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九話 塵と芥

ー/ー



 借金取りに公園で殴られてから一時間後、樹は繁華街の飲み屋通りを歩いていた。
 なんでもいいから仕事に就かなければと考えたとき、以前見た、大衆居酒屋のバイト募集の張り紙を思い出した。
 時給はそこまで高くなかったが即日採用と記載されていた。それと正社員雇用ありとも。
 自分が不得意な接客の仕事だが、今はそんなことを言ってる場合ではない。
 どんな仕事でもいいから借金を返して、少しでも普通の人に近づきたいと樹は考えていた。
 だが、募集の張り紙は一ヶ月前のことだ。
 流石にもう貼ってないかもしれないと思いながら、微かな希望を胸に店の前まで辿り着いた。

『アルバイト募集! 時給1100円〜 年齢・経験不当 アットホーム 即日採用 正社員雇用あり 大衆居酒屋・六助』

 前に見たものと全く一緒のものが貼られていた。
 時給がここより高い場所もあるだろうが、即日採用・正社員雇用という言葉に惹かれた。
 合否を待っている時間もないし、待たされることも嫌だ。
 そして何より、底辺から抜け出したかった。
 真面目に生きるためには、人並みに生きるためには、借金を返さなければならない。
 少しずつでいいから社会に溶け込み、誰もが歩く道を同じように進みたい。
 中学のときと同様、熱中できるような何かを探して夢や目標も作りたい。
 光のない薄汚れた場所から離れるには、まずは仕事に就くことだ。
 そして忍耐力を付け、長く働くこと。
 当たり前のことをずっとできなかった樹は、今回こそはと気持ちを改め、店の扉を開けた。
 中に入ると、昭和の雰囲気が漂うレトロな内装が視界を染めた。
 テーブル席がいくつかあり、奥には酒瓶が並べられたカウンター席が見える。
 カウンター席の奥には暖簾がかかっており、その先から明かりが漏れていた。
 椅子は机の上に上げられており、準備中だということが一目で分かる。

「すいません、営業は十七時からなんですよ」

 男性が暖簾をくぐって出てきた。
 優しそうな空気感を纏っており、店の制服と思われるTシャツを着ている。歳は三十代前半くらいだろうか。樹は穏やかそうな人が出てきたことに安堵した。パっと見は村内のような卑俗さは感じられない。

「入り口に貼ってあったバイト募集の紙を見て……」

「面接?」

「はい」

「今日、面接入ってたっけな……」

 男性は頭の中辿っているのか、視線を宙に向けている。

「いや、約束はしてないです。張り紙を見て、突発的に来ました」

 せめて電話してから来るべきだったと後悔した。
 切羽詰まっていたこともあり、段階を踏むことを忘れてしまった。
 冷静になると気まずさが湧き、樹の視線は自然と床に落ちていく。

「分かった。今、店長呼んでくるから、適当に座ってて」

 男性は笑顔を残し、キッチンの奥に消えていった。
 断られるかもと不安を抱いたが、とりあえず面接はしてもらえそうだ。
 樹は近くの席に腰を下ろし、姿勢を正す。

――これから俺は、生まれ変わるんだ

 心の中で樹は覚悟を決めた。
 人生を振り返れば、下水道で這いずり回るドブネズミのようだった。
 社会の底辺という薄汚い真っ暗な世界。
 光すらも忘れてしまうような場所に何年も住み続けた。
 地上に戻る第一歩は真面目に働くこと。
 そこから希望を見出し、自らの手で道を作る。
 人生が描かれた根本樹という本には、まだ拙い物語しか刻まれていない。
 過去は消さずとも、未来は美しく描ける。
 樹は頭の中で今後の人生を描いた。
 懸命に生き、目標を追い求める自分の姿を。

「君? 連絡もなしに急に来た子は?」

 奥から小太りな五十代くらいの男性が出てきた。
 腹を掻きながら顔を顰めており、左手には競馬新聞が握られてる。たぶん店長だろう。
 男性は気怠そうに歩いてくると、椅子の軋む音が聞こえてくるほど荒々しく腰を下ろした。
 まるで王様のようだ。足は大きく開き、吟味するような視線でこちらを見てくる。
 まだ出会って数秒だが胸騒ぎがした。
 本能が過去の経験から導き出したのかもしれない。
 もしくは野生の勘に近いものなのかもしれない。
 今の樹の頭に描かれているのは、懸命に働く自分の姿ではなく、村内の顔だった。

「履歴書は?」

 男性は無愛想に聞いてきた。口調には鋭さも感じる。
 いい気分ではなかったが、連絡もせずに来たことを考えれば自分に非がある。
 無意識に寄った眉間を戻し、樹は再度姿勢を正してから口を開いた。

「すいません、持ってくるのを忘れてしまいました」

 樹は何年かぶりに頭を下げた。もしかしたら初めてかもしれない。
 普通の人間からしたら当たり前の行為でも、樹にとっては特別なことだった。
 社会を嫌悪しているからこそプライドが高くなり、頭を下げるという行為が媚びや平伏すという感覚になっていた。
 普通の人間ならそんなことは思わないだろうが、中学のときに夢を笑われた経験が足枷となり、歪んだ考えが根付いてしまっていた。
 屈辱感は拭えないが、自分に非がある以上、仕方ないと割り切った。

「普通、持ってくるでしょ? 常識ないの?」

 男の見下したような目つきと口調に怒りが込み上げる。
 だが小さく深呼吸を繰り返し、怒りを胸臆に押し戻した。
 金山と会っていなかったら、この時点で胸ぐらは掴んでいたかもしれない。

「すいません」

「まあいいや。今はどこかで働いてるの?」

「働いてません」

「ニートね。じゃあ学歴は?」

「中卒です」

「そんな感じしたわ。中卒っぽいもん」

 樹はテーブルの下に置いた拳を握り締めた。
 手のひらに爪が食い込むほど力強く。

「週どれくらい出れる?」

「休みなしで出れます」

「マジ? 今人手足りないから助かるわ。今日から出れたりする?」

「はい」

 男性は指で顎を摩りながら、何かを考えてる様子だ。
 樹としてはこの男の下で働くのは不服だが、今はそんなことを言ってる暇などない。
 少しでも借金を返済し、真面目に働きながら普通の人たちと同じ道を辿る。
 そしていつか夢を見つけ、本気で生きられるような生活を送りたかった。
 そのためには忍耐力を身に付けないといけない。
 初めの一歩は、長く勤めることだ。

「まあいいか、その場しのぎでも。君採用。今日から宜しくね」

「いいんですか?」

「うん、いいよ。本当は若くて可愛い子がいいけど、女の子だとすぐ辞めちゃうから。やっぱ女には飲み屋の仕事は務まらないんだよな」

 一言多いと思いながらも働けることに安堵した。
 この一歩から人生を変え、底辺から抜け出すための足掛かりにしたい。
 以前は生活のために働いていたが、今は自分を変えるために仕事をしたいと思っている。
 我慢することと、手を出さないこと。
 樹は心の中で誓いを立てた。

「あと、正社員になれるって張り紙に書いてあったんですけど」

「社員になりたいの?」 

「はい」

「頑張ってくれればなれるよ。まあ、俺次第だけど」

「頑張ります。社員になれるように」

 不安は色濃く漂うが、強引に頭の中で希望を見出した。
 もし村内のような人間だったとしても、ここで耐えることができれば自分は変われる。
 真っ当な道に戻るためには多少の苦難は必要だ。
 樹は自分に言い聞かすように、何度も大丈夫と心の中で唱えた。


「今日から入る根本樹。まあ可愛いがってやってよ」

 カウンター席の奥にある暖簾をくぐると、コンロ台やビールのサーバー、フリードリンク用のディスペンサーが並ぶ厨房があった。
 そこには男性が三名いて、一人は店に入って一番最初に声をかけてきた優しそうな人だ。

「根本くん、宜しくね。俺は原西大地。ここの社員」

 彼は先ほどと変わらない柔らかな表情で名乗った。募っていた不安が少しだけ溶けてゆく。

「宜しくお願いします」

「あとこの二人も社員。彼らはキッチン担当」

 原西の後ろには五十代くらいの男性と二十代半ばの男性がいる。二人は仕込みをしており、串に肉を刺していた。

「宜しくお願いします」

 樹が頭を下げると、五十代の方は無反応。
 若い方の男性は無表情で軽く頭を下げてきた。雰囲気はどこか暗い。

「まあいつもこんな感じだから気にしないで。他にもバイトの子がいるけど、今日はシフト入ってないから今度紹介するよ」

「はい」

「店長、根本くんはホールでいいですよね?」

 面接をした男性は井口と言うらしく、ここの店長だ。
 向こうから名乗ってこなかったので、先ほど直接聞いた。

「なんでもいいよ。空いてるところで」

 井口は店の奥にあるスツールに座り、競馬新聞を広げながらタバコに火を付けた。
 積み上げられた生樽の上にはトレーが置いてあり、灰皿とグラスが乗っている。まるで特等席のようだな、と樹は思った。

「キッチンは足りてるから、根本くんはホールをやろう。今日はあまりお客さんが来ないと思うから、ゆっくり教えるね」

「ありがとうござ……」

「原西、そいつ中卒だから三歳の子でも分かるよう、丁寧に教えてやれ。数字は両手で数えられるまでしか分からないからな」

 店長の井口は、馬鹿にしたような笑いを浮かべながら言った。
 樹は拳を握り込みグッと堪える。
 ここで手を出したら、またいつもと一緒だ。
 人生をやり直すためには、舵の切り方を変えなければならない。
 我慢という言葉を頭の中で復唱しながら、大きく息を吐いた。

「店長、言っていいこととダメなことがあります」

「そうだったな。今のは良い方か」

 ガハハ、と大きな口を開けて、井口は品のない笑いを浮かべた。

「気にしないで。基本無視していいから」

 原西は呆れた様子で言った。
 アルバイト募集の張り紙が未だにある理由を、樹は理解する。
 そして心に灯した火が、感情と共に揺らめいた。


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 借金取りに公園で殴られてから一時間後、樹は繁華街の飲み屋通りを歩いていた。
 なんでもいいから仕事に就かなければと考えたとき、以前見た、大衆居酒屋のバイト募集の張り紙を思い出した。
 時給はそこまで高くなかったが即日採用と記載されていた。それと正社員雇用ありとも。
 自分が不得意な接客の仕事だが、今はそんなことを言ってる場合ではない。
 どんな仕事でもいいから借金を返して、少しでも普通の人に近づきたいと樹は考えていた。
 だが、募集の張り紙は一ヶ月前のことだ。
 流石にもう貼ってないかもしれないと思いながら、微かな希望を胸に店の前まで辿り着いた。
『アルバイト募集! 時給1100円〜 年齢・経験不当 アットホーム 即日採用 正社員雇用あり 大衆居酒屋・六助』
 前に見たものと全く一緒のものが貼られていた。
 時給がここより高い場所もあるだろうが、即日採用・正社員雇用という言葉に惹かれた。
 合否を待っている時間もないし、待たされることも嫌だ。
 そして何より、底辺から抜け出したかった。
 真面目に生きるためには、人並みに生きるためには、借金を返さなければならない。
 少しずつでいいから社会に溶け込み、誰もが歩く道を同じように進みたい。
 中学のときと同様、熱中できるような何かを探して夢や目標も作りたい。
 光のない薄汚れた場所から離れるには、まずは仕事に就くことだ。
 そして忍耐力を付け、長く働くこと。
 当たり前のことをずっとできなかった樹は、今回こそはと気持ちを改め、店の扉を開けた。
 中に入ると、昭和の雰囲気が漂うレトロな内装が視界を染めた。
 テーブル席がいくつかあり、奥には酒瓶が並べられたカウンター席が見える。
 カウンター席の奥には暖簾がかかっており、その先から明かりが漏れていた。
 椅子は机の上に上げられており、準備中だということが一目で分かる。
「すいません、営業は十七時からなんですよ」
 男性が暖簾をくぐって出てきた。
 優しそうな空気感を纏っており、店の制服と思われるTシャツを着ている。歳は三十代前半くらいだろうか。樹は穏やかそうな人が出てきたことに安堵した。パっと見は村内のような卑俗さは感じられない。
「入り口に貼ってあったバイト募集の紙を見て……」
「面接?」
「はい」
「今日、面接入ってたっけな……」
 男性は頭の中辿っているのか、視線を宙に向けている。
「いや、約束はしてないです。張り紙を見て、突発的に来ました」
 せめて電話してから来るべきだったと後悔した。
 切羽詰まっていたこともあり、段階を踏むことを忘れてしまった。
 冷静になると気まずさが湧き、樹の視線は自然と床に落ちていく。
「分かった。今、店長呼んでくるから、適当に座ってて」
 男性は笑顔を残し、キッチンの奥に消えていった。
 断られるかもと不安を抱いたが、とりあえず面接はしてもらえそうだ。
 樹は近くの席に腰を下ろし、姿勢を正す。
――これから俺は、生まれ変わるんだ
 心の中で樹は覚悟を決めた。
 人生を振り返れば、下水道で這いずり回るドブネズミのようだった。
 社会の底辺という薄汚い真っ暗な世界。
 光すらも忘れてしまうような場所に何年も住み続けた。
 地上に戻る第一歩は真面目に働くこと。
 そこから希望を見出し、自らの手で道を作る。
 人生が描かれた根本樹という本には、まだ拙い物語しか刻まれていない。
 過去は消さずとも、未来は美しく描ける。
 樹は頭の中で今後の人生を描いた。
 懸命に生き、目標を追い求める自分の姿を。
「君? 連絡もなしに急に来た子は?」
 奥から小太りな五十代くらいの男性が出てきた。
 腹を掻きながら顔を顰めており、左手には競馬新聞が握られてる。たぶん店長だろう。
 男性は気怠そうに歩いてくると、椅子の軋む音が聞こえてくるほど荒々しく腰を下ろした。
 まるで王様のようだ。足は大きく開き、吟味するような視線でこちらを見てくる。
 まだ出会って数秒だが胸騒ぎがした。
 本能が過去の経験から導き出したのかもしれない。
 もしくは野生の勘に近いものなのかもしれない。
 今の樹の頭に描かれているのは、懸命に働く自分の姿ではなく、村内の顔だった。
「履歴書は?」
 男性は無愛想に聞いてきた。口調には鋭さも感じる。
 いい気分ではなかったが、連絡もせずに来たことを考えれば自分に非がある。
 無意識に寄った眉間を戻し、樹は再度姿勢を正してから口を開いた。
「すいません、持ってくるのを忘れてしまいました」
 樹は何年かぶりに頭を下げた。もしかしたら初めてかもしれない。
 普通の人間からしたら当たり前の行為でも、樹にとっては特別なことだった。
 社会を嫌悪しているからこそプライドが高くなり、頭を下げるという行為が媚びや平伏すという感覚になっていた。
 普通の人間ならそんなことは思わないだろうが、中学のときに夢を笑われた経験が足枷となり、歪んだ考えが根付いてしまっていた。
 屈辱感は拭えないが、自分に非がある以上、仕方ないと割り切った。
「普通、持ってくるでしょ? 常識ないの?」
 男の見下したような目つきと口調に怒りが込み上げる。
 だが小さく深呼吸を繰り返し、怒りを胸臆に押し戻した。
 金山と会っていなかったら、この時点で胸ぐらは掴んでいたかもしれない。
「すいません」
「まあいいや。今はどこかで働いてるの?」
「働いてません」
「ニートね。じゃあ学歴は?」
「中卒です」
「そんな感じしたわ。中卒っぽいもん」
 樹はテーブルの下に置いた拳を握り締めた。
 手のひらに爪が食い込むほど力強く。
「週どれくらい出れる?」
「休みなしで出れます」
「マジ? 今人手足りないから助かるわ。今日から出れたりする?」
「はい」
 男性は指で顎を摩りながら、何かを考えてる様子だ。
 樹としてはこの男の下で働くのは不服だが、今はそんなことを言ってる暇などない。
 少しでも借金を返済し、真面目に働きながら普通の人たちと同じ道を辿る。
 そしていつか夢を見つけ、本気で生きられるような生活を送りたかった。
 そのためには忍耐力を身に付けないといけない。
 初めの一歩は、長く勤めることだ。
「まあいいか、その場しのぎでも。君採用。今日から宜しくね」
「いいんですか?」
「うん、いいよ。本当は若くて可愛い子がいいけど、女の子だとすぐ辞めちゃうから。やっぱ女には飲み屋の仕事は務まらないんだよな」
 一言多いと思いながらも働けることに安堵した。
 この一歩から人生を変え、底辺から抜け出すための足掛かりにしたい。
 以前は生活のために働いていたが、今は自分を変えるために仕事をしたいと思っている。
 我慢することと、手を出さないこと。
 樹は心の中で誓いを立てた。
「あと、正社員になれるって張り紙に書いてあったんですけど」
「社員になりたいの?」 
「はい」
「頑張ってくれればなれるよ。まあ、俺次第だけど」
「頑張ります。社員になれるように」
 不安は色濃く漂うが、強引に頭の中で希望を見出した。
 もし村内のような人間だったとしても、ここで耐えることができれば自分は変われる。
 真っ当な道に戻るためには多少の苦難は必要だ。
 樹は自分に言い聞かすように、何度も大丈夫と心の中で唱えた。
「今日から入る根本樹。まあ可愛いがってやってよ」
 カウンター席の奥にある暖簾をくぐると、コンロ台やビールのサーバー、フリードリンク用のディスペンサーが並ぶ厨房があった。
 そこには男性が三名いて、一人は店に入って一番最初に声をかけてきた優しそうな人だ。
「根本くん、宜しくね。俺は原西大地。ここの社員」
 彼は先ほどと変わらない柔らかな表情で名乗った。募っていた不安が少しだけ溶けてゆく。
「宜しくお願いします」
「あとこの二人も社員。彼らはキッチン担当」
 原西の後ろには五十代くらいの男性と二十代半ばの男性がいる。二人は仕込みをしており、串に肉を刺していた。
「宜しくお願いします」
 樹が頭を下げると、五十代の方は無反応。
 若い方の男性は無表情で軽く頭を下げてきた。雰囲気はどこか暗い。
「まあいつもこんな感じだから気にしないで。他にもバイトの子がいるけど、今日はシフト入ってないから今度紹介するよ」
「はい」
「店長、根本くんはホールでいいですよね?」
 面接をした男性は井口と言うらしく、ここの店長だ。
 向こうから名乗ってこなかったので、先ほど直接聞いた。
「なんでもいいよ。空いてるところで」
 井口は店の奥にあるスツールに座り、競馬新聞を広げながらタバコに火を付けた。
 積み上げられた生樽の上にはトレーが置いてあり、灰皿とグラスが乗っている。まるで特等席のようだな、と樹は思った。
「キッチンは足りてるから、根本くんはホールをやろう。今日はあまりお客さんが来ないと思うから、ゆっくり教えるね」
「ありがとうござ……」
「原西、そいつ中卒だから三歳の子でも分かるよう、丁寧に教えてやれ。数字は両手で数えられるまでしか分からないからな」
 店長の井口は、馬鹿にしたような笑いを浮かべながら言った。
 樹は拳を握り込みグッと堪える。
 ここで手を出したら、またいつもと一緒だ。
 人生をやり直すためには、舵の切り方を変えなければならない。
 我慢という言葉を頭の中で復唱しながら、大きく息を吐いた。
「店長、言っていいこととダメなことがあります」
「そうだったな。今のは良い方か」
 ガハハ、と大きな口を開けて、井口は品のない笑いを浮かべた。
「気にしないで。基本無視していいから」
 原西は呆れた様子で言った。
 アルバイト募集の張り紙が未だにある理由を、樹は理解する。
 そして心に灯した火が、感情と共に揺らめいた。