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十話 レッテル

ー/ー



 宮田と別れた後、竜一は知人に会うため繁華街の一角にある飲み屋通りを歩いていた。
 旧友との昔話は懐かしき花を咲かせ、今もまだ余韻が残る。
 過去を振り返れば、世間に厭われるような存在だった。
 まとまな人間からしたら、竜一はろくでもない人間に映っていただろう。
 宮田と話していて、改めて自分の変化に気付いた。
 過去と現在で歩いている道は違う。別のルートを辿り、見えるようになったものが増えた。
 更生したからといって人に褒めてもらおうなんて思っていない。
 大事なのは、その振り幅の中で学んだことを次に活かすことだ。
 自分だけではなく、他人を咲かせるための水となり、その人が持っている種を美しく咲かせる。
 それが今の竜一の生き方だった。
 これから会いに行く知人は、四年前にコテージに来ていた男性だ。
 当時は高校の教師をしており、クラスの生徒がいじめられているのを学校の方針で黙認してしまった。
 その子が不登校になると、罪悪感から自分の生き方を見失い、教師を辞めて竜一のもとへと来た。
 コテージを出てからは、居酒屋などを全国展開する企業に入社し、今年の春に大阪から東京の店舗へと勤務地を移動。先月に連絡をもらった。

「竜一さん」

 遠くから手を振りながら男性が走ってきた。
 居酒屋の制服と思われるTシャツを着用し、柔らかい笑みを浮かべている。

「久しぶりだな、大地」
「ご無沙汰してます。竜一さん」

 原西大地。年齢は三十三歳。会うのは四年ぶりだ。
 以前よりも顔色は良く、竜一は頬を緩め安堵する。

「悪いな仕事中なのに」

「今は休憩中なので気にしないでください。本当は休み取ってゆっくり話したかったんですけど、なんせ人手が足りないんで」

「大丈夫か? あんまり無理すんなよ」

「人手が足りないのは自分のせいでもあるので」

 竜一は言葉の意味が分からず、眉根を寄せた。

「今の店長が最悪で、バイトの子をいびったりするんですよ。こっちに来てからまだ数ヶ月ですけど、もう五人も辞めてます」

 原西は表情に影を落とした。怒りというよりは悲痛さが伝わってくる。
 コテージに来たときにも同じような顔をしていた。
 自分がいじめを黙認したことで、生徒の人生に傷を入れてしまったと苦しみ悶えていた頃だ。

「『辞めたかったら辞めてもいいよ』って、俺から聞くようにしてるんです。それで大体の人は辞めていきます。上に報告しても特に対応してもらえないので、現場でなんとかするしかない。社員としては最悪のやり方なのかもしれないけど、もう誰かの人生を摘み取りたくないんです。辞めやすい環境を作ることしかできないけど、自分なりのやり方で若い芽を守ろうと思ってます」

 悲痛さが消え、覚悟を宿したような表情に変わった。
 灯した火が消えないようにと、自らを鼓舞しているようにも見える。

「大地は大丈夫なの? その店長に何かされたりとか」

「俺は大丈夫です。いびられるのはバイトの子だけなので。前に大学生の子にフラれたらしく、それ以来、バイトには強く当たるようになったって聞きました。まあ、くだらない理由ですよ」

「そっか、面倒な場所に置かれたな」

「神様がもう一度だけチャンスをくれたんです。あのとき助けられなかったから、今度は救えって。前に竜一さんが言ってくれたでしょ? 『人生は一度描いたら消せないが、どんな経験でも学べることはある。過去を背負うことも大事だが、次に活かすことも考えろ。救えなかったことを嘆くだけでは、また誰かを見殺しにするだけ。その痛みを戦う理由に変えろ。それがお前の生き方になる』。あの言葉がなかったら、今も嘆くだけだった。自分を守るために言い訳だってしてたかもしれない。正直、ずっと罪悪感から逃げたかったけど、竜一さんのおかげで自分の道を見つけることができました。罪を背負ったうえで、誰かを守りたい」

 生きることが難しいのは、必ず人は間違いを起こすということだ。
 真っ直ぐ歩きたくても、他者が絡めば物事は複雑になり、歪んだ選択を強いられることもある。
 原西は自分の行いを間違いと知りながら、いじめを黙認。
 学校側は隠蔽を試み、世間に知られることなく若き芽を葬った。
 社会という構造の中では、時に正義が悪となることがある。
 原西は自分の教え子を守りたかったそうだが、生徒を救うという行為は、その世界では異端として扱われてしまう。
 それと当時は、結婚間近の女性がいたそうだ。
 二人の将来のことも考えた結果、力の強い方へと屈してしまった。
 映画やドラマのように人は生きられない。
 現実世界の染みついた汚れは、ドラマチックに落とせないのだ。
 原西は懺悔するようにコテージに来た。
 生徒の未来を奪った罪悪感に耐えきれなかったようで、自殺も選択肢に入れていた。
 俺だけ幸せになっていいのかという葛藤の末、付き合っていた女性とも別れたそうだ。
 もともと正義感は強かったのだろう。
 それが大人の事情で黒く濁ってしまい、腫瘍として心の中を蝕んでいった。
 竜一は原西と話してみて、何が必要かを考えた。
 言葉は受け取るタイミングで意味が変わる。
 処方箋になることもあれば、殺傷力のある毒になることもある。
 本人の性格やバックボーンなどを考慮し、今の言葉を渡した。
 少しずつだが、原西は自分の生き方を手繰り寄せていった。
 そして現在、四年前に萎れていた花は信念という根を張り、雨露を凌ぐ大樹のようになっていた。

「道から逸れないと見えない景色があって、そこに落ちたときに何を拾えるかで人生の進み方が変わっていく。言い訳するだけの奴はただのクズだし、何度だって過ちを犯す。自分の失敗や間違いを受け止めらないと、永遠に誰かが傷ついていくだけだ。汚点を消すことはできなくても活かすことはできる。チャンスは神が与えるものではなく、自分で作り出すもの。今できることに全力を尽くせ。お前のできる範囲で」

「はい。自分なりのやり方で戦ってみます」

 そうだ、と何かを思い出したように原西は口を開いた。

「今日、アルバイトの子がうちの店に入ったんですけど、どことなく竜一さんに似てるんですよ」

「俺に?」 

「根本くんっていうんですけど、若い頃の竜一さんてこんな感じだったのかなって」

「なんだよ、それ」

「容姿が似てるわけでもないし、雰囲気も違うんですけど、なんとなくそう感じるんですよね」

「じゃあ、そいつろくな奴じゃねーぞ」

「確かに。竜一さんみたいなら、ろくな奴じゃないかも」

「おい、ぶっ飛ばすぞ」

 二人はその後、近況を話し合った。
 四年の月日を埋め合い、原西の成長と変化を実感しながら、竜一は穏やかな時間を過ごした。
 教師と生徒のような関係でもあり、親と子、もしくは兄弟。色んな要素が重なり合った関係性は今も昔も変わらなかった。


 樹は客席に座り、メニュー表を眺めていた。
 ある程度のことは原西に教わり、今は休憩中だ。
 できるだけ早く仕事を覚えたかったため、店のメニューを全部覚えようとしていた。
 以前ならこんなこともしなかっただろう。
 お金のためだけに働いて、必要最低限なことだけで労力を抑える。
 無駄に仕事をこなしたところで賃金が増えるわけでもない。
 褒められたい気持ちもなかったし、認められたいとも思わなかった。
 だが今は事情が違う。
 頑張れば正社員になれる、という井口の言葉が樹のモチベーションになっている。
 真っ当な人間になるために、社会に溶け込むために、懸命に目の前の事に取り組みたいと思っていた。
 普通の人間よりも努力しなければ、自分は正規の道に戻れないことも理解している。
 そのためには周りに示さなければならない。
 根本樹は普通の人間だと。
 すでに井口からはマイナスの印象を受けているような気がした。
 中卒ということを馬鹿にされ、見下されている。
 でも覆すことはできるはずだ。
 樹は仕事の出来や懸命さで、自らの評価を高めようとしていた。

「おい、中卒。仕事は覚えたか」

 井口が競馬新聞を片手に、腹を掻きながらやってきた。

「ハンディの操作とかはある程度覚えました」

「高校行ってなくても、それぐらいはできるんだな」

 樹は店の入り口に視線をやった。
 井口は休憩に入ると、知人に会ってくるといって出ていったきりだ。
 二十分くらいで戻ると言っていたが、まだ帰ってくる様子はない。
 早く戻ってきてくれと願っていると、ドスンという音を立てて井口は椅子に座った。

「ニートには分からないだろうけど、社会っていうところは厳しい場所だ。俺が一から躾してやるから、ちゃんと言うこと聞くんだぞ。お前が社員になれるかどうかは、この手の中にあるっていうことを覚えとけ」

 井口は大きく手のひらを開いて、樹に見せつけてきた。
 醜悪な人間は、なぜ王様のような振る舞いをしたがるのだろう。
 チェーン店の店長というだけで、偉くなったわけではない。
 狭い世界でしか傲慢さを出せない目の前の大人に、樹は苛立ちを覚えた。
 正直、一発殴ってやりたい。
 だが、もう手は出さないと決めた。
 仕事を長く続けることが第一だし、なにより社員になりたい。
 普通の人が辿る道を、自分も同じように歩きたかった。
 そのためには少しくらいの不満なら我慢しなければならない。
 樹は無意識に握っていた拳を解き、苛立ちを吐き出すように小さく息を吐いた。

「なんだよ、その顔。俺に不満があるのか? いいのかなー、社員になれなくても。困るのはお前だろ」

「……すいません」

 樹は自分の太ももを力強くつねり、痛みで理性を働かせた。
 こんな人間に謝罪をすることは屈辱的だが、今は穏便に済ますことが大事だ。
 たとえ険しい道だとしても、頑張っていればいつか報われる。
 信仰するように、樹は自分に言い聞かせた。

「中卒ニートなんだから調子に乗ったりするなよ。社会のクズを雇ってくれる店なんて、普通はないんだからな。本当に俺は優しいよ。こんな野良犬を拾って面倒見てあげるんだから。今日から俺のことをご主人様と呼べよ。お前の飼い主なんだから」

 普通の人間では出てこないであろう罵詈雑言を、井口は淀みなく吐き出し続けた。
 もはや才能なのかもしれない。
 生まれつき備わっていたのか、それとも後天的に身に付けたのかは分からないが、どっちにしろまともじゃない。
 以前の樹なら、この時点で殴っていた。たぶん一発では済まない。
 下劣な人間に痛みを与えることに罪悪感などないから。

「そうだ、女紹介しろよ。できれば女子大生がいいな。二十歳くらいで胸がでかい女とかいないの? あと顔は可愛い系がいいな。もし紹介できるなら、社員への道が早まるぞ」

 殺すぞ。
 喉元まで出かけた言葉を樹は飲み込んだ。
 たぶん言葉を放ってしまえば、その勢いで手まで出てしまう。

「友達いないんで」

「なんだよ使えないな。本当にただの中卒ニートじゃねえか。ゴミ以下だなお前は」

 頭に血が昇っていくのが分かる。
 怒りというよりは殺意に近い。
 あらゆるクズの中でも、超一流のクズが目の前にいる。
 三つ星どころか四つ星を付けてもいい。
 どういう生き方をすれば、こんなに醜悪な人間になれるのだろう。
 なりたくても普通はなれない。
 人間としての品質があまりにも低劣すぎる。
 社会の底辺は家畜の糞以下だ。
 こんな粗悪な人間のもとでしか、働くことができないのだから。

「女は紹介できないけど、仕事は頑張ります」

 樹は殺意に釘を刺し、強引に感情を抑えた。
――真面目な人が報われるかは分からない。でも、諦めたら報われることはない。周りの人から馬鹿にされようが、恥を掻いて笑われようが、僕はもう逃げない。
 グラグラと揺れる釘は今にも落ちそうだったが、金山の言葉を思い出し、なんとか持ち堪えた。
 ここで手を出したら、また同じ道を歩んでしまう。
 もう力には逃げない。
 役立たずのクズだとしても、変われるということを証明するために。

「そんなもん適当でいいんだよ。頑張るならナンパでもしてきて、女の一人か二人くらいは献上してくれよ」

 行き場のない怒りはストレスに変わることを、樹は身を持って知った。
 そして忍耐強く堪えることのできる人間が如何に凄いかも。

「ごめん、根本くん。つい話し込んじゃった」

 原西が帰ってきた。
 樹の前に座る井口を見ると、申し訳なさそうな顔を浮かべる。

「じゃあ、再開しようか」

「中卒、しっかりと調教されろよ」

 ガハハと、品のない笑い声を響かせながら、井口は厨房に戻っていった。

「なんか言われた?」

 原西は椅子に腰を下ろした。その表情には心配が滲んでいるように見える。

「いえ、別に」

「なんかあったら言ってね。無理に我慢しなくていいから」

「はい」

 井口と原西では温度が違う。
 どちらかと言ったら、井口の方が店長に向いてるのではと樹は思った。
 なぜ企業側はあんな醜悪な人間を選んだのだろう。
 社会には理解できない不可解なことが多い。

「もういいんすか? 知人の人と久しぶりに会ったのに、こんなに短時間で」

「会ってきた人が俺の恩人なんだ。道から外れた人が休めるように、休憩所みたいな場所を営んでる。四年前に俺もそこでお世話になったんだよね。その人、竜一さんて言うんだけど、どことなく樹くんに似てるんだ。若い頃は知らないけど、きっとこんな感じだったのかなって」

「俺に?」

「うん」

「じゃあ、その人まともな人じゃないっすね。俺に似てる奴なんて、ろくでもない人間なんで」

 樹がそう言うと、原西は微笑んだ。

「なんすか?」

「ううん、なんでもない。その人、俺が仕事してる姿を見たいって言ってさ、夜にまた来るって言ってた。そのときに見てみなよ。もしかしたら何か感じるものがあるかも」

 原西の言ってることがよく分からなかったが、とりあえず「はい」とだけ返した。


次のエピソードへ進む 十一話 三つ星のクズ


みんなのリアクション

 宮田と別れた後、竜一は知人に会うため繁華街の一角にある飲み屋通りを歩いていた。
 旧友との昔話は懐かしき花を咲かせ、今もまだ余韻が残る。
 過去を振り返れば、世間に厭われるような存在だった。
 まとまな人間からしたら、竜一はろくでもない人間に映っていただろう。
 宮田と話していて、改めて自分の変化に気付いた。
 過去と現在で歩いている道は違う。別のルートを辿り、見えるようになったものが増えた。
 更生したからといって人に褒めてもらおうなんて思っていない。
 大事なのは、その振り幅の中で学んだことを次に活かすことだ。
 自分だけではなく、他人を咲かせるための水となり、その人が持っている種を美しく咲かせる。
 それが今の竜一の生き方だった。
 これから会いに行く知人は、四年前にコテージに来ていた男性だ。
 当時は高校の教師をしており、クラスの生徒がいじめられているのを学校の方針で黙認してしまった。
 その子が不登校になると、罪悪感から自分の生き方を見失い、教師を辞めて竜一のもとへと来た。
 コテージを出てからは、居酒屋などを全国展開する企業に入社し、今年の春に大阪から東京の店舗へと勤務地を移動。先月に連絡をもらった。
「竜一さん」
 遠くから手を振りながら男性が走ってきた。
 居酒屋の制服と思われるTシャツを着用し、柔らかい笑みを浮かべている。
「久しぶりだな、大地」
「ご無沙汰してます。竜一さん」
 原西大地。年齢は三十三歳。会うのは四年ぶりだ。
 以前よりも顔色は良く、竜一は頬を緩め安堵する。
「悪いな仕事中なのに」
「今は休憩中なので気にしないでください。本当は休み取ってゆっくり話したかったんですけど、なんせ人手が足りないんで」
「大丈夫か? あんまり無理すんなよ」
「人手が足りないのは自分のせいでもあるので」
 竜一は言葉の意味が分からず、眉根を寄せた。
「今の店長が最悪で、バイトの子をいびったりするんですよ。こっちに来てからまだ数ヶ月ですけど、もう五人も辞めてます」
 原西は表情に影を落とした。怒りというよりは悲痛さが伝わってくる。
 コテージに来たときにも同じような顔をしていた。
 自分がいじめを黙認したことで、生徒の人生に傷を入れてしまったと苦しみ悶えていた頃だ。
「『辞めたかったら辞めてもいいよ』って、俺から聞くようにしてるんです。それで大体の人は辞めていきます。上に報告しても特に対応してもらえないので、現場でなんとかするしかない。社員としては最悪のやり方なのかもしれないけど、もう誰かの人生を摘み取りたくないんです。辞めやすい環境を作ることしかできないけど、自分なりのやり方で若い芽を守ろうと思ってます」
 悲痛さが消え、覚悟を宿したような表情に変わった。
 灯した火が消えないようにと、自らを鼓舞しているようにも見える。
「大地は大丈夫なの? その店長に何かされたりとか」
「俺は大丈夫です。いびられるのはバイトの子だけなので。前に大学生の子にフラれたらしく、それ以来、バイトには強く当たるようになったって聞きました。まあ、くだらない理由ですよ」
「そっか、面倒な場所に置かれたな」
「神様がもう一度だけチャンスをくれたんです。あのとき助けられなかったから、今度は救えって。前に竜一さんが言ってくれたでしょ? 『人生は一度描いたら消せないが、どんな経験でも学べることはある。過去を背負うことも大事だが、次に活かすことも考えろ。救えなかったことを嘆くだけでは、また誰かを見殺しにするだけ。その痛みを戦う理由に変えろ。それがお前の生き方になる』。あの言葉がなかったら、今も嘆くだけだった。自分を守るために言い訳だってしてたかもしれない。正直、ずっと罪悪感から逃げたかったけど、竜一さんのおかげで自分の道を見つけることができました。罪を背負ったうえで、誰かを守りたい」
 生きることが難しいのは、必ず人は間違いを起こすということだ。
 真っ直ぐ歩きたくても、他者が絡めば物事は複雑になり、歪んだ選択を強いられることもある。
 原西は自分の行いを間違いと知りながら、いじめを黙認。
 学校側は隠蔽を試み、世間に知られることなく若き芽を葬った。
 社会という構造の中では、時に正義が悪となることがある。
 原西は自分の教え子を守りたかったそうだが、生徒を救うという行為は、その世界では異端として扱われてしまう。
 それと当時は、結婚間近の女性がいたそうだ。
 二人の将来のことも考えた結果、力の強い方へと屈してしまった。
 映画やドラマのように人は生きられない。
 現実世界の染みついた汚れは、ドラマチックに落とせないのだ。
 原西は懺悔するようにコテージに来た。
 生徒の未来を奪った罪悪感に耐えきれなかったようで、自殺も選択肢に入れていた。
 俺だけ幸せになっていいのかという葛藤の末、付き合っていた女性とも別れたそうだ。
 もともと正義感は強かったのだろう。
 それが大人の事情で黒く濁ってしまい、腫瘍として心の中を蝕んでいった。
 竜一は原西と話してみて、何が必要かを考えた。
 言葉は受け取るタイミングで意味が変わる。
 処方箋になることもあれば、殺傷力のある毒になることもある。
 本人の性格やバックボーンなどを考慮し、今の言葉を渡した。
 少しずつだが、原西は自分の生き方を手繰り寄せていった。
 そして現在、四年前に萎れていた花は信念という根を張り、雨露を凌ぐ大樹のようになっていた。
「道から逸れないと見えない景色があって、そこに落ちたときに何を拾えるかで人生の進み方が変わっていく。言い訳するだけの奴はただのクズだし、何度だって過ちを犯す。自分の失敗や間違いを受け止めらないと、永遠に誰かが傷ついていくだけだ。汚点を消すことはできなくても活かすことはできる。チャンスは神が与えるものではなく、自分で作り出すもの。今できることに全力を尽くせ。お前のできる範囲で」
「はい。自分なりのやり方で戦ってみます」
 そうだ、と何かを思い出したように原西は口を開いた。
「今日、アルバイトの子がうちの店に入ったんですけど、どことなく竜一さんに似てるんですよ」
「俺に?」 
「根本くんっていうんですけど、若い頃の竜一さんてこんな感じだったのかなって」
「なんだよ、それ」
「容姿が似てるわけでもないし、雰囲気も違うんですけど、なんとなくそう感じるんですよね」
「じゃあ、そいつろくな奴じゃねーぞ」
「確かに。竜一さんみたいなら、ろくな奴じゃないかも」
「おい、ぶっ飛ばすぞ」
 二人はその後、近況を話し合った。
 四年の月日を埋め合い、原西の成長と変化を実感しながら、竜一は穏やかな時間を過ごした。
 教師と生徒のような関係でもあり、親と子、もしくは兄弟。色んな要素が重なり合った関係性は今も昔も変わらなかった。
 樹は客席に座り、メニュー表を眺めていた。
 ある程度のことは原西に教わり、今は休憩中だ。
 できるだけ早く仕事を覚えたかったため、店のメニューを全部覚えようとしていた。
 以前ならこんなこともしなかっただろう。
 お金のためだけに働いて、必要最低限なことだけで労力を抑える。
 無駄に仕事をこなしたところで賃金が増えるわけでもない。
 褒められたい気持ちもなかったし、認められたいとも思わなかった。
 だが今は事情が違う。
 頑張れば正社員になれる、という井口の言葉が樹のモチベーションになっている。
 真っ当な人間になるために、社会に溶け込むために、懸命に目の前の事に取り組みたいと思っていた。
 普通の人間よりも努力しなければ、自分は正規の道に戻れないことも理解している。
 そのためには周りに示さなければならない。
 根本樹は普通の人間だと。
 すでに井口からはマイナスの印象を受けているような気がした。
 中卒ということを馬鹿にされ、見下されている。
 でも覆すことはできるはずだ。
 樹は仕事の出来や懸命さで、自らの評価を高めようとしていた。
「おい、中卒。仕事は覚えたか」
 井口が競馬新聞を片手に、腹を掻きながらやってきた。
「ハンディの操作とかはある程度覚えました」
「高校行ってなくても、それぐらいはできるんだな」
 樹は店の入り口に視線をやった。
 井口は休憩に入ると、知人に会ってくるといって出ていったきりだ。
 二十分くらいで戻ると言っていたが、まだ帰ってくる様子はない。
 早く戻ってきてくれと願っていると、ドスンという音を立てて井口は椅子に座った。
「ニートには分からないだろうけど、社会っていうところは厳しい場所だ。俺が一から躾してやるから、ちゃんと言うこと聞くんだぞ。お前が社員になれるかどうかは、この手の中にあるっていうことを覚えとけ」
 井口は大きく手のひらを開いて、樹に見せつけてきた。
 醜悪な人間は、なぜ王様のような振る舞いをしたがるのだろう。
 チェーン店の店長というだけで、偉くなったわけではない。
 狭い世界でしか傲慢さを出せない目の前の大人に、樹は苛立ちを覚えた。
 正直、一発殴ってやりたい。
 だが、もう手は出さないと決めた。
 仕事を長く続けることが第一だし、なにより社員になりたい。
 普通の人が辿る道を、自分も同じように歩きたかった。
 そのためには少しくらいの不満なら我慢しなければならない。
 樹は無意識に握っていた拳を解き、苛立ちを吐き出すように小さく息を吐いた。
「なんだよ、その顔。俺に不満があるのか? いいのかなー、社員になれなくても。困るのはお前だろ」
「……すいません」
 樹は自分の太ももを力強くつねり、痛みで理性を働かせた。
 こんな人間に謝罪をすることは屈辱的だが、今は穏便に済ますことが大事だ。
 たとえ険しい道だとしても、頑張っていればいつか報われる。
 信仰するように、樹は自分に言い聞かせた。
「中卒ニートなんだから調子に乗ったりするなよ。社会のクズを雇ってくれる店なんて、普通はないんだからな。本当に俺は優しいよ。こんな野良犬を拾って面倒見てあげるんだから。今日から俺のことをご主人様と呼べよ。お前の飼い主なんだから」
 普通の人間では出てこないであろう罵詈雑言を、井口は淀みなく吐き出し続けた。
 もはや才能なのかもしれない。
 生まれつき備わっていたのか、それとも後天的に身に付けたのかは分からないが、どっちにしろまともじゃない。
 以前の樹なら、この時点で殴っていた。たぶん一発では済まない。
 下劣な人間に痛みを与えることに罪悪感などないから。
「そうだ、女紹介しろよ。できれば女子大生がいいな。二十歳くらいで胸がでかい女とかいないの? あと顔は可愛い系がいいな。もし紹介できるなら、社員への道が早まるぞ」
 殺すぞ。
 喉元まで出かけた言葉を樹は飲み込んだ。
 たぶん言葉を放ってしまえば、その勢いで手まで出てしまう。
「友達いないんで」
「なんだよ使えないな。本当にただの中卒ニートじゃねえか。ゴミ以下だなお前は」
 頭に血が昇っていくのが分かる。
 怒りというよりは殺意に近い。
 あらゆるクズの中でも、超一流のクズが目の前にいる。
 三つ星どころか四つ星を付けてもいい。
 どういう生き方をすれば、こんなに醜悪な人間になれるのだろう。
 なりたくても普通はなれない。
 人間としての品質があまりにも低劣すぎる。
 社会の底辺は家畜の糞以下だ。
 こんな粗悪な人間のもとでしか、働くことができないのだから。
「女は紹介できないけど、仕事は頑張ります」
 樹は殺意に釘を刺し、強引に感情を抑えた。
――真面目な人が報われるかは分からない。でも、諦めたら報われることはない。周りの人から馬鹿にされようが、恥を掻いて笑われようが、僕はもう逃げない。
 グラグラと揺れる釘は今にも落ちそうだったが、金山の言葉を思い出し、なんとか持ち堪えた。
 ここで手を出したら、また同じ道を歩んでしまう。
 もう力には逃げない。
 役立たずのクズだとしても、変われるということを証明するために。
「そんなもん適当でいいんだよ。頑張るならナンパでもしてきて、女の一人か二人くらいは献上してくれよ」
 行き場のない怒りはストレスに変わることを、樹は身を持って知った。
 そして忍耐強く堪えることのできる人間が如何に凄いかも。
「ごめん、根本くん。つい話し込んじゃった」
 原西が帰ってきた。
 樹の前に座る井口を見ると、申し訳なさそうな顔を浮かべる。
「じゃあ、再開しようか」
「中卒、しっかりと調教されろよ」
 ガハハと、品のない笑い声を響かせながら、井口は厨房に戻っていった。
「なんか言われた?」
 原西は椅子に腰を下ろした。その表情には心配が滲んでいるように見える。
「いえ、別に」
「なんかあったら言ってね。無理に我慢しなくていいから」
「はい」
 井口と原西では温度が違う。
 どちらかと言ったら、井口の方が店長に向いてるのではと樹は思った。
 なぜ企業側はあんな醜悪な人間を選んだのだろう。
 社会には理解できない不可解なことが多い。
「もういいんすか? 知人の人と久しぶりに会ったのに、こんなに短時間で」
「会ってきた人が俺の恩人なんだ。道から外れた人が休めるように、休憩所みたいな場所を営んでる。四年前に俺もそこでお世話になったんだよね。その人、竜一さんて言うんだけど、どことなく樹くんに似てるんだ。若い頃は知らないけど、きっとこんな感じだったのかなって」
「俺に?」
「うん」
「じゃあ、その人まともな人じゃないっすね。俺に似てる奴なんて、ろくでもない人間なんで」
 樹がそう言うと、原西は微笑んだ。
「なんすか?」
「ううん、なんでもない。その人、俺が仕事してる姿を見たいって言ってさ、夜にまた来るって言ってた。そのときに見てみなよ。もしかしたら何か感じるものがあるかも」
 原西の言ってることがよく分からなかったが、とりあえず「はい」とだけ返した。