたことが不服だったのだろう。
 店長という立場だったら優秀な人材を喜ぶべきはずだが、井口は違うらしい。
 もしかしたら、いじめたくて樹を入れたのかもしれない。
 中卒ニートという、侮蔑するには最高の素材を手に入れたと思っている可能性もある。
 だが今の樹は、どう思われようが関係なかった。
 しっかりと仕事をこなし、懸命さで評価を変えようとしていたからだ。
 井口の侮辱混じりの言葉を流し、樹はジョッキにビールを注ぐ。

「うん、上手。一発目でこれだけ綺麗に入れられる人は中々いないよ」

 樹は綺麗な7:3のビールを作った。
 原西のものと比べても遜色ないほどだ。

「ありがとうご……」

「ダメだな。こんな汚ねえビールは客に出せない。早くやり直せ。このクソビールは俺が処理しとく」

 井口は樹の作ったビールを手に取り、自分の特等席まで持っていった。
 そして半分ほどを一気に飲み、「やっぱ中卒の作ったビールはまずいな。クソだよ、クソ」と聞こえるように吐き出してきた。

「気にしないで。十分上手かったから」

 原西の優しさを、樹は素直に受け取れなかった。
 押さえ込んでいた怒りが溢れ出し、他の感情の踏み場を無くしていたから。

「俺が作るから、できたらお客さんのところに持っていってくれる?」

「はい……」

 二十一時を過ぎた頃には、客は一組だけになっていた。
 樹は手持ち無沙汰になり、店の隅でハンディに表示されるメニューの位置を再確認していた。

「暇だね」

 原西が厨房からやってきて、店内を見渡した。

「知り合いの人来ないっすね」

「仮眠しようとしたら、がっつり寝ちゃってたらしい。もうすぐ着くって、さっき連絡きた」

「そうっすか」

 井口の暴言で怒りが沸点に達しようとしていたが、原西の存在が感情を調和させていた。
 この数時間だけで何度拳を握ったか分からない。
 原西は樹の気持ちを察してくれているのか、苛立ちが出るたび話しかけてくれる。
 褒めてくれたり、冗談を言って和ませたり、力を抑制してくるような言動が多々あった。
 以前なら優しさなど必要ないと思っていたが、その重要性を理解した。
 力ですべてを解決していたときと変わり、今は我慢して乗り越えようとしている。
 自分を変えようとしているからこそ、目の前の優しさを実感できたのかもしれない。
 樹は再度、もう手は出さないと自分に言い聞かせた。

「おい、中卒。暇だから上がっていいよ」

 厨房から井口がやってきた。
 中卒という言葉に引っかかったのか、客がこちらに視線を送ってくる。
 樹は湧き出る苛立ちを押し戻した後、口を開いた。

「もうですか?」

「だってやることないだろ。いるだけ無駄だから、もう今日は帰れ」

 できればもう少し働きたかった。借金を返さないといけないし、仕事もなるべく早く覚えたい。
 初日ということもあり多少の疲れはあったが、それ以上に何もしていない時間を作りたくなかった。
 今の樹にとって、働いてるときの方が安心できる。
 道を外れた最下層の野良犬が、社会に馴染んでいるような気がしたから。

「分かりました……」

「根本くん、まかない食べてく?」

「いいんですか?」

「うん。キッチンの人が作ってくれてるから、できたら食べていきなよ」

「じゃあ、いただきま……」

「大して仕事してないんだから残飯でいいよ。まだ家畜レベルなんだから」

 井口の汚れた言葉が、樹の前に放り投げられた。
 客にも聞こえたのだろう。驚いた顔を見せている。

「根本くん、着替え終わったらカウンター席で待ってて。あと十分くらいでできると思うから」

 井口の雑言などなかったかのように、原西は優しい口調で場の空気を入れ替えた。
 樹は怒りが抑えられなくなる前に、早足で更衣室へと向かう。
 これ以上、汚染された言葉を鼓膜に拾わせないように。
 握られた拳で誰も傷つけないように。
 ゆっくりと着替えを済ませてから店内に戻ると、客はいなくなっていた。
 今は閉店後のような空気が横たわっている。
 カウンター席に着くと、疲労が樹の体と心を蝕んだ。
 今日は感情の起伏が激しい。
 押し寄せる怒りを自ら沈め、時に優しさで打ち消してもらった。
 希望と絶望のせめぎ合いは精神的な負担が大きいが、逃げることはできない。
 誓いと覚悟を折ってしまえば、普通の人間と同じような道は歩けなくなる。
 たぶんこれが最後のチャンスだ。ここで以前のような行動をとれば、一生クズとして生きていかなければならない。
 何があっても手は出さない。
 我慢していれば、いつか報われる。
 道から逸れたって、真面目に取り組んでいたら認めてもらえる。
 樹は信仰するように、自分の言葉を信じた。
 そうしなければ、目の前に道がなくなってしまうから。
 社会の底辺から抜け出せず、光を知らないまま命を枯らせてしまうから。
 どんな花でもいい。一度でいいから咲かせたい。
 生まれてきて良かったと思えるような、人生を飾る美しい花を。

「おまたせ」

 原西が厨房から出てきた。
 右手に持ったトレーには、サラダとカレー、水が乗っている。

「うちのカレー美味しいから。ゆっくり食べてって」

「いただきます」

 原西がテーブルにカレーを置くと、店に客が入ってきた。

「あっ、来た。あれが竜一さん」

 入り口には四十代くらいの男性が立っていた。風格があり、修羅場を何度も潜っているような雰囲気がある。
 原西は入り口に向かうと、竜一を壁際の席に案内し、笑いを交えながら楽しそうに話していた。
 特に樹と似ているような部分は見当たらない。でもどことなく、親近感のようなものは感じる。
 なぜかは分からなかったが、そういった印象を抱いた。
 二人を見ていると、竜一がこちらに視線を送ってきた。
 樹は逃げるように目を逸らし、カレーに手を付ける。
 ずっとまともな食事をとっていなかったため、味が体内に染み渡るような感覚があった。
 食べるという行為がこんなにも幸福を呼ぶことを改めて知ったが、それはすぐに忘れ去られる。

「中卒なのにスプーン使えるのか。チンパンジーくらいの知能はあるんだな」

 カレーを持った井口が樹の隣に座った。
 先ほどまで感じていた味は、姿を隠すように消えていく。

「ずっと仕事してこなかったのか?」

「パチ屋とか派遣してました」

「どうせすぐに辞めたんだろ。続かなそうだもんな、お前」

 樹はカレーを食べる速度を早めた。すぐにでもこの場から去りたかったから。

「まあ高校もろくに行けてない奴だもんな。仕事なんて尚更無理に決まってる。でも安心しろ。俺がきっちり調教してやるから。社会っていうのが、どういう場所か教えてやるよ。良かったな、俺みたいに優しい人間に拾われて。他の奴なら奴隷みたいにこき使われてたぞ」

 自分の言葉に違和感を覚えないのだろうか。
 いや、こういう人種は本気で自分が優しいと思っている。
 だから侮辱しているとも思ってないし、そもそも人が嫌がっていることすら気づいてない。
 クズには色んなタイプがいるが、最も忌み嫌われるタイプのクズだ。
 今日初めて会ったが、すぐさまこの世界から消えてほしいと樹は思った。

「そうだ、今日からポチって名前にしよう。中卒のポチ。中々良いネーミングだろ? バカにあだ名付けるのは得意なんだよ。お前は本当に付けやすい。俺のセンスがより光るな」

 樹の持っているスプーンが宙で止まった。
 湧き出てくる怒りを止めるため、水を飲んで大きく息を吐く。
 こんなくだらない人間に手を出しても意味はない。俺は変わるんだ。
 真っ当な人生を送り、普通の人間と同じように生きる。
 樹は自分に言い聞かせるが、隣から聞こえてくるガサついた笑い声が冷静さを奪っていく。

「明日からリード付けて店内散歩させてやるよ。客に呼ばれたら四足歩行で注文を取りにいけ。そのときは必ずワンって吠えるんだぞ。お前みたいなクズでもきっと可愛がられる。良かったな、役に立てて。じゃあ早速練習しよう。ほら、お手」

 井口は樹の前に手のひらを出してきた。
 早くやれと言わんばかりに、顔の前に近づけてくる。
 我慢しろ、ここで手を出したら負けだ。
 落ち着け、
 落ち着け、
 落ち着け。
 樹は頭の中で復唱した。
 もう力で解決はしない。
 懸命に仕事に取り組み、成果で評価を覆す。
 その覚悟で新天地に足を踏み入れ、未来に希望を繋げたかった。
 だが、すでに忍耐の限界まで差し迫っており、薄汚れた卑しい人間の言葉が固く結んだ覚悟を解いていく。
 人生を変えるという意思で、表面張力のように耐え忍んだ怒りは器から溢れかけていた。
 雑言があと一つでも器に注がれたら、きっと理性では抑えられない。

「おい、早くしろ。社員になれるかどうかは俺次第ってことを忘れたか。お前みたいな社会のゴミをリサイクルしてくれる場所なんてここ以外にはないんだ。中卒のクズなんか誰も拾いたくないんだから。俺の言うことを聞かなければ、また野良犬に戻ることになるぞ。学歴もないクズが社会で生き残るには、これくらいのことができないとダメなんだよ。そんな簡単なことも分からないのか、このバカは……」

 樹は井口の胸ぐらを掴み、強引に立ち上がらせた。

「その臭え口塞げ。殺すぞ」

「離せ、中卒。汚ない手で触るんじゃない」

 井口は大声を出して店内に響かせた。
 言葉とは裏腹に目は怯えている。

「根本くん、落ち着いて」

 原西が駆け寄ってきて、樹の手を強引に剥がした。

「店長、また何か言いました?」

「何も言ってねえよ。こいつが急にキレ出しだんだ。今日限りでクビだ、クビ。お前みたいな能無し、世間から見たらゴミなんだよ。ゴミは一生ゴミのまま生きるんだな。底辺でずっと腐ってろクズが」

「その言い方はないでしょ。彼だって頑張ってるんだから」

「クズにクズって言ってるだけだろ。それのどこか悪いんだ。世の中の人間みんな思ってるよ。こんなゴミみたいな奴はいない方がマシだって。ゴキブリ以下のクソは一刻も早く消えたほうがいい。なんでこんな人間が生きてるんだよ。早く死ねよ、カス。その方がよっぽど世の中のためになる。ロープと交通費を渡すから、今から樹海に行ってこい。二度と俺の目の前に姿を現す……」

 樹は再び井口の胸ぐらを掴んで壁際まで押すと、右腕を引いた。
 人生なんてクソだ。
 もうどうなってもいい。
 真面目に生きようとしたのが馬鹿だった。
 こんな人間の下でしか生きられないのなら、希望を持てなくても構わない。
 夢を持とうとするから、絶望に触れてしまうんだ。
 樹の拳は一直線に井口の顔へと向かっていった。
 が、顔の直前で拳は止まる。
 後ろを振り向くと、樹の腕を掴む竜一の姿が視界に映った。

「やめとけ、こんな人間殴る価値もない」

 竜一は樹の腕を離すと、井口の前に立った。
 樹は掴んでいた胸ぐらの手を解く。

「たとえゴミだろうが生まれ変わることはできる。それとな、本当のゴミっていうのは周りを汚して人の価値を下げる奴のことを言うんだ」

 竜一は井口の顔を指した。

「お前みたいな奴だよ」


次のエピソードへ進む 十二話 分岐点


みんなのリアクション

 夜になると、飲み屋通りの店から明かりがつき始めた。
 昼間は廃れたような寂しさが漂っていたが、看板や提灯の光が雰囲気を醸し出し、風景をガラッと変えた。
 開店直後はまったくと言っていいほど客は入ってこなかったが、夕陽が眠りにつく頃には、店の半分ほどは埋まるようになった。
 樹は初めての接客業だったため、戸惑いと緊張が渦巻いていたが、卒なく仕事をこなしていた。
 まだ無愛想だが、客との最低限のやり取りはできる。
 飲み屋に来る人間は面倒な奴ばっかりだと思っていたが、案外普通だ。
 絡まれることもなかったし、無理な注文をしてくる客もおらず、ここまでは平穏が続いていた。
 ホールは樹と原西の二人で担当してる。
 最初は店長もいたが、落ち着いてくると厨房に入り、スマホを片手にタバコを吸い出した。
 なんでこんな人間が店長なのだろうか。
 まだ初日だが、何度も同じことを思った。
 社会不適合者である自分がそう思うくらいだから、普通の人間なら一層強く思うだろう。
 樹はそんなことを考えながら、できたての唐揚げを客席へと運んだ。
「いらっしゃいませ」
 客席に料理を運んだ後、男性二名が店へと入ってきた。
 原西が中央の席へと客を案内する。
「生ビール二つお願いします」
「かしこまりました」
 原西は注文を受けると、樹のもとへと来た。
「落ち着いてきたし、ビール作ってみようか」
「はい」
 厨房へと入り、ビールサーバーの前まで来る。
「じゃあジョッキ二つ出して」
 冷蔵庫から冷えたジョッキ取り出し、ステンレスの台に置いた。
「慣れたら二つ同時に作れるようになってほしいけど、今日は一つずつ作ろう」
「はい」
「先にやるから見てて」
 原西はジョッキを一つ取り、サーバーの注ぎ口まで持ってくる。
「ビールが出る部分をコックって言うんだけど、コックに対してグラスを斜めに傾ける。大体45度くらいかな。グラスとコックは離れないように注いでね。高さが出るとビール同士がぶつかって粗い泡ができちゃうから」
「はい」
「注ぐときはジョッキの内側に沿わせるように入れる」
 原西がレバーを奥に倒すと、コックからビールが注がれる。
「レバーを手前に引くと泡が出るから、角度を保ちながらギリギリまで入れる」
 七割くらい入ったところで、泡に切り替えた。
 ジョッキの淵を越え、泡が山なりになったところでレバーを戻すと、7:3の綺麗なビールが出来上がる。
「泡が溢れるくらいまで入れていいから。少ないと客席に持って行くまでに減っちゃうから。それと、ビールの中にコックを入れて泡を注ぐ人がいるんだけど、あれをすると鉄の臭いが付いたりするから絶対にしないでね」
「分かりました」
「じゃあ、次は根本くんがやってみて」
 樹が空のジョッキを手に取ると、奥でタバコを吸っていた井口がヤジを飛ばしてきた。
「中卒には難しいんじゃねーか。今の説明も半分くらい分かってねーだろ。なんせ昨日までニートだったもんな」
 人の心を引っ掻くような、ざらついた笑いが厨房に響く。
 キッチンの二人は表情を変えずに淡々と料理を作っていた。
 きっといつもと同じ光景なのだろう。反応すらしない無の表情が物語っている。
 樹は喉元にせり上がってくる苛立ちをグッと堪えた。
 ここでキレたりしたら、また振り出しに戻ってしまう。
 今はまだ認めてもらえてないから当たりが厳しいだけで、懸命に仕事をこなせばきっと罵倒はなくなる。
 樹はそう言い聞かして、怒りを飲み込んだ。
「根本くんは優秀ですよ。初日でこれだけできるなら、すぐに全部の仕事を覚えると思います。まだミスもしてないし」
 原西の言葉に、樹は感情をグッと堪えた。
 今度は怒りではなく、嬉しさの方だ。
 真面目に取り組んでいたからこそ、褒めてもらえたことが胸に沁みた。
 適当に業務をこなしていた以前の樹では、きっとただの言葉として受け取っていただろう。
 自分の変化に少しだけ希望が持てた。
 この先、何かを見つけられるのではと。
「初日にしてはな」
 井口は不快な表情を見せた。
 樹が褒められたことが不服だったのだろう。
 店長という立場だったら優秀な人材を喜ぶべきはずだが、井口は違うらしい。
 もしかしたら、いじめたくて樹を入れたのかもしれない。
 中卒ニートという、侮蔑するには最高の素材を手に入れたと思っている可能性もある。
 だが今の樹は、どう思われようが関係なかった。
 しっかりと仕事をこなし、懸命さで評価を変えようとしていたからだ。
 井口の侮辱混じりの言葉を流し、樹はジョッキにビールを注ぐ。
「うん、上手。一発目でこれだけ綺麗に入れられる人は中々いないよ」
 樹は綺麗な7:3のビールを作った。
 原西のものと比べても遜色ないほどだ。
「ありがとうご……」
「ダメだな。こんな汚ねえビールは客に出せない。早くやり直せ。このクソビールは俺が処理しとく」
 井口は樹の作ったビールを手に取り、自分の特等席まで持っていった。
 そして半分ほどを一気に飲み、「やっぱ中卒の作ったビールはまずいな。クソだよ、クソ」と聞こえるように吐き出してきた。
「気にしないで。十分上手かったから」
 原西の優しさを、樹は素直に受け取れなかった。
 押さえ込んでいた怒りが溢れ出し、他の感情の踏み場を無くしていたから。
「俺が作るから、できたらお客さんのところに持っていってくれる?」
「はい……」
 二十一時を過ぎた頃には、客は一組だけになっていた。
 樹は手持ち無沙汰になり、店の隅でハンディに表示されるメニューの位置を再確認していた。
「暇だね」
 原西が厨房からやってきて、店内を見渡した。
「知り合いの人来ないっすね」
「仮眠しようとしたら、がっつり寝ちゃってたらしい。もうすぐ着くって、さっき連絡きた」
「そうっすか」
 井口の暴言で怒りが沸点に達しようとしていたが、原西の存在が感情を調和させていた。
 この数時間だけで何度拳を握ったか分からない。
 原西は樹の気持ちを察してくれているのか、苛立ちが出るたび話しかけてくれる。
 褒めてくれたり、冗談を言って和ませたり、力を抑制してくるような言動が多々あった。
 以前なら優しさなど必要ないと思っていたが、その重要性を理解した。
 力ですべてを解決していたときと変わり、今は我慢して乗り越えようとしている。
 自分を変えようとしているからこそ、目の前の優しさを実感できたのかもしれない。
 樹は再度、もう手は出さないと自分に言い聞かせた。
「おい、中卒。暇だから上がっていいよ」
 厨房から井口がやってきた。
 中卒という言葉に引っかかったのか、客がこちらに視線を送ってくる。
 樹は湧き出る苛立ちを押し戻した後、口を開いた。
「もうですか?」
「だってやることないだろ。いるだけ無駄だから、もう今日は帰れ」
 できればもう少し働きたかった。借金を返さないといけないし、仕事もなるべく早く覚えたい。
 初日ということもあり多少の疲れはあったが、それ以上に何もしていない時間を作りたくなかった。
 今の樹にとって、働いてるときの方が安心できる。
 道を外れた最下層の野良犬が、社会に馴染んでいるような気がしたから。
「分かりました……」
「根本くん、まかない食べてく?」
「いいんですか?」
「うん。キッチンの人が作ってくれてるから、できたら食べていきなよ」
「じゃあ、いただきま……」
「大して仕事してないんだから残飯でいいよ。まだ家畜レベルなんだから」
 井口の汚れた言葉が、樹の前に放り投げられた。
 客にも聞こえたのだろう。驚いた顔を見せている。
「根本くん、着替え終わったらカウンター席で待ってて。あと十分くらいでできると思うから」
 井口の雑言などなかったかのように、原西は優しい口調で場の空気を入れ替えた。
 樹は怒りが抑えられなくなる前に、早足で更衣室へと向かう。
 これ以上、汚染された言葉を鼓膜に拾わせないように。
 握られた拳で誰も傷つけないように。
 ゆっくりと着替えを済ませてから店内に戻ると、客はいなくなっていた。
 今は閉店後のような空気が横たわっている。
 カウンター席に着くと、疲労が樹の体と心を蝕んだ。
 今日は感情の起伏が激しい。
 押し寄せる怒りを自ら沈め、時に優しさで打ち消してもらった。
 希望と絶望のせめぎ合いは精神的な負担が大きいが、逃げることはできない。
 誓いと覚悟を折ってしまえば、普通の人間と同じような道は歩けなくなる。
 たぶんこれが最後のチャンスだ。ここで以前のような行動をとれば、一生クズとして生きていかなければならない。
 何があっても手は出さない。
 我慢していれば、いつか報われる。
 道から逸れたって、真面目に取り組んでいたら認めてもらえる。
 樹は信仰するように、自分の言葉を信じた。
 そうしなければ、目の前に道がなくなってしまうから。
 社会の底辺から抜け出せず、光を知らないまま命を枯らせてしまうから。
 どんな花でもいい。一度でいいから咲かせたい。
 生まれてきて良かったと思えるような、人生を飾る美しい花を。
「おまたせ」
 原西が厨房から出てきた。
 右手に持ったトレーには、サラダとカレー、水が乗っている。
「うちのカレー美味しいから。ゆっくり食べてって」
「いただきます」
 原西がテーブルにカレーを置くと、店に客が入ってきた。
「あっ、来た。あれが竜一さん」
 入り口には四十代くらいの男性が立っていた。風格があり、修羅場を何度も潜っているような雰囲気がある。
 原西は入り口に向かうと、竜一を壁際の席に案内し、笑いを交えながら楽しそうに話していた。
 特に樹と似ているような部分は見当たらない。でもどことなく、親近感のようなものは感じる。
 なぜかは分からなかったが、そういった印象を抱いた。
 二人を見ていると、竜一がこちらに視線を送ってきた。
 樹は逃げるように目を逸らし、カレーに手を付ける。
 ずっとまともな食事をとっていなかったため、味が体内に染み渡るような感覚があった。
 食べるという行為がこんなにも幸福を呼ぶことを改めて知ったが、それはすぐに忘れ去られる。
「中卒なのにスプーン使えるのか。チンパンジーくらいの知能はあるんだな」
 カレーを持った井口が樹の隣に座った。
 先ほどまで感じていた味は、姿を隠すように消えていく。
「ずっと仕事してこなかったのか?」
「パチ屋とか派遣してました」
「どうせすぐに辞めたんだろ。続かなそうだもんな、お前」
 樹はカレーを食べる速度を早めた。すぐにでもこの場から去りたかったから。
「まあ高校もろくに行けてない奴だもんな。仕事なんて尚更無理に決まってる。でも安心しろ。俺がきっちり調教してやるから。社会っていうのが、どういう場所か教えてやるよ。良かったな、俺みたいに優しい人間に拾われて。他の奴なら奴隷みたいにこき使われてたぞ」
 自分の言葉に違和感を覚えないのだろうか。
 いや、こういう人種は本気で自分が優しいと思っている。
 だから侮辱しているとも思ってないし、そもそも人が嫌がっていることすら気づいてない。
 クズには色んなタイプがいるが、最も忌み嫌われるタイプのクズだ。
 今日初めて会ったが、すぐさまこの世界から消えてほしいと樹は思った。
「そうだ、今日からポチって名前にしよう。中卒のポチ。中々良いネーミングだろ? バカにあだ名付けるのは得意なんだよ。お前は本当に付けやすい。俺のセンスがより光るな」
 樹の持っているスプーンが宙で止まった。
 湧き出てくる怒りを止めるため、水を飲んで大きく息を吐く。
 こんなくだらない人間に手を出しても意味はない。俺は変わるんだ。
 真っ当な人生を送り、普通の人間と同じように生きる。
 樹は自分に言い聞かせるが、隣から聞こえてくるガサついた笑い声が冷静さを奪っていく。
「明日からリード付けて店内散歩させてやるよ。客に呼ばれたら四足歩行で注文を取りにいけ。そのときは必ずワンって吠えるんだぞ。お前みたいなクズでもきっと可愛がられる。良かったな、役に立てて。じゃあ早速練習しよう。ほら、お手」
 井口は樹の前に手のひらを出してきた。
 早くやれと言わんばかりに、顔の前に近づけてくる。
 我慢しろ、ここで手を出したら負けだ。
 落ち着け、
 落ち着け、
 落ち着け。
 樹は頭の中で復唱した。
 もう力で解決はしない。
 懸命に仕事に取り組み、成果で評価を覆す。
 その覚悟で新天地に足を踏み入れ、未来に希望を繋げたかった。
 だが、すでに忍耐の限界まで差し迫っており、薄汚れた卑しい人間の言葉が固く結んだ覚悟を解いていく。
 人生を変えるという意思で、表面張力のように耐え忍んだ怒りは器から溢れかけていた。
 雑言があと一つでも器に注がれたら、きっと理性では抑えられない。
「おい、早くしろ。社員になれるかどうかは俺次第ってことを忘れたか。お前みたいな社会のゴミをリサイクルしてくれる場所なんてここ以外にはないんだ。中卒のクズなんか誰も拾いたくないんだから。俺の言うことを聞かなければ、また野良犬に戻ることになるぞ。学歴もないクズが社会で生き残るには、これくらいのことができないとダメなんだよ。そんな簡単なことも分からないのか、このバカは……」
 樹は井口の胸ぐらを掴み、強引に立ち上がらせた。
「その臭え口塞げ。殺すぞ」
「離せ、中卒。汚ない手で触るんじゃない」
 井口は大声を出して店内に響かせた。
 言葉とは裏腹に目は怯えている。
「根本くん、落ち着いて」
 原西が駆け寄ってきて、樹の手を強引に剥がした。
「店長、また何か言いました?」
「何も言ってねえよ。こいつが急にキレ出しだんだ。今日限りでクビだ、クビ。お前みたいな能無し、世間から見たらゴミなんだよ。ゴミは一生ゴミのまま生きるんだな。底辺でずっと腐ってろクズが」
「その言い方はないでしょ。彼だって頑張ってるんだから」
「クズにクズって言ってるだけだろ。それのどこか悪いんだ。世の中の人間みんな思ってるよ。こんなゴミみたいな奴はいない方がマシだって。ゴキブリ以下のクソは一刻も早く消えたほうがいい。なんでこんな人間が生きてるんだよ。早く死ねよ、カス。その方がよっぽど世の中のためになる。ロープと交通費を渡すから、今から樹海に行ってこい。二度と俺の目の前に姿を現す……」
 樹は再び井口の胸ぐらを掴んで壁際まで押すと、右腕を引いた。
 人生なんてクソだ。
 もうどうなってもいい。
 真面目に生きようとしたのが馬鹿だった。
 こんな人間の下でしか生きられないのなら、希望を持てなくても構わない。
 夢を持とうとするから、絶望に触れてしまうんだ。
 樹の拳は一直線に井口の顔へと向かっていった。
 が、顔の直前で拳は止まる。
 後ろを振り向くと、樹の腕を掴む竜一の姿が視界に映った。
「やめとけ、こんな人間殴る価値もない」
 竜一は樹の腕を離すと、井口の前に立った。
 樹は掴んでいた胸ぐらの手を解く。
「たとえゴミだろうが生まれ変わることはできる。それとな、本当のゴミっていうのは周りを汚して人の価値を下げる奴のことを言うんだ」
 竜一は井口の顔を指した。
「お前みたいな奴だよ」